前編 Black tar
 05 クロノスブロー


 【武装したら、振り返るな】 レッパク


   05 クロノスブロー


 こころから、しあわせだった。

 ツキが伝播したのかもしれない(それならそれで非常に嬉しい)。セブンがうまれてからしばらく後、主人も続けて、自身の道を拓いた。履歴書との一発書き勝負、ポケモンレポートとのにらめっこ、パソコンとの激闘の日々を続けた甲斐がようやっと実り、かつて通っていたスクールの非常勤講師として働くことになった。灯台下暗し。ポケモンリーグには届かずとも、なにせバッジは全部。スクールからしても、生徒からしても、喉から手が出てしがみつくほど欲しい人材であったはずだ。この時ばかりはメンコの数よりも星の数だった。
 主人がみんなを食わせていくためにも、という理由なら、レッパクにもあてはまる。セブンを養っていくためにも、主人のポケモンとしてスクールに赴いた。座学では主人が黒板にチョークを叩き、実戦ではレッパクたちがバトルコートにて演習相手を務めた。当初の頃は、家に帰るや否や、ミリィとセブンが自分たちを出迎えてくれて、スクール内での出来事を漏れなく話すことをせがまれた。レッパクはそれをきっかけとし、色々なことを二匹に語った。主人とともに旅をし、みんなを仲間として一匹一匹迎え入れたかつての物語を、一晩ごとに分けて紡いでいった。今度こそミリィにもその場で過去を打ち明けた。
 そして。
 作法も、戦法も、定石も、レッパクは改めて、ミリィとセブンに教えた。
 慎重に。
 ゆめゆめ、憶えていただきたい。
 慎重に。
 である。

 セブンは何ひとつと不自由なく主人とレッパク、ミリィ、他の仲間達に囲まれながら、優しく育まれてきた。目つきの鋭さはレッパク譲りで、何を思ったかレッパクに倣ってサンダースへと進化する道を自ら選んだ。ミリィのような赤く柔らかい毛並みをその黄色のそれへと淡く滲ませていた。レッパクからすれば嬉しいと照れくさいの狭間の感情しか浮かべられない。幼少の頃はどこへ行くにつけても父さん父さんと、ひょこひょこついてくるほど懐いてくれていた。ややもして成長もするとさすがに年頃を感じてきたのか、以前のような密着ぶりはどこへやら、意識的に距離を置いて単独行動を始めた。ワカバの森で喧嘩でもしたらしい生傷をこさえて帰ってくる時もあり、その時はさすがにミリィと共に叱らざるをえなかった。
 つまり、時々突拍子もなく出る行動の危なっかしさはミリィ譲りで、ここらへんはレッパクも難儀した。トラブルのひとつやふたつくらいなら目をつむっていられるが、セブンの頻度には目に余るものがある。前向きな部分では元気の裏返しととらえた。ある意味では、こういうところもレッパク似、なのだろうか。
 愛である。
 檻ではない。
 それだけは、決して間違えない。
 セブンは何ひとつと不自由なく主人とレッパク、ミリィ、他の仲間達に囲まれながら、優しく育まれてきた。
 はずだった。
 はずだったと、みんなが信じていた。
 肉親であるにも関わらず、毎日一緒に過ごしていたのにも関わらず、レッパクとミリィには、セブンのこころの機微が、ついぞわからずじまいだった。
 セブンが、忽然と行方をくらました。

 仕事の帰りだった。
 ミリィだけが来た。
 もしこの日も家にいたとしても、もうあの頃のように迎えてはくれない。異変を異変と思わぬ(おの)が未熟さを、今更になって悔やむ。
 初日は、また勝手にどこかへ遊びに行ったのだろう、とミリィと揃って決まり文句をぶつける準備をしていた。
 初めて、セブンのいない夜を迎えた。
 二日目を過ぎた時点で、事態のまずさが色濃くなってきた。主人やミリィの顔色の悪さを見て、ようやく自分も不安になってきた。ミリィを失ったトレーナーも、こんな気持ちだったのかもしれない。みんなの協力を得て、あらゆる方角、方向、方面へと捜索に回った。結果は――言葉にするだけ酷だろう。
 かけた時間が長いほど、費やした体力が多いほど、セブンの存在がますます遠く小さく感じられていく。

