前編 Black tar
 08 万象の杖


 【時代の荒野を、突き抜けて】 レッパク


   08 万象の杖


 成功(クリア)
 とりあえずは。
 なんとかこの場はやり過ごせそうだった。
 主人の言いつけ通り、命までは奪わず、単なる気絶にとどめた。敵の意識をいただく手段などいくらでもレッパクの手の内にあって卓に並べられるほどだったが、静音性を第一とするならこれに尽きる。電気麻酔のミサイルばりを男の首筋に撃ち込んでやった。数時間は夢の中を探索してもらおう。よそをうろつく仲間に起こされたとしても、男の最後の記憶は『サンダース』ではなく、『人形』と『かばん』だけのはずだ。よもやそれだけで『お客』とまでは断言できまい。
 我慢していた息を全部吐き出す。
 こんな小細工だけで場を後にするレッパクではまさかない。分厚い経験と何事にも対する冷静さに裏打ちされたところにレッパクの強さがある。岩陰に上半身を隠す形を作らせたが、死角にはまだまだ不十分。下半身のみを道中にさらけ出しているだけ余計に不自然だ。このままほうっておくのは危険と判断する。周囲に警戒しつつ、歩み寄り、先程まで自分たちが潜んでいた岩陰に再度身を隠す。道連れとばかりに、男の全身を引きずりこもうとした。
 ?
 フックが外れたらしい。レッパクの腕時計に負けないくらい無骨なデザインの無線機が、男の懐からこぼれ落ちる。
 そこでようやっと、レッパクは一本の黒い線を目でたどり、男の左耳を注視する。
 イヤホン?
 この上なく厄介だった。こいつが定時連絡を出さないことで予想より早く疑惑が生じうるかもしれない。いっそのこと壊しちまおうかと思う。いや、それでも連絡が渡らない結果に変わりない。岩が崩れた時点で未来はすでに決まっていた。

 接続ノイズ、
『コンタクト!』
 男のイヤホンが、突然誰かの声になって叫んだ。静かだったからこそ聞き取れた。
 あまりの声量に反応し、身を引いた。
『ポイントD-85にて例の少年を発見、応援を頼む! 繰り返す、ポイントD-85、』
 それ以上の言葉は、レッパクには届かなかった。

 少年、侵入者。
 セブン。

 ありありと目に浮かぶようであった。
 ポイントDとやらがどこかは果たしてわからないが、いまだセブンは闘っている。同じように侵入を決め、今までなんとかやりすごしていたクチだろうか。
 レッパクの焦りがとうとう最大点にまで上り詰めた。
 ぐずぐずしちゃいられない。
 方向を再確認し、絶対こっちと決めた道を選ぶ。闇の向こうの、聞こえない足音を想像する。
 今まで以上にプラズマ団を観察しておけば、持ち場から離れてポイントD-85とやらに向かう流れをそっくりと追えるだろう。状況が一転した今、潜伏も容易となる。ただ、セブンや少年がすでにチャンピオンロードを離れ、あの建造物内部にいるならば、ここいらのプラズマ団員たちはわざわざ持ち場を離れないだろうが――

 油断はしていなかった。
 予想もしていなかった。

 なおも昏倒状態にあるはずの男。その腰にあるボールから、あろうことか光がほとばしり、レッパクの目と体に突き刺さった。
 中におさまっていた者の正体は、いかくポケモン、ワルビアル。目元の悪さはレッパクに勝るとも劣らず、牙と爪の研がれようは岩をもってしても計り知れない。そして、不意な出現にもかかわらず、ワルビアル自身はその事象を気にも留めていない。倒す際にボールの開閉システムに刺激が入ったのだろうかとレッパクは勘ぐるも、当のそいつはボール内部にいたときからすでに臨戦心理を立ち上げておいたようだった。
「――てめえ、なにもんだか知らねえが、通すわけにゃいかねえよなあ?」
 ワルビアルは開いた拳と閉じた拳をパシッと胸元であわせてみせる。若さゆえの活気盛んさ。
 よりによってこんなやつに最初に発見されるとは。
 驚きを一端思考の彼方へ捨て置き、レッパクは逃走と応戦の二択を、この期に及んで考える。
 セブンに追いつきたいから早く逃げたい。
 でも、こいつが騒ぐなりすれば、いずれ誰かが駆けつけ自分の存在がばれる。
 でも、こいつを黙らせようにも、護の相性が最凶に悪い。
 でも。
 でも。
 先ほどからずっとレッパクの内部に潜んでいた熱い思想が、ここぞとばかりに逆巻き始める。
 むしろそれを無視したくて、レッパクはやはり前者を選ぶこととした。
「失せろ、三下。お前に用はない」
 腕時計のついた左前足を引く。読まれやすい体勢だったのか、ワルビアルもレッパクの構えの意味を察知した。
「どうやって逃げる気だ?」
 レッパクは集中する。
 ワルビアル本体よりも、その背後の空間を意識する。体内に幾ばくかの力を込めると、それに腕時計が反応し、
 きゅるるる――
 針が、回る。

