#39 迫り来る黒い月明かり
「うわあ、すっごい嵐」
「そうね」
夕飯を食べ終え、部屋に戻ってきた丁度その頃に雨が降りだしてきた。その雨はみるみる内に激しさを増し、窓ガラスを叩き、道に水溜まりを作っている。いつもなら見えていた筈の月は暗雲に閉ざされ、その雲からは稲妻が走り、一瞬辺りを照らしてはまた暗闇に戻していく。
「あのね、シズクに出会う前も、こんな嵐の夜だったんだよ」
「……!……へえ」
「嵐があって次の日、シズクが海岸に倒れていたんだ。……ねえ、何か思い出せたりする?」
ケンジに聞かれて私はもう一度、自分の記憶を探ってみた。海岸に倒れる前にあった出来事、話した事、聞いた事、人間だった頃の自分の姿。けれど、何も思い出すことは出来なかった。あの海岸でケンジに起こされた記憶が、現段階私が持っている一番古い記憶だ。それ以前は、どうしても『想像』になってしまう。
「……無理ね。何も思い出せない」
「そっかあ……」
ケンジはまた視線を窓の外に移す。雷が一瞬だけ、ケンジの顔を照らす。
「もう、寝ようか。明日も朝早いし」
そう言うケンジの言葉に頷いて、藁のベッドに寝そべり毛布を掛ける。毛布を通しても、雷の光や雨音が聞こえてくる。
「ねえ、シズク。シズクのその目眩、というか夢というか……その能力さ、俺は何だかシズク自身の事と深く関わってたりするんじゃないかな」
「……は?」
「なんとなく、だけど。人間がポケモンになるって事も未来の見えるピカチュウっていうのも聞いたこと無いからさ、何かそういう気がするんだよね」
「そう」
呟きながらも、私は深く考えていた。自分がポケモンになった謎が、あの“夢”からわかるなら。そもそもあの“夢”は何なのだろう。どこでも発動する訳じゃないし、不特定で曖昧な感じだ。その“夢”が自分の記憶を紐解く『鍵』となるなら。それなら、そのことをもっと調べてみたいとも思う。
「……何だか、眠くなってきちゃった。俺もう寝るね。おやすみ」
隣で、蹲る音と気配が聞こえた。私も思考の波から抜け出す。今深く考えても、すぐにわかる問題じゃない。これから少しずつ、少しずつわかっていけるのなら。私はその時を待ってみようと思う。
次第に迫ってくる睡魔に、私は身を委ねた。
*
鬱蒼と生い茂る木々、苔の生えた道。いつもなら緑鮮やかなその場所は、嵐によって暗闇に支配されていた。その中を人目を気にせず水しぶきを上げて走り去っていく一つの影があった。何に急いでいるのか。何をしようとしているのか。誰にも理解できない行動をするその影は、だんだんと森の奥地へと迫っていた。
光る瞳は、まるで松明の様に影の背中を押していた。激しい目的意識に憑かれたポケモンは、更に更に奥へと進む。
進むにつれ足元はぬかるんでくる。しかし影は全くスピードを落とさなかった。やがて木々が少なくなり、開けた場所へと辿り着く。そこに浮いているかの様に佇む『それ』に、影は視点を合わせてゆっくりと近付いていく。影は今、果たすべき『使命』への道を踏み出そうとしていた。
「……ついに……ついに見つけたぞっ!」
嬉しさと興奮が混じった声を上げた影は、『それ』をしっかりと掴みとる。『それ』はさっきまで保っていた光を消し、影の手にすっぽりと収まった。まるでサファイアの様に煌めく『それ』を、影は握り締める。
あの輝く月は、まだ雲の上である。
何も知らない彼らはただ、突飛なようで平凡な、一日を終えようとしていた。