100話 海風ひとつ捕まえて
「あ、親方様!」
「チャトさんは大丈夫なんですか?」
部屋から出てきたマルスに弟子たちが矢継ぎ早に問いかける。皆、帰ってきたチャトの様相に目を丸くしたものだった。それからすぐに部屋にこもってしまったマルスとチャトを、皆扉の前で心配そうに待っていたのだ。
マルスはにこりと笑うと、優しい声で答えた。
「うん。一晩寝れば元気になると思うよ」
それを聞いて、弟子たちから次々と安堵の声が上がった。夜も眠れなくなりそうなほどの心配から解放されて、その場に座り込むポケモンさえいた。
そんな中、キマワリのソラが葉っぱでできた手を挙げた。
「そういえば、親方様は昔、チャトに助けられたって言ってましたよね」
「うん。あのときはね、磯の洞窟にいたポケモン……カブトプスたちは、不意をついて僕を襲ってきた。チャトは僕を庇ったばかりに大怪我をしてね。カブトプスたちは追い払えたけど、でも、僕は倒れたチャトをどうすることもできなかった」
見たこともないような大きな傷跡、喘ぐことさえままならないほどの粗い呼吸。それをただ、茫然と見つめるだけの自分が、心象となってマルスのなかに再現される。
「途方に暮れていたときに現れたのがセイラだった。種族はラプラスなんだけどね」
「へぇ、それでセイラとマルスは知り合いだったんだ」
「はい。本当は姿を見せるつもりはなかったのですが、でも、傷ついたチャトさんを見た瞬間、助けずにはいられなくて」
所変わって、幻の大地へと向かう海上。セイラの話に、リィは興味津々で相槌を打っていた。興味のないシュトラは海をじっと眺めているし、同じくラピスはセイラの頭の上に登って潮風を浴びるなどしているが。
セイラは頭上一面に輝く星々を見上げた。遮るもの一つない空で、儚くも力強く輝く星明かりが、旅路を優しく照らしていた。
「そしてその後で、マルスさんとある約束をしたのです。マルスさんは快く約束してくれました。チャトさんを助けてくれた恩もあるから、と」
「約束……」
「ふたりを見てすぐに探検隊だとわかった僕はこう言いました」
――『あなたたちが野心に満ちた盗賊か、あるいは正義の心を持った探検隊かはわからない。でも、世界の平和のために、不思議な模様だけは探求しないでくれ』、と。
リィたちに語るセイラの声と、弟子たちに語るマルスの声がぴったりと重なっていた。
不思議な模様というのはすなわち、セイラを呼んでくれたあの壁画に描かれていたもの。そう言った意味も、今ならわかる。
「幻の大地や時限の塔について、調べられないようにするため?」
「そうです。ディアルガは、時間をつかさどる『時限の塔』に色々な者が訪れるのを恐れました。ディアルガは時限の塔を守るために、幻の大地を時の狭間に隠したのです」
「ときの、はざま?」
「はい。説明が難しいのですが、時と時の、ほんの隙間の部分といいましょうか」
皆が首をかしげる中、シュトラだけが納得して「あぁ」と手をたたいた。
「どうりで見つからなかったわけだ。時の狭間なんて、誰にも行けないからな」
「時の狭間、ってことは、入り口を見つけるのさえディアルガや……セレビィも、かな。そんなポケモンにしかできないような場所ってことね」
まだ理解まで及んでいない数名はいまだ置いてけぼりの顔になっているが、ラスフィアの解説でふんわりと納得する。すなわち、普通のポケモンでは立ち入るどころか、見つけることさえできやしない聖域になっていた、と。
「しかし、ディアルガはそこに立ち入る資格をひとつだけ設けました。それが『いせきのかけら』です」
「長老の話、そしてリィの持ついせきのかけら。僕はすぐにピンときたんだ。あの不思議な模様こそが幻の大地に通づるものだと。だから僕は、磯の洞窟に行くって決まったときに出かけたんだ。セイラに会うために、ね」