 定石、『時計返(とけいがえし)』。

 瞬く間も許さぬ出来事だった。
 見えざる大きな手で横っ腹を突き動かされたかのごとく、レッパクの体が突如として右に吹っ飛んだ。ワルビアルから見れば、上下左右前後、どこへくらましたかも目で追えなかったことだろう。
 レッパクはワルビアルを中心に据え、反時計回りの動線を敷き、半円の移動後、背後に移る。
「こうやってだ」
 かばんを背負っていようが一滴の阻みにもならない。レッパクの一番とする定石は、長年使いこなすほどに精度を高め、今や音と姿すらもかき消すまでに昇華させていた。
 背後をいただいたのにもかかわらず、初撃を見舞わなかったのは、最初で最後の情けだった。追ってこないのならばそれが一番いい、お互いのためだ――理性は最後までそう祈っていて、捨てゼリフとともに、二足目でギアを一気に最大にした。あと十回でも地面を踏めば、他の追随を許さぬ最速を味方に回せる。
 このまま逃げてやる。

 定石、『九時三時(くじさんじ)』。

 地面をすさまじい速度で潜って、何かが追ってくる。足下をあっさりとられたレッパクは宙を泳ぐことを余儀なくされ、ついには前方へと迎えてしまう。地中から目前へ現れるそれはワルビアルと思いきやストーンエッジで、進行方向を遮断された。そればかりか上からも落ちてきて、今度こそ闇の視界が岩に埋め尽くされる。
 ジョウト地方ではあまり見たことのない、挟み撃ちの戦法だった。

 そりゃ見逃さないよな、とは思っていた。
 そして、こころのどこかで願ってもいた。
 レッパクはしげしげと、「作られた岩」を見上げる。
 ああ、
 もう、
 絶対周囲に聞こえた。
 絶対、周囲に、聞こえた。
 ここへ敵兵が群がるのも、時間の問題だ。
 つい今しがたツケておいた運命が、利子を付けて返ってくるはめとなった。
 そうだ。いつかは来ることだと、自分に言い聞かせておいたことではないか。
 岩が崩れたときからではない。
 セブンがこんないざこざに身を突っ込んだときから、すでに決定されていたことだ。娘が果敢に闘っているというのに、父親の自分がこそこそと我が身を可愛がっているようでは、あわせる顔がない。

 ストーンエッジの影に染まるレッパクの背後から、もう一つの影が伸びて、重なってこようとする。
「もう一度訊くけどよ、どうやって逃げる気だ?」
 レッパクは少しうつむき、上目遣いでゆっくり振り返る。対するワルビアルの好戦的なツラが少し驚きに揺らめいたのも、それで見届けた。
 レッパクの碧眼は苛立たしげでも、口元は笑みを作っていたからだ。
 道を塞がれたのならば、拓くまでである。
 かばんをずり下ろす。ミリィが中に隠れていることもどこ吹く風、口で掴んでフルスイング。乱暴に横壁へ叩きつける。

 そんなにおれの道を邪魔したいか。
 そうか。
 なら仕方ない。
 相手になってやろう。

 ついに、闘える。
 レッパクはただ単純に、それがとても嬉しかった。
 先ほど言葉を繰り返したのは、言い訳の材料にしたかったからだ。
 レッパクの内に潜む戦意は、このときすでに、ワルビアルの倍以上だった。


