110話 瑠璃瞳の凍瞼
虹の石船を降りれば、ふたつの影と出会った。見慣れたふたりだった。アルトの影を確認するだけでも十分話がわかる彼女たちだ、泣き腫らした赤い目のリィまでいる以上、余計な言葉など紡げなかった。
「……スイは?」
「すでに用が済んだといって去って行った。……遺跡のどこかくらいにはいるんじゃないかしらね」
話題を逸らすように出した会話は、一瞬にして終了する。彼を探すのも追うのも、たぶんやらなきゃいけないけれど、今は目の前のことで手一杯だったから。
「悔しいけど、でも、あたしが悪いから。うまく動けなかったあたしが、だから」
フルートのカケラをぎゅっと抱いて、ラピスは俯く。
「ごめんね、アルト、リィ、ラス」
幻の大地での会話はそれっきりだった。
セイラに事情を話せば、すぐに背中に乗せてくれた。時の狭間は消えかけていて、行きは飛行タイプさながらに飛んで降り立ったものだが、今は水面を滑る程度の浮き方で通過してしまった。
時の破壊の影響で、隠す力が失われ、普通に海を泳ぐだけでもたどり着けるようになるようだ。そうだとしても、気楽に行けることを喜ぶポケモンなんていないのだが。
会話がないままの旅路。輝きのない海も、どんよりとした空も、何も面白みはないのに、それを眺めるくらいしかやることがなかった。
行きのずっとずっと長い時間をかけたような旅路も、やがて終わりを告げる。アルトが踏みしめたのはさらりとくすぐったい砂。いつもの海岸だった。
見れば名物の泡が至る所に浮いていた、クラブが吐いたであろうそれは、しかし眺めていても微動だにしない。
帰ってきたのに、帰ってきた気がしない。きらめく色がなくて、心落ち着ける波音がなくて、くすぐったい潮の香りもスカーフを揺らす風も静まり返っている。そんな海岸はまるで別物だった。沈みかけのはずの太陽も、灰色に覆い尽くされて拝むこともできなかった。
特に誰から言い出したわけでも動き出したわけでもなく、足はギルドの方へと向かった。この有様だ、どうせ誰もいないとわかりながら。
「えっ……?」
その予想が裏切られるのは随分と早いものだったが。
「み、みんな! えっと、これって、あの」
足音にいち早く気が付いた少女が、目をぱちくりとさせる。ずいぶんと見知った顔だった。
「お前ら……無事、だったのかよ?」
「そうだよ〜。水晶の洞窟に行ってたからねぇ、ここが時間止まっても大丈夫だったってわけ」
色彩も何もない中で、まぶしく見えるほどのオレンジと、優しく照らし出す赤い炎。今言葉を交わして、彼らが――シイナとリズムが無事である実感が、ぶわりと胸に広がった。
リィはうつむいたままシイナに飛び込む。わっと驚いた声をあげるシイナも、彼女の痛みに苛まれた表情に何も言えず、ぽんと首元を優しくなでる。
「……ねぇ、他のギルドのみんなは?」
普段なら相手にしか届かないほどの掠れた小声は、しかし風音一つない中では全員の元にすっきりと鳴る。シイナもリズムも視線を地面に落とし、小さくため息をついた。
「それ、なんだけど。……うちらも行ってないのよ、ギルド」
「もしかして今帰ってきたばかり?」
震えたシイナの声を引き取ったのはラスフィア。この景色に慣れているからか、比較的冷静な声だった。
言葉に詰まり、シイナは沈黙する。彼女が答えないならばと口を開いたのは、いつもの和やかさをどこかに置いてきたようなリズムだった。
「そういうわけじゃないんだよねぇ。たしかに戻ってきたのは、たぶんほんの数時間くらい前だけど、ギルドにも行けない時間じゃないからさぁ」
「じゃあ……」
ラスフィアはすべてを理解したという風に目を伏せた。その一方で、感情の奔流でいっぱいなリィはそこまで思考が回らない。シイナから離れて、崖上にそびえるギルドをじっと見据えた。
「ちょっと容赦ない表現なのは許して欲しいんだけどさ」
それまで水飲み場の縁に座っていた
光は気だるげに立ち上がって、今にも階段を上らんとする彼女の前に立った。
「誰も生きてないよ。まぁ俺も確かめてない以上推測にはなるんだけど……少なくともトレジャータウンはお察しの有様、ならギルドも同じ。わざわざ行ってダメージ食らう必要もないってわけ。……ほら、一番行きたそうな顔してるアンタが一番ダメージ受けそうだしさ、俺からは行くのをオススメはしないよ」
冷徹な目で彼女を射抜き、見下ろす。普段なら軽やかになびく青いスカーフは、今日ばかりはただ重力に従うのみである。
緑色二人、無彩の木々の下で、相手の出方を伺っていた。
エルファは交差点中央に置かれたふたつのオブジェにそっと目を流した。作り物にしてはずいぶんと表情が生き生きしていて、毛並みに尻尾に流れるような動きを持つ。そしてその種族に見覚えがあるからこそ、それを見て抱いた感傷があったからこそ、チームとしてはギルドに行かないという判断を下したのだった。
