動き始めた日常
† 動き始めた日常 †
ヨーランは工房の外に寝転んでいた。
上がりすぎた体温を下げようと、次から次へと汗が溢れ出してくる。
汗でべたついた身体に砂ぼこりは鬱陶しいが、秋の冷たい風は少し気持ちが良かった。
この一週間、ヨーランは窯場の見学を続けていた。
熱さにはまだ慣れない。
「大変そうだね」
突然降ってきた声にヨーランは眼をあけた。
空のような水色の身体に、綿雲のような翼。
一羽のチルットがヨーランを見下ろしていた。
「……チルノか」
ヨーランは彼女の姿を認めると身体を起こした。
「ついにグランおじさんに弟子入りしたんだって?」
工房の見学だけではあるが、それはようやく弟子入りを認められたと言うことかもしれない。
「まだまだみたいだけどね」
ヨーランは言って苦笑した。
ブレンもヨーランやチルノとは同い年であるが、一年前から窯場で手伝いを続けている彼は、経験も熱に対する耐性も桁外れであった。
「窯での仕事をやらせてもらえるようになって、一年くらいもしたら、追い付けるのかな?」
「で、その頃にはまた差を付けられてる?」
むぅ、とヨーランが頬を膨らませる。
だが、その通りだとヨーランは思った。
先にスタートした相手に追い付くには、相手よりも早いスピードで走らなければならない。
「休んじゃいられないや、僕、戻るよ」
「その調子その調子、あたしも見習わなくちゃ」
可愛らしく笑うチルノに、ヨーランは笑みを零した。
「じゃあ、チルノも家業くらい手伝ったら?」
ヨーランの言葉にチルノは笑顔のまま固まる。
チルノの両親は運送業を生業としている。
この街では数少ない、空を飛べるポケモンなのだ。
山中のこの街から近隣の街への路は、整っているとは言い難い。
さらに荷物を運ぶとなれば、その荒れた道は屈強のポケモンですら一苦労である。
そのため、チルノの両親のような空を飛べるポケモンに、商品の輸送を依頼するのだ。
金属工芸や、レアメタルなどといった資源は高値で取引される。
この街での収入は専らそこからなのだ。
彼ら空を飛べるポケモンはこの街に取ってなくてはならない存在なのである。
「あ、あたし、まだ九つだし」
「僕は九つのころから工房で修行してるよ」
ヨーランの追い打ちにチルノは完全に凍り付いた。
チルノは身体が小さい。
だから、大きな荷物を運ぶことは出来ないのだ。
彼女がその事に劣等感を抱いていることはヨーランだって知らない訳ではない。
「十歳で一人前なんて古い風習だもん」
そう捨て台詞を言い残してチルノは翼をはばたかせた。
そんなチルノを見送ってヨーランが呟く。
「だったら、小さな荷物でも運べばいいじゃん……」
その言葉はチルノには届かなかっただろうが。
それからさらに二週間。
熱さにも慣れてきたヨーランは、窯場内で雑用を言い付けられるようになっていた。
相変わらず、作業はグランとブレンで行っている。
あれを取れ、これを取って。
それは進歩にしては小さいものであったかもしれない。
だが、ヨーランにとっては大きな進歩だった。
また、ある程度ではあるが、作業の手順や方法を盗み見る余裕もできた。
手順を覚えると、次に何が必要になるかも予想できるようになった。
グラン曰く、ブレンよりも飲み込みがいい、とのこと。
そのたびにブレンは不満げに頬を膨らませ、ヨーランは立派な手本がいたからだ、と彼を宥めた。
そんなある日だった。
「おはよう、ヨーラン」
「ブレン? どうしたの、わざわざ出迎えなんて」
ヨーランはブレンの姿に驚きを隠せなかった。
別に不思議な格好をしていたわけではない。
ただ、工房の入り口でヨーランを待っていたのだ。
それだけではあったが、それは初めてのことで、ヨーランを驚かせるには十分だった。
「今日はね、お祝いだよ」
「へ?」
予想していなかったブレンの台詞にヨーランは首を傾げる。
「今日って、何かあったっけ?」
今日は祭日ではないし、ヨーランの知るかぎり誰かの誕生日でもない。
ヨーランは考えてみたが、やはり思い出せなかった。
「忘れたの?」
「今日……て、何かの日なの?」
呆れ顔のブレンに、ヨーランが問い掛ける。
ブレンはため息を吐きながら、こう言った。
「ヨーランがここで働き始めた日」
ヨーランが工房で修行を始めたのは、誕生日を少し過ぎた頃だった。
だいたい、三週間くらい。
「……あ」
それは、去年の、ちょうど今日。
「そっか、そんなになるんだ」
しみじみと呟く。
「それでね、今日は、ヨーランの初挑戦なんだよ」
「初挑戦って、何に?」
ヨーランが尋ねると、ブレンは少しもったいぶってから言った。
「窯場での作業」
その言葉を理解するのに、正確には受け入れるのに数秒を要する。
「ほ、本当に?」
「あ、ヨーラン信用してない」
ブレンが頬を膨らませる。
「そう言うわけじゃないんだけど、ちょっと、ビックリして……」
そう答えたヨーランは、驚き過ぎたせいか、少し現実感が湧かなかった。
「おめでとう、ヨーラン」
屋根の上から降ってきた声はチルノだった。
「え……う、うん」
「っていうか、なんでチルノが知ってるの?」
ブレンが聞くと、チルノはいつもの笑顔で応えた。
「おじさんに聞いたもん、だから……」
屋根から飛び立ったチルノの姿に、二人は驚いた。
「これはお祝い」
彼女が首に掛けた、彼女の母が業務用に使っているのと同じデザインの鞄から一つの宝石を取り出す。
ヨーランの瞳と同じ色のルビーだった。
だが、二人の視線はルビーよりも鞄に注がれている。
「あ、あによっ?」
チルノが真っ赤になりながら鞄を隠す。
「チルノ、それって……」
「まさか……?」
信じられないものを見るような眼で二人はチルノを見つめる。
一般的にこの国で大人の仲間入りとみなされる元服、十五歳になるまでは子供だと言い張っていたチルノである。
二人の眼差しは、チルノがまさかと物語っていた。
「うるさーぃ、ほら、受け取る、あたしの初仕事なんだからっ」
差出人チルノ、受取人ヨーランの配達物を強引に握らせる。
「じゃあね、バイバイ」
空色の顔を夕焼けのように真っ赤に染めたチルノは、一方的にそう言うと空高く飛び上がっていった。
「なんでも、個人が対象の配達らしい」
グランはそう言った。
一部の貴族などは、直接工芸家へ依頼することもある。
オーダーメイドと言うやつだ。
グランとて、何度か依頼を受けていた。
そう言った品は大体が小さく、また、単品で依頼を受けるため、量にはならない。
もちろん、運送屋はそれ一つのためには飛んでくれない。
そのため、どうしても遅れがちになってしまうらしい。
「ほんと助かるよ」
なるほど、と二人は頷く。
「さて、そろそろ始めるぞ」
そう言ってグランが立ち上がった。
チルノだって頑張るんだ、だから、僕も。
ヨーランは、ようやくスタートしたもう一人の幼なじみに、同じくスタートラインに立てたばかりの自分を重ねる。
来年の今日は、今年の今日以上に大切な記念日になるだろう。
「頑張ってね、ヨーラン」
「うん!」
幼なじみの声援を受けると、力強く頷いた。