105話 ブルーアワーは閉じぬまま
「今から行って帰り間に合う?」
橙色は一歩先を歩く尻尾に問いかけた。緑色の尻尾はぴこんと音を受信すると、ゆらりと横に揺れる。
「さぁ? ま、どこもこんな状況だし、全員無事に帰還できるとも限らない。そもそもギルドだって絶対安全なわけでもない。無理に帰ってこなくてもよい、とか言ってたしいいんじゃない?」
「う、それはそうなんだけど……はああぁ〜〜」
「シイちゃんらしくないねぇ」
橙色ことシイナの隣を歩いていたリズムは彼女の顔を見上げた。彼自身もため息をつきたい気持ちはあるのだが、表に出すようなことをしない。それが「リズム」だから。
いつもより遅めの起床。といっても、他の探検隊が出払ったくらいのタイミングであって、特段遅かったわけではなかった。身支度を済ませ、閑散として雑然とした地下一階の掲示板フロアで、エルファは身をかがめた。
「どんな依頼選べばいいかわかんないねぇ……。もはやダンジョンなんて関係ないしぃ」
「そうなんだけどさ、俺は受けたいヤツがあるからそれを探すよ」
「え、こんな山の中から探すの!? それにヴェレたちだって無事か、無事でも依頼を出してるなんて限らないし」
エルファは退屈そうに依頼に手を突っ込んだままため息をついた。
「誰も実家の話とは言ってないよ。ヴェレちゃんもお兄ちゃんも関係ないし、俺たちが行って何ができるわけでもない。俺が探しているのは水晶の洞窟周辺の依頼、ってだけ」
区域的には既に時間が停止しているであろう実家と、その辺りにいる身内をなるべく今は思い出さないように。
エルファは適当に手に取った依頼にくしゃりとしわを付けた。
「――スイのこと、聞きたい」
「貴様らと会うのは初めてか。名を知っているのは……大方あの草蛇のせいか。リサウンドのふたりであれば良いのだがな」
高い階段の上で、白銀の体毛が光を透かした。
夕焼け色のアブソル、スイは頂上で凛と立ったまま。風もなく、他に気配のないこの遺跡では、声は良く届いたものだった。
「まって、リサウンドって、マリーネオたちのこと、知ってるの?」
「……同じ、リフトラシールの加護の地に生まれた同郷だから」
「でも、あのふたりが星の停止の件であなたと関わっていたわけではないのなら今はそれ以上聞かない。私が知りたいのは、ディアルガの手下ってわけでもないのに、幻の大地にいることよ」
スイはそれには答えぬまま、静かに目を伏せた。
「……時空の叫びの使い手は早く消しておくべきだったが、まぁ今更だ。手荒にするつもりもなかったからな」
(時空の叫びのことを知ってる? でも、ギルドのやつらが広めてた感じはねぇし、アイツが未来のヤツでもなさそう、だよな)
メテオが知っていたのは、未来世界でアルトたちと関わりがあったから。しかし時空の叫びもそう名だたる伝説を持つ能力でもなく、普通のポケモンが知っているようなものではない、とアルトは考える。
考えていた頭は、凛と澄んだ声に冷やされた。
「……アンタのことなんかなんだっていい。虹の石船を動かさなきゃいけないの」
ラピスは階段を二段飛ばしに駆け上がり、抱いていたフルートを口元に添える。
「冷凍ビーム!」
「この間、無策だったとでも思ったか」
ラピスとフルートの放つ冷気と、スイの巻き起こした旋風が、石畳の階段の上を軽やかに巡る。
上手だったのはスイの方。かまいたちの一刃は軌道を曲げて、相殺を回避。遮るものさえなくなれば、それは迷いなくラピスを斬らんと走る。
「……えっ」
からん、と涼しげな音が鳴った。ラピスの手から光が零れ落ちた。
「フルー、ト……?」
手を握る。掴んだのは、砂のようなカケラだけ。
呆然とする彼女の背後で、二つに割れた氷が風鈴のような音を響かせて遠ざかっていく。
