109話 茜閉ざす奏星
「――ってば! ねぇ、お願いだからっ、ねぇっ……! 目を覚ましてよ!」
うっすらと音が聞こえてくる。誰の声なのだろう。まだまどろんでいたいような心地に誘われながらも、なんとか重い瞼を持ち上げる。
緑がにじんで、それがはっきりとした形をなすとともに、紅桃の瞳にじっと見つめられていることを認識する。
「良かった……っ。あ、あのね、ここに倒れていたの。大丈夫?」
「…………」
あわあわと告げる相手はチコリータ。澄んだ瞳がいっぱいに潤んでいることから、相当心配してくれていたと察するは容易い。堰を切ったようにその場で泣きおちる彼女の眼には、自分をじっと見つめるリオルが映り込んでいた。
「私っ、あの、もう起きてくれないんじゃないかってっ、わたしをひとりにするんじゃないかって、不安になっちゃって、それでっ。ごめん、ね」
「……なぁ、」
ようやく、声を出せた。絞り出せた声は掠れていて、喉もぴりりと痛むけれども。
「リィ。――なら、良かった」
「えっ……と?」
リィの瞳はしばし困惑に揺れる。が、まだ感情の整理がついていないせいもあって、なかなか二の句を繋げない。結局、上半身を起こしながら、周囲の状況に疑問を持ったアルトが口を開く方が早かった。
「今、どういう状況か教えてもらっていいか? アイツ――ディアルガはここにいないんだろ」
「う、うん。といっても私もはっきりとはわかんなくて、たぶんの話なんだけど」
リィは胸にツルを当てて深呼吸した。といってもだいぶん早くて浅くて、落ち着けたとは到底思えない一息だったのだが。
「私たち、ディアルガに負けちゃったみたい。探検隊のバッジって、危ないときに戻れるようになっているんだけど、それが発動したんじゃないかなぁって」
「でもここは時限の塔の中だよな」
「うん。たぶん中間地点の、ほら、少しだけ休憩した場所だと思うの」
行きにまだあるのかよと悪態をついたあそこか。頂上よりは狭くて殺風景な空間は確かに見覚えがあった。そのときより壁のヒビが増えているように見えるのは気のせいではないだろう。
うるさいくらいに静かだった。リィは俯いて、ぎゅっと自分の前足を握った。
「アルト、大丈夫そう……? あの、すごく痛くてつらいのよくわかるけど、でも、もう一回頂上まで行かないと――」
「いや、行く必要はねぇよ」
あっさりとした物言いに、リィは跳ねるように驚嘆を示す。
「そ、そんなわけっ! だって、私たちが最後の希望なんだよ!? 私たちが頂上に行って、時の歯車を納めなきゃ」
「その祭壇って今どうなってんだよ」
「どうって――あっ」
ぺたり、座り込んだリィ。まばたきもできず、ただ、その場で震える。
直接の被害を受けていないリィも、それだけで体に切り傷が刻まれたような錯覚を覚えてしまう。
「えっ、う、嘘、だよね。わ、わたしの見間違いじゃないか、って、思うから。まだ決まったわけじゃないし、もう一回行ってみたって」
「リィ」
遮るアルトの声は、いつになく優しくて、温かかった。
「成長したな」
「……ある、と」
「やりもしないで諦めてたギルドの入門なんかに比べたら、今は少しでも希望があるならやろうって言ってるの、すごい成長だろ」
「う、ん……。ありがとう」
「だから、さ」
アルトは手を差し伸べる。ぺたんと床についたリィの前足に、触れはしないけれど、近くに手を置いた。
「もう大丈夫なんだよ。――祭壇は壊れてる、時の歯車は納められない」
振り落とされるディアルガの鋼鉄のツメ。
アルトを取り囲む破壊の轟音。
ぱらぱら、零れ落ちる瓦礫は、確かにリィの目にも焼き付いていた。
でもリィは首を横に振った。揺れるリボンと頭の葉を、アルトは遠景を望むような目つきで眺める。
「そんなの嘘だっ! 嘘だよ、ねぇ、嘘って言ってよ」
「自分の目で見たろ」
「そうだけど、でもっ! だって……私だって今、動けてるじゃん、時間止まってない、じゃん。だったら。だからっ、まだできることが、っ」
言い訳のように紡がれ続けた言葉はやがて詰まる。リィの前足が、彼女の体をぎゅっと抱いた。
「私たち、星の停止を食い止められなかったの……?」
