#118 雷の襲来
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かさかさ、と足元の草が擦れる。頭上から差す陽光が埃っぽい地面を照らす。ころころと転がっている石を無意識に蹴って歩きながら、サンとフライは進んでいた。彼らはシュナイカとヒアナとの話を終えたあと、シズク、ケンジと別れ、自分達の依頼を遂行しようと森のダンジョンを歩いていた。時々敵が飛び出してくるが、それ以外はダンジョンじゃないみたいに平和な感じだった。
このダンジョンに入ってからというもの、二匹の間で交わされる言葉はすごく少なかった。どちらも考え事をしているのか、歩いている間口を開こうとしない。話すのは、敵が出てきたときぐらいだ。
サンはわからない。だが、フライは頭のなかで繰り広げられる悶々とした葛藤のようなものは外にあふれでてしまいそうだ。シュナイカからの『創生と破壊の伝説』を聞いてから、フライの様子は確かに可笑しい。一方でサンは、『天空の卵』を直で見てから様子が可笑しくなっていた。フライはそれに気付いていながら、当たり前のことだと思っている。
「………なあ、サン」
「うん?どーかした?」
「『天空の卵』のこと、だけど。本物見て、色々考え込んじゃってるかもしれないけど………気、楽にしてもいいんだよ。サンらしくないよ、考えてるとこなんて」
「へへ、それはフライもおんなじじゃん。あの伝説聞いてからずっと黙りっぱなしでさあ。別に詮索はしないけど、最近フライ、頭使いすぎな気がするんだよね。ちょっと休んでもいいんだよ。
それに、私ならもう平気。『天空の卵』の欠片を見て、びっくりしちゃっただけだよ。うん、でも黙ってるのも私らしくないよね。………今依頼中だし、気持ち切り替えていっくよー!」
ここまで饒舌なサンも久しぶりだ。一度、眼を醒まさせるようにパン、と頬を叩くと、彼女はぴょんぴょんと弾んだ足取りで溌剌と進み始める。サンの言うとおり、最近は考え事が多すぎた。フライは、今ならこの新鮮な若葉の匂いを嗅いで、温かな光を浴びて、リフレッシュしてもいいだろう。サンが大声を出したせいで飛び出してきたピジョットを叩くために、フライは駆け出す。
「あー………お腹減ったなあ」
「喋れる元気があるならまだ平気だろ。ここ最近林檎少ないんだから、節約しなくちゃ」
「むぅ。フライのいじわる」
「言ってろ」
大分いつもの雰囲気に戻ってきた。和気藹々と何気ない話をする。『迷いこんでしまったので助けてほしい』という内容の依頼を出してきたこのダンジョン最後の依頼主は、此処よりひとつ上の階にいるという。もう少しだから空腹は我慢しろよ、とフライはサンを諭す。お尋ね者と対峙する訳でもないし、腹が減っててもなんら問題はない。
「あ、見て。あそこ階段」
「ほんとだ。じゃあ行こっか」
辺りをきょろきょろと見回していたサンが、木陰に隠れていた階段を見つける。フライもそれに続いて、階段へと走る。この階段を抜ければ依頼は完了だ。
そう思った矢先。
「…………は」
嗚呼、やっちまった。絶望感に二匹は身体中の力が抜け出ていく心地がしていた。しっかり見ていれば防げただろうか。いや、結局階段はそこにあるのだから、抜けなければならない場所だが、それでも対策は打てたはずだ。依頼といういつも通りの行いに慣れて、油断していたのだろうか。滅多に当たることのないものに当たってしまった運の無さには、もう笑うしかない。
そこら中に、撒き散らされたかのように散らばる沢山の道具。奥の方には階段が鎮座している。そして二匹の周りには、これはもう数え切れないほどの敵ポケモンが殺意を出しながら現れた。
レベルの高いダンジョンに時折在るモンスターハウス。ある者はレベル上げに最適というが、大体………というか主に探険隊にとっては、特に難しいダンジョンでこれに当たるともう最悪死を覚悟するほどのトラップだ。
「縛り玉は………?」
「今日はお尋ね者依頼無いし持ってきてないよっ……!」
ここで不思議玉やら何やらがない場合はもう地獄だ。在るはずのない縛り玉を探してフライはバッグを漁るが、出てくるのは種やら石やら木の実やら。モンスターハウスで必要なのは広範囲の攻撃だ。一対一で使うような道具は基本役に立たない。使い方を間違いさえすれば、囲まれて集団リンチ状態になる。
