112話 響き繋ぐ藍紺
たくさんのポケモンが、たくさんの言葉をくれた。
「ふん、ギルドからひとり立ちねぇ」
聞いた言葉を繰り返すのはデンリュウ。体より二回りは大きな椅子にどっかりと腰掛けて、しばし瞑目する。やがてふたりを見下ろすと、ふっと口元を緩めた。
「頑張るんだよ、マリーネオ、ヴァイス」
「はい、マスター」
当時のギルドマスターにして、現ギルドマスターの祖母である彼女の目は優しかった。
――そんな記憶から始まった。
本当はマスターにだけ告げて去ることも考えたのだが、週末限定とはいえカフェも兼業する身。さすがに無理はあったし、露呈した話題は瞬く間にギルドに街に広まってしまった。
とりわけその話題に驚きを示したのが、「もっとここにいて」と離れないエルフーン、コトフィ。「何かあったんですか」と不安げな顔になるハクリュー、シェライト。――以前プクリンのギルドにも訪れたふたりは、浮かない顔になってしまった。
「意外だった」と目を丸くしたのはデンリュウ、スコア――現探検隊ギルド「モルト・ビバーチェ」のギルドマスターだ。彼女と同じチームのジュペッタ、アルペジオもまた、「……そうか」と一言だけ述べて言葉に詰まっていた。
「二度と帰ってこないとは言ってないじゃないですか」
「だとしても寂しいものは寂しいのーーー!!」
ヴァイスがそう呆れ気味につぶやくと、マリーネオに引っ付いていた綿毛はヴァイスの元までひとっとび。てしっと尻尾にしがみついた。はぁとため息をついて、ヴァイスはその綿毛を無表情でもちもちともふもふする。
「いなくなったりしませんから。あと定期的に手紙も出しますし帰って来ますのでっ」
「うーー! 僕も絶対絶対そっちに遊びに行くからねっ」
その約束は案外早く叶った。それも、ギルドマスター交代の報告とあいさつ代理という、なかなかに濃ゆいイベントを携えて。
楽しい日々だったが、だからこそ滞在時間の短さと相まって、あっという間に時間は過ぎ去った。でも、最後にコトフィもシェライトも元気に笑ってくれたのが印象深かった。メロディやラスフィアとずいぶん仲良くなっていたのもまた思い出に残っている。
積もる話を聞きながら、懐かしい雰囲気に包まれながら、旧友とここでの知り合いが繋がっていく様を眺めるのもまた楽しいものだ。
「まぁそんなわけで、馴染みの顔が見れるのは嬉しいわけですよ」
「あれほど初対面と仲良くはできないが」
じとっと遠いどこかにチェローズの幻想を睨んで、アブソル――スイはコーヒーをひとくち口に含んだ。ものまねの一切もなく話を聞いているだけなのに、コトフィの元気抜群の子供っぽい声や、シェライトの勢い全開の冷静そうな声が、頭に響いて離れなかった。
「チェローズを抜けばふたりめというか、二回目ですかね。正直こんなに早く来ていただけると思ってなかったので嬉しいですっ」
スイは無言のままだった。
マリーネオたちの故郷と、ここ、草の大陸との距離はあるし、海や空をわざわざ渡ってまでくるポケモンは多くない。特に数年前、世界全体で災害が頻発していた辺りは、救助隊派遣以外で渡航するポケモンは僅かだったという。今だってこの地は「時間が止まる」なんてイレギュラーの発生のため、その時代同様に大陸超えの観光客は少なかった。
「時が止まるなんて実際起こるんだと驚きましたよね」
「……探検隊の私でも、それが探検心をくすぐるという意見はあまり腑に落ちなかったのですが」
あくまで「少ない」であって「ない」ではない。実際、世界を渡り歩くミステリーハンターを名乗るポケモンが、「止まった時間を見てみたい!!」と嬉々として情報提供を求めてきたことはあった。興味はあってもそこまでかと、ヴァイスは対応に苦慮して、店長たるパッチールにすべてを投げたのだが。
「……時が止まる」
スイはそれを復唱し、揺らぐコーヒーの水面を見つめた。
「そうですね、星の停止が起こるのを食い止めようってことで、僕たちも少しは手伝ってるんですよ」
「……それも、いいことばかりじゃないかもしれないな」
――それは、事情を知っている身であるスイだからこそ言えたひとこと。
そして、そのとき何も知らない双子は、特に何も思わなかった。世の中いい面も悪い面もあるよね、そんな世間話程度の認識で、流してしまっていたから。
その言葉を再び思い出したのは、スイが時の歯車を奪った後のこと。マリーネオはひとり、ギルドに戻ってから、ふとその言葉を思い出した。
親方であるマルスを含め、現状ギルドにいる全員に今の状況を説明。フリューデルが尽力していること、特にシイナがひとりで潜水、捜索してくれていること。ヴァイスは彼らに付き添って現場に残っていること。即刻の救援が必要だと伝えれば、マリーネオに任された仕事は完了である。
(救援って言っても、今から出発して間に合うかはわかりませんけど。時間が止まったら水ってどうなるんでしょうね。……固まったりしたら、完全に取り返せなくなる)
彼の懸念は的を得ていた。アルトやリィも、未来世界で止まった水流を見てきたが、それと同じ。海の時間が停止されたら完全なる詰みとなる。
その仮定、実際には正解であるそれに従えば、当然水中にいるシイナも同様となり――そこでマリーネオは横に首を振って思考を払う。
「信じて待つだけですよ、僕は。おかえりって言えればそれでいい」
ずっと後悔していた。
言われてもピンとこないままだった、ラスフィアも時の歯車を奪うという情報。それはひとえに彼女を信じていたからで、それを振り切ったのは彼女が、もとい彼女たちが未来へ渡る直前のことだった。
『――あなたを未来へ送り返す!』
そう言ったはずで、それで良かったはずで、なのに後悔は尽きなかった。
結局ラスフィアは星の停止を食い止めるべく動いていた。それを知ったマリーネオを一層の後悔が蝕んだ。
再び彼女と顔を合わせたのは、スイが時の歯車を奪って、ギルドに緊急招集がかかったときだった。ギルド自体にも顔を出していなかった彼女は、会議の場に下りて気まずそうな顔をした。当然の反応だ。自分だって同じ感情を抱いた。
そして、だから。マリーネオは彼女に笑いかけた。
『おかえりなさい、ラスフィアさん』
気まずくたって関係ない。そのひとことが、彼女に向けての「おかえり」で「ごめんなさい」だったから。
――おかえりと言えればそれでいい。
結局はそれなのだ。夕方のカフェで出会う街のポケモンたちも、現在行方不明の友も、この後幻の大地へ旅立つアルトたち一行も。
コトフィがあれほどまでに双子にいなくならないでと張り付き、シェライトは不安げな顔に染まる。その原因となった、マリーネオやヴァイスとも仲良かったとある女の子だって、結局は帰ってきてくれればそれでいいのだ。
そして、幻の大地へ旅立つ彼らを、信じて待とうと。帰ってきたときに「おかえり」と言って、みんなで笑いあえる未来を描いて、マリーネオは息を吐いた。やはり気に掛かる点があるのだ。
そうして思考は原点回帰する。スイが静かにつぶやいた一言を、マリーネオは今一度胸に抱いた。
「まぁ素人の僕にはわかりませんよね。どっちにしろ、僕は星の停止なんて起こってほしくはないんですが」
身近なポケモンが身近でなくなる苦みを舌に乗せ続けているのは、マリーネオだって同じだった。
マリーネオは窓を開け放った。はるか先に見える黒ずんだ山、ギルドに詰み上がる救助依頼。この大陸のポケモンたちも、また同じ苦みに悶えている。
だから、星の停止は食い止めるべきと思っている。食い止めて、今時を止めてしまっているポケモンたちを救うべきだと。マリーネオの決意は揺らぎはしない。
「……『いいことじゃない』。気になるけど、知ってしまったら僕もそっち側に行っちゃいそうなんだよなぁ。