ギルドでは、弟子たちがその場に座りながらマルスの話を聞いていた。本来なら夕飯の時間もとっくにすぎているのに、誰もが話の行く末に集中していた。
「僕はセイラに話した。各地の時が止まり始めていて、この世界が危機にあることを。そして一刻も早く時限の塔に時の歯車を納めなければならないことを。だから、幻の大地に行く方法を教えてほしいと頼んだ」
「それで、どうなったんですか?」
続きを一秒たりとも待てない弟子たちに催促されても、マルスはじっと記憶を探り、その一刻の記録を丁寧に再生していた。
「セイラは言ったよ。『幻の大地に行く者はいせきのかけらが選ぶ』んだって」
「い、いせきのかけらが!?」
「選ぶ、って……」
「うん、そうらしいよ♪ そしていせきのかけらはリィを選んだ」
どういうことだ、皆の意見が一致する。一見すると単なる石にすぎなかったあれも、時の歯車のように、特殊な効果を持っていたようだ。
「でもどうしてリィを……」
「それは僕もわからないけど……たぶん、ディアルガは悪しきものを時限の塔に入れたくないと思うんだ。だから大切なのは心」
「こころ……」
「いせきのかけらはリィの心に共鳴したんじゃないかな」
リィの純粋で、まっすぐで、無垢で、優しくて、温かい心に、ね。
いざ言葉にしてみて、彼女の清さを改めて知る。
「とにかく。僕たちができるのはここまで。あとはアルトたちを信じて、それまで困っているポケモンたちを助けよう」
いつしか夜はフィナーレへ。薄く光が差す方角を背に、セイラは静かに海を泳いでいた。今夜の星空もそろそろ見納めの時間である。
目印の星を見送っていると、頭の上からあくびが聞こえてきた。
「ラピスさん、お早いですね」
「……眠れないもん」
ラピスはセイラの頭の上から、四方に広がる海を眺め、長い耳を風になびかせた。頭の上は彼女の特等席になっていた。というのは、彼女が一番体が小さいから、なんて理由も含むわけなのだが。
中身を取り落とさないように抑えながらカバンを開けると、ラピスは黒いケースを取り出した。それを開ければ、明けゆく光を浴びてきらめくフルートが顔を出した。
「ちょっと、音鳴らしても、いい?」
「構いませんよ」
セイラはにこりと微笑んだ。ラピスは手早く準備をして、ケースだけをカバンに戻すと、青む夜明けをまぶしそうに見上げた。
彼女の指が、フルートの声が、奏で紡いでいくのは「ときのはぐるま」。反物を聴いた瞬間から、ずっと吹きたくて仕方がなかったのだ。きらきらと輝くような本物の音色を思い浮かべながら、ラピスは1ループのみを奏でて、余韻に心を浸らせた。
「素敵な音色ですね。今まで聞いたどの音よりも、胸が洗われるような、素敵な音です」
セイラの率直な感想に、ついそっぽを向きそうになるものの、ラピスは笑顔だった。
「ありがと。……やっぱり、違い、わかる?」
「そうですね。『こおりのフルート』、ですか?」
セイラの問いかけに、ラピスはそっと瞼を閉じて、「ん」と短く答えた。
「……これ、ずっと大事にしてる、あたしの宝物なんだ」
赤み差した頬で抱いたフルートは、まるで宝石のようにきらきらと輝いていた。明るくなって顔を出した水平線を眺めながら、ラピスは語り続ける。
「あたしも、ニンゲンだったから、全然戦えなかった。けど、これを使えば、氷使えるから、少しは戦えて。それに、音を出すのも楽しかったから」
「ラピスさんがそれを大事にしているの、とても伝わってきます。素敵ですね」
そんな会話の間に、それぞれ目を覚ましていた。いたけれど、声に出しての挨拶はせずに、ラピスとセイラの会話に静かに耳を傾けていた。
やがて、ラピスがまたフルートを奏で始めると、セイラの背中にいた四名の間にも会話が生まれ始めた。といっても、発言のほとんどはリィのものだし、当たり障りのない会話ばかりだったのだが。
