前編 Black tar
 06 ゴーストウォーカー


 【でたらめだらけの世界の中で】 ゼット


   06 ゴーストウォーカー


 [ ID:?????? ---> ID:Pokemon Center Unova034-05 ///: CONNECTION CODE (SNo.OMEGA331 ***-****-**-*) SEND …… DONE :/// ]

 無駄のない手順でゲイトウェイを切り拓く。狙い定めて二つのボールを射出。反対車線からフィードバックされてくるログを一字一句の見逃さず精査。もちろん異常なし。コマンドはあらかじめテキストで立ち上げておいたため、再変換してなぞるだけだった。
 すべてのステイタスをジャミングでごまかし、いかにもただのイッシュ地方間での転送だという体を装って、ゼットはハッキングした。

 ゼットが最後に、とある一文を戦友へと手向ける。
『あなたの進む回線(みち)に、よどみなき速度と安らかな電位の祝福を』


   ― † ―


 レッパクのボールだけ、開閉のコマンドが流されて、勝手に開かれる。
 見事だ、ゼット。レッパクはそう思う。全幅の信頼を置いているから、五体の満足を確かめる必要もなし。

 ポケモンのあずかりシステムが公共的に普及されてからのことだ。近年のポケモンセンターというものは、どの町のそれを選んでも、ほとんどの構造が同じとなるよう再開発された。システムの中に預けられ、一時的に冬眠状態となるポケモンの記憶に食い違いが生じないようにするためだ。眠る前と起きた後。その両方を綺麗に一致させ、時差ボケを防ぐための細かい気遣いが、色と形、配置などでデザインされていた。

 それなのに、レッパクの最初の感想といえば、「ひどい」の一言だった。血と泥が織りなす不吉な匂い。十秒遅れて転送されてきた腕時計をはめるのも、かばんを背負うのも否応なく忘れさせられた。
 ジョウト地方とイッシュ地方。さすがに地方間でのポケモンセンターで内装に違いはあるだろうと踏んでいた。イッシュ地方からすれば現にそのとおりだったし、フレンドリィショップとドッキングするなどという、実にハイブリッドな発想にまで及んでいた。他の町のポケモンセンターもきっと、漏れなくここと同じだろう。
 しかし、その中にいる負傷者たちまで同様に配置されていては、レッパクとしてもたまらなかった。

 考えが甘かった。
 事態の重さを目と耳でようやく思い知る。
 返り討ちに遭ったのだろう。不遜な事件を指をくわえて見過ごすわけにはいかないというのは、どうやら自分だけではなかったようだ。
 傷ついたポケモンやトレーナーたちは、床も椅子も関係なく所狭しと座り込んいる。あるいは横になっている。敷物すら用意されていない。ジョーイやその助手ポケモンたち、更にはフレンドリィショップの店員までもが慌ただしく駆けまわっている。急ぎたいのに、負傷者たちが通行の障害となって身動きが取りにくい、という不幸な二律背反。片っ端から担ぎ込めばいいのか、手傷の激しい者から集中すればいいのか、それすらも判別できていなさそうな、焦燥具合。負傷者が可哀想ならば、ジョーイたちも十分に可哀想だった。その涙目は、悲しさと悔しさからくるものだけではないはず。
 鏖戦(おうせん)の敗走兵たちがやっとの思いで辿り着いた、最後の砦、という印象だった。
 ばかじゃなければできない。
 本気じゃなければできない。
 今から自分が相手取るのは、そのふたつを絶妙なバランスで持ち合わせた奴らなのだろう。世も末である。

 見渡すのもほどほどに抑え、レッパクがふたつの装備を整えなおした途端、かばんの中のボールが揺れる。
「見ないほうがいい」
 独り言のようにささやく。こんな光景はミリィの目に毒だ。できる限りの同情をそこに残し、レッパクは身を潜め、気配を沈めることに専念した。無瑕疵の自分がここを長居する意味はない。

