01 クロトの話
夏になると僕の住んでいるワカバタウンでは毎年キャンプ大会が開かれている。勝ち負けを決めるわけでもないのに何で大会なのだろうと夏が来る度に不思議に思っていた。
「規模の大きな集会、と言う意味での使い方もするらしい」
隣でポチポチと携帯端末を弄っていた一つ上の先輩がそう告げた。なるほどと納得する。ワカバタウンにはポケモン研究の博士が住んでいる事もあってトレーナー育成が盛んである。その為、十歳を過ぎた子供は旅に出てしまうことが多く子供の数はあまり多くはない。規模が大きいのかと言われれば首を傾げるところだ。
「拓斗ぉー、鮎姉ぇー、遅ぇぞー!」
先に進む潤が大きく手を振り俺たちを急かす。僕と同い年で町の子供の中でも活発な方である潤には僕と鮎音さんのペースは遅すぎたらしい。鮎音さんが大げさにため息をついて見せた。
鮎音さんはあまり外で遊んだりするのが好きではない、ワカバタウンでも数少ない十歳を過ぎてもトレーナー修行の旅に出なかった子供だ。そう言う僕も運動は好きだけど得意ではない。潤に言わせればとろいらしく、代わりに鮎音さんとはペースが合うのか行動が被る事が多い。
「仕方ない、急ごう、こんそめ」
こんそめとは鮎音さんの育てているウパーの名前だ。水辺に住むポケモンであるウパーはやはり水タイプらしく陸を走るのは得意ではない。さらに元々のんびりとした性格てあるためかのたのたと転びそうになりながら駆けていく。
「僕らも行こう、クロ」
僕も自分の相棒に声を掛けてその後を追う。毛玉のような小さな身体で元気良く走り出したのが僕の相棒、イーブイのクロトだ。茶色いのに黒とはこれ如何にと言われるけれど、拾ったときは真っ黒だったのだ。泥だらけに汚れているところを僕が見つけ、保護したのだ。そのままトレーナーが見つからず僕の家に来ることとなり、先月十歳になった僕が正式にトレーナーとして受け持つことになった。
ポケモン持ちの僕たちが追ってくるのを確認し潤が足を止めた。
「良いよなぁ、俺だってキャンプが来月とかだったらさー」
羨ましがる潤は来月で十歳になる、まだ自分のポケモンを持てる年ではない。
「自分のポケモンもらったら、俺、ポケモンリーグに挑戦するんだ!」
ポケモンリーグ挑戦、ポケモントレーナーを目指す子供なら誰もが一度は夢に見るあの大舞台だ。それは僕だって例外ではない、このキャンプが終わったらクロトと一緒に旅に出ようと決めていた。
そう、このキャンプが終わったら、だ。
「おぉ、到着だ」
鮎音さんが半ば棒読みで告げた。インドア派な鮎音さんにはキツい行程だったのか汗だくになっており、手にしたスポーツ飲料のペットボトルは既に空になっていた。それでも鮎音さんがわざわざここまで来たのは、それもこんそめの為だろう。
やはり水タイプのこんそめには、夏場の行軍は鮎音さん以上に厳しいものだったらしくふらふらと歩行が覚束ない。そんなこんそめだったのだが、それに気付いた途端に歓声を上げながら猛スピードで駆けていく。そしてそのまま大きな水しぶきを上げて川に飛び込んだ。さすがは水ポケモン、まさしく水を得た魚の様に泳ぎ回っている。
僕たちがやってきたのはキャンプ場から少し離れた場所にある小さな川だった。はるか上流、フスベシティから流れてくる川でそこそこの川幅と深さがあり、泳ぐのにはもってこいなのだ。
服の下に水着を着込んでいた潤は早速服を脱ぎ捨てて川に飛び込む。他にも何人かの子供が既に川に入って遊んでいた。クロトもやはりあの毛皮では暑かったのか躊躇いなく飛び込んでいく。