「…………此処は強行突破だな。行くぞサン」
「……うん」
遠距離技の使えるフライが前衛に立ち、サンはそれを援護しようと構える。フライがグラスミキサーを打ち出した途端に、サンもシャドーボールを連射する。それで怯んだ数匹のポケモンを追い込むように、サンが天候を日差しが強いに変え、一瞬で最大値まで溜まり終わったフライのソーラービームが放たれる。これで何匹かは一度に戦闘不能となった。
「うわぁっ!?」
「サン!?」
だがその時、背後から迫っていた敵がサンのことを攻撃してきた。不意打ちで受け身を取れなかったサンはもろにその攻撃を浴びてしまう。やばいな、と思ったフライは彼女の方に飛び出して蔓の鞭を振るおうとする。しかしフライの方にもまだまだ敵はいる。それに加え、この騒ぎに誘われたのか他の場所にいたポケモン達も集まってきたらしい。全く数が減らない。
いざとなったら、穴抜け玉で……と、その不思議玉を取り出しやすい場所に玉を置いておく。守るを張り巡らせて一旦自分の周りのポケモンを牽制すると、急いでサンの方に向かおうとした。
「────邪魔だな」
小さくて、だがとても低く、背筋に悪寒の走るような声が微かに聞こえた。誰だ、と訝った瞬間、サンの周りが暴風により葉が舞った。その衝動でポケモン達も吹き飛ばされる。
何が起こったんだ、とフライも一時停止した。今のは間違いなくサンがやったように見える。暴風も、彼女の『天候を操る能力』に入っているものなのだろうか。しかし、さっきの低い声は一体なんだ?そこまで考えたフライは、大きな揺れと空気の震えにより思考を中断された。
地面が揺れている。地震か、と思って構えるが、この敵ポケモンの中に地震を使えるポケモンはいないように見える。それに今度は、先程の暴風よりも強い強烈な竜巻のようなものが中央部分に渦巻き始める。揺れはますます強くなるし、風に巻き込まれそうだしでフライはサンの近くに進む。サンは意思がないような眼をして立っていた。虚ろな瞳は何も映していない。そんな彼女が、どこか恐ろしく感じてしまう。揺れは強まる。風もごうごうと音を立てる。その上、空には見たこともないほどの黒雲が立ちこもっていた。ぱりぱりと漏電している電気は、これから起こるであろう惨劇の序章にも感じられる。
そして、想像もできないくらいの極太の雷が、渦巻いていた竜巻の中心に落ちた。地面の揺れは身体が浮いてしまうほどに強くなっていて。そこに雷が落ちた瞬間、風も、揺れも、全てがやんだ。
沢山の野生ポケモン達の黒焦げ傷だらけになった小さな身体が、あちこちに転がっていた。立っている者はサンとフライの他にいなかづた。サンは相変わらず、何も語らない無表情で立っている。彼女の周りには風の余韻のようなものがさわさわと少しだけ巻き上がっていたが、それもやがて消える。
次の階に進みながら、サンの口元が意地悪く歪められていたのを、フライは見てしまったような気がした。
***
陽が傾きかけていた夕暮れ。雲は桃色に染まり、東側の空にぽつぽつと星が瞬き始めたその時間帯、彼は弾むような足取りで街を歩いていた。探険隊の為につくられた街、トレジャータウン。そこら中に施設を利用する探険隊達がいる。観察してみれば、皆個性豊かで面白い。耳を傾けてみれば、その話の内容は探検のことだけではない。世間話や恋愛話、沢山の会話が飛び回っている。
こんな街に出てこれたのは一体何年ぶりだろう。街と言っても賑やかなものばかりではなく、あちこちにスラム街が点在する暗い街だってあった。こんな楽しそうな、平和な街に来れたのは何年ぶりだろうか。
彼は、とても楽しそうだ。
雷が迸っているようなとげとげした身体に黄金色の体毛。鋭い目で睨み付けられれば怯んでしまいそうだが、その目元は幸せそうに緩んでいる。身体に掛かっているのは、トレジャーバッグの形ではないものの似たように作られた紺色のバッグ。探険隊バッジはついていないようなので探険隊ではないのだろう。
さてさて、こんな面白そうな街で、一体何をして楽しもうか!