 ところが、
「お兄さん、お兄さん」
 イッシュ特有らしい、そしてなぜだか聞き覚えのあるイントネーションだった。かろうじて耳に届いた。集中力を少しでも緩めていれば声を拾えなかっただろう。
 誰かが忘れたぬいぐるみかと思ったそれは、ちっこいメスのカラカラ――みたいなやつ、だった。尻が奥まで届かないのか、ソファに浅く座って陣取っている。隣で痛がっているブルンゲルのほうがよっぽど視界を占めてくる。
 みたいなやつ、というレッパクの珍しく曖昧な判断。無理もなかろう。三つの違和感が脳裏をよぎっていたのだ。
 ひとつ目、綺麗な人形のように無傷のままである。それならそれで結構なことだが、自分同様、今この場にはふさわしくない。
 ふたつ目、カラカラというのは常に泣き顔という偏見をレッパクは持っていた。が、そこのカラカラはまったくの誤解とでも言いたいのか、涙ひとつとこぼしていない。むしろ自分よりも何かと余裕そうだ。
 みっつ目、なんといってもずばり、得物である骨を持っていない。持っていないどころか、代わりとばかりに、水色で三角錐の杖のようなものを両手にして床へぶらさげている。

 が、あくまでもカラカラらしいそいつは、カラカラの声で、
「ごめんね呼び止めて。おなか減ったんだけど、ご覧の有様だからまだご飯支給されなくって。なにか食べ物持ってないかな?」
 対するレッパクは、引き続きカラカラの容姿を値踏みする。こいつがもしも本当にただのカラカラだったのならば、無視してでも状況を開始すべきだった。しかし、何ひとつと実態を掴みきれない以上、下手に機嫌を損ねるわけにもいくまい。警戒心はとかないようにしつつ、接近。体をまるごと横に向け、かばんをカラカラの正面へ突き出した。欲しくば自分であされという意味だ。
「一個だけだぞ」
 やった、とカラカラは素直に喜び、こちらの心境も意に介さずフタを開け、無遠慮なまでに中をまさぐってきた。ごそごそという手つきにレッパクの横腹が揺れ、一抹の不安がよぎる。おい、あまり無神経にいじるな。ミリィがいるんだ。
「お、これって」
 よりによってそれか、とレッパクは内心で毒づく。それを最初に取ったのなら仕方ないと距離を少しだけ取り、心配しつつも、一応解説してやった。
「おうごんのみだ」
 カラカラは、短くて床から離れた足をちょっとぶらぶらさせて、

「へー。その『訛り』といい、お兄さんやっぱりジョウト地方から来たんだ?」

 レッパクの思考がほんのりと冷たくなる。
 こいつ、
 出身地方を言い当てた。
 おいゼット、一瞬でバレたぞ。
 この時点ですでにレッパクとミリィは危ない橋を渡ってきたのだ。この会話を誰も聞いていないか注意したが、杞憂のようだった。ジョーイの大声、ストレッチャーの滑る音、器材が喧嘩している音、ひとつのうめき声となって聞こえる死屍累々の大合唱。
 レッパクは返答せず、探りを入れ返す。
「なにか用か」
 カラカラもカラカラで、返事より食欲を優先し、大口で食らいついていた。きのみの外側を砕く咀嚼の隙間から、
「ううん、別に。おなか減ってただけだよ。お兄さん、私と一緒でたいした怪我もしてなさそうだし、なんだか他の子や人間たちとは違う匂いしたからさ、どこから来たのかなーって思って。そんだけ」
 子?
 それでもレッパクは腑に落ちない。カラカラの声と顔が一致しているかを確かめようとするも、白い兜とする骨のせいで、いまひとつ真意が読み取れない。 
「じゃあ行く」
「うん、ありがとう。ごちそーさまだよ」
 上機嫌そうに杖の頭を軽くふりふりとよこしてくれる。
 笑顔というのは、カラカラには一番似合わない表情だと、レッパクは思っていた。