僕も水着用意しておけば良かった。膝まで裾を捲り上げて川に入り少しだけ後悔する。泳げないし川には入らないだろうと思った、いや、入ってたまるかと思っていたのだが、夏の炎天下を甘く見ていた。
「おっしゃ拓斗、行くぞー!」
「え、何が、ちょ、引っ張ると、待、あーっ!」
結局川の中に引き吊り込まれたり。
「よくもやったな」
「ちょ、危な、怖っ!」
川に放り込んでやったりしているうちに時間も過ぎて、少し風が涼しくなってきた。
服を乾かすからと早めに川から出ると、僕はクロトを連れてさらに上流へと向かう。キャンプ場はワカバタウン方面、もっと降った場所にある。だけど僕たちはこの山道をさらに上へと登って行った。
ワカバタウンでは十歳になる子供はほとんどがトレーナー修行の旅に出る。ポケモンを自分の手持ちとして連れ歩く為のライセンスが発行出来るようになるのが十歳から、その為ほとんどの子供が十歳になる誕生日にライセンスを発行し、数日の内に旅立つ。早い子だとライセンスを発行したその日の内に出発する子供もいる。
僕も旅に出るつもりだ、なのにその旅立ちを見送ってまだワカバタウンにいる。その理由が、今日のキャンプ大会だった。
僕はこの山道でクロトと出会った。ちょうど一年前、去年のキャンプ大会での事だった。川遊びに行った僕は潤や皆とはぐれてしまった。そして一人でさ迷っている時に倒れていたクロトを見つけたのだ。
初めはそれが弱っているポケモンだとも気付かなかった。野生のポケモンで、すぐに逃げないと、と思っている時にクロトの弱々しい鳴き声が聞こえてきた。今にも消えてしまいそうなか細い声で、危ないとか、そんなことも考えられずに気付いたら抱き抱えて走っていた。それからなんとかキャンプ場まで帰り着き、クロトの手当をしてもらった。
イーブイは珍しいポケモンでこの周辺には生息地もない。トレーナーからはぐれたポケモンではないかと疑われたが、結局親トレーナーは見つからなかった。それでクロトはうちに来ることになったのだ。当面の親トレーナーはお母さんだ。その時の僕はまだ九歳、ポケモンを持てる歳ではなかった為、お母さんの手持ちとして引き取る事になったのだ。そして十歳になった先月、お母さんから正式にクロトを引き渡され、僕が親トレーナーとなった。
保護をしたその流れでなんとなくクロトは僕の手持ちポケモンとなった。だからだ、本当の手持ちポケモン、本当のパートナーと呼んで良いのか不安だった。
だから、もう一度、この場所から、ちゃんと始めたいのだ。僕と、クロトの出会いを、こいつが僕のパートナーだって胸を張って言えるように。
うろ覚えの山道を登っていくと、少し開けた場所に出る。切り立った崖に囲まれたその場所に、ポツンと木が一本だけ、オレンの木だ。この木の下で、僕はクロトと出会ったのだ。
「覚えてる? この場所」
僕はクロトに尋ねてみる。僕はよく覚えている。この木の下で小さく丸くなり、震えていた真っ黒なポケモン。助けを求めるようなか細い声。でも僕はこの時、おまえを助けたんじゃない、おまえに助けられたんだ。
一人で、道に迷って、泣きながら歩いても景色は変わり映えしなくて、今どこにいるのかもわからない。心細くて、歩くのも辛くて、二度と帰れないんじゃないかって不安で苦しくて、それでも僕が諦めずに帰って来れたのは、手の中にもっと弱い奴が震えていたからだ。僕しかこいつを助けてやれない、そう思ったから、苦しくても、辛くても、心細くても、最後まで歩き続けられたのだ。
わかっているのか、わかっていないのか、クロトは何時もと何も変わらない様子で鳴いた。