 もちろんゼットも協力してくれた。全面的に。全方位へ。全世界を。
 当初は、電気の通ったカメラならばどんなやつでもハックし、全国中の映像をその体ひとつをもって、秒単位で精査していくほどだった。身体的にも法律的にも危なすぎる荒業である。情報処理能力に特化したゼットでも、データの嵐にプロセッサーを舐め尽くされ、864キロセカンドでショートした。むしろよく持ったほうである。
 所有者としてセブンの正式な届け出、登録をしていたとはいえ、ポケモンの生息数は人口に勝るとも劣らない。血液の中の赤血球ひとつをずばり見つけるようなほどに至難を極めた。野生に還ったことも考えられる。おたずねポケモンの書類をお役所へ山のように提出するのが人間であれば、登山して処理するのもやはり人間で、忙殺のあまり、何らかの手違いで埋もれ眠っている可能性もある。存在しないデータに、ゼットはハッキングできない。
 それ以上の負担をゼットにかけさせるのは、良心がなんとしても咎めた。それに、ゼットにはゼットの生活がある。支障をきたすわけにはいかなかった。

 あの時の焦りようは、今でも憶えている。
 今にして思い返せば――
 毎晩語っていたあの武勇伝の情景に想いを馳せ、いつかは自分も、という憧れの気持ちが、セブンの中で芽生えつつあったのだろうか。
 まったく、そういうところも自分似なのか。
 最後に「父さん」と笑顔で呼んでくれたのは、いつだったのか。
 その答えが、いまだに見つからない。


   ― † ―


 うまれてからは八年。
 冒険、激動、そして出会いと生誕からは三年。
 蒸発からは一年。
 そして今に至る。
 セブンが、どこにいるかが判明した。

「近頃のニュースはご覧になってます?」
「――いや」
 思い出をたゆたうのをやめた。余韻を噛み締め、レッパクは閉じていたまぶたを薄っすらとあげて答える。USBコードを拾い上げたゼットが、体内からポータブルテレビへ遠赤外線を飛ばし、チャンネルをいじっていた。さっき主人の家で見たのと同じ映像が、そこで引き続き中継されていた。
「イッシュ地方、今、とっても大変だそうです」
 副詞が大雑把すぎて程度がつかめない。こいつ本当に人工のポケモンか。
「どのくらいだ」
「ポケモンリーグが乗っ取られるレベルで」
 一大事すぎる。
 ジョウト地方で『経験してきただけに』、なおのこと深刻さが理解できる。今度もポケモンの仕業か、それとも今度こそ人間の仕業か。それでも今まで情報のひとつと耳に入れなかったのは、所詮他所事と済ませていたからだろう。他の地方にまでわざわざ首を突っ込むほどおせっかいではない。

 きっかけは、皮肉にも連日テレビを騒がせるこのニュースだったらしい。
 もはや軍病棟とみなしてもおかしくないチャンピオンロードふもとのポケモンセンター。その内部へ立ち入り、傷ついた者たちを映すのは放送倫理に関わるので、外装を上空から眺めるにとどまっていた。
 飛翔した気分でその様を見るなり、あららら、とつぶやくのが日頃のゼットなのだが、そこでふと思いついた。
 ポケモンセンターへ預けられたポケモンたちのデータなら、テキストである分、映像よりも簡単に検索できるのでは。
 善は急げだった。そこから先の段取りは、光にも近い速度だった。3.6キロセカンドですべてを準備した。申し訳ないが、アナログだろうがデジタルだろうが、人間によって記録されたテキストデータにはもう頼らない。セブンの遺伝子情報はすでに取得済み。セブンがイッシュ地方にて誰かに拾われている可能性に賭け、徹底的なまでにドブさらいをおこなった。回線を遠泳し、ゴーストマシンとともにイッシュ地方のポケモンセンターたちに飛び込み営業をし、データバンクに入るや否や居直り強盗へと正体を改める。アンチウイルスのディテクタに発見される前に、レッパクやミリィの遺伝子と少しでも照合する部分を探し、フラクタルパターンから突き止める。