   ― † ―


 レッパクはサンダースであり、サンダースであるからには電撃が十八番だ。空気中のマイナスイオンを変換して自身の電力とすれば、四方八方にぶちまける雷小僧の完成となる。これだけでも十分危なっかしいが、電気を溜め込み、体内で巡回させ、筋肉や関節を強化させ始めたらいよいよ手がつけられなくなる。サンダースのお家芸である素早さとはここから発展したものであり、足の速さはすなわち電磁力の速さと置き換えても過言ではない。まさに生けるリニアである。
 それでは雷を護とする者が漏れなくそうなのかという邪推も浮かぶだろうが、あながち間違いでもない。足の鈍い者も速い者も、この手口を感覚で知っている。中でも、ただでさえ身体能力の高いサンダースがそうなるのだから、筋肉と電力の相乗効果を、余計に錯覚してしまう。そのまま突進され、全身に鎧う電力を直接受ければ、一知半解の駆け出し者はたちまち意識を失う運命をたどる。
 何をするにつけても電撃である。
 これがあってはじめて、サンダースの真価は曲解なく証明される。
 もしも電撃が効かなければ、その時はどうするのだろう。

 爪?
 んじゃこっちは足。
 定石、『風見鶏(かざみどり)』、だと思う。
 微笑ましい速度と角度で繰り出される袈裟斬りを、レッパクは悠々と回避する。ワルビアルの踏み込みから、右の爪か左の爪かを見切っている。つまり、相手の気配にはまったく頼らず、律儀に目を使って避けている。
 気配を読み抜く以前に、ワルビアル自身がそれを抑えていたのも一因にあるだろう。手形は(くわ)。意念は断。正鵠は(すべて)。しかし、そのいずれもがレッパクが相手では半分も成就しない。なるほど、天下を掌中に収めんとする組織の一員だけあって、鍛え方に緩みはないと皮肉なしに思う。何も感じさせぬ型から特技を閃かせ、急所を当てられれば、いくらレッパクでも負傷を免れない。しかし、出足とそれに頼る軸芯まで隠せていないようではまだ甘い。こころを隠すにも、体が語ってしまっている。隙に乗ずるべく、出がらしとなるまで先手をどんどん譲るつもりだったが、おおまかな兵法と戦技も読み取れてしまった。体格のでかさは軸芯の強さ。大きな懐を守るのは二筋の爪。長所が短所に、短所が長所に。裏表の本質を把握してそのままぶつけてくる比較的オーソドックスな型であり、そこから独自に精錬し、今を築いたのだろう。味のない技はすべて小手先と信じる一辺倒ぷりは、こっちと色々と対照的だった。
 レッパクは横に逃げた勢いを殺さず、壁に着地。反射角を利用し、天井にまで跳躍して一瞬だけ張り付いた。ひっくり返していた体重をここで戻し、ワルビアルの頭蓋めがけて垂直に落下。四本足の全部を使い、落雷のような踏みつけを一点に浴びせる。半端者ならばそれだけで脳を揺るがされ、鼻から出血していたはずだ。

 はたきや蹴り、張り手を繰り出す足技がとりわけ得意だという意識はない。
 しかし、サンダースとして生きる以上、護が(つち)の者――人間の言うじめんタイプとの闘いを免れられないのもまた事実だ。もしも主人がいたならば戦況に応じて交代を命じてもらえたものの、今回は単騎での野戦だ。ミリィでも分が悪い。俊敏さを活かして間合いを常に外し、遠くから電撃や毛でいじめて勝ち星を並べられるのなら苦労はしない。逃げと踏み込みに使う足を、応じて攻めに転じさせるのも、闘う者としては必然の選択である。
 そのためにも、電撃を抑えた、筋肉と勁道のみの物理的な打撃力も、『いざというとき』のために修練で積もっておかねばならない。電気にかかわる技能のほぼすべてを体得し終えたここ数年は、そればかりを愚直に鍛えている。イメージトレーニングでも電撃にはなるべく頼らず、勁の流れに依存して展開するものばかりだった。
 その筋の套路(とうろ)に精通した仲間たちから事前に鞭撻を受けていたのだが、よもやこういう状況で『いざというとき』が蒸し返され、武術の頭角を現すとは思いもよらなかった。明確な言葉で直接言及されずとも、さすがバトルばかなだけはある、レッパクはすぐに主点を自身で見出した。要訣(ようけつ)は、確保した足場にて、体の軸をどう置いてあるか、にある。地を蹴る力があるため、後ろ足の筋力は比較的安定している。問題は前足だ。上半身を起こし、重心を乗せた前足でただ突き飛ばすだけでは、いくら発勁を伴おうとも、喧嘩する人間の子供のそれと内容はさして変わらない。体勢を作って全身で突っ込んだほうが、まだ威力が見込める。