 ゼットの告げたとおり、転送先のポケモンセンターはチャンピオンロードふもとに建てられたものだった。
 サンダース一匹でも反応する自動ドアはありがたい。もしも開閉せずにぶち破るはめになっていたら、一人か二人、ないしは一匹か二匹には気づかれたはずだ。人目から逃れるべく、最初に見つけた草むらへ飛び込み、一呼吸。この地方の野生のポケモンたちがどのようなマーキングで縄張り(シマ)を作っているのか、短時間かつ高密度で調べあげ、刺激しないような歩行法を選び出す。闘いの空気がここまで及んでいるのだ。不本意ながらも興奮させられているだろう。
 昼食を終えてからもずっと屋内間を行き来していたため、空色の移ろいをすっかり忘れていた。イッシュ地方でもすでに夜が差し迫っており、あれからあんなに時間がたったのかと思う。雰囲気以上に気温が引き締まりつつある。さっき腕時計を見たはずだが、色と熱を肌で感じなければ実感が湧いてこなかったようだ。
 誰にも見つからないよう身を潜め、しばらくを脇道で進み、やがて入り口にたどり着く。大の大人三人が肩車してもなお届きそうにない開き具合で、盛り上がる(へり)は月明かりを受けて光沢を灯している。その先で孕む闇を、草むらの隙間から見据えてみる。あれだけ賑わせたマスコミも睨みをきかせられたのか、ゴミひとつと残すことなく退散している。

 ここから先は、虎口だ。洞窟の中からすでに、敵兵がわんさかと待ち構えていることだろう。
 視線を上へと移す。
 おそらくは「あれ」がポケモンリーグだと思うのだが、その背後には、城と言いかえてもおかしくないほどの、更に巨大な洋館が建ってある。ひょっとしてあっちのほうがポケモンリーグの総本山なのだろうか。それとも敵の本拠地なのだろうか。遠近感に邪魔され、どれほどとまではレッパクの視力でも判別つかないが、悪者と偉い奴はでっかい巣を好むと相場は決まっていた。つまり、悪人と賢人とは紙一重の存在であり、どちらがどちらへ鞍替えしてもさして驚くことでもない。識者が悪へ寝返るのは今に始まったことではなく、人目をあざむく悪者であり続けるには利口さがいる。それこそ包丁のように、本質的には似たり寄ったりなのだ。それが証拠に、相反する二つの建造物が今もああして密着しあっている。
 しまったな、と思わなくもない。
 そういえば、なぜポケモンリーグが襲撃されたかを、ゼットから聞いていなかった。セブンのことで頭が一杯だったと言えばそれまでであるし、第一、聞くも涙の背景を知ったところでこちらの目的が変更されるはずがない。
 余計な事情は知らないままで済ませよう、ととりあえずは決め込んだ。

 ところが不意に、こころがぞくんとした。
 過去の闘いという古傷に、臨戦心理が接続された際の反応だった。
 主人の、ポケモンリーグにあと一歩及ばずという結果。
 それは、あくまでも主人だけの話だ。
 レッパクは、主人を置いたみんなと共に、ジョウト地方のポケモンリーグへ踏み込んだことがある。かつて、ここと同様に襲撃された史実があり、自分たちはその渦中にいた。主人のもとを離れてでも、自分たちポケモンのあり方を知らしめるべく、全存在を懸けて闘った。
 三年前の、旅の最後を締めくくる、大決戦だった。
 後付けで話すのなら赤の他人でもできることであり、他人事だけに、やたらと脚色して語り尽くすのが常というもの。だが、あの長い長い二日に限っては違った。どれほど中立的な者による記録にせよ、顛末を一字一句違わず編纂されたレポートは恐らくこの世にはひとつと存在しない。勝ったにせよ、負けたにせよ、神と謳われた一匹のポケモンに世紀のしっぺ返しをくらったなどという話はジョウトとしても忌むべき歴史だったはずで、また同時に反省すべき分岐点でもあった。やがて注目されるのはその一点だけとなり、ジョウトは命からがら、人間とポケモンとの繋がりをより明確に、より発展させていくべきだという楽観的な結論に逃げおおせることができた。
 そうしてレッパクは、みんなは、動乱の覇者として生きている。
 奪われた道を取り返し、今もなお立っている。
 他の地方の者たちが、あの闘いの裏表にどのような批評を並べようと、自分たちが勝利を獲得し、生き抜いたという事実は何も変わらない。

 今度は、自分だけだ。
 今度こそ、自分だけだ。
 三年前とは違う。主人だけでなくみんなも置いて、自分だけで、この道を進まねばなるまい。
 過去からの接続を断ち、臨戦心理を炊き直す。いつでも起動できるよう、予熱を与えておく。
「ミリィ、行くぞ」
 返答のつもりらしい。かばんが一度だけ揺れた。


