#113 七色の虹彩
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─────────この判断で良かっただろうか。
ピチョン、ピチョンと水滴が垂れて鳴る水音が辺りに反響するその薄暗い場所で、紅に染まったポケモン達の群衆から逃げ出してきたフライは、どこか物悲しい程の情景を見て思っていた。自身のいる場所から少し先にある、まるでアクアマリンの様に青く透き通りきらきらと輝いているのは湖。麓にあった熱水の洞窟入口のように、足を動かせばぴちゃぴちゃと音が立つほどに水浸しになっている地面。
嗚呼、なんだか懐かしいな、と。遠い昔に散った何かを思い出すように、フライは目を細める。
此処は知っている。此処に、探し求めたものがあることも知っている。
美しい湖の中で、一際儚げに煌めいているもの。目に優しい蒼翠の光。時を刻みこの湖の時空を護る、一つの生命。
あの時、あの場から逃げ出す方法が一つしか無かったことは分かっていた。そうすることしか他に道が無いということも、わかってはいた。けど、本当に正しかったのかいまいちわからない。自分も戦えば良かったんじゃないか、とか、気を引き付けて逃げることだって出来たんじゃないか、とか、考えてみれば出来ないと分かりきっている後悔が何度も何度も頭の中を掠めて余計混乱する。彼奴が逃がしてくれたのなら、自分は今それに応えることしかできない。…………分かっては、いた。
ついに此処まで追ってくるとは思わなかった。それこそ自分の油断だとも言えるけれど、でもこの遠征は大丈夫なんじゃないかと思っていた。追ってきて戦闘になるのは、もうちょっと後だと思っていた。それこそトレジャータウンに帰って来た後、依頼の場所とかで襲撃、なんてことは充分に想定して警戒していた。遠征だって、『歯車』のある場所だ。警戒は怠らなかったし、あの三匹にもキツく言っておいた。洞窟内で戦いになるとは、否、あいつが炎タイプばかりを連れて襲ってくるなんてことは思ってもみなかったのだ。
あの時自分が取った行動には間違いはなかった筈だ。あいつらの狙いは勿論『あの方』だろう。結果的に『あの方』を護ることが出来たのはよかった。あのまま戦闘に持ち込んでいたら殺されていたかもしれない。昔は互角の力だったとはいえ、あの気迫、絶対どこかパワーアップしている。
けれどその先………グラードンも強敵だ。フライにしてみればあんなものはただの戦っても無駄な操り人形にしか見えない。意思は持つが身体も脳も全てが人造。作り物。『幻』が造っているのだから普通のポケモンには出来ないだろうが、それでも違うものは違う。伝説を象った演劇である。だが、いくら操り人形と言っても実力は折り紙つきだ。最初から倒すつもりで鍛練を積んでいれば問題は無いが不意に現れた気迫さえそっくりの伝説が出てくればやられてしまうかもしれない。あの方の実力ならばそう簡単に殺られるとは思えないが、勝負に絶対はない。もし負けたら、いや負けただけならまだいい。こんなところで殺されでもしたら。もうどうにもならない。何もかも終わってしまう。使命も、約束も、覚悟も、命も。
ここから直ぐに引き返して加勢するか………?そうするのが一番いいのは頭では分かっていた。けれど、目の前で目映く光を発するものを一度見てしまえばそれに引き寄せられるように前へ前へと進んでしまう。
手を伸ばしても届くことはなさそうだが、そこにある。求めていた、ずっと求めていたものが。光に向かって短い指を半端に伸ばせば、深緑の体色はそれに照らされて白黒に分断される。───欲しい。とてつもなくそれが欲しい。止めどない欲求があふれでて鼓動を揺らしていく。手に入れなければ。手に入れなければ─────
動きが止まった。否、止めさせられた。
「貴方は何者か答えなさい」
冷静。それでいてぴんと張り詰めた警戒の声が背後から聞こえてきた。意識を集中させれば後ろに気配が見える。小さくて浮いている………神秘的な幻。『サイコキネシス』で止められている身体の状態で、敵意が無いことを知らせようとする。口は動くようなので、まずは口で知らせることにした。
