107話 足音なんてすぐそこに
現在時限の塔13階。数えた記憶さえおぼろげになりそうなほど戦いを重ねているのに、なぜかこれだけははっきりと頭に刻まれていた。
これでもまだ早い方だ、というのがアルトの体感だ。階段がすぐに目に入ったり、フロアが狭かった階があったりしたからだ。早く終われよ、とアルトはポリゴンに波導弾を放ちながらぼやく。
口元をぬぐってから、アルトは今のバトルで援護をしてくれていたリィの元に戻った。彼女は遠慮がちに前足を差し出す。
「体力、大丈夫……? もしつらかったらオレンの実使っても」
「まだいける。ディアルガと戦うかもしれねぇのに、今使ってらんねぇよ」
「それはそう、なんだけど。……ごめんね。私が、ドクローズを助けたの、怒ってるよね」
リィの顔は陰る。今アルトとリィが直面しているのは、回復手段の不足だった。
モンスターハウスでなくとも、複数体の敵を相手にするのは普通のことである。相手の戦闘力も高く体力はいつも以上に削られながらも、入った時点でふたりが持っていたオレンの実は、普段の探検よりもむしろ少ない。
ギリギリの状態ながらも戦えているのは、ひとえにリィのおかげだった。
「あっちからルナトーンが来たよ。私が先に行くね」
リィはルナトーンの方へ駆けると、胸の首飾りのような模様を光らせた。そこから生まれたギガドレインは、ルナトーンの体力をリィへと渡す。相手は反撃に移ろうと目を光らせるが、構いなくリィはもう一度ギガドレインを放った。
「まねっこ――ギガドレイン」
アルトの体は淡く光り、リィと同じ技をルナトーンへ見舞う。威力はリィのものに劣るとはいえ、ルナトーンないしソルロック相手に効果抜群であること、そして回復効果があることから、アルトは何度もこの技に助けられていた。足を重くしていた疲労は薄まって、走るに十分な力を取り戻す。
悪の波動を放ってルナトーンを倒すと、アルトは見つけた階段へ飛び込む。
そして、景色は移り変わる。
穢れを知らないような白い壁はそのまま、床の色はより彩度を落として、壁の白さを引き立てた。ひび割れ欠けた様子はそのままで、時限の塔の命もあとわずかであると語り掛ける。
全体を見渡すのに、顔を動かす必要もないほどの小さめの部屋と、一本だけ伸びるその先への道。ダンジョンの中で唯一羽を伸ばせる場所、中継地点だった。
「つまり、まだ先があるってことかよ」
アルトは壁に寄りかかってしばし体を休める。幻の大地、その先の神殿での二連戦、そして時限の塔前半。意識を夢の中に飛ばしてしまいたいような疲労とは裏腹に、鼓動と思考は早く早くと急かしにかかる。
「でも、きっとあと少しだから。頑張ろう」
笑うリィだってアルトと同じ状態、むしろ体力が劣る分過酷な状態なのだろう。それでも笑いかけてくれる強さを、アルトは少しうらやましく思う。自分には絶対に手にし得ない類の強さ、アルトがリィに抱いた尊敬の念の一つだった。
アルトは一度大きく息を吐いた。今ディアルガと戦ってたら、そう考えると、ここで休めたのはむしろいいことなのか。ぼんやりとする思考は、しかし一閃の声に途切れる。
「きゃあっ!?」
「また地響き……!」
咄嗟に壁から離れ、身をかがめて揺れが収まるまで耐え忍ぶ。入る前に感じたものに比べたら随分と大きく、そして長かった。ひび割れた壁からは、かけらがぱらぱらと落ちていった。
「早く行かなきゃ……。もう、本当に時間がないよ」
「そうだな」
揺れが収まったのを確認して、ふたりはその先の道へと歩き出す。白塗りの螺旋階段を昇って行けば、いつしかそこは広い部屋。退路は絶たれ、ダンジョンの始まりを告げる。
初めに目が合ったのは、悠々と部屋を闊歩していたボーマンダ。赤く光る眼でこちらを睨み、肺を枯らしてしまいそうなほどの叫びをあげる。