「旅に出よう、いろんな町を巡って、ジムにも挑戦して、ポケモンリーグにだって出場するんだ、そりゃあ本当に出場できるかなんてわからないけど、でもやる前から諦めるのはイヤだよ」
僕はクロトに手を差し伸べる。
「だから、クロト、僕と一緒に来てくれる?」
改めて僕が尋ねた。クロトは差し伸べた手を駆け上り、そのままこいつの定位置である僕の頭にしがみつく。僕はそれをこいつの返事だと判断した。
「うん、これからもよろしく、クロト」
僕の言葉にわかっているのかわかっていないのか、クロトは一声鳴いた。
川遊びが長引いてしまっていたせいか、オレンの木を離れるころには既に日が傾いていた。そしておそらくはそのせいであろう、明るさが変わるだけで風景は一変する。闇が深まり平凡な道のはずの山道を容易く迷宮のように作り替える。
「不味いかな、早く帰らないと真っ暗になっちゃう」
頭の上に陣取ったままのクロトに尋ねてみても当然まともな答えなんて帰ってこない。
「おまえさ、匂いとか辿ったり出来ないよね?」
しかし返答はない。それもそのはず、こいつときたらいつの間にか人の頭の上ですやすやと寝息を立てていた。
さすがに嘆息せざるをえないが腹は立たなかった。迷ったかもしれない、それは去年とまったく同じ状況だ。去年はまだ昼間だったから、今はもっと悪い状況とも言える。だと言うのにさほど不安に感じないのは、今はポケモントレーナーと言う立場にいるからか、それとも頭の上の相棒のおかげで一人ではないからか。
くかーと寝息が聞こえてきて苦笑する。自慢の相棒はあまり頼りになりそうではないけれど、それでもその心地良い重みが今は嬉しい。
それからまたしばらく進んだけれど、一向にキャンプ場は見えてこなかった。完全に道に迷った事を自覚し一度足を止めた。既に辺りは真っ暗で自分がどちらに進んでいるのかも定かではない。傾斜の向きでなんとかワカバタウンの方向を判断出来る程度だ。
今頃キャンプ場では大騒ぎかもしれない、子供が一人いなくなっているのだから穏やかな話ではないだろう。怒られるだろうか、しかし道に迷った事よりも、帰ったら怒られるだろう事を心配出来るのだからまだ余裕はありそうだった。
まぁ、なるようになるかな。
たぶん油断していたんだろう。僕は道が途切れている事に気付かず、気が付いた時には既に二メートル近くある段差から足を踏み外し滑り落ちていた。
一瞬意識が飛んでいた、落下の衝撃で吹っ飛んだクロトが近くの草むらで鳴いていて、駆け寄ろうと立ち上がり、そのまま膝をつく。足首に走った凄まじい痛みに耐えかね声にならない悲鳴をあげた。そのまま地面に倒れ込むと激痛に悶絶する。
その間にもクロトは慌てふためいて鳴き声を上げながら草むらを右往左往していた。僕は立ち上がることを諦めるとクロトの名前を呼んだ。それでなんとか僕の位置は掴めたらしくクロトが駆け寄ってきて、そのまま僕に体当たりを見舞った。どうやら眠っていたところをいきなりすっ飛ばされて驚いたようだ、ぐりぐりとすり寄ってくるが、今の僕には頭を撫でてやる余裕は無かった。突っ込んできた衝撃が足に響き再び悶絶する羽目になっていた。
それでも痛みを堪えて身体を起こすとクロトの身体を抱き上げて落ち着かせてやる。崖を背に寄りかかりクロトの小さな身体を抱きしめてやると、クロトも落ち着いたのか今は大人しくしていた。
ここに来てようやく危機感が湧いてくる。現在地は不明、目的地の方向は予想出来ても、そもそも動くことが出来ない。帰れない、そう気付いたら不安が溢れそうになってきた。それでも、涙だけはなんとか堪える。