 それから更に3.6キロセカンドを消費して、ありかを突き止めたそうだ。体重は少し重くなり、身体も一回り大きくなっている。しかも、偶然か必然か、テレビにて主役を務めたチャンピオンロードふもとのポケモンセンターが、最後に更新されたデータだった。
「――もしかして、」
「ええ、レッパクの考えならわかります。ボクももしやと思い、ポケモンリーグからひとつ遠ざかるポケモンセンターを、更にひとつ遠ざかるそれを、ピンポイントで調べました。結果はドンピシャ。どちらも最終更新のタイムスタンプが古かったです。進行方向的に、セブンは間違いなくトレーナーと共に、ポケモンリーグへと足を進めています」
 あの激戦区に自ら突っ込む気か。
 それほどまでに正義感全開なのは誰に似たのだろう。

 行かねばならない。
 セブンがそこへ向かっているというのならば、自分もなんとしてでも追いつかねばならない。
 居ても立ってもいられなくなったレッパクは、機材散らばる床をお構いなしに早歩きし、そこへたどり着く。
「ここから行けるのか」
 コンピュータの性能をひと目で判別できるレッパクではない。それを選んだのは、嫌でも目立つ図体のでかさからだ。
 それを主人と同じパソコンと呼んでいいのか、少しだけ迷った。無理もなかろう。モニタは実に七つもあり、ゼット専用規格のキーボードは三つ。今はスクリーンセーバー状態で、フワンテの群れが画面をまたいでぷかぷか浮いている。ゲームカセットだろうがメモリーカードだろうがディスクだろうがオープンリールだろうがそれ以前の遺産だろうが全部まるごと食って解析できる大口3Dスキャンを持ったデータアクセサー。ゴーリキーの腕よりも太い配線がハードウェアの背中から何本もうねっており、床へ潜っている。必要とする電力はマルマイン十匹はくだらない。
 そして、隅っこのほうにある、レッパクがが普段ここへ来るのとはまた違う設計のされた、強力な超指向性を持つ転送装置。
 最先端技術の闇鍋と言っても過言ではないそれは、まさにどこをとってもハイエンドモデル。この機械群こそが、この部屋全体のシステムを取り仕切る母艦だった。
「はい。向こうとの回線はまだ公式には一般利用できませンので、こっそりとオフラインでハッキングの準備をしていました。一瞬だけゲイトウェイをこじあければ飛び込めます。ですが、逆探知されれば社会的に危険です。一緒に潜り、瞬間的にあなたを射出したあと、こっちの地方へ逃げ切ってみます」
 じれったい話だが、この時代においても大切にされてきたことだ。それぞれの地方の生態系を崩さないための、せめてもの配慮だった。物資と違い、ポケモンは人間と同じ生き物で、目の行き着かないところでも繁殖を続けて今日(こんにち)まで生きてきた。そういった形で、それぞれの地方には昔から居着くポケモンがおり、人間の強力あまる手によって種族を混ぜられると、ポケモン独自の文化や生態系にまで影響を及ぼしかねないのだ。それでも知ったこっちゃなしにとポケモンが勝手に勢力を拡大していくために、せめてもと人間はだいぶ昔から技術的な面で制限をかけている。真面目な手順を踏むとなると、役場の手続きと審査をパスしてから晴れて公認となり、よって丸一日はお釈迦となる。そんな時間的な余裕もこころのゆとりも、今のレッパクにはない。法か命か。もはや天秤にかけるまでもない。