「………僕に敵意はない。良ければ、サイコキネシスを解いてくれないか」
「それは無理な相談ですね。私を油断させて何をするつもりですか?サイコキネシスを解けば不審なことをするかもしれない」
「聞き入れてくれる気はないんだな?じゃあどうすればサイコキネシスを解いてくれる?」
「記憶を消せば、直ぐに」
即答された解放の条件に、フライは思わず『ハハッ』と乾いた笑い声を漏らした。その途端『何が可笑しい』とサイコキネシスの締め付ける力が強くなる。
「裏道で此処まで来ましたね?あの道は、普通のポケモンには誰にも知られていない筈。どういうことですか?」
「偶然見つけた。丁度大量の敵に追われ逃げているときに、その………『裏道』へ続く扉を見つけたんだ。九死に一生を得たという感じで、上ってきた」
「貴方は明らかに『歯車』に執着していましたね?そうでなくともこの湖の存在を確認した時点で貴方の記憶が抹消されることは決定されています」
「…………そうだな。だが僕は別に此処に危害を与えに来た訳でも、歯車を取りに来た訳でもない。探険隊として……此処に眠る『ロマン』を探りに来た………それだけだ」
「そうでしょうか?しかし…………いえ、貴方に敵意が無いであろうことは認めざるを得ませんね。貴方の持つ雰囲気に、不審なものは一つもないようですし」
背後の気配が小さく動くと、フライの身体にふっと軽さが戻る。自分の意思で動くこともできる。サイコキネシスが解かれた証拠だ。
後ろを振り向きこの湖の『守護者』と向かい合いながら、自分が次に出るべき行動を考える。
下手に動けばあっさりと記憶を消されてしまうだろう。ここまで来たのに記憶を消されでもしたら大変だ。それだけは絶対に避けなければならない。それに、『歯車が目的』として此処まで来た者だと思われることも駄目だ。『歯車の在処』を知っているのならば記憶を消されることは避けられない。自分が此処にいる、また今シズク達がグラードンと戦っているのは、全て『霧の湖を見つける』ことに目的があるということを伝えなければどうにもならない。その上『探険隊』ということを信じてもらえばこのまま記憶を消されないこともあるかもしれない。
「考えは纏まりましたか?…………もし此処から逃げ出すような素振りをしたら容赦しませんよ」
「ハハッ、警戒心がほぐれないな……ま、当たり前か。
お前は、問答無用で僕の記憶を消す気だね?」
「ええ、勿論。此処を護るにはその手段しかありません。………………来るべき日まで、私は此処を護らなければならないのです」
「……来るべき日、とは?」
「…………遥か昔からの言い伝えでございます。『神聖な場にて 眠る翠の目映き石を 使命持つ者現れる日まで 身命を賭して 護り抜くべし』」
「その『翠の石』ってのが、『歯車』のことか?」
「さあ、どうでしょうか?…………何にしろ、この話は貴方には関係無いですね」
「だな。
………で、僕が何者かって話だけど………君は知っているかな?『草の大陸』では有名な、プクリンのパティが統べるギルドの事」
「ええ、知っています。大陸の辺境ですが、情報網は広いので」
「僕は………あ、あとここより手前でグラードンと戦ってる……筈の三匹も、そのギルドの探険隊なんだ。『霧の湖を見つける』という目的の為、遠征で此処まで来た。
あいつらに、此処を荒そうとしたり『歯車』の存在を言いふらそうとかそういう気は無い。少なくとも僕たちが欲しているのは『霧の湖の有無』だけだ。そのために、決死の覚悟で様々なダンジョンを乗り越えたあいつらの努力が………少しでも報われて欲しい。純粋な好奇心で来ただけなのに、記憶を消されるとはそれも不憫だと思わないか?」
「その『純粋な好奇心』がこの場所を滅ぼす可能性も…………しかし、嗚呼、貴方の言うことも少なからず正論ですね。まずは話し合ってみなければ分かりません。貴女方の心の奥底に『悪』は感じません。記憶を消すか否かの判断は、話を聞いてからでも遅くはないはずです」