「ま、それでも行きたいなら俺は止めないけど。挨拶って大事だからさ」
それだけ言い残してリィの横を通り抜け、顔を上げる。始めて見るアルトの表情を、瞳に映り込ませた。
「おかえり。って最初に言うのが俺でごめんね?」
「……言ってくれる奴がいると思ってなかったよ」
「あははっ、怒られないの新鮮」
冗談っぽくエルファは笑って、アルトは静かに目を逸らして、エルファはため息をついて作った表情を脱ぎ捨てる。
「さて、どこに行ってもこんな有様なわけだけど、ずっと立ち話もあれじゃん? 誰もいなさそうな……というか、誰の影もないようなところでも探そうかなーって相談してたとこなんだよね。そっちはどっか心当たりある?」
それなら、と四名の意見は一致する。無言のままうなずき合交差点をトレジャータウン側へと歩み始める。
海岸はクラブたちがいるし、抜け道を使えばポケモンと会わずしていける秘密基地があったのを、四名は知っていたから。
サメハダ岩は相変わらずだった。十分な広さがあるおかげで、七匹になっても狭いとは思わなかった。
始めて来る三匹はそこが隠れ家であったことに驚きながら、そろりと窓、もといサメハダーの歯の間から外を眺むる。が、きらめきもしない、彩度もない空に海に飽きるのは早くて、すぐに視線を外して、床にぺたりと座り込んだ。
「……まぁ、およその話はわかるから近況報告なんてするまでもなさそうだけどね。シュトラのことだけは教えてほしいかな」
「待ち伏せしてたメテオと一緒に未来に帰ってったんだよ。道連れって言って」
アルトは視線をリィのバッグに流した。あの中に四つの時の歯車、キザキの森から地底湖までの歯車がたしかに入っている。
そしてもう一つ、最後の時の歯車が入っている自分のバッグに、アルトは手を添える。
「そっちが水晶の洞窟にいたっていうのは」
「あれね、アグノムにスイのことでも聞こうかなって思っただけだよ。ついでに寄り道して依頼こなしつつね」
出てきた名前にラピスの顔色はさっと変わる。
「アイツ……っ」
「え、会ったとか言わないよね?」
反射でそう聞き返してしまったが、ラピスの悔しげな顔を見れば答えは明白だった。
「戦ったけど倒せそうにないくらい強くて、私とラピスで隙を作って、アルトとリィちゃんに時限の塔に行ってもらってたの。……ラピスのフルートは壊されたけれど」
「あー、そういう……。幻の大地、たしかにアイツなら行ける……? でもそれなら、時の歯車奪ってすぐ行っても良さそうだったのに」
「行く途中だったとか?」
「んー、まぁそうなんだけどさ……。なんて言えばいいんだろうね。これ」
「今は考えても仕方ないんじゃないかなぁ。本人に聞かなきゃ答えは出ないと思うよ」
リズムに諭されて話はそこで途切れるも、エルファの顔は曇ったまま。まだ考え足りない様子である。
「ねぇアルト。一個だけ聞きたいことがある。正直俺、その答えだけ聞けたら十分なくらいなんだけどさ」
「……なんとなく想像できる」
「ありがと、仲良しじゃん。なんて言っても全然怒ってくれないの寂しいんだけどさ、まぁそんな気持ちじゃないよね。俺もそうだし」
本題に切り込む勇気がないからこそ、遠回りな会話をして心の準備の時間を稼ぐ。
彼のその癖を、アルトは既に知っていた。ふたり対峙したときだってそうだったから。そして質問の内容なんて最早透けていたから、アルトも深呼吸をして心を落ち着ける。
言いたくないな、そんな前置きが微かに聞こえた気がした。
「わざとだった?」
驚くほど、何の音も聞こえなかった。
えっ、なんて声もなくて、強いて聞こえたのは息を飲んだひとりの音のみ。
心地よさとは程遠い無音だった。アルトはまっすぐにエルファの瞳を見つめる、それだけだった。
「そっか。うん……ありがと」
言葉なんてなくたって、言葉がないからこそ、それが示す答えは明白だった。緊張を解いたエルファはひとり目を伏せた。
リズムもシイナも、本当に起こるとは思っていなかっただけであって、一切の可能性を排除していたわけではないから何も言わない。エルファもラスフィアも、その根本に自分がいることを知っているから静かに耳を傾けるのみ。リィはもう、感情なんてものは残ってなくて。
だから、ただひとりだけが鮮烈に映った。
「裏切られるくらいならっ、最初から誰も、頼らなきゃ良かった!!」
喉を掻ききるような声が空虚に響いた。
予想のついていた反応だったから、アルトは表情を変えはしない。あくまで冷静な声のまま、睨みつけてくるラピスに自分の鮮赤の目を合わせた。
「そう言われるのなんてわかった上だよ」
「未来まで行って助けたのばかみたいだ。あたしはずっと、味方でいたのに」
