111話 溢楽の足跡
サメハダ岩に鼻歌が響いた。その奏で主はくるりと回りながらその場に立ち上がる。
「さて、じゃあ僕も動こうかなぁ」
にっこりと笑うヒノアラシ、リズム。たとえ世界の時間が狂おうと、彼の世界観は揺らがない。背中から小さく吹かせた炎が、冷え切ったサメハダ岩に僅かばかりのぬくもりをもたらした。
一拍置いてから、アルトは彼の発言の一端を拾う。
「動く?」
「うん。そりゃあだって、ここで何もしないわけにはいかないじゃん」
「それはそうだけどよ」
うまい言葉を繋げないアルトの鼻の先に立って、リズムは彼の手の甲をなでた。
「大丈夫だよ〜。僕、星の停止は、食い止められたらそれはそれで嬉しかっけど、そのまま起こっちゃったって良かったんだよ。むしろその方がいいことだもんねぇ。だって、悲しいのは僕たちだけなんだよ? 救われたポケモンも多いから、ねぇ?」
凍りそうなほど冷たかったアルトの手は、じんわりとした温度に包まれていた。
屈託のない笑顔のリズムに、この未来を後悔する様子は微塵も感じられない。発言からして感傷はあるのだろうが、その片鱗を悟らせなかった。それが意図的か、無意識か。彼のことを深く知らないアルトにそこまでの判別はできなかった。
「元々そうなる予定だったんだし、わざわざ変えるほどいいことずくめじゃない。それだったら」
実際のところは、意図的な隠し事を無意識にやる癖がついていただけだった。だって、つらいって落ち込むより、たのしいねって笑いたいから。泣いていた自分に手を差し出して、そう笑いかけてくれた彼の顔を、リズムはずっと胸に抱いている。
それから、いつだって前を向いて歩くと決めた。どんなことからも楽しさを見出して、少しずつ笑いながら進むから。
「僕は、こんな世界でも受け入れるよ」
ほわっと笑って見せて、その言葉を遂行する達成感を今日もまた積み重ねる。
「……すげぇな、お前」
「褒めるなんて珍しいねぇ」
あまりにも純粋に笑うものだから、今星の停止が起きていることなんて忘れそうになってしまう。灰色の水平線に手を振って、リズムはアルトたちに背を向けた。
「それじゃあねぇ、またあとで」
「あ、待って俺も行く」
エルファは手短に呼び止めると、スカーフをなびかせて彼の元へ走った。
「お〜! シイちゃんは?」
「……うちは、いいや。いってらっしゃい」
浮かない顔のシイナは手も振らなかった。それに関しては深追いせず、ふたりはサメハダ岩を後にする。
先を行くリズムと、その後を追うエルファ。いつもとは違う構図だった。そのままポケモンの影だけしかない街を、ふたり無言で通り抜けた。
リズムは空を見上げて口笛を吹く。干渉する波なんてないから、きっとあの遠い雲まで届いたんだろうなと、そう思えばふふんと得意げな顔になる。
「残念だなぁ、ずっと一緒にいれたら嬉しかったのに。僕と一緒に行動するつもりはないんだよねぇ?」
交差点の中央でリズムはぴたりと足を止めた。その言葉を向ける相手の方へ振り返れば、呆れ顔の親友が長いスカーフをもてあそんでいた。
「あー、わかってたのね」
「そりゃそうだよ〜。だからなんでついてきたのかなって思ってたんだけど」
「……『挨拶って大事だから』、自分で言ったくせして自分がやらないのもさ」
そう、ため息をついて目を逸らした横顔は少し寂し気だった。
「まだ整理ついてなかったから何も言えなかったんだよねー。でもね、少し歩いてすっきりした」
星の停止が起きたと理解するのと、その未来の収束を知るのとは同時ではない。だから実際に訪れた未来で、自分がどう動くかについて悩んでいた部分もあったし、何より周りの動きも予測しづらいから心の準備は足りてなかった。
「俺、リズムとは行けない。自分の本当に最初の気持ちに気づいちゃったから」
でも今、あげた顔に迷いはなくて、ごちゃごちゃと混ざった感情を飲み込んで笑う。リズムもまた、「うん」とうなずいて、短い手を挙げる。
「ばいばい、エルくん」
「じゃあね、リズム」
『――大好きだったよ』
拝啓、一番の友達へ。
お互いに背を向けて、一歩を踏み出す。静かな曇り空だった。
瞼を閉ざしたまま四歩進んだエルファは、気だるげに目を開いた。かすかに聞こえた気がした音の正体でも見てやろうか、なんて心持ちだ。
「なんだ、来てたんだ?」
「……あぁ」