ラピスがいてほしかった。そんなことを考えてしまう時点で逃げだ、とアルトは己を叱咤する。
「アルト、これ使って!」
リィから投げ渡されたタネを、種類の確認さえせずに投げ飛ばす。相手が飛び上がっていようと、口にさえ入れば問題はない。
その効果を見届けずに二人は通路に駆け込む。後ろに戸惑ったようなボーマンダの叫びを残したまま。今度はドータクンと正面から鉢合わせる。
ドータクンは緩慢とした動作で腕を広げた。アルトはリィに目をつむるように指示、そして自身もまた瞳を閉ざして、波導で状況を確認する。
「まねっこ――さいみんじゅつ!」
視界がなくともお構いなし。アルトにやり返されたおかげで、ドータクンは負有力を失い、その場に眠り始めた。
「リィ、起きてるか?」
「大丈夫。えへへ、さいみんじゅつは直視しなければ効きづらいっていうの、大切だね」
これは、前半戦で嫌というほど鉢合わせたドーミラーと戦ううちに身に着けた、ひとつの防御策だった。完全に防げるわけではないにしても、実践するとしないでは相手の手玉に取られる確率は大きく変わる。
通路の半分をふさぐドータクンの横を抜け、ふたりは次の部屋へ。そしてまたその次へ。塔が崩れかけているせいか、フロアの狭さは際立ってきていた。
階段を上る。先へ、心が体を突き動かすようだった。ポケモンは相変わらずひっきりなしに訪れる。タネを投げ、不思議玉を割り、あるいは正面から戦う。
階段を上る。目の前にある次の階段へ、部屋にいたポリゴンZが放電を撃つより早く飛び込む。
階段を上る。ちょうど落ちていたオレンの実を拾い、小さな安心感を覚えた。ここは狭い部屋が二つのみ。塔が崩れたせいか、あるいは奇跡的にダンジョン化せずに残った部屋があったのか。ふたりは知る由もないまま、その先へ。
そしてまた、階段を上って、上って、上って――。
あと少し、なんて言葉がいかに甘かったかを知った。七階に降り立って、「全然じゃないか」とアルトは舌打ちをする。今二人が降り立った部屋からは、三本の通路が伸びていた。
部屋数の少なさが特徴的な時限の塔で、しかし時折現れるこの形の部屋。アルトは確信する。ここは場違いなくらいに広いフロアなのだ。
「どっちに行けばいいんだよ……」
階段を探すのも一苦労なら、その間に敵と出くわす確率も上がる。ここまでの道中でも、なぜか他のフロアの何倍も広いようなフロアがあって、ふたりは苦戦を強いられたのだ。
「仕方ないね……。まだ道具はあるから、なるべく使っていくよ」
落ちていたリンゴを半分に切って、ふたりは食べながら先を進む。狭い部屋がいくつも現れて、何度も敵と戦って、それでもなお階段は見えない。焦る気持ちばかりが募る。
アルトは通路からそっと部屋を覗き込んだ。フロアを探索し尽くしたようなタイミングで、やっと階段を見つけた。が、その眼前でどっかりと眠りこけているポケモンが一匹。
「メタグロス、でけぇな……」
この横をそっとすり抜けない限り、階段にはたどり着けない。が、許された幅はアルトとリィがなんとか通れる程度。
(行くしかねぇか)
アルトは足音を消して、その横をそっと抜ける。リィも続こうと足を踏み出しかけて、止める。
「アルト、危ない!」
咄嗟に放たれた葉っぱカッターとしんくうはがメタグロスの足の一本を穿つ。バランスを崩した隙に、ふたりは持てる脚力の全てを使って走り抜ける。
「これで起きるとかどんだけ敏感なんだよ……ッ」
突然、背中から刺すような重さがのしかかって、アルトはその場に沈む。見間違いそうなほどに俊敏な攻撃は、メタグロスのバレットパンチによるもの。
早い。率直な感想がそれだ。バレットパンチを撃ち、アルトとの距離を詰める動作は、その重厚な体からは想像し得ないほどに素早かった。