動けない僕に今出来る事は、救助を待つ、ただそれだけだった。でも選択肢はそれだけではない、ここにいるのは僕だけではないのだから。
「なぁ、クロト、おまえ一人でキャンプ場まで戻って人を呼んでこれる?」
身動きのできない僕を置いて、クロト一人でならキャンプ場まで帰れるかもしれない。クロトが人を呼んで来てくれれば助けが来るだろう。
だがそれは、この場所に僕一人が取り残されると言うことでもある。ここまではクロトが居てくれて、一人きりではなかったから落ち着いてもいれたし不安もなかった。だけど、ここでクロトを行かせて一人置き去りにされた時、僕は耐えられるだろうか。
無理だ。そう思いながら抱きしめたクロトを身体から離す。
「クロ、おまえ一人でキャンプ場まで戻って助けを呼んでくるんだ、出来るな?」
クロトは少し躊躇ってから頷く。無理でも何でも他に方法がない。これが僕達に出来る最善の一手だった。
「じゃあ頼んだよ、クロ」
クロトが駆け出し森の中へ消えて行く。気配が遠ざかって行くのを感じると、本当に一人で取り残されたのだと実感出来た。頼りにならないけれど心強かった相棒は、もう側にいない。
ほー、ほー、と鳴き声が響く。さっきからずっと聞こえていたはずの鳴き声が急に不気味に聞こえてきた。
怖い、泣き出したいくらいだ。一人きりだと言うことがこんなに辛い事だなんて忘れていた。去年の今日、クロトと出会ってからずっと一人きりになることなんてほとんどなかった、なのに、今はこんなにも独りきりだった。
しばらく休んだのが良かったのか、足の痛みはさっきよりは引いてきたようだ。しかし立ち上がろうとすれば酷く痛む、無理すれば歩ける程度だろうか
小さくため息をついてそのまま腰を据える。クロトが助けを呼んできてくれるはずだ、その時に下手に動いて合流できなくなるのは不味い、大人しく待っていよう。
空を見上げれば、そこには弓の様な弧を描いた月が輝いていた。半分には届かない三分の一の月。大丈夫、すぐにクロトが誰かを呼んできてくれるから、と視線を地に落とし、それと目があった。
黒い闇の中に溶け込むようにした何か、その赤い瞳だけが闇の中に煌めいていた。
ポケモンだろうか、それは友好的なポケモンなのか、好戦的なポケモンなのか、手持ちのポケモンはいない、戦えない。トレーナーズスクールで習った野生のポケモンへの対処法が頭に浮かんで来たが、どれも通じる気がしない。
気付けばさっきから聞こえていたポケモンの鳴き声は全く聞こえなくなっていた。そう、まるでどこか遠くに追いやられてしまったかのように。
次の瞬間、暗闇の中に無数の赤い瞳が浮かび上がる。悲鳴が喉元まで駆け上がってきたのを必死で堪える。目の前の一体だけではない、囲まれている。きっと一言でも言葉を発すればそれらは一斉に襲いかかってくる、理由もなくなんとなくだけど、確信に近いほどそう感じていた。
刺激してはいけない、なんとかして逃げないと。そう思っても身体は動かなかった、全身がガクガクと震える。例え身体が動いたとしても、この足では逃げ切ることは出来ないだろう。
目の前の一体が一歩進み出ると、朧気ながらその姿が浮かび上がってきた。漆黒の身体に赤い瞳を持つ鳥ポケモンだった。名前はヤミカラス、非常に好戦的で縄張り意識の強いポケモン、そして彼らは群で獲物を狩る。そう思いだした瞬間、恐怖は最大限に達して弾けた。
悲鳴をあげて思い切り地面を蹴る。足の痛みも忘れていた、足が折れたって構わなかった、ただただ今すぐこの場所から逃げ出したかった。
目の前にいた一体を押し退けて駆けだした、その瞬間背中に激痛が走る。押し退けたヤミカラスとは別の一体が僕の背に鋭い鉤爪を突き立てていた。その一体を払い退けた腕に、また別の一体が嘴を突き立てる。