   ― † ―


 チャンピオンロードとは、ポケモンリーグのある地方になら、それとほぼ抱き合わせ商法のように建設されている。
 いわば、「(ふるい)」の一種だ。
 ポケモンリーグ側からすれば、最後の試練というつもりだったのだろうが、挑戦者からすれば最後の嫌がらせだとしか思えない。これを拒むトレーナーが弱虫となじられるのならば、こんなものを盾に最果(いやは)てで待ち構えるポケモンリーグも同じである。闇間に迷宮、おまけに野生のポケモンの住処とあらば結果は見えている。艱難辛苦を乗り越え、八つという10進数も12進数もてんで関係なさそうな数のバッジを揃え、とどめにこのダンジョンである。
 当然、ポケモンリーグ側としても真っ当な言い分がある。運と実力を味方に回せば、ポケモンの活躍によってポケモンジムの制覇は可能だろう。ではトレーナー自身の器はいかがか。空を飛んで町を点々とし、片っ端からジム荒らしをするのなら、その気になれば子供だってできることだ。親が育成したポケモンどもを子供に持たせ、保護者同然に付き添ってやれば、容易に『最年少』の記録を叩き出せる。結果として、年齢に固執するデフレが発生し、当の子供は事の深刻さも理解しないまま生き人形と化す。それでは意味がなかろう。大人子供はさておき、屈強なポケモンを従える『トレーナー』そのものが、今更こんな洞窟に音を上げるほど軟弱であっては困る――というのが、ポケモンリーグ側としての本音だ。それでもなおトレーナーとポケモンは、山の峰に挑むのか。その一点を、身を持って見極める、最初で最後の壁だった。
 とはいえ、迷った挙句に餓死されてはさすがに困るのか、常夜灯がところどころ設置されている。こころもとない、最低限の明るさだが、何もないよりかはましだった。闇は身を潜めるのにうってつけだが、自分の道も判別つかなければ意味がない。うっかり足元をすくわれて水にでも落ちたら死ぬ。途中でギブアップする際の緊急ボタンも随所にあるのだが、野生のポケモンに襲われつつコールする輩が大半で、駆けつけたころにはもちろん、そこには誰もいない。いい歳した人間たちにピンポンダッシュされるのはポケモンリーグからしても気持ちがいいものではない。命を預かる以上やっぱりこんなダンジョン潰したほうがお互いのためではないのか、と頭を悩ませる一因にもなっている。

 もっともそのボタンも、「こっちだってそれどころじゃねえ」とばかりに機能停止しているのだが。
 それに、単独行動の、しかもポケモンであるレッパクには無縁のシロモノだ。人間よりかは数歩早く土地勘を把握できる。
 洞窟内は、今やポケモンよりも人間の数が目立っていた。レッパクは壁や草むらでカバーを続け、何者の視界に映ることもなく、一歩、また一歩と潜入を試みる。もしも洞窟内に生息するポケモンたちと似たような種族だったならば、木を森に隠すような擬態も考えただろうが、あいにくこちとら生粋のサンダース。世界の果てからでも見つけられそうな黄色いシルエットは、誰がどう見ても不自然指数MAXだ。かばんと腕時計なんていう人工的な道具まで装備しているし。
 その腕時計は太陽光をあらかじめ吸い込んでいたおかげで、文字盤が仄かに光っている。一体どういう気遣いのつもりか、しばらくを置いて鑑賞してみたが、ゼットらしくもない、無骨なデザインだった。芸術性をかなぐり捨てたフォルムは、堅物の自分にこそお似合いだとでも言いたいのだろうか。
 至極当たり前のことだが、腕時計が案外、そのまま腕時計として役に立っていた。時間感覚を持たぬまま茫漠と過ごし、焦りを憶えて無作為に突き進むよりかは、精神的な部分を管理しやすい。

 レッパクはひたすら潜伏を貫き通し、人間が通りすぎるのを待つ。視界外の隙を計らって移動する。音無しと夜歩きの術を合算させるのは初めてだったが、今のところ察知されていない。それを幾度と繰り返してすでにかなりの時間がたつが、やはりカタギのトレーナーはもう見つからず、手ひどい敗北をおまけに追い出されてしまったようだ。ひとりとして例外なく、統一された衣服を身に鎧い、IFFチップの埋まったドッグタグを首から下げている。老若男女、様々な人材を取り入れて肥大化した点に関しては、かつて相手にしたロケット団といささか質が違う。
 あれが今回の「愚か者」か。
 どの地方の、どの時代にも、あの手の集団は存在するのかと今更になって考える。
 ポケモンを悪用しても、何もいいことなんてないのに。
 無理にポケモンより上に立とうとしなくてもいいのに。
 均衡を崩してまで得られるものなんて、何もないのに。