「みなさん、もう少しでつきますよ」
セイラのそんな一言から、ラピスの奏でる旋律は止み、セイラの背中にいたリィはひょこりと顔を出した。
「あ、あれ、どこ……?」
「海の前方にちょっと違うところが見えますか?」
思ったような島影が見えず落胆したリィは、それでもう一度水平線に目を凝らした。すっかり明けきった朝、大きな入道雲がどっしりと海と空とを繋げていた。
それらをじっと見つめて、ようやく、水平線の手前に違和感を覚えた。
「セイラ、あれは……」
「波がねじれている?」
シュトラもそれを見つめ、冷静に分析した。
セイラの前方には、波がひときわ輝いている部分があった。そこからあふれ出た淡い翡翠の光が、セイラの進む道を優しく照らしていた。
「あれは時の狭間の境目です。あそこを通って幻の大地へ行きます」
頬をなでる風が一段と強くなった。アルトの頭の房が、リィの葉っぱが、より一層強く後ろへなびく。リボンやスカーフがはためく音が、波を切る音に重なった。
きらめく場所に向かってセイラは一直線に加速。やがて、セイラのヒレは水面に触れ、「宙に浮く」。
「えっ、飛んでる!?」
「いや、違う! これは飛んでいるのではなく……時の海を渡っているんだ!」
「時の海……!」
リィの顔が一段と輝いた。空を飛ぶ恐怖心なぞ覚える間もなく、リィは眼前の光景に目を奪われた。海の裂け目を超え、まばゆい光に瞼を閉ざして、風の感触が変わったことに再び目を開く。
「あれが、幻の大地……!」
アルトが感嘆の声を上げ、セイラは微笑む。
まるで大陸のような、大きな島が宙に浮いていた。表面は豊かな緑色と、荒々しい山脈に彩られていた。かと思えば、島の側面は大地の息吹を表現するかのように荒々しい。
「さぁ、突入しますよ! ――『幻の大地』へ!!」
空を切り、泳ぎ、セイラはぐんぐんと高度を下げていく。近づき、草木一つ一つの色が個性にあふれてきた。
セイラは岸壁にぴたりと着くと、「着きました」と優しく声をかける。
その荘厳な大地へ、降りるだけで緊張で息が止まりそうだった。
一面の草原を踏みしめた。まだ朝露に濡れていたようで、足の裏から涼しさが伝う。さくり、と一歩踏み出せば、可憐に咲いている桃色の花を踏みそうになって、リィは慌ててそれに謝った。
シュトラは周囲を見渡し、空の色一筆見せない分厚い雲を珍しそうに眺める。
「ここが、幻の大地なのか……」
「それであれが時限の塔、ね」
ラスフィアが睨むように目をやった先には、宙に浮いている小さな島。そこには確かに塔のようなものがそびえていた。
だが、その頂上を中心として、赤黒く禍々しい雲が渦巻いていた。普通の状態ではないとみるだけでわかるくらいだ。
「でも、宙に浮いてるのに、どうやって行けばいいんだろう……」
「大丈夫ですよ。『虹の石船』に乗れば導いてくれます」
セイラの言葉に、リィは首を傾げた。
「それってどこにあるの?」
「この先をずっと行った先の、古代の遺跡の中に眠っているのです。リィさんの持つ遺跡の欠片があれば使えるはずですよ」
心ときめく単語を並べられて、リィの心は太陽のように明るく輝き始めた。古代の遺跡も、眠ったままの石船も、彼女の気を引いてやまない。
リィは遺跡の欠片の模様を今一度眺めてから、ぎゅっと胸に抱いた。
「ありがとう、セイラ! 行ってくるね!」
「はい。ボクはここで待っています。あとは時限の塔目指して頑張ってください!」
その言葉に、全員が行くべき方向をしっかりと確認した。
空に浮かぶは時限の塔。その下にある山にはぽっかりと穴が開いていて、あれを抜けることで虹の石船眠る遺跡へ行けるはずだ。
輝くペンダントを握り、遺跡の欠片を抱き、フルートを大切そうに抱えて、目を伏せて風を感じて、胸に手を当てて。
未踏の大地に、鮮明な足跡を残した。