短く言葉を交わした相手はアルト。しばしの沈黙を得て、アルトは言いづらそうに本音を晒す。
「なんか意外だった。お前ら三人、ずっと一緒にいるもんかと思ってた」
「いや、俺もリズムと一緒に動くつもりだったんだよね、こうなったとしても。歴史を変えるのがいいこととは思ってないからさ。……ま、シイナがどう思ってるのかは知らないけど」
「でもお前、時の歯車」
「そうだよ。だからだよ、リズムとはお別れしたわけ。寂しいねー」
冗談めかした軽い口調ながら、それが本心であることは表情からわかる。アルトは咄嗟に目を逸らして、逸らした先にあったオブジェを目に入れてしまって、目を伏せてうつむいた。
「浮かない顔するねー、あぁいつもか? やりたいことやりきったんなら笑えばいいのに」
「わら、う……」
「笑い方を知らないとか言わないでよ? ……あ、待って、俺アンタの笑った顔見たことないかも。うわー見たいな、見たかったな、あはっ」
――そういえば、最後に笑ったのはいつだっけ。
アルトはそんなことを思って、うまく引き出せない記憶に目をつむった。思い出すのはリィの笑顔ばかりで、自分が笑ったことなんてないんじゃないかと思えるほどに心当りがない。全くない、なんてことはないはずなのに。
「ねぇアルト。笑ってみせてよ、今が一番でしょ?」
一向に晴れない彼の顔へ、エルファは手を差し伸べた。いつも通りらしさにあふれた、いたずらっぽくて楽しそうで、でもそれとは違って少しだけ嘘を混ぜた表情だった。
「明日が来なくたって空を見上げられる、楽しかったねって笑ってられる、リズムみたいに、さ」
リンゴを取り出して空にかざす。少し鮮度が落ちて艶も減って、照らす光もなく彩度は低く見えた。
リズムはいつも通り、お得意の炎で焼いて食べようかと息を吸い込んで、そこでぴたりと息を止める。そしてゆっくりと息を吐きながら、一口だけかじった。しゃくり、軽快でみずみずしい音は鮮やかだった。
噛み進めるほどに甘酸っぱい香りが鼻腔を突いて、不意に耐え難い切なさに襲われる。
「こういうことなんだなぁ、星の停止って」
新鮮なリンゴを味わって食べられるのは、きっと今日が最後。もっともその今日に終わりなんて訪れないのだけれど。
食べ残した芯を捨てるのにしばし躊躇った。結局、それは地面に埋めて、新しい木が生えることを空虚に祈ってその場を後にした。
あまりに自分の足音しか聞こえないもので、寂寥感に耐えかねたリズムは淀んだ空気を肺いっぱいに吸い込む。紡いだ旋律は、遠い遠い空までまっすぐに響いていく。
「夜が明けずとも〜……ふふ〜」
やがて辿り着いた歌詞に、思わず足を止めてしまう。
「新しいなぁ、明けない夜って」
見上げた空は一面灰色の雲に埋め尽くされていて、時間帯は計れない。街の雰囲気から夕方ごろだったはずなのに、晴れて鮮やかな空だったはずなのに、空の色は夜みたいで、でも夜というには明るすぎた。
新しい景色を様々な言葉で飾りながら、リズムは歩き続ける。やがてたどり着いた街は、生まれ故郷は、ずいぶんと寂れて見えた。
星の停止のせいか、はたまたそこにあったはずの時間帯のせいか、やっぱり彩に欠けていた。それにはっと思い立って、リズムは文具屋へ走った。絵の具を取って、その分ポケを交換に置いて、こっちには目もくれない店主に手を振って店を飛び出した。
店を飛び出して三歩。落ち葉を拾い上げると、買ったばかりの絵の具を絞り出す。不自然に強すぎる緑色も、この背景の上で見れば良いアクセントだ。ふふんと鼻を鳴らす。暗黒の未来だというのなら、鮮烈な色彩を自分の手で塗っていくのも悪くないんじゃないかと、我ながら斬新な発想に胸が楽し気に弾けた。
かざした葉っぱを、しかし乾いてもいないのに持ち歩けなくて、その場に置いて再び本来の目的地を目指し始める。
軒を連ねる商店の間を抜け、リズム一人通るのがやっとの穴をくぐり、路地裏を近道に使う。目的地の建物の扉を迷いなく開けて、そこで気持ちがはやって、駆け足で奥の部屋へ向かった。
その最後の扉を開けた途端、懐かしい匂いが香った気がした。
「ただいまぁ、お兄ちゃん。ヴェレちゃんも一緒にいたんだねぇ」
彼に何よりも強くてまっすぐな愛を捧げる彼女のことだ、想定通りではあったし、だからこそリズムは安心した。エルファの兄であるバウムの顔をじっと眺めて、「かっこいいなぁ」とリズムはひとことこぼす。
