#83 月下の悩み
「嗚呼………来たか……」
「悪い。片付けで遅くなった」
ケンジ達が寝付いた、丁度その頃。灰色の雲が漂う夜空を眺め何か感傷に浸っていたような様子のある一匹の男は、もう一つの、テノールの響きを持つ声に振り返った。
「かなり遅かったな。僕はもうかなり前から来てたぞ」
「あーだからすまんって!こっちも結構大変なんだぞ?商人ってのは初めてだしやっぱ手間取るんだよなー」
最初にこの場にいたであろう男は冷静であり、先程来たポケモンは陽気な感じであった。月明かりも、その他の人工的な明かりさえその場には無い。炎の灯る松明も、自ら光を発するものはこの場には全くと言っていいほど無かった。彼らは、僅かに見える色、影の濃淡、それだけで相手を認識していた。
夜の海は、怖くなるほど静かだ。
規則正しく聞こえてくる、打ち寄せる波の他聞こえるものは無い。いつもなら日の光を浴びて金色に煌めいている海は、夜の今、ただただ漆黒を揺らめかせ、怪しげに、妖しげに動くだけであった。
ポケモンを待っていた男は、そこらに無造作に転がる赤茶色の大岩に腰掛けていた。そこから足をだらりと投げ出し、宙でゆらゆらと揺らせている。
鮮やかで、鮮明で、美しく、そして何処か儚く憂いているような、翡翠色の瞳を持つ男は、暫く時間が経ってから、先程来たポケモンに話し掛けた。
「何か……掴めたのか」
その、一言だけ。しかし、その場に立っているポケモンは、困ったような笑みを浮かべて俯いた。その仕草で、もう答えは分かったようなものだ。
「いや、何も。他の大陸に行けば少し位は入ってくんじゃねーのかって期待はしてたが……これっぽっちも入ってきはしない」
「……僕もさ。ギルドは警察と並んで世界の情報をかなり受け付ける施設だからな。お前よりは収穫があるかと思ってたんだが……」
「そうそう入ってくるもんじゃねえよな。俺らが求めている情報じゃ、ちっとも」
言葉を切った男二匹は、暫くの間曇った空を眺めていた。あの分厚い雲の向こう側には、きっと今も太陽の光を受けて月が輝いているのだろう。そう考えると、あの雲を通して美しい月が垣間見えるような気分になった。
「あの方は……無事だろうか」
「さあな。だがあの方の事だ。あんな奴等にやられるほど柔じゃないのはお前もわかってるだろ。
……希望を持つしかないんだ。現状では、特にな」
「嗚呼………」
この二匹の会話。端から聞いてみれば、筋の通っていないちぐはぐな話しに聞こえるに違いないだろう。しかし彼らの間では、これだけの少ない単語でも意味は通じているようだった。
「……見つけたんだな、あの方の血を継ぐ者を」
「嗚呼、間違いない。あの方が与えてくれた情報と全て一致した。
種族、性別、名前、そして特徴。一目見て分かったよ。オーラ、というのかな……雰囲気が、何処と無く似ていた」
「俺もそう思ったよ。やっぱりあの子か……」
彼らは暫く、自らの思いに浸っていた。自分が負う、使命。そしてそれに比例するように、これから増えるかもしれない犠牲者の数。これから自分達がやろうとしていることは余りにも突飛すぎた。だからこそ、やらなければならないのだが。
「お前が言っていた……『彼女』は、まだ見つからないのか?」
「そうだ。相変わらず何も……彼女が無事かどうか、僕には分からない。仲間の安否が知れないまま此所で足踏みしてるなんて……辛いよ」
悲痛そうな声を上げた男は、僅かだが手に顔を埋める仕草をした。もう一匹の男は、気まぐれな風に漂う波を見つめ、心底彼を憂いていた。実際この使命の重要事項を負っているのが彼なのだ。自分はただ、アシストをしていただけ。しかし、それももう今や不可能な状況に陥っている。この先彼がプレッシャーに負けてしまうなんてことはないだろうか。もしそうなったら、もし遅れてしまったら……嗚呼、考えたくない。
「それで。僕の現状をとりあえず伝えておくよ。
____あの方の望みは達成した。あれはもう託しておいた……。お前も今日見て気付いただろう。あの世界であの方と関わりがあったポケモンなら誰でも見抜ける。第一関門は突破した、という言い方がいいかな。とにかく、後残る使命は最後で大変なあの事だけだ」
「………だな。勿論直ぐに分かったさ……あれは目立った。
俺の状況報告だな。これはもう早めに伝えておきたかったんだ。実は此所に来るまで、この大陸とはほぼ真逆の所で旅してた。けど、お前に即刻伝えなければならない事件が起こって……最短でここまで来た。
いいか、よく聞け。この世界に、あいつの部下が来てる」
「なっ……!それは本当か!?」
「嗚呼、本当さ。あいつの部下が此所に来ているということ……それが何を意味するか分かるよな?
あの方は、足跡が付かないよう常に配慮して事を進めていた。しかし、勘づかれたのだ。あいつはあの方の血を継ぐ者を探していると同時に、『ヴェルメリオ』の力を持つ子を探している。今はまだあの方の力が強いだろうけど……あいつ等が上手く『ヴェルメリオ』を使ったらどうなるか分からない!
…………充分に、注意してくれ。頼む」
男は目の前のポケモンに、微かに鳴り頭を下げた。頭を下げられた方の男は、静かな目で、彼を見据えていた。
「勿論だ。もう、残りは僕しかいないというのも……もう自覚したから。僕は大丈夫。今はもう独りではないから……安心してくれ」
「ッ………本当に、本当に頼んだぞ!プレッシャーを掛けるわけではない。だが、お願いだ。あの世界でも此方でも、お前が必要なんだ!
後はもう、お前しかいないんだ………―――!!」
嗚呼、今日も、月が綺麗ですね。