 今すぐにでも飛び込んでセブンの安否を確かめたい。
 今のセブンは『どんな気持ちで闘っているのか』を、とにかく知りたい。

 その前に、やはり言うべき言葉がそこにはあった。
「世話になった。本当にありがとう。やっぱりお前はすごいよ」
 このことだけではなく、今日までのセブンの捜索に関わるすべてに対する礼だった。自分たちが足や翼で稼ぐ距離など、このポケモンの実績を前にすれば、たちまちお粗末に感じられていった。
 しかし、
「いえ、礼は結構です」
 謙虚さから来る返事ではない。
 レッパクは直感でそう思った。
 それでも、
「なんでだよ、言わせてくれ。ありがとう」
「やめてください!」
 レッパクとは違う、びり、と肌に響く声量だった。
「一体どうしたんだ」
 我に返るという素振りすら見せなかった。涙を流せない造りである自分が悔しそうでもあった。
「ごめンなさい。セブンに会えたら、いずれわかること、です」
 自分の口から言い出せないのは珍しい。こういう「自分からは言いたくないこと」を隠し持つから、やはりポリゴンたちも立派な生き物だとも思う。セブンの居場所を突き止めて、しかも生存しているとわかっただけでも御の字だ。
 ゼットは気を取り直し、端末からデータを引っ張り出し、七つあるモニタのひとつを切り替える。レッパクから見て一番近いやつに、映像が流れる。
「とにかく、これがチャンピオンロードに通ずる道の、だいぶ手前のカメラでとらえたセブンの姿です。あなた同様、あの子も今のところ元気一杯のやンちゃくれ、変わりないようです」
 ああ――、
 思わずレッパクの口から感銘がこぼれ出た。
 本当だった。それだけで安心感と幸福感が溢れ、空虚だったレッパクのこころを満たしてくる。画面の熱がそのまま身に沁みてきて温かい。主人と思しきトレーナーも映って見えた。こっちの主人に比べてやや若めの印象。周りのポケモンはきっと仲間だろう。元々他人のポケモンだったミリィがこっちへ来たように、その娘であるセブンは今、他人のポケモンとして生きている。
 セブンが生きている。
 別のトレーナーの元で活動している。
 更に考えられるのはまさに闘いの渦中にあるリーグ、組織に挑もうとしているトレーナーの仲間となっている。
 その動きを一秒単位で脳裏に刻もうと、レッパクは一挙手一投足を凝視する。
 そして、こころの中で舌打ちする。
 くそ、やはり映像だけじゃだめか。
 セブンの旅の映像を初日から今日までぶっ通しで見せられても、恐らく感想は変わらないだろう。直に会ってみなければ、何も始まらない。

 レッパクの真剣な面持ちを、ゼットは横から恐る恐るうかがう。
「みなさンもお呼びいたします?」
「――いや。おれが、おれだけが行く。これはおれだけの問題だろう。手前の子供の家出に、いちいち全員を巻き込むわけにはいかない」
 カードが手持ちにあるのならできうる限り使いたいが、今回ばかりはこらえる。それが父親としての矜持であり、使命であり、責任だった。
 そこで突然、今まさに走りだそうとしていたセブンの姿が、まるで時を止めたように静止する。ゼットが一時停止をコマンドしただけだった。
「レッパク」
 今度はレッパクが、ゼットの横顔を見る。
「あなたが主人とセブン、ミリィ、そしてみなさンのことを愛しているように、ボクもあなたのことを愛しています。実を言いますと、あなたにはこれ以上闘ってもらいたくありませン。心配です」 
「それは、おれのブランクを考慮して、か?」
 長い長い沈黙の後、
「いいえ」
「だろうな」
 ふ、と鼻で笑う。決して嘲っているわけではない。もしも嘲るとすれば、それは自分に対してがふさわしい。
「気づいているンですね」
「こっちのセリフだ。『それ』こそが、セブンに対して、いの一番に知りたいことなんだ。だからおれの体『とか』を、まずは調べたんだろ?」
「ええ、その通りです。あなたはとても強い。だからこそ、余計に心配なのです」
 そこでレッパクは、人間で言う肩をすくめるといった動作をしてみせて、
「おれのことなら心配に及ばない。現にこうして生きている。みんながいるから、おれはおれでいられる」
「それは、みなさンのことを、自制の枷として利用しているってことです?」
 長い長い沈黙の後、
「失礼。言葉が過ぎましたね。とりあえず報告は絶対でしょう。一度戻られては?」
「そうする」
 あながち、間違っていないかもな――自戒の意味も込めて、レッパクはそう思う。