このポケモンは、ルンルンと音符を飛ばしながら街の通りの中央を駆け出していくのだ。
***
「はぁ〜……今日も疲れた…………」
「ほぼスティの功績と言えばスティの功績ね。強さは口だけじゃないってよく分かったわよ」
橙の雲がふわふわと漂う黄昏時。チームガーネット+スティリンクルがトレジャータウン付近に戻ってきていた。いつもの依頼量では比べ物にならないほど進むのが速かった。というのも、スティリンクルが大活躍したおかげだ。彼は確かに強かった。
敵が出てくれば目にも止まらぬスピードで攻撃、防御、回避、もしくは一撃戦闘不能と、一匹で充分依頼完了できるだろうという実力だ。二匹が出る幕はほぼなく、シズクは相手を麻痺させたり、ケンジは波動弾で援護したりと、そんなことをしているだけで直ぐに最奥部まで辿り着いてしまうのだ。
「………これからはスティも時々入れてもいいかもね。助っ人みたいに。いるも楽だわ」
「うー……ん、まあいてくれた方がいいけど………いてくれなくても俺は別に……ねえ?」
「使えるもんは使っとかないといけないでしょ。楽に仕事運ぶんだし、入れてもいいじゃない。時々だし」
「うん、気が向いたらくるよ。僕、本当に気紛れだからさぁ〜」
でもスティがいるとチームがなんとかかんとか……とケンジはぼそぼそと独りごちる。スティリンクルがいれば確かにいいが、やっぱり依頼はシズクと二人っきりで行きたいというのが彼の本心だ。折角の二人だけの雰囲気を、部外者にぶち壊されたくない……言い方は悪いが、ケンジの脳内はそんな考えがぐるぐるとめぐっている。勿論、それをシズクに汲んでもらうのは不可能だが。
「スティは夕食ギルドに寄ってくの?」
「ううん、僕は勢いでギルドに来ただけだし、そこまでお邪魔にはならないよ。そこらでなんか買って適当に食べる」
「野宿?」
「んー、似たようなもんかなぁ。僕、洞窟で寝てたしそこまで変わんないから気にしなくてもいいよ」
「……そうなんだ………」
「ま、風邪は引かないようにね」
最近、少し涼しい風が吹くようになってきた。野宿、というのなら気候には気を付けなければならない。いくら元々洞窟にいたとはいえ、油断は危ない。
「………そういえば、この世界に四季ってあるの……?」
と、シズクがケンジに顔を近付け、スティリンクルに聞こえないようにと耳元に囁いた。それだけで、ケンジは心臓が飛び跳ねるように感じ、思わず大声が出てしまいそうになる。
「なっ……あ、四季?」
「うん。春とか夏とか、そういうの……」
「あー、うん。微妙に」
春、夏といっても、ほんとに僅かに涼しくなったり暖かくなったりするだけだ。四季といっても本当に四季なのかはわからない。植物は変わらないし、春と秋だけが巡っているんじゃないか、と思うくらいだ。勿論季節によって活動するポケモンも変わるが、大陸ごとに季節というのも変わるらしいし、なんとも言えない。
「………そう。じゃあ、今は秋ってとこかしら」
「んん、そうかな」
「この大陸は季節が曖昧だからね。気付けば涼しいし気付けば暖かいしってそんな感じ。そこまで気にしなくてもいいと思うよ」
「ふーん……分かったわ」
話ながら歩いていれば、トレジャータウンの入り口が見えてくる。そろそろ着くか、と思い、話は一段落させたまま置いておく。今日は疲れたしお腹も減ったし、早くギルドに戻りたいな、と思い始めたケンジは、自然と歩く足が早くなっていく。体格差もあり、歩幅が彼より小さいシズクは半ば走り気味で着いていく。スティリンクルは飛んでいるので、疲れる訳がない。
「ちょっと待ちなさいよあんた、速いんだけど」
「ん?あ、ごめん。ちょっと早く帰りたいなあって思って」
「それなら言ってくんない?いきなり速く行かれても困るんだけど」
「はは、ごめんごめん」