リズムも、そしてヴェレの姉であるシイナも、バウムのことを「お兄ちゃん」と呼ぶ。血のつながりはなくとも、小さいころからずっと面倒を見てもらって、たくさんのことを教えてもらった彼は兄同然だし、実際そう呼ぶと嬉しそうに笑ってくれるのだ。
「僕だけでごめんね」
ここに来たのは、ある種のけじめだった。
星の停止を肯定する以上、区切りを付けなきゃいけない感情と、挨拶の言葉。もう一緒に笑えないかもしれない二人に、せめてもの思いは伝えたかった。
「やっぱり寂しいなぁ」
リズムのぼやきは虚空に消えるのみ。
これもまた当然のことだった。ふたりは既に星の停止に巻き込まれた後、見上げる空同様に色は見えず鼓動は聞こえない。石みたいに冷たくなった二人に頬を寄せて、せめてもの温かさを分け与える。
ふと、紅茶色に染められた木の箱が目に入った。開いてみれば、整然と並べられた紙の束が詰め込まれていた。リズムはその一番上にあった未開封の封筒の端を焦がした。取り出したのはずいぶんと見覚えのある筆跡による手紙。いつかギルドのチームの部屋で、みんなでバウム宛に書いていたものだった。その下にもまた、同様の封筒がいくつも連なっていたが、リズムは確認することなく箱を閉じた。
読まれないままだったことには何の感傷も抱かない。当然だなと、わかっていたことだという憶測に裏を当てただけだった。ただ、もう動くことのない彼が目に留めてくれることは二度とないのだろうなと察するは簡単だ。
「でも僕は諦めてないんだよね、ふふん」
ヴェレの頭をなでて、リズムは得意げな顔で窓の外を眺めた。
(きっとどこかに、星の停止に巻き込まれたポケモンを救う手段はある。僕はそれを探しに行くんだ。できれば、エルくんとシイちゃんと行きたかったけどね)
リズムはため息をついて、探検隊になるより少し前の日々を思い出す。差し込む昼下がりの光に照らされつつ、本を読むバウムの様子を横から眺めていたら、不意にぽんと頭を撫でられたことを覚えている。
『リズムくんが一番しっかり者なんだから、エルくんとシイナちゃんのことよろしくね』
「……ごめんね、お兄ちゃん。その約束、今だけは破っちゃうや」
――でもきっといつか、ふたりのことも救い出して、みんなで一緒に笑えるって信じてる。
ばいばい、と手を振ったエルファの寂し気な笑顔も、俯いて落ち込んだシイナの横顔も、思い返せば胸が痛むけど、いつかきっと元通りの関係に戻れる、戻す。それで五匹で、アルトたちも入れたらもっとたくさんで、楽しく遊んでみたいなとリズムの空想は広がっていく。
ありがとう、と頭の中で声が響く。振り向いたって、一寸も動きのない彼らが言葉を発した様子はないけれど、リズムは彼らがそう思ってくれたと信じ切っていたし、それだけでこの無謀なまでの探検に身を捧ぐに十分だった。
「うん。じゃあね、お兄ちゃん、ヴェレちゃん。今度会うときは、一緒に美味しいリンゴでも食べたいねぇ」
部屋を出て、扉を閉めて、そこでようやく奥底にしまい込んだ感情があふれ出す。何年振りにこんな感情に苛まれたのか。目から涙があふれたのなんて、それこそ何年も前のような気がした。
「小さいころ、泣くたびにお兄ちゃんが頭をなでてくれてたなぁ」
幼少期はバランスを取るのが苦手で、毎日のように転んでは涙を浮かべていた。
いつしか泣き虫だった自分はどこか遠くなって、代わりにずっと笑顔でマイペースな自分になっていた。どうしてだっけ、思い出せばやっぱり、いつもの顔が頭をよぎる。
『ないてたらつまんないじゃんー。そんなにたのしくないの?』
『リズム、いっしょにあそぼ! リズムといるとたのしいんだよ!』
『僕は、楽しそうなリズムくんの顔が好きだよ』
今年十を数えたヴェレより、もっと年下だったころの幼馴染組と、そこから見上げる大人びたバウムの顔は鮮明だった。
あの日に戻りたいとは言わない。あのときはあのとき、今は今。振り返ってあのときが一番楽しかったなんて言ったって進めないから、「楽しい」ってまた笑える今が欲しいから、アテのない探検に身を捧ぐ。
(過去は変えられないし、変えちゃダメ。ここから皆を助ければ、それで全部解決じゃないか。だから僕は助けに行く)
(でも、今だけは少しだけ寂しがらせて。きっと明日は、笑顔で歩くから)