喉が裂けるかと言うくらい声を張り上げて、既に血塗れになっていた両腕を振り回し、痛みで感覚の無い足をひたすら走らせる。そして踏み出した一歩が膝ならガクンと崩れ落ちた。足が動かない、そう知覚したら忘れていた痛みが一気に戻ってきた。立ち上がれない、それでも腕だけで這いずり逃げようとしたその背に再びヤミカラスが襲いかかる。
なんとかその一体を振り払い後退りする。夜の闇に浮かぶ無数の赤い瞳、そのすべてが僕を見据え、今か今かとその時を待っていた。
ダメだ、無理だ、どうしようもない。そう、悟った時、真っ先に頭に浮かんだのはクロトの事だった。
一緒に来てと頼んだのに、勝手にいなくなってごめん。このまま僕がこいつらに喰われたら、あいつはずっと僕の事を探し続けるのだろうか。もうどこにもいない、僕のことを。
それは、嫌だな。
最後の力を振り絞って立ち上がる。ヤミカラスの一体が飛びかかってくる。避けるとか、叩き落とすとか、色々頭に浮かんだけれど、それを実行する余力は残っていなかった。
ただ立ち尽くす僕の肩を蹴って、そいつが飛び出していく。茶色い毛玉、小さくて、甘えん坊で、僕の頭の上がお気に入りですぐに飛び乗ってくる、頼りにならないけど、いつも一緒にいた、心強い相棒。
「クロト!?」
それは紛れもなく僕の相棒のクロトだった。クロトの決死の体当たりが襲いかかってきたヤミカラスを弾き飛ばす。しかし元々の体格差も大きかった。クロトも地面に叩きつけられてワンバウンドする。この時ばかりは自分の身体の痛みも忘れて宙に浮いたクロトの身体を抱き留めていた。
「バカ、無理するな!」
そんな小さい身体で立ち向かうなんて無理だ。だけど、クロトは僕の血塗れの腕の中から這い出すと全身の毛を逆立てて精一杯の威嚇を行う。大して強くもないくせに、僕を守ろうと必死にクロトは戦っていた。
「チコリータ、葉っぱカッターだ!」
不意に声が響く、それは知っている声だった。木陰から放たれた無数の木の葉が刃のごとく鋭さでヤミカラス達を押し返す。
「うおっ!? おい、血だらけじゃねぇか! 大丈夫なのか!?」
姿を現したのはチコリータと、それを連れていたのは何故か潤だった。
「なんで潤がここに?」
驚いて問いかける。それに何故チコリータを連れているのか、潤はまだトレーナーではないのだから、ポケモンを連れて歩けないはずなのに。
「博士から借りたんだ、それで鮎姉と一緒におまえ探してたらクロトが一人で出て来るから」
それで鮎音さんが大人を呼びに行き、潤はクロトと一緒に一足先にこっちへ来たらしい。奇跡的な判断だった。潤が一緒に大人を呼びに行っていたら、きっと間に合わなかっただろう。
「無事……には見えねぇけど、まぁ無事生きてて良かった、後は俺達に任せておけ!」
潤はチコリータに葉っぱカッターを指示すると、少しずつヤミカラス達から距離を取るように動いていく。数で攻められたら勝ち目はない、遠距離攻撃で距離を稼ぎながら攻めるのは良い手段だった。しかし数が多すぎる、すぐに群がってくるヤミカラス達に徐々に押されていくのがわかった。
「クロト、僕達も行こう」
クロトが一声鳴く。闘志は十分だった。その分僕は努めて冷静に状況を判断する。体格で負けてる分、正面からのぶつかり合いになれば不利だ。
狙うのはチコリータの葉っぱカッターを避けた瞬間、回避の為に翼を羽ばたかせ攻撃をかわした直後、攻撃に転じようとした瞬間だ。
「クロト!」