 もう一度ワルビアルのてっぺんを蹴飛ばす。レッパクは宙にてのけぞり、縦の旋転。着地を震脚と見立て、反動で四肢の内息を発破。距離をとりなおす。気絶までは引き起こせなかったようだが、そうでなくてはむしろ困る。暴れたりないのは自分もだ。
 ミサイルばりを三秒分だけトリガー、全弾を体中にお見舞いする。威力にはそれなりの信頼を置いていたはずだが、ワルビアルの硬質の肌には一本と刺さらなかったようで、レッパクは再度、自らで接近を試みる。あらゆる飛じ道具が通じないのならば、陽動の見立てすら放棄する。己が体術にすべてを託し、決定的な撃ち込みを果たす。その一念のみ。対するワルビアルは、間合いと懐を守ることに引き続き意識の一部を使っているようだが、それが一メートルだろうが十メートルだろうがレッパクにとっては同義である。大道芸のように広がる斬撃の嵐を、目と足でかいくぐり、風切音をそこへと残すだけ。それらは重なって一陣の旋風とすらなり、闇間の奥へ不穏な音を響かせていく。

 腕時計の針三本が、きゅるきゅると律動的に回転している。



   



 ああ、楽しい。

 十重二十重と襲ってくる爪を蜃気楼のようにやり過ごしながら、レッパクは、確かにそう思う。
 セブンまでの道のりに立ちはだかるものは有象無象の些細だったはず。なのに、こころの一点に芽生えた気持ちは曇りなくそう表れている。臨戦心理は緊張感に刺激され、これ以上とないベストな段階にまで炊きあがっている。真剣に相手を務めてくれるのであれば、それが敵でも味方でもこの際一向に構わない。とにかく自分にひたすら回らせて、舞わせてほしい。
 ほら、もらった。
 白刃を呼吸するような時間をすり抜け、とうとうワルビアルの足下にまで詰め寄ったレッパクは、全身を低く伏せる。上体を支え、器用に後ろ足と体重を振り回し、足払いをワルビアルの右の踵へとぶちかます。
 ほら、お前も一緒に舞えよ。
 物理学と体格差を一挙に覆した。
 ワルビアルの体が虚となり、強くあると信じていただろう軸芯を破壊してやった。天井には激突しない程度の勢いで跳ねあがらせる。
 そのまま心窩(みぞおち)を狙うべく、がら空きとなった腹へ上から喰らいつこうと跳躍の準備に入った。が、こっちが先に腹を狙われた。
 空中にあるワルビアルとて、レッパクの接近と蹴りを素直に受けたわけではない。戦意のたぎる全身をもって、ストーンエッジのタイミングを計算していた。地中からいきり立つ岩の先端は、レッパクの腹のど真ん中を狙う。当たれば骨と臓をやられて死。こっちこそ天井に激突して死。落下して地上へ叩きつけられて死。そのどれもが勝負事の範疇を越えてなお余りある突き上げの一打であった。
 それでもレッパクの作戦に大きな変更はない。避けると跳ぶの同時性を重ねる。刺されるよりも、浮かせられるよりも先に、レッパクは上を目指し、地のストーンエッジから逃げ、宙のワルビアルも追い越す。先ほどと寸分違わない要領で天井に接地。瞬時に計算。ぐるりと目を渡し、守りの行き届いていない「穴」をさぐり、その一点を狙う。
 見つけた。

 定石、『懐飛車(ふところのひしゃ)』。

 体勢は(やじり)。意念は射。正鵠は(あぎと)
 天井を蹴って口の中へ飛び込む。じゃれあうような風をもって、下顎へしがみつく。いまだ宙にあったワルビアルを地上へと叩き返し、後頭部への追撃をおまけに、背と地面を縫い付けてやった。
 レッパクの目が、ぎらりと不穏に輝く。上下を歯に狭まれながら、同じく白い牙を剥く。
「セブンのためだ、許せ。お前には、おれの歩む道の敷石となってもらう」
 やけくそではなかった。はっきりとした自覚があった。
 鼻につく匂いのするその舌の側面へ、全力でかぶりついた。

 言葉にならない絶叫。舌が不自由では噛みが上下も成立しない。顔の振り回しに乗って、レッパクの体は遠く飛ばされる。距離を望んだのはレッパクもであり、デタラメな受け身をとった。口を少しもごもごさせ、肉片となった舌の一部をぺっと吐き出してやった。ワルビアルの粘っこい唾液が、レッパクの頬をじっと伝う。
 ここまでだろう、と思っていた。
 ところが、ワルビアルの両腕は地面をたぐり寄せ、後ろ足に余力を込めて懸命に立ち上がろうとする。戦意の残滓が一掴みの胆力となって、内部で燃え盛っている。
「おい、まだ闘う気か――」
 何がこいつをそこまでさせるのか。命よりも惜しい名誉など、どこにもないはずだ。
 もしや自分と同じ気持ちかと察するが、こいつの場合はまたどこか違う志を持っている気がする。
 これ以上はやめたい、とレッパクは思う。この先からは相手の転び方次第でもあるが、それに対して自分が適切な迎撃を施せるという保証がない。一に対して百を返すのは、レッパクとしても望まない結果のはずだった。