先程とは打ってかわって穏やかな口調になったその彼女は、静かにフライに背を向け、進み出した。
***
霧の湖手前の開けた場所にて、グラードンと戦っていたシズク、ケンジ、サンの三匹。押しつ押されつの攻防が続いていた中、突如戦局を大きく変える事態が巻き起こる。
何らかの能力か分からないが、シズクの黒く染まった尻尾がアイアンテールと成してグラードンを叩き切る。背中には黒い波紋が一瞬だけ広がり、いままでに無いほどのキツい衝撃を浴びたグラードンは、麻痺した足で倒れまいとその場にぐっと踏ん張った。
依然とシズクの眼はきらきらと、オパールのように、虹のように、光を放っている。見惚れるほど美しい七色の眼は、もはやケンジのこともサンのことも見ていない。グラードンのみを『敵』と見なし、あふれでる殺気を抑えようともせず猛攻を繰り返している。一歩先の動きを考え動いているようで動作に全く迷いが見られず、飛んで、走ってとスムーズだ。電光石火で疾走したシズクはアイアンテールを発動させ、尾に電気を纏わせる。その時、纏わされた電気は何故かパチリスが放つもののように青く染まっていた。普段とは違う黒と蒼に彩られた尾はまるで濃紺の夜空のように目立つ。彼女は俊敏な動きでグラードンの脇腹にアイアンテールをめり込ませると、その巨体を吹き飛ばした。
「ッし、シズク!!?」
驚きという感情が勝ってその場から動けずにいるケンジは、間抜けにも目の前の光景を眺めて彼女の名を呼ぶことしかできなかった。さっきまでの彼女とはまるで違う。戦力と体力をもがれて荒い息をし、ぐったりと動けそうにもなかった状態だったというのに、何故だろうか、この復活は。オレンの実ぐらいでここまで動けるようには思えないし、復活の種は今手元に無く使うことはできない。なのに、いきなり飛び出してきてアイアンテール一つであの小柄なピカチュウが伝説級の化け物をぶっ飛ばしたのだ。シズクが死ぬことはない、というのは確認できたが、それを喜ぶよりも吃驚してそれどころではない。サンは、直前に出していたシャドーボールを放置して、その紫の珠は萎みつつあった。
「どういう、ことなの………………?」
サンは、シズクの眼の色が変わるという現象には見覚えがあった。シズクの眼は元々『蒼』という特殊な色だが、フライのこともありそこまで追及しようとか疑問に思ったりとかはしなかった。まあ、要するに慣れていた。だが、眼の変色は見たことがなかった。これまで、彼女の眼が、蒼に赤が混ざった『紫』とか『青紫』ぐらいに濁ったように感じたことはあった。何回か見たような、見なかったような、曖昧だがその辺は知っている。でも、これは違う。本当に見たことがない。
今までは眼の色が変わるだけだったのに尻尾が黒くなるという、眼以外も変色するというのが可笑しい。シズクの尻尾はベースが白、付け根が黒だったが、今のはまるで付け根の黒色がブラックホールのように白を飲み込んでしまっているように見える。
「………あれ……」
彼女の今の容姿を完全に視認した時、何故だかサンは可笑しな感情にびくりと身体を震わせた。その感情がなんだか分からないが、ぞくりと背筋が凍るような、それでいて何だか興奮するというか、高揚感というか。欲しくてたまらない玩具を目の前に差し出された子供はこんな気持ちなのだな、と妙に納得してしまうような感情だ。彼女の虹色の虹彩を見つめていると、そんな感覚に支配されてしまう。
「シズク………シズク!?」
ケンジが呼び掛けるも無反応。シズクがさっきから発している電気は青くなっているが、出した直前は目映い黄金色のようだ。とろける蜂蜜に反射したような眩しい金色の光がケンジを照らしたかと思うとそれは一瞬で真っ青に染まる。何かがシズクの電撃を染めてしまっているみたいだ。ケンジはそう一度思うと、シズクの中に何かがいて、その何かがシズクを乗っ取ってしまっているんじゃないかと怖くなる。必死に彼女の名前を呼ぶも、その虚ろな虹色の眼が見ているのはグラードンのみ。