どっちの味方だ、なんて突き放されたとき、関係を切ってしまえば良かった。ずっと信じ続けて助けてきたつもりで、それで向けられたあの目は今も心の奥に刺さっていた。忘れるには少しだけ痛すぎたのだ。
ぱちり、指先ほどの火花を頬からこぼして、アルトを射抜く蒼眸。
「だいきらいだ」
悲痛に迫られた声は、今にも消えそうなほどか弱い音だった。
唇を噛んでサメハダ岩を飛び出す彼女を、皆、視線ですら追わなかった。
足音も聞こえなくなったとき、エルファはそっと左に視線を流して、桃色のリボンに目を留めた。ラピスの反応は予想通りとしても、彼女がサメハダ岩に来て以来黙りっぱなしなのがどうしても気にかかったのだ。
「思ってたより反応薄いね、リィ。もしかして既に知ってた?」
「う、ん。時限の塔で、教えてもらった、の」
「…………。よりによってそこだったのね」
それもそうか、なんて言って、歯を模した岩に背中を預けた。長いスカーフを揺らす風の幻覚だけを感じて、ひとり長く息を吐く。
海の上、潮の香りなんてどこにも見当たらなかった。
がむしゃらに走り抜ける。胸も頭も焼けるように痛かった。
助けなきゃ良かった、そう口走った自分に一抹の後悔が湧いて、それをすぐに拭い去る。助けないなんて選択できるわけがなかったから。
だからと言って、真実を知ったアルトを、彼に教えた者たちを咎めることなんてできない。
――本当にそうだったのか。
それがなければ、成功していたんじゃないか。自分も時限の塔に行って、歴史を変えて、それで消えるときに言えば、後戻りも反逆もできないのだから。そうだ、それで良かったのでは。
なんてずるい考えばかりに引きずられて、ラピスは奥歯を噛む。それができなかったからの今なんだ。言ってどうにかなる話ではない。
(とにかく過去に行こう。セレビィでも探して、アルトとこっちで会う前がいいな。全部、やり直すんだ)
全身を鈍い衝撃に殴られた。大きく一揺れした視界と、肌を擦り切るような刺激に転んだと察したとき、思考する頭はふっと動きを止めた。深呼吸して、頬の電気袋に手を触れる。
たとえギルドの中だろうとお構いなしに放っていたはずの、すっかり手慣れたはずの雷は、なぜか思い通りに鳴ってはくれない。火花みっつがせいぜいな頬を撫でて、その冷たさを指先で拭う。
「……あたし、もう、戦えないのかな」
ニンゲンだった彼女はフルートを介した氷を操って参戦していた。だから、ポケモンに比べて大きく劣る身体能力ながら、アルトのような特異な能力も無いながらも。星の調査団の主要メンバーであったし、ポケモンだけの過去に飛び込む覚悟も容易に固まった。
ピカチュウになれたのはむしろ幸運だった。戦いの幅が広がること、自ら光を生み出せること。より敏感になった耳には雷鳴が少しうるさく感じるけれど、全くもって不快ではなかったし、火花を散らすぱちぱちと軽やかな音は好きだった。何より、聴き慣れたフルートの音が、更に鮮明に鮮やかな色を持ったときの感動は、ずっとわすれない。
(こんなんで過去に行って、何ができるの)
今、自分に残っているものは何だ。
一途に貫いてきた信念は折れ、この世で1番長く共にいた相手は自らの意思で使命を捨てた。
積み上げてきた戦闘経験は、しかしその手段のほとんどを失った。まともに使える技などでんこうせっか程度のものだ。いや、それすらも、まともに走れないから不可能か。
「変えたいに、決まってる、のっ。変えたいの、変えたいのに……あたしが、弱くて、甘くて、足りてないから」
目を閉じて見る夢のつもりはなかった、現実に掴み取るはずだったのに。
「あたしは、何もできないんだ」
実際にそれを口に出すのははじめてだった。
当然何度だって思った。時の歯車の位置を次々と突き止めるアルトに、多彩な技で前線に立ちながら団の雰囲気を柔らかく纏めるラスに、せっかちだけど冷静で団を先導するシュトラに。劣等感なんていくらでも感じた。
その度、自分だけにできることを見つめて、自分にもできることを増やして、そんな弱音は乗り越えてきた。
「……消えたい、な」
最期くらい望む形で終わりたかった。わがままばかりが胸を占めて、止まらない感情は叫びとなって動かぬ空気を揺らす。
立ち上がれるだけの力なんて残ってはいなかった。
「消して、ほしかったな」
澄んでいた瑠璃色の瞳は、凍りそうな瞼の中で眠る。
自分が置かれた現実も、雲一つ動かない空も、もう何も見たくなかった。
(進みたくても動けない。弱音を吐き出す。こんな自分が一番嫌いだった。シュトラみたいに真っ直ぐで、ラスみたいに強くなりたかったから、自分なりに真似て、少しは自分のこと好きになれたのかもしれないけど)
(立てもしない、歩けもしない。そんな自分のことが、大嫌いだ)