 道の脇にて生え立つ、ひとつの大きな岩陰に身を潜め、人間と自分たちの繋がりというものを憂う折も折、ふとかばんが揺れた。
 無視した。
 間を置いて、もう一度揺れた。
 やれやれ。
 レッパクは大儀そうにかばんをおろし、ボールを口で取り出した。
 ミリィが現れると同時に、レッパクは目と前足の無音サインで鋭くささやきかけて諭す。
『頼むから落ち着いてくれ。集中できない』
『ごめんなさい、どうしても気になって。ここがイッシュ地方?』
 怒りであれ、呆れであれ、どんな表情を作るのにも音が発生しないのは助かる。レッパクはしかめ面になり、音を抑えたため息。
『ああ。チャンピオンロードだ』
 ミリィがレッパクの制止を無視し、少し歩く。目だけでなく顔も使ってきょろきょろする。レッパクと違い、夜歩きの術をもたないから、それはそれは非常におぼつかない。見ているこっちがはらはらするほどに不用心だ。なにやってるんだ、あと三歩、あと三歩進むと岩陰から出ちまうぞああああ、あと一歩、
 早く戻ってこい――そう言いかけた矢先、
「わたし、この匂い、知ってる」
 レッパクの両耳が少し跳ね、闇を斬る。
「なに?」
「わたし、ここの地方でうまれたのかも」
 その故郷とも言うべきイッシュが、目下、兇変に脅かされている。記憶喪失のことなど、ミリィ自身まったく気にせず生きようと振る舞っていたのに、今だけはその後ろ姿がひどく切なげに見えた。
 ぶるぶると頭を振るって気を取り直したのか、こっちを振り向いて、
『レッパク、早くセブンを見つけましょう。できることなら、その後でセブンたちの力に』
『みなまで言うな』
 だからこそ、不必要な戦闘はさけるべきだ。
 まずはセブンと合流することが先決だ。
 その後のことは、その後にでも決めればいい。

 ―――、

 ん? と思う。
 あれ。と思う。
 待てよ。と思う。
 何かゼットに対して訊ねたいことがとっさに閃いた、気がする。そのまま耳を通過して外へ出て行ってしまった、気がする。どこかひそやかで黒い思想。頭がむずむずする。三秒前の自分に戻りたい。ああくそ、すっきりしない。
 ミリィがそばへ戻ってきたのに、今度はレッパクがずっと思考をぐるぐる回転させている。もう少しで思い出せそうといったところで、乾いた音に思考を遮断された。
 星の自転のせいか、そばの岩ががらんと欠けた。

 気づいた、という気配に、気づいた。
 電磁波を放つまでもなかった。岩越しの視線を嫌というほど感じる。
 ミリィの顔が、これ以上にないほど緊張にまみれた。ミリィから見る自分も、おそらくそれに負けていないだろう。
『隠れろ』
 即座にミリィをボールへと戻した。
 次第に大きくなってくる足音のみで、レッパクはすべてを推測する。人間。一人。大人。男。体長175。体重70。おそらくは右利き。早足だが慎重の域からは脱していない。
 接近が止まらない。
 まずい。やはりただ巡回ルートをたどっているだけではない。明確な意志を持って、こっちへ近づいてくる。今この場から逃げ出したら、どの方向からでも絶対ばれる。電流で神経を刺激し、加速すれば、肉眼で認識されない自信はある。しかし潜伏場所の狭さが裏目に出て、最適な体勢が作りにくい。あまりスピードを出しすぎると、着地の際に次の音を生み落としてしまう。見えない速度と音を作らない速度の交点は、この短時間だけでは計算できない。

 開き直るしかなかった。
 くそ度胸を振り絞った。
 来い、そうだもっと来い。近づいてこい。
 レッパクは、最後にもう一度だけ深呼吸。

 今だ。



水雲 ( 2016/05/04(水) 12:33 )