僕の指示に合わせてクロトが地面を蹴る。先頭にいた一体のヤミカラスめがけて頭から突っ込んだ。先程のぶつかり合いではクロトの方が不利だった、しかし今度は相手は完全に無防備な状態だ。弾かれたヤミカラスはそのまま木に叩きつけられるとずるずると地面に落ちていく。
「……まず一体!」
やっと一体、でもそれは僕達が反撃に移った証拠の一体だ。この調子でもう一体、と振り仰いだ空には無数の瞳。
やっと一体、ではこの闇の中にあと何体のヤミカラスが潜んでいるのか。十では利かない、二十か、三十か、あるいはそれ以上か。それをすべて撃退する、不可能だ、出来っこない。
一瞬だけ諦めにも似た感情が僕を支配した。すぐに鮎音さんが助けを連れて戻ってくる、すべて倒す必要なんてない、そう自分に言い聞かせるより先に、その絶望は僕の相棒であるクロトに伝染していた。
クロトはまだ諦めてはいなかった。なのに僕が先に諦めかけて、その動揺がクロトに致命的な隙を作る。強襲したヤミカラスの一撃がクロトを捉え、その小さな身体が地面に倒れ伏した。
傷ついた獲物に我先に群がろうとするヤミカラス達を、潤が葉っぱカッターで牽制するが大した効果はない。
全身を襲う痛みに耐えて、僕はヤミカラス達の中に突っ込むとクロトを抱え込むようにして守った。背中に食い込む痛みは鉤爪なのか嘴なのかももうわからない。
「退けっ! 離れろってんだ、この!」
潤の叫び声が聞こえた。落ちていた木の棒を振り回し必死にヤミカラスを遠ざけようとする。群がるヤミカラスを追い払うと僕を抱えようとするが僕も潤も体格は同じくらいだ、抱え上げる事は出来ずのたのたと引きずるのが精一杯だった。
傷だらけになったクロトが僕の腕から逃れ出るとヤミカラス達と対峙する。
何やってんだよおまえ、おまえだってボロボロなのに、まだ僕を守ろうとしてるのか。呆れはしなかった。自分だって同じ事をしたのだから。
お互いに庇い合って、二人してボロボロになって、やっぱり僕の相棒はおまえしかいないんだ。でも僕達は弱かった。守りたいのに守れなくて、お互いに足を引っ張り合って、傷ついて。
悔しかった、僕がもっと強ければ、こいつをこんなに傷だらけになんかさせなかったのに。そして、それはクロトも同じだったんだろう、もっと強ければ、こんな奴らやっつけてやったのに、クロトの悔しさが僕にも伝わってきた。
悔しいね、クロト。もっともっと強くなるんだ。もう二度と挫けないように、もう諦めたりしないように。
「なぁ、クロト……」
振り向いたクロトが笑った。空には煌々と輝く丸い月があった。
それはまるで空に輝く月の光だった。しかしそれがあるのはすぐ目の前の地面だった。月の光が落ちてきたかのような錯覚に捕らわれる、だがすぐにそれが何か気付いた。
光を放っていたのはクロトだった。クロトの身体が眩い光に包まれていたのだ。僕は言葉を失う。潤もチコリータも、そしてヤミカラス達もその場を動くことは出来なかった。
僕達はこの輝きが持つ意味をまだ知らなかった。これが未来へと進む光、新たなる一歩、進化と呼ばれるもの。
次の瞬間、光が弾けた。
そこから現れたのは漆黒の身体を持つポケモンだった。金色に輝く月の光を携えたそれが、真紅の瞳を開く。
「……クロト……なのか?」
恐る恐る尋ねた。イーブイとは違うスラリとした身体、何よりその体躯はイーブイの倍以上はある。本当にクロトなのだろうか。その漆黒のポケモンは今までより少し低い声で、でも変わらぬ様子で一声鳴いた。クロトが進化した、そう確信した。
クロトが真っ直ぐにヤミカラス達を見据える、それだけでヤミカラス達の動きが鈍くなった。小さかったイーブイの身体ではない、今はヤミカラスよりも大きく、目つきもイーブイの頃より格段と鋭く強くなっている。
