ファントムシープ〜take your tears〜
01 怪盗ファントムシープ
「俺だ、報酬はタマムシ銀行に振り込んでくれ、あぁ、いつものを頼む、極上の奴だ」
 葉巻代わりの葉っぱを口に銜え、俺はダンディに告げた。背景が夜景であれば実に絵になったであろうが、惜しむらくはここはただのカフェテリア、中々に洒落た店であるのがせめてもの救いだろう。
「なに、エルちゃんお腹すいたの? 今おやつ出すからちょっと待って」
 カフェテリアのバイト店員である我がマスターがポケットの中からポロックケースを取り出すとキューブ状のお菓子を幾つか、俺に手渡した。
「エルちゃんの大好きな甘い奴だから、もうちょっと大人しく我慢しててね」
「我がマスターよ、俺は別に甘い味が大好きな訳ではない、子供のように扱うのは辞めて貰おうか」
 俺の訴えをマスターは軽くあしらい自らの任務に戻る。客の出迎え、料理の配膳等がマスターに課せられた任務であるが、夕食にはまだ早いが間食には遅いであろうこの時間帯にカフェテリアの客は居なかった。もっとも個人経営であるこの店が客で賑わっている姿など、元々見たことはないが。
 客の居ないカフェテリアに仕事などあるはずもなくマスターは先程から店内の掃除を続けていた。ポロックを一粒口に放り込み空いているイスに飛び乗る。
 俺もマスターの従えるポケモンとしてマスターの手伝いの一つでもするべきなのだろうが、掃除と言う仕事はこの俺と相性が悪い。埃が舞えば我が自慢の毛並みがガサガサになってしまう、水仕事などもっての他だ、ゴワゴワになった毛並みの手入れだけで半日が終わってしまうだろう。
 マスターの手伝いと毛並みの維持、どちらを取るかなど考える間でもない。甘ったるいポロックを噛み締めながら、俺はマスターの奮闘を見守った。
 
 十七時の鐘が鳴る、考え事に耽っていたらもうこんな時間か。
「エルちゃん起きた?」
 ……別に眠っていた訳ではない、思考を深淵の底へと潜らせていただけなのだ。だが、十七時の鐘が鳴ったと言うことは間もなく時が訪れるであろう、静寂に身を任せ物思いに耽る時間はもう終わりだ。
 奴が……来る!
「ただいまー」
 カフェテリアの入り口が勢い良く開き、一人の少女が入ってきた。ただいまと言う挨拶からも察せるであろうが、残念ながら客ではない。この店のマスター、つまり店主であり我がマスターの雇用主、即ちグランドマスターと読んで差し支えない人物の娘で、名前は天王寺こころと言う。
「エルちゃんただいまー」
 我がマスターのマスターの娘と言う立場を利用し、彼女は俺を盛大にもみくちゃにする。これが赤の他人であるなら、暴風の一つでも放って吹き飛ばしてやるのだが、こころを傷付ければマスターの立場が危ういであろう。
 俺は配慮の出来るポケモンだ。マスターの為にこの身を犠牲にする覚悟は出来ている。確かに毛並みは乱れるが、埃や水にまみれるよりは遥かにマシと言うものである。
 「よう、エルバラッド」
 ケラケラと笑いながら声を掛けてきたのは一羽のヤミカラスだ。こころの連れるポケモンで名前はフェネクス・パーラメント。
「お帰りこころちゃん、闇太郎くんも」
「忠実なる僕、天音美咲よ、我が名は闇太郎ではない、フェネクスである」
 フェネクス・パーラメントは魂に刻まれた名前だ、真名と言えば分かりやすいだろうが、マスターやこころは個体式別名として闇太郎と呼んでいる。
「待て、いつから我がマスターが貴様の僕となった?」
 聞き捨てならないな、とフェネクスを睨み付ける。
「我が主であるこころの虜であるオヤジ殿に雇われた娘ならば、我が僕と言っても過言ではあるまい」
「過言だ、いくら盟友たる貴様であれど、それ以上の不敬は看過出来んぞ?」
 一触即発の空気が場を支配する。俺の巻き起こす逆巻く嵐が奴の翼を飲み込むのが早いか、それとも奴の放つ常闇の波動が俺を包み込む方が早いか。勝負は一瞬で決まる……!