   ― † ―


 レッパクは、主人にとって初めてのポケモンである。ゼットと、ゼットの主人たちが開発していた電脳空間の中に、突如として現れたタマゴから孵った。その経緯なぞ些事と済ませるほどに、最初の手持ちであることが主人にとっては何よりも嬉しく、誇らしい。レッパクも同じ立場である。だからあの場で決意し、黙って行くのは、レッパク自身の忠義に最も反する、死にも等しい行為だ。それこそ、この父親にしてあの娘あり、と言ったところであろう。これ以上、みんなを置いていくのも、置いていかれるのも一生ごめんだった。
 家へとすぐさま戻ったレッパクは、一階にて主人とミリィとみんなを呼んだ。セブンについて、見たこと聞いたことすべての状況を伝えた。三年前、ミリィの持つタマゴを全員揃って見つめていた時のような、安堵と不安の微妙に入り混じった空気がその場を支配した。
 座標的に、イッシュ地方はジョウト地方から遠く離れた位置にある。こっちはフライゴンが仲間におり、空を飛んで行けなくはない。が、なにせ時間がかかる上に、搭乗する主人の体力が心配だった。かといって、全員を連れていけるほど、回線を拓く時間に余裕はない。一刻を争う。こうしている間にも、セブンはまたひとつ、負わなくていい怪我を負っているかもしれない。

 いちいち全員を細かく説得するよりも、その焦りようを見せることが、一番の近道だったのだ。
 思いやりはあれど反対はなしといった流れで、やはりレッパクが挑むこととなった。そして、ミリィが同行を申し出た。
 母親という強力な免罪符がある以上、誰も反対の声をあげなかった。父親だけが娘に会いに行ける権利など、どこにもありはしない。三年経過した今でも、ミリィはまだはっきりと記憶が戻っていないため、闘い方もリセットされているはずだ。むやみな参戦はできないだろうから、実際はレッパクだけが戦場へ身を投げ入れることとなる。

 ――レッパク。
 あの時のように、主人が代表して前へ出てきた。自身の両ほっぺをパンと叩いていた。
 ――ひとつ、約束してくれ。それさえ守ってくれたら、俺たちはもう何も口出ししないから。
 言わんとしていることを察した。
「わかってる。死にはしない。ミリィもセブンも、おれが守って」
 ――違う。
 す、と片膝を床につく。
 泉の水を優しくすくい上げるように、両手で顎をそっと持ち上げてきた。驚くほど近い距離に主人の顔がある。その目にも、確かに自分と同じく決意の光が溢れている。しかれども落ち着いて諭してくる、芯の通った声で、
 ――誰も死なせるな。絶対にだ。お前は強い。誰よりも俺が知っている。死なないって信じてるさ。