はっと振り返る。落ち、跳ね、石畳に叩きつけられ、光はより一層砕けた破片に反射する。澄んでいた瑠璃色の瞳は、それに光を奪われて淀む。
「待っ、て」
そう呟くのが精一杯。震えるラピスの背中を見下ろしながら、スイは自身の周りに光を集約し始めた。
「先ほどの技名に疑問を覚えたが、なるほど、氷のフルートか。スコアたちの語る伝説の秘宝は実在したのだな」
スイの周りの光は複数の剣の形を成して、彼を守るように囲う。スイが語り終えると同時に、それらは切っ先の全てをラピスへと向ける。
リィが彼女の名を呼ぶ。現実に引き戻されたラピスは、自身に歯向かう六本の切っ先と、その中央で静かにこちらを見下ろす彼をキッと睨んだ。
「……許さ、ないッ!!」
放たれた剣を、悪い足場であることさえ忘れるかのように軽やかに避ける。が、三本までが限度。四本、軽やかさは薄れる。五本、紙一重の回避。六本、左腕を斬る。
「似た動き、むしろ劣化版か。オーパーツの手加減の方がよっぽど手ごたえがある」
「うる、さい、っ。十万ボルト!」
「同じ技名であることを疑う」
彼らが瞬きを許さぬようなスピードで戦乱を繰り広げる下で、ラスフィアは時限の塔を遠く睨んだ。
「アルト、リィちゃん。ふたりは虹の石船を動かして。私とラピスで対応するから」
「で、でも」
「時間がないの」
有無を言わさない凛とした口調。アルトもリィも、言いかけた言葉をそのまま飲み込む。
「あの様子を見るに、戦ってすぐ勝てるような相手ではない。石船さえ動いてしまえば、時限の塔までたどり着けるから、お願い」
「わ、わかった」
「でもそこまで封じ込めるか」
「最悪――私が、囮になる」
えっ、なんて感嘆符さえ喉を通らなかった。
ラスフィアの言い分はわかる。さっきの戦いと間をおかずに、この後時限の塔を登らねばならぬのに、少し見るだけで手練れとわかる相手を倒すのは得策でない。
でも、それと同じくらい、戦力が欠けるのは痛手だ。シュトラが欠けた時点で、戦略としても、気持ちとしてもダメージは大きいというのに。
「……わかった。でも、みんなで、時限の塔に行こうね」
フルートだったカケラを踏まないように飛び越えて、石畳の階段を蹴り飛ばす。
頂上を、目指せ。
まずは半分。まっすぐに走り、走る、走れ。何段飛ばしかなんて数える間もなく、アルトはそのリオルの体で身軽に跳躍。ここまで今の体に感謝することももうないだろう。リィも少し離れたところから追うものの、アルトの背はどんどん遠ざかっていく。元の種族に恵まれた体力と筋力の差だ。
でも、それも想定の範囲内なのだ。予備動作もほとんどない、見えざる刃の嵐「かまいたち」をアルトは波導で見切る。かわし、打ち消し、細い階段に難なく着地。
「まねっこ――かまいたち」
両手を合わせ、精神を集中させるとともにアルトを旋風が取り囲む。閉ざしていた目を開き、相手を睨めば、その風は一目散に頂上へと吹き抜けていく。
ちょうど追いついたリィと一緒に、その刃の残した風に乗る。追い風とはまた違うが、二人の歩みを僅かばかり軽くする役割程度なら果たせる。
半分を超えた。ラピスと一瞬だけ目を合わせ、ひとことだけ言葉を残す。彼女は頷きはしないまま、電光石火で頂上まで駆け上がる。
「電磁波!」
鋭い音を立てて電撃は弾ける。が、スイは身軽に避ける。そこに生まれた隙を、アルトは逃さない。同じく電光石火で地面を蹴り、一気に駆け上がる。上を見ても石の階段ばかりだったのが、徐々に空の色に染まっていく。あと少し、あと少しだけ、走れば。
途端、足元は崩れる。それが相手の放った技だと察する頃には、アルトは階段に手をついていた。口に入った砂を吐いて、相手を睨む。途端、目の下で何かが光った。ゆっくりと視線を下ろしていって、それが光の剣であると理解。いくら実体のない淡い刃とはいえ、石畳に刺さるほどの切れ味は持っている。首元に突き付けられては下手に動けない。