「二匹とも挨拶して仲良いね、エルちゃんもう少し掛かるからこころちゃんに遊んでもらってて」
「待て、我がマスター、俺がこころに遊んでもらっているのではない、俺がこころと遊んでやっているのだ」
 マスターの空気を読まない発言に訂正を要求するが、やはりマスターは聞く耳持たずだ、何せそもそも言葉が通じない、所詮俺はエルフーン、トレーナーとポケモンは心を通じ合わせるなどと言うがそんなものは嘘だ。言葉一つ通じないのに心が通じるわけがない。
「エルちゃん、大人しく遊んでもらえ」
 フェネクスがニヤニヤとしながら言った。今すぐ消し飛ばしてやりたいが、こころに抱き抱えられている状態で暴風を放とうものならばこころまですっ飛んでしまうだろう。言葉の暴力には、やはり言葉をもって返すべきだろう。
「嫉妬は醜いぞ、闇太郎」
 フェネクスは闇太郎と呼ばれる事を酷く嫌う。己が主であるこころは許容しているようだが、我がマスター美咲やこころの親父殿から呼ばれた時などは全力を持って抗議している、もっとも言葉が通じていないのでまったく伝わっていないのだが。
 抗議が通じていないので容認せざるを得ないのだが、言語の通じるポケモン同士となれば話は別だ。
「貴様、どうやら死にたいらしいな」
 勿論、フェネクスの奴も俺がこころに抱き付かれている以上必殺の一撃を放つわけにもいかない。敬愛する主を巻き込む事などフェネクスに出来るはずがないのだ。
「……不毛だな、おまえはもふもふだが」
「そうだな、俺の自慢の毛並みは……おまえの主にぺったんこにされつつあるが」
 俺達は争いを辞めるとしばらくそのままこころにもみくちゃにされるのを受け入れる事とした。
 思う存分俺の毛並みをもふり堪能したこころは唐突に何かを思い出したように顔を上げた。
「ねぇ、美咲ちゃん」
「どうしたの?」
「明日って暇?」
「明日? 別に用事はないけど、どうして?」
 明日は休日で授業はない、バイトのシフトも入っていなかったはずだ。そもそもこの店にバイトが必要なのかも怪しいところだ。
「暇だったら行きたい場所があるんだけど、連れてって欲しいの」
「何処かにもよるけど、こころちゃんは何処に行きたいの?」
「あのね、美術館に行きたいの」
 美術館か、一度我がマスターと共に訪れた事があるが、この街の美術館は中々の規模で一日時間を潰せるものだ。しかしこころの足で歩ける距離ではなく、バスを使わなければ到底辿り着く事は出来ないだろう。
「考えてる通りだよ、こころは独りではバスになど乗れぬ」
「まぁ、そうだろうな」
 だからこそ、我がマスターに連れていって欲しいと頼んでいるのだ。
「俺が付いていれば大丈夫だと言っているのだがオヤジ殿は認めてくれぬのだ」
「おまえが付いていたところで当てにならんからな」
 俺とてバスの乗り方も運賃の払い方も万全だが、それをこころに伝えられる自信はない。しかし、我がマスターが一緒ならば何の問題もないだろう。
「美術館ね、店長が良いって言ったら連れてってあげる」
 我がマスターが快く答えるとこころは元気良く飛び上がり、親父殿へ許可を貰うために駆け出した。俺の事は降ろして欲しかったのだが、子供のわがままに応じるのも紳士の務めとして、大人しく振り回されるとしよう。
 
 翌日、俺とマスターはこころとフェネクスを連れて美術館へ向かっていた。
 昨日、親父殿から許可を貰った時の浮かれようとは別人のように今は落ち着いていた。バスの中でもいつもより大人しく、たまに押し黙るようにクッション代わりに俺を抱き締める。
「フェネクス、こころの元気がないような気がするが大丈夫か?」
「……まぁ大丈夫だ、体調が悪い訳ではない」
 体調が悪い訳ではない、とは少し気に掛かる言い方だ。
「何かあったのか?」
「いや、単に久し振りに美術館に来れたから、少し緊張しているのだろう」
 久し振りだから緊張している、そう言うものなのだろうか。俺も美術館に行くのはずいぶんと久し振りだが特に何もない。
「今回はずいぶんと間が空いてしまったからな」
「今回? それだとこころは何度も美術館に来ているように聞こえるが」
「言ってなかったか? こころはよく美術館に来ていた、母親の関係で昔は特に」
 だが最近は中々美術館へ足を運ぶことが出来なかった、とフェネクスが続ける。そんなにしょっちゅう美術館に行っていたのか。いや、それよりも。
「そう言えば、こころの母君にはお会いしたことがないな、カフェテリアで見掛けた事はないが」
「こころの母親は……いや、どうやらバスが着くようだ、この話はまた今度としよう」
 露骨に話を切った、と言うようにしか見えなかった。あまり話したくはないのだろう、ならば無理に聞き出そうとはするまい。
 例えば、昔は母君に連れてきて貰っていたが、今は体調を崩していてそれも出来ないとか。一度も会ったことがないのは店に出れないから、あるいは入院でもしていていないのかもしれない。
 俺はこころに抱えられたままバスを降りる。まるでぬいぐるみのような扱いなのが遺憾であるが、こころが望むのであれば受け入れよう。
「こころ、疲れてきたら降ろしても構わないからな」
「おまえ、チビで軽いから大丈夫だろ」
 フェネクスの余計な一言が俺の神経を逆撫でするが、こころの腕の中で暴れる訳にもいくまい。
「俺はおまえと違って大人だから、おまえの焼きもちも受け流してやろう」
 今、明らかにフェネクスが悔しそうな顔をした。大人だから、などと宣ったものの、俺もまだまだ大人げないなと、自嘲気味に笑った。
 美術館の入り口でチケットを買い中に入る。マスターはパンフレットで順路を確認していたのだが、こころはそれをしない、順路などお構い無しと言った様子で歩き出す。
「あれ、こころちゃん? 順番に見ないの?」
「ごめんなさい、どうしても見たい絵があるの」
 こころの言葉にはいつもは感じられないいじらしさがあった。フェネクスは何度も美術館には来ていると言っていた。つまり、その絵を見るために来ていた、と言うことだろうか。
 そんなにその絵が好きなのか、それとも何か思うところがあるのか、俺を抱きかかえるこころの腕に自然と力が入る、こころの胸から伝わる鼓動が速く大きくなっていくのがよくわかった。
 今にも駆け出したくなるのを必死に抑えるこころは、やがて一枚の絵画の前で足を止めた。
  
 それは、心が温かくなるような、優しい絵だった。大きな愛を込めた、それが伝わってくる絵だ。
 こころの手が弛み、俺はそのまま床へと落とされる。尻餅を付くほどどんくさくもないし、落とされて危ない高さでもないが、いきなり手を離されるのはやはり気分が良くはない。文句を言うつもりはないが、恨めしそうにこころを見上げ、俺はぎょっとした。
「こころ?」
 彼女の頬をゆっくりと涙が伝った。まっすぐに絵を見つめるこころの瞳から止めどなく涙が溢れてくる。
「どうしたこころ!」
「こころちゃん!?」
 こころの様子に気付いたマスターも慌てた様子で呼び掛ける。
「ごめんなさい、大丈夫、大丈夫だから」
 大丈夫と言われてはそれ以上問いただす訳にはいかず、マスターはこころが泣き止むまで寄り添っていた。
 何がこころの胸に響いたのか、俺はもう一度絵を見上げた。低い位置から見上げると、絵の下に作品の詳細が記載されたプレートがあることに気付く。タイトルは「天使の贈り物」で作者の名前は桐生花音、美術に詳しい訳ではない俺には、タイトルも作者の名前にも聞き覚えはない。描かれた年代は、つい最近、二年前だ。
 もう一度今度は絵の方に注目する。天使の贈り物と言うタイトルならば、この絵に描かれている女の子が天使なのだろうか。優しく暖かい絵ではあるが、感涙するほどとは思えないのは、俺の心が汚れていたりするからなのだろうか。そうだとしたら少し自分を改めようと思う。
「……ん?」
 何がきっかけと言うわけではない。唐突になんとなく、と言うのが一番適切だろう。
「もしかして……」
「あれ、こころちゃん? 久し振りだねー」
 突然掛けられた声に俺は思考を中断した。どうやら声を掛けてきたのは美術館のスタッフらしい女性だった。
「あ、はぐみさん」
 こころは慌てて涙を拭い笑顔を作った。その儚く優しい笑顔を見て、俺は確信する。
「こころちゃん、知り合いなの?」
 マスターは驚いたようにこころとスタッフを見比べた。
「椎名はぐみさん、美術館のスタッフなの」
 俺はフェネクスからこころが美術館の常連である事を聞いていたが、それを知らないマスターは驚き躊躇いながらはぐみに挨拶をする。お互いに簡単な自己紹介を終え、自然と視線は天使の贈り物へと移る。
「素敵な絵ですね」
「うん」
 マスターの感想にこころが誇らしげに頷く。
「だって、お母さんの絵だもん……」
 思わず問い返し掛けたマスターをフェネクスの羽ばたきが制する。それからはぐみが小さく手招きすると俺達は少しだけこころと距離を取った。
「あの絵はね、こころちゃんのお母さんが描いた絵なの」
 やはりそうか。あの絵の女の子には、少し幼く見えるがこころの面影があった、この絵のモデルはきっとこころだ。描かれたのが二年前だから二年前のこころなのだろう。
「こころちゃんのお母さんって画家さんだったんだ」
「でもこころちゃんの前ではあまり話さないでね、気にすると思うから」
 話すなとは一体どう言う事なのか、同じ疑問をマスターがはぐみに投げ掛ける。
「お母さん、二年前に亡くなっているから」
 こころの母君は二年前に亡くなっている、なるほど、それでは会えるはずがない。マスターがカフェテリアでバイトを始めたのは一年ほど前の事、こころ達と面識を持ったのも、既に母君が亡くなられた後の事だ。
 マスターは困ったように目を伏せた。俺も同じ気持ちだった、フェネクスが話を切った理由が今はよくわかる。
「……いや、良い機会だったのかもしれんな」
 フェネクスがそう言ってくれたのが、俺にとっては幸いだった。はぐみの話の補足だと言ってフェネクスはこころの母君の事を語り出す。
「こころの母親、花音は二年前ほど前に病気で亡くなった、こころの父親は知らん、少なくとも、俺がこころと出会った時にはもう居なかった」
「ちょっと待て、こころの父親とは親父殿ではないのか?」
「いや、オヤジ殿は親戚に当たる、爺さんの妹の子だったか、詳しくは聞いていない」
 フェネクスが話を切った理由がわかるなどと大層な事を考えていたのを後悔した。知らなかった、考えたこともなかった。
「よく、あんな幸せそうに笑ってくれる子になったものだ」
 こころは素直で明るく元気な良い子だ。それは俺もマスターも認めているはずだ。しかし、そんな境遇だったのなら、心を閉ざしてしまっていてもおかしくはなかっただろう。
「あの絵がなかったら、きっとこころは今も泣いてばかりだったかもしれない」
 フェネクスは、あの絵を見つめ、いや、もっと遠い何かを見つめて呟いた。
「あの絵は、こころの誕生日に母親が描いてくれた絵なんだ、有名な画家だった、こうして美術館に展示される程に、だから、花音が亡くなった時、花音が遺してくれていた物はみな無関係な者達に奪われてしまった、知り合いや美術関係者、はぐみではないぞ、色んな人間がこころに近付き、味方のような顔をして全部持って行ってしまった」
 遠い目をしたフェネクスは何を思っているのか、悲しんでいるのか、怒っているのか、俺にはもう想像が及ばなかった。
「すべて奪われて捨てられたこころを受け入れてくれたのが、今のオヤジ殿だ、それからまた半年くらいした頃か、オヤジ殿が突然この美術館に連れていってくれたんだ」
「そこで……見つけたんだな、この絵を」
「ここに花音の絵があると知って連れてきてくれたんだろうな、そして思い出したんだよ、花音はよくこう言っていた、元気で明るい素直な子に、この絵を描いた時にも、だから自分はそうならなきゃって、母親との最後の約束だからって」
 あの子は、そんな事を隠して笑っていたのか。辛い時や泣きたい時も、母君との約束を守って笑っていたのではないかと、そんな事にも気付けなかった自分が腹立たしい。
「ここは、こころにとって、母に会える場所なのだな」
 伝わる訳はないだろうと思いながらも我がマスターに訴える。
「マスター、また来よう、何度でも、こころも連れて」
「うん? そうだね、またみんなで来ようね」
 心が通じたのかはわからないが、この時、俺もマスターも同じ事を願っていたに違いない。彼女の笑顔を、守りたかった。
 
「ごめんなさい、美咲ちゃん」
 こころが絵から離れるとまずはそう一言謝った。
「ううん、もういいの?」
「うん、じゃあ他の見に行こ」
 こころの伸ばした手をマスターが取ろうとした、その時だった。突然甲高い怪音が響き渡った。
 金属音にも似た不快な音だった。思わず抱き合う二人を咄嗟に庇い辺りを警戒する。一瞬フェネクスと視線を合わせる、絵のある壁側を背にして俺が右方向、フェネクスが左方向、しかし周りに居るのは俺達と同じく突然鳴り響いた異音に驚いている入館客だけだ。
 何もない、何も起こってはいない。またフェネクスと顔を見合わせてから警戒を弛める。一体なんだったのだろうか、前後左右、もう一度辺りを見渡し、俺はそれを見つけた。
「フェネクス、あれはなんだ?」
 俺は天使の贈り物の絵の下にあったプレートを指差す。いつの間にか、プレートの上に一枚のカードが貼り付けられていた。
「なんだそれは?」
 フェネクスに聞かれ、俺はカードの内容を読み上げる。
「今宵、天使の贈り物戴きに参ります、code:Venti」
 コード、ベンチ? いやヴェンティか? どういう意味だ、いや、意味と言ったら他に受け取りようがない、コードヴェンティと言う言葉に聞き覚えはないが、つまりそう言うことだろう。
「フェネクス、どう思う?」
「そりゃあ、天使の贈り物を貰いに来るって事だろう?」
「もしかして、あれか? 予告状って奴か?」
「まぁおまえの考えてる通りじゃないのか? そうとしか読めんだろ?」
 やはりそうだろう。いや待て、落ち着いている場合ではない。俺もフェネクスも、意味を理解しても、事態を認識するのに少々時間が掛かった。
「マスター、大変だ、これを見てくれ!」
「わっ、びっくりした、エルちゃんどうしたの?」
 俺は慌ててマスターに予告状を指し示す。まずマスターが予告状に気付き、それをきっかけ近くの人達も釣られて予告状を覗き込む。騒ぎになるのに時間は掛からなかった。
 こんな物をこころに見せるわけにはいかない、フェネクスが上手く引き離そうとしてくれていたが、周囲の人の声までは止めることが出来なかった。
 コードヴェンティと言うのは怪盗の名前らしい、話している声が聞こえた。俺に聞こえたと言うことはマスターにも聞こえただろうし、フェネクスやこころにも聞こえてしまったと言うことだ。
 怪盗ヴェンティ、今夜、天使の贈り物を盗みに来る。こころにとって唯一残された母君との繋がり、それが今、再び奪われようとしている。
「こころ!?」
 ぼろぼろと溢れる涙を、俺には止めてやる事が出来なかった。震える唇をただ見ているしか出来なくて、瞳に映る絶望をどうすれば拭ってやれるのかもわからなかった。
 
 帰り道の空気は辛かった。泣き疲れて眠ってしまったこころはマスターに背負われている。時折うなされている様子を見れば、眠ってしまえたのがせめてもの幸いとも言えない。目の前の現実が辛すぎて、でも夢へと逃避する事さえ許されない。
 こころはまだ子供だ、それが、何故こんな仕打ちを受けなければならないのか。誰が、こころをこんな目に合わせているのか。
「警察が来て、警備はしてくれるって」
 予告状の第一発見者として、警察から聴取を受けたマスターがそう呟いた。だから大丈夫、嘘だ、相手は未だに捕まった事のない怪盗だそうだ、警察なんて当てになるものか。
「フェネクス、少しいいか?」
「ダメだ、おまえは関わるな」
「おまえは、か」
 こころの事を一匹で背負い続けてきたこいつは、また一匹で背負い込むつもりらしい。だがこちらも引き下がるつもりはない、己の無力さを嘆いたばかりで、その笑顔を守ってやりたいと誓ったばかりなのだ。
「付き合わせろよ、泣いてる女の子を放って置くなんて出来るか」
「危険な橋だぞ? 捕まれば二度と美咲の元へ戻れないかもしれない、それどころか、美咲達まで巻き込む事になるかもしれない」
「危険は承知の上だ」
 もう止まれないし止められない、止まるつもりなどありはしないのだ。
 しかし、俺もフェネクスもバトルは得意でない事はわかっている。マスターもこころもポケモンバトルの経験などろくにない、その手持ちである俺達もバトルの経験はほぼ皆無。怪盗から絵を奪い返す事も、怪盗と戦って止める事も現実的に不可能だろう。
「怪盗より先に絵を盗む」
 方法はそれしかなかった。
 
 夜になって、俺はフェネクスと合流していた。おまえの白い毛並みは闇夜で目立つと指摘された為、今は黒いマントで全身を覆っている。
「はは、似合ってるぜ、いっそ仮面でも用意しておけば良かったな、怪盗らしくシルクハットとかよ」
 フェネクスの叩いた軽口に上手く笑い返せなかった。あいつもふざけている訳ではない、これからしでかす大罪に押し潰されそうになる心を奮い起たせようとしているのだろう。
「おまえだって身を隠す用意くらいしてくれば良かったんじゃないか?」
「俺は自前の黒い翼が何より夜の闇に溶け込めるから良いのさ」
 なるほど、もっともだ。
「それだけ言えるなら大丈夫そうだな、思ったより落ち着いてそうで何よりだ」
「と思うだろ? 情けない事に翼が震えてやがる」
「奇遇だな、俺もだ」
 美術館に忍び込んで絵画を盗み出す、普通に犯罪行為だ、平気で行える方が普通ではない。おまけに失敗すればどうなるのかだってわからないのだから尚更だ。
「よし、じゃあ名前を付けよう」
 突然フェネクスが提案した。
「どうしたんだおまえ?」
「怪盗ヴェンティ、名前を聞いただけで凄そうだろ? だから俺達も名前を付けるんだよ、怪盗なんとかって、怪盗だって思っただけで上手く行きそうな気になるだろ?」
「自己暗示みたいなものだな、名前を付けるだけで自信が付くなら安いもんだ」
「で、なんか良い名前はないか?」
 俺が考えるのか。どうせならカッコいい名前が良い、カッコ悪い名前の怪盗なんてすぐに捕まってしまいそうだ、縁起が悪い。
「……ファントムシーフ、でどうだ?」
 幻影の盗賊(ファントムシーフ)、幻ならば捕まえる事は出来ない、そんな願掛けも込めてみる。
幻影の盗賊(ファントムシーフ)って言うよりは害悪羊(ファントムシープ)だな」
「なんかニュアンスに不快な物が混ざった気がするが、語感は気に入った、そいつにしよう」
 怪盗ファントムシープ、良いじゃないか、この作戦も成功しそうな気になってくる。あとエルフーンらしくてちょうど良い。
「……エルバラッド、ありがとな」
「どうした急に、おまえがそんな事を言い出すなんて気持ち悪いぞ?」
「たまには良いだろ、感謝してるのは本当だ、今回の事だけじゃない、こころはいつもおまえや美咲に助けられてる、こころにはおまえが必要だ」
「だから捕まるなよって? その言葉はそっくり返すぞ、おまえが居なくなったってこころは悲しむんだ、お互い、絶対に無事に戻るんだ」
 必ず帰ることを約束し、俺は立ち上がった。
「怪盗ファントムシープ、出陣するぞ」
 
 フェネクスは不服そうにしていたが、実行犯は俺が担当することにした。闇夜に紛れる事はフェネクスの方が上手かもしれないが、建物に侵入するとなれば話が変わる。建物内で羽ばたけば目立つことこの上ないのだが、飛ばずにフェネクスの足で歩くとなると遅すぎる、これは鳥ポケモンなので仕方ないだろう。つまり、フェネクスが美術館に忍び込むのは難しいのだ。
 従ってフェネクスは上空待機、退路の確保と状況把握に努めて貰う。
 逆に俺は、普段は発揮する事のない能力をフルに活用する。
 エルフーンと言うポケモンは意外と大きいが重さは大したことがない。何故かと言うと単純に体毛が膨れているから大きく見えるだけであり、本体部分と言うか、身体はそれほど大きくないのだ。普段の見た目ではどう見ても通り抜けることは不可能に見える隙間でも、自慢の毛並みは潰れるが通り抜ける事が出来る。エルフーンが壁をすり抜けた、と言われたりするのはこの為だ。
 おまけに、こころでも抱えられる俺は、エルフーンの中でもかなり小柄な方である。他のエルフーンでは通れないような狭い隙間もすり抜ける事が出来るだろう。
 侵入経路は僅かしか開かないトイレの窓である。このくらいの隙間があれば、俺には充分と言うわけだ。普段なら小柄な身体を気にしているところなのだが、今日ばかりは自分の小ささに感謝した。
 天使の贈り物の展示場所を思い出しながらこの後の道筋を確認する。闇に紛れて忍び込むのには便利だった黒いマントだが、館内は警備の人間や警察達がいるため当然照明が点いているようだ、逆に黒は目立つ、畳んで体毛の中にしまい込む。ここからは見つかればゲームオーバーと、気を引き締めてトイレを出た。
 通路の警備は拍子抜けする程厳しくはなかった。各所に配置こそしているものの、全神経を集中させて警戒している訳ではない。そうでなければ俺が奥に進むことは難しかったであろう。
 そう言えば予告状には今宵としか書いていなかった。今夜では時間に幅がありすぎる。常に警戒し続けるのは難しいかもしれない。
 何より相手は決して捕まらない怪盗だ、警察としては威信に賭けて逮捕したいのであろう。つまり、今配置されている警察達は、怪盗ヴェンティの侵入を防ぐ為のものではなく、脱出を阻む為の者と言うことである。
「侵入より脱出の方が手間が掛かりそうだ」
 とは言え、この警備は予想していなかった訳ではない。マスターの聴取の際に逮捕への意気込みは見て取れた。何せ泣きじゃくるこころを無理矢理引き離してまで我がマスターへの聞き取りを敢行しようとしたくらいだ。
 もっとも、そのせいで警察への不信感が高まりこうして侵入を決めたのだが。最悪、絵を犠牲にしてでも怪盗の逮捕に踏み切るかもしれない。警察にとっての最優先は怪盗の逮捕かもしれないが、俺達にとっての最優先は天使の贈り物の保護である。目的が違うのだ。
 思い出したら腹が立ってきた、と警備の杜撰さに油断していたらしい。
「おい、そこに誰かいるのか?」
 近くで声がした。見つかった、だが捕まる訳にはいかない、咄嗟の反射は我ながら見事なものであった。
 振り向くと同時に隠し持っていたマントを拡げ目眩ましとする。さらに一気に床を蹴り警備員に肉薄すると背中に背負った綿状の体毛から突っ込んだ。
 こころはおろか、我がマスターですら顔を埋めて眠りたくなる自慢の毛並みである。ふかふかであればこそダメージなどは何もないはずだ。ただし、痺れ粉を含ませた、しばらくは身動きが取れないだろう。
「すまないな、ちょっとしたイタズラ心だ」
 俺は倒れた警備員に背を向けると先を急いだ。
 その後も警備の目を掻い潜り、なんとか天使の贈り物が展示されていた部屋までたどり着いた。しかし、そこは怪盗を誘き寄せ捕まえる為の最重要拠点である、さすがに警備が厳しく、絵を奪う隙は見つかりそうにない。
 部屋の中への侵入は難しいか。近くに身を潜め隙を伺っていると、状況の変化は直ぐに訪れた。
「大変です、北側展示室前、巡回が倒れているのを発見しました!」
「ヴェンティの仕業か!?」
 俺の仕業だった、さっき痺れ粉で麻痺させた警備員だろう。
「ヴェンティはここにいるぞ! 警備を固めろ! 人っ子一人逃がすな!」
 不味い、ヴェンティが本当にここにいるかすらわからない状況では、最悪の場合、俺がヴェンティとして捕まり、警備が解かれた後に悠々と絵画を盗まれてしまう、ますます見つかる訳にはいかなくなってきた。いや俺が無事にマスターの元へと戻るには初めから見つかる訳にはいかないのだから関係ない、プレッシャーを追い払うように言い聞かせる。
 警察の一人がヴェンティ出現の報を打とうとした、その時だった。
 何かが弾けるような音と共に照明が消えた。停電か? 勿論こんなタイミング良く起きた停電が偶然なはずはない、警官達が明かりを灯すより早くぼんやりとした薄明かりが室内を怪しく照らす。
 そして、薄明かりの中に人影が浮かび上がった。怪盗ヴェンティ、奴が現れたに違いない。
 しかし、まさか警察と怪盗が睨み合う中に突っ込んで行けるはずもない、まずは様子を伺いながら、そこまで考えて視界が揺らいだ。
 目を瞑り、思い切り頭を床に叩き付ける。それで正気を失う事はなんとか阻止した。あの光は怪しい光、見た相手の正気を失わせ、所謂混乱状態と言う物に陥れるものだ。俺は怪盗とは距離があったおかげで効果が薄かったが、間近であの光を直視した警察達は無事では済むまい。
 ぼんやりとした光が薄まり、代わりに今度は激しいフラッシュが周囲を照らし出す。怪盗の傍らに控えるのはムウマージとエレキブルだ、照明代わりに周囲を照らしているのはエレキブルの方、その進化前であるエレブーは電気を食い街を停電にするとも言われるポケモンだ、つまり、この照明が消えたのもエレキブルの仕業だったのだろう。
 周囲を闇に落とし込んでからの怪しい光による撹乱は完全に成功したと言える、もはや周囲の警官達も、彼らが連れてきたポケモン達も役には立たないであろう。邪魔する者はいない、奴は堂々と絵に手を掛けた。
「その手を離せ!」
 当初の作戦は失敗である。だからと言って、このまま天使の贈り物を渡すわけにはいかない。勝算は低いが、真っ向勝負にて奪い返すしか手はない。
「エルフーン? なんだ貴様はまさかこの絵を守りに来たとでも言うつもりか?」
「その絵を渡すわけにはいかない理由があるんでな」
「理由? 例えどんな理由があるか知らんが、この絵は我々にこそ相応しい」
 怪盗ヴェンティの傲慢な態度に頭が沸騰しそうになる、こころ以上にその絵の持ち主に相応しい人物などいるはずがない。怒りに任せて放ちかけた暴風を辛うじて抑える。絵に手を掛けた奴を攻撃すれば、絵も危険に晒される、それでは意味がない。
 ……あれ?
 怒りを抑えようとして冷静になり、ふと気付く。こいつは、怪盗ヴェンティは、どうして俺と会話が成立している、ポケモンとの会話が成り立っているんだ?
「しまった!?」
 俺がその理由に気付いた時にはもう遅かった。ヴェンティの姿が揺らぎ、一匹のポケモンへと変わる。ゾロアーク、幻影を纏い己の姿を惑わせるポケモンだ。つまり途中から、あるいは初めからか、ヴェンティはゾロアークと入れ替わっていたのだろう、だからポケモンとの会話が成立した。
「戻れ」
 三本の光線がゾロアーク達をそれぞれ捉えると、赤い光となって彼の手元へと吸い込まれていく。同時にエレキブルが消えたことで周囲は再び闇に包まれた。
 咄嗟に駆け出し天使の贈り物があったはずの壁に触れる。何もない、そこに天使の贈り物は残されていない。
「やられた!」
 いや、まだだ。赤い光が消えた方向、おそらくヴェンティが逃げたであろう方へ急ぐ。
 暗闇を駆けていると何処からか硝子の割れる音が聞こえた、ヴェンティは外へ逃げた、俺もそれを追う。直ぐに硝子の割れた窓を見つけて、その隙間から俺も空へ身を踊らせた。
 
「フェネクース!」
 俺は空へ向かって全力で叫んだ。打ち合わせは無しだが、あいつなら来ると信じていた。二階の窓から身を投げ出した俺をフェネクスが空中で拾い上げる。
「バカかおまえ! 死ぬ気か!?」
 フェネクスは俺を罵ったが、俺はフェネクスを信じていた。上空で待機していたフェネクスが窓硝子を割って飛び出したヴェンティを見逃すはずがない、状況の把握の為にすぐ近くにいるのは当然の事とも言える。ならば飛び出して叫べばフェネクスは必ず来てくれると確信があった。
 勿論それを懇切丁寧に伝えるつもりもないし、何よりも時間が惜しい。
「絵を盗られた、追うぞ」
「じゃあさっきのがヴェンティか」
「追えるか?」
「おまえを拾うので出遅れたが、位置はわかる」
 フェネクスは俺を掴んだまま大きく羽ばたくと空へ舞い上がった。さらに加速し直ぐにそいつを補足する。
「捉えた!」
「でも攻撃はするな、絵を傷付ける!」
 攻撃態勢に入りかねないフェネクスを制しヴェンティへ接近する。
「フェネクス、幾つか頼まれてくれ!」
「わかった」
 俺が短く要件を伝えると、フェネクスは俺をヴェンティ目掛けて投げつけた。着地点はヴェンティの前方、逃走経路を遮るように着地する。
「止まれ!」
「まさか、さっきのエルフーン、追ってきたのか」
 ヴェンティが驚き足を止める。美術館の敷地内、塀のギリギリ内側だ。俺を投げたフェネクスは再び高く飛び上がり一度別行動を取る、単独で止めに来た、そう勘違いしてくれれば、俺達がヴェンティの隙を突くチャンスが生まれるかもしれない。それまで、俺がなんとか奴の意識を引き付ける。
「フッ、私をここまで追い詰めたのは君が初めてかもしれないね」
 追い詰めた、と言ってもまだ追い付いただけに過ぎない。いや、これまでそれすらも出来た相手はいない、と言うことだろうか。
「しかし私を捕まえる事は出来ない、ヴェンティと言うのは風と言う意味でね、風は囚われない、誰も私を束縛する事は出来ないのさ」
「奇遇だな、俺は幻影の羊(ファントムシープ)、幻は捕らえられない、その手からこぼれ落ちてしまうのが幻と言うものだ」
 売り言葉に買い言葉と言う感じで返す。だが無意味に話し掛けた訳ではない、またゾロアークが化けている可能性もある、会話を返してきたらそれはゾロアークだ。
「私は囚われる訳にはいかないのでね、そこを退いて貰うよ」
 返してきた言葉は会話にはなっていない、ゾロアークではない、いや、化けた上での演技と言う可能性だってある。
 ヴェンティが投げたボールから飛び出してきたのはムウマージだった。先程怪しい光で警察を手玉に取っていたあいつだ。直接叩き合いが得意そうな見た目ではないが、油断は出来ないだろう。それに、ヴェンティ本人も何をしでかすかわからない、実はゾロアークでいきなり攻撃を仕掛けてくる可能性だってある。警戒は必要だ。
「さぁ、ロンバルド、君の力を魅せ付けてやれ」
 ヴェンティが歌うように言った、瞬間ロンバルドと呼ばれたムウマージが目にも留まらぬ速度で間合いを詰めてくる。速い、そして見た目に合わず仕掛けてきた接近戦に意表を突かれる。
「くっ!?」
 咄嗟に俺は防御を固めた。エルフーンの綿のような体毛は膨らませる事で衝撃を吸収する盾にもなる。ロンバルドに弾き飛ばされた俺はワンバウンドして地面に転がされた。衝撃は吸収出来たからダメージは少ない。
 さらに続けてロンバルドが突っ込んでくる。不味い、遠距離攻撃なら逃げ回って凌げるかとも思っていたが、こうも接近戦を繰り返されたら受けきれなくなる。
 ロンバルドの腕の一撃をギリギリで躱し、そのまま思い切り蹴り飛ばされた。地面を転がりそのまま塀に叩き付けられる。
「痛ってぇ、でも今のでわかった、おまえ、ゾロアークだな?」
 俺の指摘にロンバルドは攻撃の手を止めた、図星だ、こいつはムウマージなんかではない、その正体はゾロアークだ。
「なんでわかった?」
「……足、蹴ってきただろ? どう見ても足が届かないだろ、それ以前に足あるのか?」
 ゾロアークの変装はあくまでも幻を纏うだけのもの、手や足の長さ、元々の体格は変わらないらしい。そうでなければ、今の攻撃は説明が出来ない。
「そんなところから俺のイリュージョンを見破った奴は初めてだ」
「そいつは光栄だ、褒めるのなら褒美の代わりに一つ教えてくれないか?」
 問い掛けに対して返答はなかったが、攻撃もない。
「あの絵がおまえ達にこそ相応しいと言ったな、何故だ? そしてあの絵をどうするつもりだ?」
「聞きたい事は一つじゃなかったのか?」
 ロンバルドがニヤニヤと笑いながら返す。確かに二つになっていたな、そんな事はどうでも良い。
「答えろ、怪盗」
「あの絵は美しい、我々の所有物になる資格がある」
 つまりこいつらは美術品を集めるだけ、と言うわけだ。ただのコレクターだ、あの絵に込められた意味も何もわからずに収集しようと言うただの犯罪者に過ぎない。
「ありがとう、おかげでよくわかった、おまえらにあの絵を持つ資格はない、返して貰う!」
「エルバラッド!」
 フェネクスが叫んだ。見つけて来たぞとロンバルドへ向かって落とされたのは、ただの木の板だった。だが突然降って湧いたそれにロンバルドは反射的に横に避ける。おかげでわずかであるが隙が出来た、俺と怪盗を遮るものは何もない。
 この隙を逃すものか、全速力で地面を蹴り、ロンバルドの横をすり抜け、地面に刺さった木の板を引き抜き、怪盗ヴェンティに向かって駆け出す。
「悪いが、こう見えて実はイタズラ好きでね」
 体毛の中にしまい込んでいたマントを目眩ましにしてヴェンティと接触する。交差したのはわずか一瞬、弾かれるように距離を取る。手にした木の板をマントでくるみ、それを高く掲げた。
「フェネクス!」
「任せろ!」
 飛来したフェネクスがそれを引っ掴み上昇する。マントで包みはしたが、爪だけは立ててくれるなよ。
 これで、俺の役目はほとんど終了したと言えるだろう。
「こう見えて実はイタズラ好きでね」
 もう一度同じセリフを繰り返す。
「すり替えさせて貰った」
「なっ!?」
 ロンバルドが慌ててヴェンティの元へと駆け寄り、絵を確認する。否、絵ではない、ただの木の板だ。
「ロンバルド、今のヤミカラスを追え!」
 ヴェンティが絵を奪い返すように命じるが、それをさせる訳にはいかない。この身を挺してでも食い止める。
「あの絵の価値もわからぬポケモンが!」
 ロンバルドが口にしたのは、奴にとっては何気ない言葉だったのだろう。だが俺達はあの絵の意味を知っている、あの絵に込められた願いを知っている。
「価値がわかっていないのはおまえ達だ!」
 ゾロアークの姿に戻ったロンバルドの爪を綿毛で受け吠える。
「あの絵は、母君が愛する娘へ向けたものだ!」
 地力が違いすぎる、蹴り飛ばされて地面に叩き付けられた。
「あの絵は、おまえ達には相応しくない」
 ロンバルドが攻撃は一撃一撃が重い、何度も何度も叩き付けられ、捩じ伏せられ、打ちのめされる。立ち上がる力だってもう残っていない。きっと、俺はこいつには勝てないだろう、それでも、心までは屈しない。
「あの絵は……こころと母君を繋ぐものだ」
「さっきから何を言っている?」
 ロンバルドが俺を掴み上げ問い掛ける。
「あの絵は……母君が……こころへ向けた……贈り物……」
 こころが母君に向けた笑顔は、まさに天使の贈り物だろう、だけどそうじゃない、この絵は、母君がこころに向けた贈り物、天使への贈り物なのだ。
「……娘への贈り物か」
 ロンバルドの手が放され、そのまま俺は地面に落ちる。大した高さではないが、着地する体力はない、そのまま無様に地面に転がる。
 フェネクスは無事なところまで逃げただろうか。しかし、絵は無事でも俺がやられたら結局こころを泣かせてしまうかもしれない。我がマスターも泣くだろうか、泣くだろうな。
 でもダメだ、やっぱり逃げる力は残っていない、すまないマスター。
「行くぞ、薫」
 だがロンバルドはそのまま俺に背を向けた。行く? 何処へ? フェネクスを追うつもりだろうか。
「……待て」
 フェネクスは追わせない、少しでも時間を稼がないと。その結果、例え俺がやられる事になったとしても。
「無理をするな、美しいものは愛でる主義だ」
 しかしロンバルドはそう告げた。
「もう追い掛けるのは無理だ、戻れ」
 ヴェンティがロンバルドをボールに戻す。追い掛けるのは無理? 諦めたのか?
 足音が遠退いていく。代わりに聞こえてくるのは遠くの喧騒、あぁ、今頃美術館の方では電気も戻り混乱していた警察達も正気になって大騒ぎしているのか。
 それから羽ばたきの音と俺を呼ぶ声が聞こえてくる。
「エルバラッド、無事か? しっかりしろ!」
「……あぁ、フェネクスか」
 どうやら助かったらしい、絵も無事だろうか、そう思ったら全身の力が抜けてきた。悪い、少し休む、そう言葉にした声が、あいつに伝わったのか、よくわからなかった。
 
「生きてるか?」
 フェネクスの声で目を覚ました。何処だここは、辺りは暗い、まだ夜なのか。全身がまだ痛むが動けない程ではない、回復具合からそれほど時間は経ってなさそうだ。
「あの後どうなった?」
「とりあえずぶっ倒れたおまえをうちまで運んだ、動けるか?」
「なんとか、絵は無事か?」
「あぁ、こころの部屋に置いてある」
 ホッと胸を撫で下ろす想いだ。
「帰れるか? こっそり抜け出して来てるんだろ、気付かれる前に戻らないと心配されるぞ?」
「もう少し休んだら戻るさ、どちらにしろこんなにボロボロでは心配されるだろうけど、その前にもう一仕事、後始末をしていかないとな」
「後始末?」
「怪盗に盗まれた絵画がここにあったら不味いだろ、ここにある理由を作らないと」
 それは怪盗ファントムシープとして最初の仕事の最後の仕上げだ。
「怪盗ならやっぱり予告状、終わった後だから予告じゃないか、とにかく、怪盗からのメッセージを残さないと」
「なるほど、確かに、なんでこころがその絵を持っているかなんて言われたら困るな、怪盗が置いていった事にするのか」
 俺はもふもふの体毛の中から用意してあったメッセージカードを取り出す。ロンバルドとの戦いで端が折れてしまっていたが、仕方がない。
「でもメッセージなんて言っても何を残せば良いんだ?」
「奪われた天使の贈り物取り返しましたとか?」
「それ、怪盗の出すメッセージか?」
 言われてみると確かに怪盗らしくない。怪盗と言うくらいだ、やはり、何かを盗まなくてはいけない気がする。しかし俺達がやった事と言えば、本物の怪盗に盗まれた絵を取り返しただけ、何も盗んではいない。
「いや、一つだけ盗めそうなものがあった」
 俺はペンを走らせる。
「どうだ?」
「良いな、それで行こう」
 俺達は顔を見合せニヤリと笑った。
 
 昨夜のニュースです、ミッシェル美術館に巷で話題となっている怪盗ヴェンティからの予告状が届き、犯行は現実の物となってしまいました。
 盗まれたのは桐生花音作、タイトルは「天使の贈り物」と言う二年前に描かれた絵画で、若くして亡くなられた鬼才、桐生花音氏の遺作としても知られるものです。
 画家桐生花音は二年前に病気で亡くなられ、それ以前から高く評価されていた彼女の作品は、彼女の死と共に行方のわからなくなってしまった物が多く、この作品は数少ない所在の明らかとなっている物でもありました。
 それが失われてしまうと言うのは大変遺憾な事件でしたが、盗まれたはずの「天使の贈り物」は意外な所から戻ってくる事となりました。
 事件の翌日である今朝、怪盗ヴェンティとは異なる名義で画家桐生花音氏の実の娘である小さな少女の元にこの作品が届けられており、警察はこの少女に絵画を届けた人物と、怪盗ヴェンティとの関係を捜査中との事です。
 絵画が届けられたのが実の娘の元と言うのは、少し素敵な話ですね。またこの「天使の贈り物」と言う作品は、桐生花音氏の実の娘をモデルにした作品とも言われており、世の中へ出す為ではなく、娘へのプレゼントとして描かれた作品なのではないかと言う説もあるそうです。
 作者である桐生花音氏が亡くなられてしまっている為、その真意はわかりませんが、この説が本当だとすると、この作品のタイトルは、本当は「天使への贈り物」だったのかもしれません。
 そう考えると、この作品が桐生花音氏の娘へと届けられたのも感慨深いですね。
 続報が入りました。ミッシェル美術館にて「天使の贈り物」の展示が再開されるそうです。被害にあったのが前日と言う事もあり、展示はしばらく見送られるのではないかと言う話も上がっていましたが、このまま展示再開となるようです。
 美術館へ「天使の贈り物」を返還した桐生花音氏の娘、天王寺こころちゃんのメッセージがこちらにも届いております。
 こころちゃんは返還の際に、お母さんの絵をもっといろんな人に見てもらって、いろんな人に好きになって欲しい、とコメントしました。お母さんの絵を返してしまうのは嫌ではないのかと言う記者の質問に対しこころちゃんは、美術館にくれば何時でも会えるから、ここに置いていて欲しい、と笑顔で答えたそうです。
 もう一つ情報が入っているようです、これはこころちゃんへ絵画と共に届けられたメッセージのようです、読み上げます。
 

 貴方の泣き顔、確かに頂戴しました。
 怪盗ファントムシープ。
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■筆者メッセージ
元ネタはゴーカ!ごーかい!?ファントムシーフをファントムシープと見間違えた事に起因します
キャラクターの名前がハローでハッピーな世界で聞いた事があるような気がするのはその繋がりです
これを呼んだ貴方、どうかドゥビドゥバをミスらずにクリアしてください、葉っぱにゃ無理です
一葉 ( 2018/10/02(火) 12:50 )