シズクは助走も何も無しで上空へと飛び上がる。グラードンが腕を振りかぶってぎらついた爪で彼女を八つ裂きにしようとするが、シズクは逆にその爪に乗って更なる上昇をする。そのまま急降下して、青く染められた電気を『十万ボルト』の形にし、まるで雷のように何本も降らせる。おちていく彼女は再びアイアンテールを作るとグラードンの首筋に思い切り当てて飛ばす。急降下だというのに、彼女は見事に着地した。
電気技は相性が悪いはず。それにも関わらず、シズクの電撃は相手に大打撃を残したようだ。もう立つことも出来ないほどにふらついているグラードンを冷たく一瞥し、彼女は最後の攻撃を加えてやる、と走り出す。
「さ……サン!援護!」
「え?あっ、うん!」
とりあえず最後の最後だけ援護しておかないと面子が立たないだろう。そういうことでぼーっとしているサンを呼んだケンジは大きな波動弾を形作る。サンもシャドーボールを形成し直してシズクの後をつき攻撃体制に入る。ヤケクソとばかりにマッドショットを乱れ打つグラードンの単調な攻撃を避け、シズクは十万ボルト、ケンジは波動弾、サンはシャドーボールをぶつける。
三匹の渾身の一撃に、元々体力が尽きそうだったグラードンは膝から崩れ落ち、轟音を立てて倒れ伏した。それでも、シズクはまだ息のあるグラードンに『とどめ』とばかり突き進もうとする───ところで、彼女はふと考え直した。
───自分は何をしようとしていたんだろう。
意識もあるし、眼も耳も使える。走っている感覚も、攻撃を繰り出そうと身体に力を込める感覚も、電気を巡らせている感覚もある。どう動いているのかもわかっている。でも、『意思』がなかった。
今までの行動に彼女自身の意思が欠如しているように感じる。次にどうしよう、グラードンをどう倒そう、グラードンにどうやって………そうだ、何かを考えてもいなかった気がする。そもそも目的は『グラードンを倒す』ではなく『隙をつく』だ。倒そうとする意思はなかった。すり抜けるという意思はあった。今はどちらもない。意思が無いから、目の前の『敵』と認識した相手をことごとく潰そうとしている。そんなことをしてなんの意味がある?そう思ったが、気が付けば身体に電気を巡らせ始めている。
目の前を見ろ、冷静になれ。倒れているグラードンにはもう戦意はない。でもとどめを刺さなければならない──否、『そうしなければならない』のではない………『自分がそうしたい』?
否そういう気持ちはない。じゃあどうしたい?───そもそもどうしたいか、という意思が………無い?
「シズクーーー!!!」
「………は」
急に横から衝撃を受け突き飛ばされた。彼女を突き飛ばしたのはケンジである。何が起こった………そう思う前に彼女の眼に宿っていた激しい虹色が不意に消え去る。気付けば尻尾も元の白銀に戻っていて、黒は付け根部分に小さく収まっている。
「何………」
『何が起こった』と問いかける間もなく、予想もつかない事態が発生する。意思もあり、威圧感もあり、会話もして先程まで戦っていて、三匹の攻撃に沈んだグラードンが、目映い光を放ち始めた。まるで眼が潰れるかと思うほどの光を至近距離で受け、シズクもケンジも咄嗟にぎゅっと眼を瞑った。普段は暗いはずの瞼を通しても光がのぞいていたが、それが消えたらそっと眼を開ける。すると、光源………倒れていたグラードンがいたはずの場所には、何も無かった。
「…………は?……え?え?」
「グラードン………が……」
あの巨体が隠れられるような場所は周りには全くない。それどころか、グラードンがその場を動いたような形跡や足跡が全然見つからない。となれば、あの光と共にグラードンが消えたと判断するのが当たり前だが、ポケモンが消えるなんてそんなことあるのだろうか。正体不明の光と新たに浮かび上がる謎に全員が首を傾げる。
「何が……あったんだろ………?」
謎な展開が急スピードで巻き起こり事態の把握がむずかしい。あの紅い巨体は、あの光は、一体なんだ?何があった?
聞きたいことは山程だが、残念ながらこの事態の答えを知る者は此処にはいない。質問に答えてくれる者がいないというのは時に辛いものである。
「………………あれは………あのグラードンは、本物のグラードンではありません。……私が造り出した、幻影です」
「!?」
「だ、誰ッ!!?」
まだ戦うべき相手がいたのか、と焦燥を顔に張り付けて三匹はそこら中を見回す。だが、それらしい人影や気配は全くない。気配を消している者の存在も見破ろうとシズクは耳をぴんと立て、辺りに警戒網を張り巡らす。ピリピリとした緊張感の中、先程聞こえた穏やかな声がまた囁くように現れる。
「私は、この『霧の湖』を護る守護神です。湖の神秘と先に潜む秘密を遥か未来まで護り抜くため、貴女方をここより先に通す訳にはいきません」
「………どうしても?」
「どうしてもです。記憶を消されたら速やかにお帰りに」
向こうも相当警戒心が強いらしい。彼らの記憶を消すということを前提に話を進めてくる。勿論、そんなことをされれば本当にマズイ事態になる。それだけは避けなければ、この先には進めないだろう。
「ちょ、ちょっと待って。どうやら君は俺達のこと、湖を荒らしにきた悪党みたいに認識してるような言い方だけど………俺達は全然そんなんじゃない!ギルドの探険隊なんだ。湖を荒らすなんて馬鹿げたこと考えてない!
俺達は知りたいのは霧の湖の在処だけなんだ!!それとッ………ちょっと、確かめたいこともあるけど」
「確めたいこと………とは?」
ケンジは姿の見えない声に向かって自分達の目的と正体を必死に訴えている。途中、『聞きたいこと』───シズクのことだが、その辺りは彼女のことも考えてサンに気付かれないように小声で言った。どっちにしろ、サンには聞こえていなかったようだが。
「い、今はちょっと言えない、けど………でも嘘じゃない。本当のことだ。
………そりゃ、俺達は探険隊だよ。だから、遠征先として来たからには何かお宝とか……欲しいと思うは思うけど、俺達は盗賊なんかじゃない。それがこの場所に害を与えるものになるんなら無理に奪おうだなんてこれっぽっちも思わない。
俺達が欲しいのは、『霧の湖を見つけた』という成果だけだ。それ以外は特に欲しない。信じてくれ!!」
「……………」
もはや懇願に近いケンジの訴えを遠く聞きながら、湖の守り人は目の前のポケモンを『客』と見なすか『敵』と見なすか迷っていた。しかし、彼らの声に嘘は感じない。その眼を見ても、濁りや迷いはない。言っていることも、先に来たツタージャと同じだ。此処は、信じていいかもしれない。そう決めた途端、ふっと柔らかな気持ちになる。
「───ええ……分かりました。貴女方を信じましょう」
その言葉を聞いて、シズク達の胸には安堵が広がった。記憶を消されないと確定したこと、霧の湖に到達できる可能性がほぼ百パーセントになったこと。ほっと息を吹き出していれば、また光によって視線が奪われることになる。
シズク、ケンジ、サンが今いる場の丁度真ん前に、光の泡沫が浮かび始めている。それは、グラードンが消えた時のような目映く強烈な光線ではなく、穏やかな、それでいて神秘的にふわふわと光る眼に優しい灯りだった。その光の泡沫は、一つ、また一つと次々に現れ、何かを少しずつ形作っている。やがて光により曖昧な輪郭線を描いたそれは、一瞬の瞬きにより本来のすがたを現した。
まるで妖精のようだ、とシズクはぼんやり思った。白雪のようなつやつやとした肌をしていて、頭の部分は山吹色の体毛に覆われ形作られている。糸のようにたなびく二本の尾は、そのポケモンの周りを優雅にゆらゆら揺れている。額にはルビーのような石が埋め込まれており、開いていると思っていた眼はしっかりと閉じられていた。
「眼は、閉じてるのね」
「ええ、これが通常の姿であります。閉じていても貴女方のことはしっかりと視認できているのでご心配なく」
「じゃあ、貴方がここの……真の守り人ってこと?」
「そうです。
………初めまして。私はユクシーという種族のマルヴィナと申します。此処、霧の湖を古くから護り、また受け継ぐための守護神」
「ユクシー……マルヴィナさん、ですか」
「はい。呼び方はご自由に。元々少ないため『幻』と位置付けられている種族であるので、種族名で呼んでもらっても問題ありません」
「………いや、名前で呼ばせてもらうよ。種族名ってのは慣れなくて」
「それで、霧の湖は……何かを護ってる場所なのね?」
「はい、そうです。私はずっと、あるものを護りとおしてきた………絶対に捕られてはならない、あるものを。
……今から、貴女方をその霧の湖まで案内致します。真実はその眼でお確かめに。それと……貴女方の仲間だという、ツタージャの彼も、此処にいますよ」
「うそっ………!フライ!!」
ユクシー──マルヴィナのそんな一言に、三匹は一斉に反応した。彼らの仲間のツタージャは、フライしかいない。今まで黙って話を聞いていたサンは真っ先に辺りを見回して、先に続いていると思われる穴から出てきたフライの元へ走り寄っていった。
「フライ!フライ!!もうっ!心配したんだからねっ!!!」
「すまん、すまんな、心配かけて。僕は大丈夫だから、安心して」
半泣き状態でフライの胸元に顔を埋めるサンを、彼は優しい手付きで彼女のことを撫でている。安心しろ、安心しろ、と何度も言い聞かせるように繰り返し、肩を上下に揺らして泣きつくサンを落ち着かせているその様子は、どこから見ても和やかなものであった。
「貴女方を信用したのは、あのお方の言葉があったからです。先にあの方が正体と目的を明かしたことで、貴女方を信頼することができた」
「………そう、だったの」
「はい。………では皆さん、着いてきてください。奥へ案内します」
そう言い片手を向こうへ続く場所の先へと伸ばしたマルヴィナに、彼らは従順に着いていった。
フライがどうやって此処まで来たのか三匹には分からない限りだが、フライがちゃんと無事で再び自分達の前に現れたことが嬉しくてそこまで追及しようとは思っていなかった。
マルヴィナだってそうである。普段ならばどんな者でも侵入者なら力と能力で物理的にも精神的にも追い詰めここから追い出すのに、普通此処に来るような者達とは違うフライの物言いや態度に完全に敵意を消してしまっていた。フライがこの器状の湖に張り巡らされた裏道を『偶然』見つけたものだと信じてしまっていた。確かに普通に進んでいれば見つけることはできないようなものだが、それが絶対だとは限らない。生き物の行動に絶対は確実にない。軽く見ていれば、またマルヴィナが彼らが此処に来るまでに遭遇した大量の敵を見ていればそれは辻褄の合う話となる。フライにはそうするしかなかった。
だが考えてみれば、それは偶然というには出来すぎな話だと、気づくこともできたはずだ。例え敵に追われていたとて隠されるように存在する裏道への扉に気づくとは到底思えない。それが固定観念だとしても、敵に追われ焦り、早く上に行かなければならないという緊迫の状況の中、短時間で裏道への扉に気付き怪しむこともせず上って湖に辿り着くことが果たして可能だろうか。
マルヴィナはそこまで考えなければならなかった。ただフライの最もらしい言い分に妙に納得してしまったのである。冷静に考えれば矛盾点はいくつか見つかる。そこを疑って聞き、答えられないならば記憶を消す。その方法が彼女にとっては良いことだったに違いない。
信頼という言葉に押され人情を滲み出した末にフライを信じ宝のある場へ通してしまった、彼女の失態はそこである。しかしその彼女の判断か結果的に良かったのか悪かったのか、それは今現在誰にもわかり得ることではない。
また不運というものは多くの生き物達に重なるものだ。あそこで赤いポケモンの集団に出くわしフライが食い止めようと残ることがなければ、暴けた正体と謎があったかもしれない。
ダンジョン内で遭遇した集団はフライを殺そうとしていた。結果それは失敗に終わったが、あの集団は少なからず真実が暴かれる邪魔をしたということになる。
真実を知ることができるのは。一体いつだろうか。貴重なチャンスに気付かず逃してしまった彼らに。再び好機は来るのだろうか。