 つまり、死なせることに関してはあと一歩、信用が及ばなかったということだ。

 ――約束してくれ、は訂正する。約束しろ。いいか、殺すな。敵味方問わず、人もポケモンも、全員だ。相手の命を自分の命以上に、大切に扱え。それだけは、守れ。
 己が主人にここまで言わしめるのがそもそも不覚だと、レッパクはまず恥じた。その上で断ったり破ったりしたら、それこそ『神舞(しんぶ)』の名折れだろう。
「わかった」
 レッパクも力強い目でうなずくと、主人の手から離れ、そろそろと数歩引き下がる。左右の耳をとある角度にまで傾ける。前からも上からも八の字に見えるよう、後ろ足を軽く開いて踏ん張り、胸を床にくっつけるかくっつけないかほどのギリギリの伏せで、右の前足を差し出す。夢うつつのような半目。それほどに無茶な姿勢でも一切と震えないところが美しい。
「どうぞ、控えてください」
 それを聞いた主人も、数歩引き下がる動作を返し、正座。無言で続きを促した。

「お控えくださり畏れ入ります。武道にもとる不案内を前置きといたしまして、手前、これにて仁義を発します」
 レッパクは、目を、閉じる。口の中で言葉を転がし、一言の淀みもなく丁寧に繋げていく。
「闘いの中で英名を得て主君に献上する。それを是としたこの道契って八年と少々あまり。然れどもいまだ主君に何一つと恩義を報いてはおりませんし、一匹の愛娘のためにまた私は疾走ります。一刻(ひととき)のみならず、二刻(ふたとき)も忠義の違えた道を進む、己が不徳。そればかりか、そもそも娘一匹と禄に薫陶(くんとう)できていない、過ぎた始末。汗顔の至りで甚だ恐縮、丁重に返す言葉も繕えません。身の程を弁えず、主君に背き、今一度私闘に馳せる事をどうかお許しください。
 八の(よわい)(うまれ)若葉(ワカバ)(いかずち)(まもり)。縁持ちまして貴方様より頂戴した裂帛(レッパク)(あざな)。二つ名として冠した『神舞』。扱うには持て余し、捨てるには惜しむという卑しいこころ、思い返せばつくづく半端者であり続けてしまいました。しかし、汚名返上、名誉挽回、この不埒者に面目を一新する機会を恵んでくださった寛大なる措置、浅葱(アサギ)の海よりも深く感謝致します。それにつきまして」
 ――ああもうやめだやめだ、堅苦しいっ!
 屋根を吹き飛ばしかねない大声。尻が浮き上がるほどびっくりした。
 ――もっとシンプルな言葉があるだろシンプルな言葉が! 足を痺れさせる気か!
 主人はその場をあっという間に離脱。おもちゃを取り上げられた子供のようにプンスカと怒り、冷蔵庫へ向かってのしのしと突き進む。
「あ、でも、」
 それでもレッパクは、まだ姿勢を崩さない。ぎりぎりと首だけを曲げて、主人の背中を目で追う。
 ――そういうのは自分と同じポケモン相手だけでいいって! 人間の俺なんかにわざわざやる必要なんてなし! あのな、人間ってのはな、この際だからはっきり言ってやる、ポケモン様と比べるとすっげーアホなの、ばかなの! 難しい言葉とか挨拶とか全然わかんねーの! はい、もー綺麗さっぱり忘れた。――だからさ、なんにも反省せずに、あんなしょーもねー闘いとかおっぱじめちゃったりするんだよ。多分未来でもやってるよ。うん、絶対やってるわ。もう本当、人間ってアホだから。ポケモンより先に全滅すること間違いなし。
 毛も抜けろとばかりに主人は頭をばりばりとかき、食器棚からガラスコップをひとつ抜き取る。
 ――だから、するならもっと別の言い方をしろ。自分の気持ちに沿った、単純明快でふさわしいやつがあるだろ?
 冷蔵庫を全開。中にあった麦茶を一気に注ぎ、戸も閉めずにがぶがぶと一気飲み。ステンレスのシンクへ、ガラスコップの底を垂直にカンッ。
 いかなる言語の反論をも封殺する背中のまま、続ける。
 ――言え、言うんだ、レッパク。頭が悪くて親ばかな俺の『ここ』に響く、一番の言葉。

 それでもレッパクは、まだ姿勢を崩さない。話の糸口を失って、今度はぎりぎりぎりