106話 夜明けの未来を望むから
生ぬるい風が生き急ぐように吹き抜けた。
アルトたちが時限の塔へと旅立ったころの、幻の大地の神殿。スイは虹の石船がはまっていた大きなくぼみを身軽に飛び越えると、黄色と黒の二匹を見下ろした。
「お前たちが俺を倒そうと、時限の塔に行くことはもう叶わない。お互い、戦う意味などないであろう」
「それ、は」
冷静に述べるスイに、ラスフィアの言葉は詰まった。今のラスフィアとラピスに時限の塔がそびえる島へ行く手立てはない。虹の石船がたとえもう一つ幻の大地に眠っていたとしても、遺跡の欠片を持たない二人には同じこと。
「元々は時限の塔への侵入を防ぐのがこちらの目的だ。最高戦力のまま挑まれたら、たとえあのディアルガでも止めきれたかわからないからな」
「あのふたりならそれが不可能と?」
「そうは言っていないが。そう聞くお前はどうなんだ。俺よりは、あのふたりについても、ディアルガについても知っていると思うが」
――率直な感想、苦しいとは思う。
未来世界で、あと一歩で過去へ渡れるというときに、心が折れたのはなぜだ。闇のディアルガがいたから。それに太刀打ちできないとわかったからだ。あのときは戦わなかったから今何事もなく生き延びていたが、万一戦闘になっていたとして――果たして今は、あったか。
これに関してはラピスも、今ここにいないシュトラも同じ意見であった。だから彼は真っ先に降参すると、そう言いだしたのだから。
スイは彼女たちから攻撃の意思が消えたのを確認すると、ゆったりと時限の塔を見上げ、頂上を覆う赤黒い雲に目を細めた。
「ついでに付け足しておこうか。時限の塔のポケモンたちは、時の破壊が目前に迫った影響でさらに凶悪になっている。そしてディアルガ自身も、侵入を察知してより多くのポケモンを仕掛けたはずだ」
「っはあッ……!」
波導弾を投げ打つ。が、神秘的なまでのコスモパワーの加護を受けたソルロックはそう簡単には動じない。念力の波を潜り抜け、下からはっけいを叩き込む。反動で回転、蹴りを入れ、倒すのはそれからさらに二発の技を決め込んだ後。
この間断続的に体力を削りにかかるのは、まぶしい電撃の喝采。遠くに控えるポリゴンの放つ「ほうでん」だ。
「いい加減にしろ、よっ!」
ソルロックが床に落ちる振動をものともせず、アルトはでんこうせっかで一線に走り抜ける。大きく息を吸い、掠れかけの声ながらその場で叫ぶ。
「きしかいせい!」
ぎりぎりの体力を力に変えての一撃。怯んだ隙にはっけい。倒れるポリゴンを、アルトは胸を押さえながら見守る。
周囲に他の気ポケモンがいないことを確認してから、アルトはその場に膝をついた。威力をかなり高めたはずのきしかいせいを使っても、これが効果抜群であれど、一撃で倒すことはかなわない。
「キッツい……」
アルトがそう漏らすのも無理はなかった。時限の塔の敵はそれほどまでに個々の能力が高く、また、数が多かった。三体同時に相手にすることはむしろ普通、二体程度で済めばかわいいものである。
欠けた戦力の大きさを痛感する。とりわけ、範囲攻撃技に長けたラピスがいない中、複数体の敵と何度も戦闘を繰り返さねばならないのは負担が大きい。
「この部屋に階段がある、けど」
「危ない、と思う……。たぶん」
アルトはバッグを漁ると、塔に入ってすぐに拾った玉を左手に隠した。後ろで不安げな顔をするリィに合図をして、一歩を踏み出す。
途端、アルトはポケモンたちの大観衆に包まれる。ドーミラーは上から降るように、ポリゴンはずっとそこにいたかのように一瞬にして現れる。ソルロックとルナトーンは、星のきらめくような光に包まれながら所狭しと並ぶ。
――ご丁寧に、こんなところにまでモンスターハウスを仕掛けてくるのがこのダンジョンの厳しいところ。
やってられるか、とアルトは舌打ちをする。一斉にこちらを睨む視線を掲げた左手に集め、さながら指揮者のように振り下ろして手にしていた不思議玉を叩き割る。
砕け散る音と、溢れる光と、織りなした光景の協奏曲。部屋にひしめいたポケモンたちはまるで時を失ったかのように微動だにせず、アルトを凝視し続ける。
時折落ちているこの「てきしばりだま」は、二人にとってのヒーローのような存在だった。モンスターハウスに正面から挑んでは勝ち目は薄い。まだいくらか拾えているのが、この高い塔を登る希望にもなっていた。
構ってられるかと言わんばかりに、アルトとリィは固まるポケモンたちの間をすり抜け、あるいは下を潜り抜け、階段へと手を伸ばす。幸い彼らの道をそれ以上邪魔する者はいなくて、ふたりは傷を負うことなく階段を上る。
(少し休もう、って言うべきかな)
ふたり、そう心を重ね、そして口をつぐんだ。相手だって急ぎたいはずだから、なんて気まで重ねて、それでもなお行動を起こせない。
ふたりは時限の塔三階へ。すでに、体は傷だらけだった。
ラスフィアは風にたなびくスイの白銀色を遠く睨んだ。
彼について初めて聞いたとき、すなわち水晶の洞窟の時の歯車を奪った時から、ラスフィアは彼に対して聞きたいことがあった。
「あなたが動いているのは……誰の、誰かの命令なの?」
「答える気がないから先ほど答えなかったのだがな」
「誰かと手を組んでいることは否定しないのね。ディアルガ、かとは思ったけれど」
もし彼もまた遺跡の欠片の所持者であるのなら、先に起動させて、船を時限の塔に渡しておけばよい。もし幻の大地に他の虹の石船が眠っていたとしても、そうすることで時間は稼げるはず。
だが彼はそれをしなかった。言うならば遺跡の欠片を持たずして幻の大地に降り立った。というのがラスフィアの考察である。
(そして今の時限の塔の話。今のディアルガの手下という線はありそうだけれど)
だったらなぜ、双子と、マリーネオとヴァイスと同郷なんて話が出てくるのか。だからその線もまた違いそうか、という思考に行きついて、ラスフィアの思考はスイの返答を待つに終わる。
「さぁな。好きに考えておけばいい」
スイは視線さえ寄越さぬまま答えた。彼自身こんな質問に答える意味を見いだせない、なんて思いがあるからだ。
「聞きたいことはその程度か。ならばもう、俺がここに残っている意味はもうない」
まだ胸の内のもやが晴れたわけではない。ないのだが、これ以上何も聞けなくて、ラスフィアは返事をできないまま立ち尽くす。スイは身軽に階段を下りて行って、アルトたちが通ったのとは別の遺跡の中へと姿を消した。
後に残ったのは、言葉にできない寂寥感。
時限の塔に行きたかった。スイを倒して、みんなで行くのが正解だったか。でも、この間の攻防にどれほどのダメージを与えられたか。あの、涼しい顔のまま、体毛の艶ひとつ失わないような相手に。
――それこそ、シュトラがいたらもっと、うまくやれたのだろうか。
「……アイツ、は?」
背後からそんな声が聞こえて、ラスフィアは振り返った。見れば、フルートの欠片を両腕に抱えたラピス。スイが「戦う意味がない」と述べてから、彼女はフルートを取り戻すべく階段の下まで降りていたのだ。
「ここにいる意味はもうない、だそうよ」
「……そ。たしかにそう、なんだけど」
彼女の言葉もそこで止まる。その場にしゃがみこんで、俯いて、顔を腕に抱いたフルートの中へ隠した。額から伝わるひんやりとした温度が妙に心地よかった。
「……あたしだって」
掠れかけた声が、腕の隙間から零れ落ちる。
「あたしだって、行きたかった! 行きたかったの! 幻の大地まできて、こんなの、っ。でも」
腕から顔を上げる。光のない群青の瞳に映るのは、もう形を失った宝物。砕けた断面がはじいた光だけは、彼女の顔を照らさんとしていた。
「フルートがないあたしが行って、何になるの」
「今のあなたはそれ以外だって」
「ある、あった! でも!! ……アイツを止めるのに、やり返すのに、必死で。それで、もう、電気なんて」
ラピスはフルートの欠片を抱いて、「十万ボルト」とつぶやく。ぎゅっと目をつむり、頬に電気を溜める。がぱちぱちとかわいらしい音を鳴らすのがせいぜい、矛になりうる電撃には程遠い。
最後に爆雷を放った結果、電気袋に相当なダメージが行ったようで、彼女の頬はじりじりと焼けるように痛みを訴えていた。
「あたしは、何もできなかったまま。ラスは月の光を使えたけど、あたしは」
「所詮その程度よ。だからやれることはすべてできた、なんて言えるわけもない」
だったら、高圧の奔流を放ったラピスの方がよっぽど、と続けようとして口をつぐんだ。言ったところで何物にもならないのだ。
「行きたかった、あたしも戦いたかった。戦って、時の歯車を納めて、それで、みんなで消えられたら、それでよかった。それだけでよかったのに。なんで全部、奪ってくの」
自分の身を賭してでも叶えたかった願いを。星の停止を食い止めると決意した日にも抱いていて、共に歩むと誓ったフルートも。一緒に過去に渡ったかけがえのない仲間も。
ディアルガに、その手下に終われ、過去に行く未来を掴めるかもわからないまま、がむしゃらに走ってきた。そんな未来でのすべてが、あと一歩のところですべて消え散った。
「なん、で、っ!!」
あんまりだ。こんな言葉、歴史改変の代償を知ったとき以外で、言ったことがあっただろうか。
腕からフルートのひとかけらがこぼれて、からんと虚空に鳴いた。
「こんな最期なんて、やだ」
「ラピス」
「わかってるの!! わかってるけど、ラスだって、わかるでしょ。こんなはずじゃ、なかった、でしょ」
「…………」
そう、違う、どっちの答えも合わない。何も言えず、目を逸らした。
遠くに広がる大地と、そこに息づく森の色は鮮やかだった。それだけ確認出来れば、ラスフィアにとっては十分だった。
「……でも託すしかないのは事実でしょう」
ラピスも口をつぐんで、自身の鼓動に耳を傾けた。この身がある限りは、未来はそのままの形で存在する。嫌いになりそうな身をそれでも抱えて、ラピスは小さく口を開いた。
「お願い、だから。全部終わらせて。――アルト、リィ」