この二匹はいつもこんな雰囲気なのだろうか、なんだか入る隙がない、とスティリンクルはその様子を脇から見ながら考えていた。二匹がこんな感じなら、自分は依頼にぐいぐい同行するとか言って良かったんだろうか。いつものスティリンクルらしからぬ考えに、スティリンクル自身が密かに苦笑いする。別にこの二匹がなんだろうが、自分には関係ないし、そこそこ空気読んで着いてけばいいだろう。
「今日の夕飯はなんだろうなー?」
「あんた、今日はやたらとご飯の話するのね。そんなにお腹空いてるの?」
「だってさぁ、寝不足(?)のまんまでお尋ね者依頼ありの依頼八件だよ?普通疲れるしお腹も減るよ。それにダンジョン内でシズクが林檎節約するっていって食べさせてくれなかったのが悪いんだよ!」
「食糧は節約が大事なのよ。歩けるんなら食べる必要もないでしょ。お腹が空きすぎて倒れるんなら食べてもよし」
「んん、否定はできないけど納得はできない……」
食糧として使われる林檎は、涼しくなれば更に多く実を落とすだろう。そうなれば、森のダンジョンに行って回収するのがいい方法だ。洞窟ダンジョンなどにも林檎は落ちているが立地的にあまり落ちていない。カクレオン商店にも売っているが、あそこは妙に高い。そうならば他のレア道具を買う方がお金の有効利用というものだ。
「それにスティに食糧分けてあげなきゃ」
「えー、いいよそんなの。自分で買うし……」
「お金持ってないでしょ。依頼の報酬はギルドに九割ぶん取られるから、山分けって訳にもいかないのよ。それなら食糧を分けた方が私達の財布にも優しいの」
「あれ、シズクが節約節約言ってたのってその為?」
「半分は」
言いながら、シズクはバッグを漁って林檎一つと紫グミを一つ渡す。スティリンクルはそれを有り難そうに受け取った。
「グミはカフェにでも行ってジュースにしてもらうか、普通に食べるか自分で決めなさい」
「か……カフェ?」
「あ、ベントゥに案内されてない?」
「うーん……記憶にない……」
「仕方ないわね。ちょっと着いてきなさい」
この場合、ベントゥが教え忘れていたのかスティリンクルが教えてもらったのに忘れているのかは不明だ。シズクははあ、と溜め息をつくとスティリンクルをカフェの方向に手招きした。ケンジも慌ててそれに着いていく。
「此処よ」
目の前には地下に繋がる穴。この時間でも……否、この時間帯だからこそなのか、カフェは賑わっているようで下から賑やかな話し声が聞こえてくる。
「パッチールのカフェ。食料を持ち込めばなんでもジュースにしてくれるわ。だから、お金は必要ないの。あんたにぴったりだと思うけど」
「わあ、こんな素敵なとこがあったんだ!うん、じゃあ僕此処で厄介になろっかなあ。じゃあね!」
「あ、うん!またね!」
地下に広がるであろう楽しそうなカフェを目の当たりにして高揚したのか、スティリンクルはグミと林檎片手に、カフェに飛び込むようにして入っていく。そこで寝床でも借りられればいいんだけど、とガーネットの二匹は少し思っていた。
「…………さて」
「うん、帰ろっか」
踵を返して、ギルドに戻ろうとした。
「あのさあ、ちょっといい?君達」
不意に声を掛けられる。道を訪ねられるのだろうか、とすればそれは今日で二回目だな、とぼんやり考えながら声のした方にシズクはゆっくりと顔を向ける。
目の前に立っているのは、少し小柄なイーブイの進化系、サンダースだった。尖った身体に黄色い体毛と、電気を演出しているような風体だ。好奇に満ち溢れた黒い瞳は、じっと二匹を見下ろしている。
「なんか此処等で、楽しそうなところとか、ない?」
「……は?いや、具体的に聞いてくれないとわかんないんですけど」
「あれ、なんかすっごい刺々しい口調だね君。俺、そういうの結構好きなんだけど」
「うっさいです。ちょっと私達今すぐギルドに帰らないといけないのでまた今度にしてください」