「だましうち!」
「マジカルリーフ!」
アルトの目は虹色の光に照らされる。リィの放った葉が光の剣をあしらい、その光を散らす。同時に気配を消して近づいたラスフィアが、スイに一撃を打ち込むことでその剣の威力を完全に消し去る。
お礼なんて言う暇をスイは与えない。薙いだツメから放たれるのは「つじぎり」。紙一重での回避、には限界があって、何度も食らいながらもアルトは避けない。階段の右に開いた一匹分の隙間を守り抜くために。
頭上から電撃の大喝采を浴びる。頂上の神殿は、闇をまとった氷柱が穿つ。耳の奥に響く暴れ狂った音は、思わず耳をふさぎたくなる。
――今のうちだ。
アルトは伸ばされたリィの左前脚を掴んだ。でんこうせっかを発動、自身の瞬発力を上げる。二人の横の景色は後ろに流れる。
最後に一度、地面を乱暴に蹴り飛ばして二人分の体を浮かす。浮いた体は垂直落下。アルトは空いている左手を、リィは呼び出したツル二本を地面に着いて、ふたり一緒に神殿に降り立つ。開けた視界の上に浮かぶのは、赤黒い雲をまとった時限の塔。
そんな二人の眼前は不意に白く染まる。頂上に来る、それはすなわちスイとの距離を詰めること。もっと言えば、スイの得意とする近接戦を相手にしなければならないこと。
「ふいうち」
「メランクルスタロ!」
咄嗟にリィの手を引いて後ろに下がれば、スイとアルトたちとの間でラスフィアの氷柱が降りしきる。スイはそれを難なく打ち消す。そのままラスフィアは連撃に移る。無言の攻防が始まる。
アルトの体は再び浮遊感に包まれる。階段を上り終わった直後の場所で後ろに飛んだから、当然ではあったのだが。手をつないだままでは思うように動けなくて、一度背中を撃つ。が、ふたりなんとか階段を掴んで、最下段までの落下は回避。
これでも、ふいうちの直撃を食らった上で落ちるのに比べたらかわいいものだ。アルトは肺に溜まった空気をすべて吐き出して、新しい酸素をいっぱいに取り込む。
「もう一回でんこうせっかで行くぞ」
「うん……!」
リィの返答を後ろに。風も後ろに、己の身だけを前に。頂上で雷光が爆ぜた横を、ふたり身をかがめて走り抜ける。
くらんだ目で頂上の模様をなぞり、くぼみを探す。その間にも雷電が、闇が、背後でけたたましく弾ける。ふたりがいなければ今切り裂かれていてもおかしくはない。
あったよ、とリィは声を上げる。彼女はその遺跡の欠片を、証を手に、くぼみに向き合う。
「剣の舞」
「っ、しんくうは!」
咄嗟に放ったそれは狙いを定めきれず、剣のひとつを消すに終わる。残った剣がアルトを穿つも、なんとかその身で庇いきった。――後ろのリィを守るために。
「や、やった。嵌めれた!」
安堵の時間など訪れない。こちらに技が流れてきたのはすなわち、向こうで留めきれなかったということ。
「はどうだん!」
かがめた姿勢から、投げ上げるように青い球をスイへ見舞う。案の定爪で容易く消されて、アルトの顔は苦みに染まる。
虹の石船の起動音が鳴り響く。重厚な音で神殿を揺らし、華やかな光で照らしていく。その中央では、石船の模様がディアルガのような深い青色を呈して輝いた。ラピスも、ラスフィアも、その色に一時心を奪われる。
石船の縁は光に包まれ、城壁のように船を囲う。そして乗り込んでいる二匹と、神殿に残る三匹とを分断する。
「行って!」
ラスフィアの鋭い声が凛と響く。
「いやだ、ラスフィア……! いっしょに行こうよ!」
「っ、悪の波動! そっちには行かせない」
リィの声は確かに届いてはいたが、戦闘に対応せざるを得ないラスフィアは返事をしないまま。リィの瞳はうるんで、縋るように叫ぶ。