驚きたじろいでいるヤミカラスに向かってクロトが吠えた。同時にクロトが携えた月の光、その身に刻まれた月輪の模様が薄く発光する。後で知ることなるのだが、妖しい光と言う技、相手を混乱させたり攪乱させる技だ。
この時はなにが起きていたのかわからなかった。それでもそれに気付けたのは、その一体だけがクロトの光に惑わされていなかったからだろう。
「クロ! 奥の奴だ!」
僕が叫ぶ。奥の方にいたヤミカラスの一体、統率が乱れて混乱する群の中で身体が一回り大きな奴、それだけが変わらず真っ直ぐにクロトを見つめていた。それが、群のボスだ。
クロトが唸り目の前の闇が渦を巻くと球体となって固定される。これも、この時に初めて見た技でそれが何という技なのか知らなかった。周囲の闇、つまり影を集めて撃ち出す技、シャドーボール。クロトの放った暗球がヤミカラスのボスに向かうが距離が遠すぎる、ヤミカラスは翼を羽ばたかせるとあっさりその一撃をかわし、そのままどこかへ飛び去っていく。それが決着だった。
我に返ったヤミカラスから群のボスが逃げた事に気付いて退散していく。やがて最後の一体まですべてのヤミカラスが逃げていくと、再び夜の森に静寂が戻ってきた。
「助かった……?」
潤の問いに「たぶん」と答える。そしてその後、今更になって遠くで叫び声が聞こえてきた。助けが来たのだ。もう一度同じ問いをしてきた潤に、今度はただ頷く。
緊張の糸が切れた。いや、ケガがケガだ、立っているのが不思議なくらいだ。そのまま仰向けに倒れ込むと、空には三日月が輝いていた。
さっきは満月に見えたのに。気のせいだったのかと思っていると僕の顔をクロトが覗き込んできた。ずいぶんと凛々しい顔になっていたせいで少し驚いた。もう頼りになりそうにないなんて言えないな。頼れる心強い、最高の相棒が頬を舐める感触を味わいながら、僕はそのまま意識を失った。
全治一ヶ月。そして僕の旅立ちも一月程遅れた。今回の件で旅に出るのを止められるかと思ったけれど、意外なことにそんなことはなかった。
驚いたことに、お母さんも昔はトレーナーとして旅に出ていた時期があったらしく、曰くこれくらいならよくあること。割と大ケガしたんだけど止めなくて良いのか、と尋ねたら逆に「止めて欲しいの?」なんて返されてしまった。
一回死にかけたら無茶はしなくなる、その境界線の判断力が上がる、あと意外と人間はしぶといから死なない。無茶苦茶な理論だった。
「心配してないんじゃなくて信頼してるの、進化したクロトちゃんなら頼りになりそうだし」
息子よりその相棒を信頼しているらしい。旅を反対されたら家出してでも旅立ってやろうと思った。
そんなお母さんだったけど、旅立つ日に一つだけ約束させられた。
「無事に、元気に、ちゃんと帰ってくること、これだけは守りなさいね」
少しだけ泣きそうになって、恥ずかしくなって、強がって返事をした。
そして僕は旅に出る。
「行こうか、クロト」
僕がクロトに手を差し伸べ、こいつはこいつでイーブイのままのつもりでその手をよじ登ろうとしてそのまま押し倒された。こんなにでかくなったクロトを頭の上に乗せたら首の骨が折れてしまう。進化してもこう言うところはなにも変わらないのだから困ったものだ。
「無理だから、乗ろうとするの禁止」
僕はブラッキーになった相棒の頭を撫でてやる。進化しても何も変わらない、強くなったし格好良くもなった。頼りがいも出たけど、やっぱり何も変わってはいない。
僕は今日、旅に出る。隣には、昔も今も変わらない最高の相棒がいる。