「あ、君達ギルドの探険隊なの?じゃあギルド内案内してくれない?」
ああ言えばこう言う。彼女の嫌いなタイプである。次第にイライラが募り、もう無視して歩き出そうとする。それでもまだ粘り強く、サンダースは引っ付いてくる。一体何なんだろう、と考えながらケンジに助けを求めようと顔を向けた、その時。
眼を見張るほどの、物凄いスピードでケンジが彼女の前方に移動していた。加減しているのかしていないのか分からないようなはっけいをサンダースにぶつける。勢いで、サンダースは吹っ飛んで地面に強く身体を打ち付けた。
「………?」
「誰だか知らないけどシズクに付きまとう奴は俺が許さないからな!!」
確かにめんどくさかったのでぶっ飛ばしてくれたのはよかったけど、そういうことを言われるとなんか気恥ずかしいような心地がしてくる。シズクは何とも言えないような顔をする。
「な、なんだよいきなり………あーいてぇ………」
流石に倒れなかったサンダースははっけいを当てられた腹に手を当てながらゆっくりと起き上がった。その黒い目はまだ殺気を駄々漏れにしているケンジのワインレッドな瞳とぶつかった。
「え………?」
「……あれ」
数秒間、二匹がフリーズした。
「………で?なんなのこの状況」
シズクの一言でまた時間が動き出したようにも感じられた。二匹はまだ動揺しているものの、冷静な頭は取り戻したようだ。
「あのー………違ってたら申し訳ないんだけども……お前ケンジか?」
「………やっぱりビアンか………」
どうやら二匹はお互い知っているような口ぶりだ。ビアン……ビアン。なんか聞いたことがあるような、とシズクは自分の記憶の引き出しを漁り始めた。そういえば、ランとラックが依頼に同行してきたときに話題にのぼっていたような。それがこのサンダースだろうか。
「なんでいんの?」
「開口一番それは酷くない?」
「うるせぇ」
ケンジじゃないみたいな口調だ。荒っぽくてとげとげしている。まるで私みたいだ、とシズクは憂鬱になりかけながら思っていた。
「にしても………このピカチュウ………ギルド……って、お前やっぱり始めたんだ。へえ、可愛い子捕まえたじゃん」
「うっせえ」
面倒事は御免だとばかりにシズクの手を引っ張ってケンジはギルドに続く階段を上っていこうとする。そのままシズクも着いて段差を一つ一つ上っていく。
「俺の様子見にって訳でもないでしょ、どうせ。旅とかで立ち寄っただけだろ」
「うん、まあそうだけど」
「じゃあ!なんで来たんだよ!………もうどっか行けよッ………!!」
悲痛そうにかすれていた。こんなケンジ、ケンジじゃない。と。シズクは前にも感じていたことが心のなかで繰り返されるのを聞いていた。痛い、辛い。そんな彼の声が、聞こえてきそうでこちらまで辛くなる。
「………お前、まだ根に持ってんの?」
下から聞こえた声に、ケンジの足がぴたりと止まった。それにつられてシズクも階段を上りながら立ち止まる。
「……別に。もうどうでもいいだろ、お前には。関係ないし」
「それ本気でいってんの?」
「うっせぇっつってんだよ。もう話し掛けんな」
そしてケンジはまた足を動かしていく。これは一体どうすればいいのだろう、と二匹の世界から切り離されたような感じになるシズクは一番戸惑っていた。
「おれはもうなんとも思ってない。だからお前も………そろそろ、覚悟決めたらどうだ。過去から逃げるのは簡単だけど、その分、逃げた分、苦しくなる。分かってるだろ、お前は」
「……………ほっといてくれよ」
ぽろりと零れた小さくて微かな声が、ビアンに届いたのかどうかはわからない。とても小さくて、耳を澄ませなければ聞こえないほどだった。だが、また進み始めたケンジを、ビアンは呼び止めなかった。こっそり下を見ていれば、うつむきながら去っていくビアンの顔が少し、見えた気がした。