「高速移動でも使ったか」
アームハンマーをでんこうせっかで避ける。そのままでんこうせっかを重ね、階段まで逃げ切ろうとはするが、再びのバレットパンチに阻まれる。
メタグロスの目は血走っていた。絶対に逃がさないという意思をひしひしと感じる。
「きし、かいせい!」
ダメージを力へ。アルトの渾身の一撃はメタグロスの体を弾き、一瞬の隙を作る。そこに葉の奔流を打ち込むのは、技をいつもより多めに溜め込んでいたリィ。ありがと、と言いながら波導弾を撃てば、メタグロスの体は地に伏す。
すぐそばにあった階段を上がり、次もまた続くダンジョンに、永遠に続くのではないかなんて不安さえ覚える。
もうがむしゃらだった。そこからのフロアはすべて狭かったのが幸いだ。何も考える暇もないまま、ふたりは迫りくるポケモンを退け、頂上を目指す。
「ここが、頂上……」
アルトはぽつりとつぶやいた。今までとはまた違う、一つの部屋からなる大きなフロア。何本もそびえたつ太い柱が荘厳なさまを醸し出していた。
途端、二人をまばゆい光が照らす。
「きゃ、雷……!?」
「あの赤黒い雲からだ……」
アルトが睨んだ、吹き抜けた天井の先には、幻の大地からも伺えた禍々しい雲が一面に広がっていた。ひっきりなしに火花を散らしていて、今にも塔を飲み込みそうだった。
心が陰るよな心地を感じて目を逸らし、ふたりは最奥に控えていた神殿へと歩を進めた。短い階段を上って、小さな祭壇に降り立てば、ふたりを不思議な模様が迎え入れる。
「神秘的だね……。この壁、えぐれたようなくぼみが五個あるけど、なんだろう」
リィが首をかしげる先を、アルトも見上げる。といっても、アルトの視線と同じ程度の高さではあるのだが。
五つ。そして時限の塔。ふたつのキーワードがカチリと繋がる。
「時の歯車をここに、ってことか?」
「! そうかも、早速やってみようよ」
瞬間、二人を落雷が引き裂いた。
階段から受け身も取れぬまま落ちる。ようやく床についた手は震えていた。いや、床ごと低い周波数で振動していた。
「グルルル……。お前たちか、この時限の塔を、破壊するのはッ!!」
ふたりを覆いつくす影、そして低い唸り声に、二人の体温は急速に冷えていった。
「ち、違うよ! 私たちは時の破壊を防ぎに!」
「時の、ハカイ。トキ、ノ……」
その声は音程もめちゃくちゃに、その言葉を繰り返す。ふたりはそれを、固唾を飲んで見守る。
「グオオオォッ! お前たち! どうしても! この塔を破壊すると言うのかッ!!」
「ちがうんだよ、私たちはこの塔が崩れるのを止めに来たの。話を聞いてよ――ディアルガ!!」
「黙れッ!! 時限の塔を壊すものは、私が許さん!!」
しかしそれは、ディアルガは、聞く耳を持ってくれない。塔を揺らすかのような咆哮を上げ、重い足音と共にふたりに歩み寄る。
リィはアルトの手に自身の前足を重ねた。震えながら、リィは迫りくるディアルガに対して身を縮ませる。
「どうしようアルト。話を聞いてくれない。暴走、しちゃってるよ……」
「でもまだ闇に染まりきってるわけじゃない。言葉を話せているだけ、まだマシだ」
アルトは冷静にそう返した。
未来で見た闇のディアルガは、もはや唸り声しか上げられないような状態だった。それに比べればまだ理性は残っている。
「そっか。まだ正気に戻せるかもしれないんだね!」
リィは立ち上がり、ディアルガを見上げる。
しかし、それでも通常とは違う、夜のような深い藍色に橙色のラインに染まっているのは確かだ。染まりかけているのは確かだ。残された時間がわずかなことには変わらない。
「行こう、アルト! ディアルガを止めよう!」
「……あぁ!」
「グオオオオォォーーーーッ!!!」
ディアルガの咆哮が頂上を揺らす。
アルトにもリィにも、もう恐れはなかった。