アルトは無言でうなずいた。
言葉を添える必要もないと思っていた。
「ギルドの皆に、トレジャータウンの皆に、世界中の皆に託されたんだよ。シュトラに任されたんだよ。ラピスとラスフィアの分まで戦いに来たんだよ」
そうだったな、なんて言いながら閉じたアルトの瞼裏には、輝かしいギルドやその面々が浮かんだ。
覚えていないだけで、未来を生きていたニンゲンの自分に意思を託したポケモンもいたのだろうか。いずれにせよここにいては確かめようがないのだが。
そんな乾いた思いに傾きながら開けた目には、透き通った雫が映り込んだ。
リィは伸ばしたツルでぐいと涙をぬぐう。ツルから雫がしたたり落ちるほどになっても止めず、新しい雫が溢れる度に拭いながら、細切れの言葉を虚空に投げる。
「う、あ……っ。嘘だよ、いやだ、なんで。こんなの、嘘なんだよ、きっと夢なんだよ」
彼女の目はすっかり赤く腫れていた。声のかけ方なんて知らないアルトは、ただ黙ってその言葉を耳から流し込むだけだった。
やがて、彼女のしゃくりの中に言葉が混ざり始めた。喋っているうち、それは凛とした芯を持ち始める。
「ねぇアルト、もう一度頂上に行こう。希望はまだあるかもしれないんだよ。私たちがここで諦めちゃダメなんだよ」
「それを私に教えてくれたのはアルトなんだよ。アルトは私に『成長した』って言ってくれたけど、アルトが私を成長させてくれたんだよ」
「一緒に行こう。暗黒の未来なんか変えちゃおうよ」
「ねぇ、……なんで何も、言ってくれないの」
目に重い影が落ちる。アルトを映すリィの瞳が冷えついたのは、初めてのことだった。
しばらく無言を貫いていたアルトは、今にも光を失いそうなリィの瞳をじっと見つめ返した。
「『ひとりにするんじゃないかって不安になった』」
それは、さっきリィが口にした言葉そのものだった。自分で口にして、その言葉の鋭さと重みを十二分に思い知る。
「リィ。星の停止を食い止めたら、そうなってたんだよ」
「……。なんで、なんでそんなこと言うの」
いずれこんな未来が訪れることはわかっていた。きっと、リィは彼女自身が望んだ未来を手に入れようと、同じ言葉を紡いでいたのだろう。
「歴史を変えたら、未来で生まれたヤツらはみんな消滅する。俺も、ラピスも、ラスフィアも、シュトラも、メテオも、キルシェも。だから帰るのも、探検隊もひとりになってたんだよ」
「そんな、の」
「だからメテオたちは俺たちを止めていた。エルファはそれを俺に教えてくれて、一回すげぇケンカしてさ、その後ラスフィアに本当かって聞いた。アイツが俺に言ったのは『卑怯だとわかっていても言えなかった』」
ずいぶんと前のように感じるが、案外最近のことだし、呼び起こされる記憶はついさっきの出来事のように鮮明だった。
「俺だって同じだったよ。リィに黙り通していたのは悪いと思っている。でも俺は、誰も消したくなかった。俺だけならよかったけど、そこまでの未来も、そっから先の未来も全部って言われたらさすがに無理だった」
スイが時の歯車を奪ってくれたのはアルトにとっては幸運だった。結果それが今手元にあろうとも、アルトにしっかり悩んで結論を出す時間をくれたから。決意を固めて幻の大地に降りたてたから。
「だから――俺は星の停止を起こす未来を選んだ」
その言葉に、迷いも震えもなかった。
アルトは静かに立ち上がって、足についた床や壁の細かいかけらを払い落とした。
「ずっと、っつってもリオルになってからだけど、悩んでた。過去の俺は確かに変えたがってたかもしれないけど、今の俺は違う。……悪いな」
「……。そう、だった、の」
「リィ、今お前はどうなんだよ。それでもまだ、あるかわからない可能性なんか見て、希望って言ってられるのか」
「っ……。わたし、は」
意地悪を言ってごめん。そのくらい言える優しさが欲しかった。
結局形にならなかったそれの代わりに、アルトはくるりと彼女に背を向けてから話しかける。
「幻の大地に戻ろう」
「…………」
リィは何も答えないまま、アルトの後ろを歩いた。一歩歩むたびに止まりながら、長い長い下り道をふたり、無言で戻っていく。