冷ややかな風が前髪を揺らす。今日は風の強い日だった。
そしてアルトたちが幻の大地へ旅立った朝。マリーネオたちもまた、依頼の山に手を掻き入れた。
いつものように依頼をこなして、いつものように街へ戻る。あくまで日常、星の停止なんて関係なく繋ぎ続けるだけである。
「ねぇヴァイス、今夜はお酒飲まない? 久しぶりにカクテルでも作りたいな」
振り返ってそう笑いかけた先、相方たるヴァイスの背後に、灰色の雲が見えた。
――ごめんね、やっぱり今夜は無理みたいだ。
そう苦笑したマリーネオの顔を見つめたまま、彼女の瞳は揺らぎを止める。
「――アルトっ!! しっかりしてよ!」
傾いた体を誰かが支えた。ぐらついて焦点の定まらない目に映る色を見て、色しかわからなかったけど、その相手の正体は掴めた。
「……シイナ」
「良かった、うちのことわかって。さっきから話しかけたり肩叩いたりしても反応しなくて、大丈夫かなって思ったらこれだよ」
シイナの手を借りながら、血の巡りきっていない頭で今何をしていたかを思い出す。
――マリーネオの記憶を読んだ。
時の止まったマリーネオとヴァイスが交差点にいることは、トレジャータウンに戻ってきたときに見たとおりだった。だから今改めて見て驚くことは何もなかった。ただ、知っているポケモンだったなと。自らその姿を確定させたなと。他人事のように思いはしたが。
強い風でも吹いた瞬間だったのか、彼の首の毛は風に乗るように跳ねていた。その今にも動きそうな形の美しさに、つい手を触れてしまって。
そうして流れ出したのが、これまでの映像だった。
そこに辿り着いて、アルトは自分の手を眺めて怪訝な顔をする。
「時空の叫び……? それにしては長かったよな」
しかも、触れた相手――マリーネオの記憶や心情まで鮮明に伝わってきた。
今までの時空の叫びとは明らかに異なる感触に、一抹の恐ろしささえ覚える。まるで自分がマリーネオ本人になったかのように映る光景に、あたかも自分の感情であるかのように湧いては移り変わる心情。――ずっと続けていたら、自分が自分でなくなっていたかもしれない。
生々しい追想はアルトの頭に張り付いて離れなくて、それがまた気持ち悪かった。物語を読み慣れていないからこそ、追体験の記憶とうまく折り合えずに、アルトは額を押さえて座り込む。
「こんな時空の叫び、初めてだよ」
ラスフィアはじっとアルトの頭部を眺めていた。彼女は単に通りかかっただけで、この事象の最後の部分しか観測していないのだが、それだけでも憶測は容易いものである。
マリーネオに触れている間と今の、その部分の違いを見れば、この特殊な時空の叫びの原因は明らかだ。
「波導の影響もあったでしょうね。……完全に、ってわけではないから」
言葉を選びかねて、ラスフィアは曖昧な表現に留めてしまう。
最も時が動かないままであればそれ同然、端的に言えば永眠と称して間違いのない状態にはなるのだが。
言葉を発せられて、アルトはようやくラスフィアの存在を視認する。
エルファは「ギルドに行くから」と場を離れた後だったからいないのは当然として、シイナも、確かにいるのは気が付かなかったけど、特に思うことはなかった。ただラスフィアまでいると思わなくて、彼女の声を、言葉を聞くのが怖くて、ふいと顔を逸らした。
そして視界に映るは笑顔のマリーネオ、振り向いた瞬間、風になびいた毛並みは躍動感にあふれたまま切り取られている。そして彼が見つめる先にある、もう一匹のポケモン。彼と随分背丈やアクセサリーが似通っていた。
アルトは瞳を閉ざした。マリーネオが言っていた、もとい彼から読み取った心のうちは、素直で力強かった。
(星の停止なんて望んでいない。歴史は変わると信じている)
(だからいつも通りに過ごそう。たとえ僕が星の停止に巻き込まれたって、すぐに解けるはずだから、僕たちは日常を過ごしていくだけだ)