 ワルビアルにはそんな願いなど思いもよらず、固めた右拳を厳かにかざす。両目以外は何も語らず、歯の隙間から血を垂らし、にやりと笑う。
 適度に容赦していた分だけ、余計にワルビアルのやる気をつついてしまっていたらしい。レッパクはやむ得ず電流を身にまとい、両者の中心を奪おうと踏み込む。一手打たれる前に先んじる。今度こそ意識を飛ばす。
 間に合わなかった。地へ突き立った拳から小規模のじしんが派生し、レッパクの華奢な体は進行方向を巻き返され、衝撃に飲み込まれる。遠くへは離さないつもりか、背後へ即座に現れるはストーンエッジの土手っ腹。岩石のひとつやふたつ、電流を鎧えば砕くことも可能だったが、土煙にそれを吸い取られ、一時的に丸裸となっており、生身のまま背から衝突し、うずくまって空咳した。
 計算された威力だった。
 混濁しかかる意識で考えるに、追撃が起きるはずだ。
 その通り、もう一本が真上から顔を見せた。見せたと同時に、もうすでに落ちてきている。
 今度こそ、完全なる殺意の現れだった。
 レッパクの臨戦心理が軋んだ。
 こんなもの、本気を出せば(、、、、、、)、簡単にかわせる。かわせるが――

 きゅる――きゅる――きゅる――

 今度は時計の回る音ではなかった。はっきりとした自覚があった。
 待て、落ち着け。絶対に呼び起こすな。
 苦戦しながらも逃げることなく立ち向かうワルビアルに陰性の感動を覚えたのか、こっちも共鳴してしまい、更なる闘争心が沸き起こった。痛みなど埒外として、激流のごとき激しさでうねり始めるのを必死でこらえる。こらえようとする間も岩の先端はこちらへ落ちてきて、レッパクはまだまだ迷い、

 隣に誰かが立っていた。
「おっと、危ないよ、お兄さん」
 後に『そいつ』が語るに、得物を垂直に掲げ、アッパーをかましていたらしい。下へ落ちるストーンエッジの先端と、上へ登る得物の先端を綺麗にかち合わせてやったぜこのやろー、とのことだ。そして、ただそれだけである。下手すれば自分の腕を失っていたかもしれない、至難の博打だったはずだ。だのに、難しいことへの難しい考えは一切抜きとばかりの単純な意念だけで、以下の事情も真実もあったものではない。
 形容しがたい不可解な音が一帯に及び、亀裂がストーンエッジのいたるところへと走り、原型を留めなくなったそれは雪のように粉々となって散った。もう一方は、まったくの無傷。それを持っていた者も、降り注ぐ重量を下半身へと柔らかく流し込み、更に地面へと柔らかく逃がしていた。

 レッパクはようやっと、その者の正体を認める。
 カラカラだった。
「――お前、」
「やっ、奇遇だね」
 口を開けば泣き言ばかりのカラカラにしてはおよそ信じがたいの満面の笑みを見せて、しかもにははと声を上げていた。笑顔というのは、カラカラには一番似合わない表情だと、レッパクは思っていた。
「あーあー、ホコリだらけになっちゃって、まあ。せっかくの男前が台無しだよ」
 半分は、砕かれたストーンエッジを浴びたせいでもある。
 あろうことかカラカラはワルビアルに背を向け、レッパクを起き上がらせる。無作法な手つきで土埃を払ってもらう。先ほどストーンエッジを木っ端微塵にしたらしい、奇妙な三角錐の杖で、自身の首筋をとんとんと叩いている。 
「ごめんね、せっかくのオトコ同士の決闘だし、邪魔しちゃいけないかなと思ったんだけど、お兄さんちょおーっとヤバそうだったから、ね?」
 あんらえめえあ!
 血液と唾液したたる口を大きく開き、ワルビアルはカラカラへめがけて突撃する。もうここまでくれば技能も定石もない。勁道を開いた全身を使って、覇気を語るのみ。体勢は網。意念は噛。正鵠は首。