「ねぇラピス! ラピスってば! お願いだよ、ふたりがいなきゃ」
「リィ! 降りようとするな!」
「でも、だって、ふたりが……!!」
石船はもう揺れ始めている。光の壁に閉ざされた外の様子は見えないが、今リィがここを下りれば、それこそアルトひとり、いや誰も時限の塔に行けないかもしれない。咄嗟に掴んだリィの桃色のリボンは、アルトに引かれてするりと形を崩す。
「ラピス、ラスフィア!!」
「……ごめんね」
「ラピス……?」
ほのかに届いた声は、確かに彼女のもの。続くのは鳴りやまない雷鳴。もちろんそれはラピスの操る電撃による。
「今のあたし、これしかできないから。――スフォルツァンド!」
ラピスの宣言と共に、神殿は一段と大きな揺れに見舞われる。それは既に浮き始めた虹の石船に乗るふたりでも感じ取れるほど、ラピスの持てる力の全てを尽くした雷の咆哮。
慣性から、石船が荘厳さとは一線を画した速度で上昇していくのを感じ取る。石船の床を掴んで、リィは叫ぶ。嫌だと。一緒に来てと。痛ましいまでの声色で。
そんな二人の頭上から淡い光が降り注いだ。見上げれば薄い金色の球体。そこからは光の粒子がきらきらと舞い落ちる。
「――月の光」
虹の石船を囲っていた光の城壁は霧散する。同時に上昇は止まり、神殿ははるか下に見えた。
何か、彼女らは言ったのだろうか。リィのツルを限界まで伸ばしても届かないような距離と、虹の石船の稼働音。そればかりで、何も聞こえなかったけれど。
「待ってよ、ねぇ――っ!!」
虹の石船は舵を切り、その進路を時限の塔の方角へ転換。虹が描く軌跡は、そのまま神殿に残ったふたりとの距離となる。
雲の間を通り、宙に浮いたままの石を横目に、しかし虹の石船は止まりも戻りもしない。
「なんで、なんで皆、ねぇ……」
流れゆく景色にも、尾をたなびかせる虹にも、目を向けぬままリィはその場にうずくまる。なぜ時限の塔までの間で、仲間がこうも減る。未来世界でシュトラもラスフィアも恐れをなしたあのディアルガを、ふたりで倒せなど無謀にもほどがある。
その場で泣きじゃくるリィに何もできないまま、アルトはひとり時限の塔を仰いだ。宙に浮いた岩の島にそびえる青い塔。その頂上を覆い隠す赤黒い雲は、見ているだけで吸い込まれそうな気持ちになる。
(ついに行くのか、時限の塔へ)
――歴史を変えれば、未来に生まれた者たちはみな消えてしまう。
時限の塔を前に、思い出に浸りそうな思考をすべて断ち切って、それだけを再確認する。これがきっと、リィと挑む最後の冒険になる。この冒険を終えたらもう、自分は彼女と共にはいられないから。
虹の石船はやがて、無骨な岩に接岸する。ふたりに退路など残されてはいなかった。
「リィ」
「……うん、大丈夫だよ。さっきはごめんね」
リィはへにゃりと笑って、虹の石船を降りた。それに続いてアルトも地面へと降り立つ。瞬間、アルトの踏もうとした地面はぐらりと安定を失った。
「えっ、じ、地震……!? ここ浮いてるのに」
「違う。たぶん、時限の塔が壊れ始めてるから、その地響きだと思う」
揺れが収まったのを確認して、アルトは静かに立ち上がった。そんな彼を待って、リィは精いっぱいの笑顔を作る。
「あの、ね。本当は今すっごくつらい。こうすればよかったかな、できることあったよな、ってたくさん思うよ」
声は震えていて、涙の跡はまだ乾いてすらいない。
「でも私にはまだアルトがいるもん。弱気になんてなっていられないよ」
ほどけかけたリボンを結び直して、リィは前足の片方を差し出した。アルトはその手をとるか、しばしのためらいを生じる。
「一緒に行こう。ディアルガのところへ」
――だって私は、アルトのパートナーだもん。
その言葉に、胸の奥が痛んで、泣きそうになった。