 そして、一歩一足以上も届かなかった。
 両者の間にて、カラカラを包み込むような波浪の氷壁ができたからだ。岩石以上の硬度だというのはワルビアル自身が証明し、代償として牙の二本を失っていた。
「なんだてめえは、だって?」
 冷気を嫌がる様子を少しも見せず、カラカラは眼光を背後へなぎ払う。白い兜の奥から、透き通る壁の向こうへ、狼狽状態のワルビアルを射止める。
「んもう、失礼だなあ。交番行って訊いてご覧なさい」
 杖を地面へ突き刺すと、累がワルビアル本体にまで及び、足元へ氷が群がっていった。
 突然のカラカラ。ストーンエッジを砕いた杖。氷の奇術――これ以上の怪奇現象に驚くことはもうやめた。レッパクもワルビアルも、理由を考える余裕を捨て切った。
 このままではまずいと、ワルビアルは後退を選択し、とにかくは氷から逃げようとした。その両足を一瞬の差で氷が捕捉し、完全に固定。
 対するレッパクはカラカラの頭上を飛び越え、波の頂点に乗った。確実な一打を叩き込めるのであれば、足場はなんだってよかった。
 体格差がゼロとなり、目線と目線が水平に繋がった。
 そこでふと、更なる何かに驚いたのか、レッパクが顔だけで素早く右を向く。思わずワルビアルも鏡のようにそれに倣う。
 まんまと成功。これはレッパクにとって転身の予備動作であり、今から起きる衝撃から注意をそらすための、視線の誘導でもあった。レッパクは右向きの勢いを全身に振り落とし、その場で時計針のように回る。氷の摩擦をも優位に運び、右の後ろ足を暗器のごとく繰り出し、ワルビアルの死角から送り込む。

 きゅるきゅるきゅる――

 電撃が効かなければ、という話の繰り返しとなるが、解答案のひとつをお教えする。
 電撃が効かなければ、敵への力ではなく、己への力とすればいい。繰り出しの速度と骨の強度を染めて、ごくごく単純に打撃力を高めるに限る。
 ワルビアルの横っ面に渾身の回し蹴りが入り、三本目の牙が弾け飛ぶ。


   ― † ―


 間髪ない増援を恐れたので、まずは周囲の確認にあたった。かなりの規模と程度で暴れたし、ストーンエッジとじしんによる轟音はもう誤魔化しようがない。なので、戦闘不能のワルビアルはボールに戻さず、あえてこのままにしておく。舌を傷つけたが、いずれここへやってくる誰かに治療してもらえば、一命は取り留めるはずだ。口を聞ける状態ではないから、まだ猶予はある。ばれないだろうと高をくくる。
「まーったく、イッシュ地方に住んでおきながら私のこと知らないだなんて、モグリもいーとこはーとこ」
 なのに、油断も隙もあったものではない。カラカラは死者に鞭打つがごとく、そのワルビアルの鼻面を杖でぐりぐりといじっている。
「お前、何者だ。なぜついてくる」
 同様のことを言われて更に機嫌を損ねたのか、つまらなそうにそっぽ向いた。
「きっと私が行くとこにお兄さんがいたんじゃないかなー? お兄さんも信じてくれないだろうから教えたげない」
 レッパクは、ポケモンセンターでくれてやったのと同質の目線を、カラカラの上から下まで送る。にわかには信じがたい軽口。等身大もある水色の杖。そして、身を守るべくして現れた氷壁。
 只者じゃないことくらいは十分に思い知らされた。
 今のままではお互い正体不明ということは承知だ。
 仕方ない、というため息。腰をおろしておすわり。耳を一定の角度へ。とん、と一度だけ地面を叩く。
「わかったよ、助けてくれてありがとう。おれはレッパク。『神舞』を冠している。仁義は――切らなくてもいいか。これで満足か?」
 今度は向こうの番で、レッパクに負けないくらいしばらくを置いた。散々ひっぱってから、そのポケモンはまた目を細め、なぜか嬉しそうに笑った。軽業師のように杖を高く放り投げ、大車輪の回転をもって落ちてくるところを反対の手でぱしんとキャッチ。仰々しく肩口に預ける。
 その名を、やがて明かす。

「私、キュレム。『氷翼(ひょうよく)』のキュレムだよ。よろしくね、おにーいさん」



水雲 ( 2016/05/11(水) 20:20 )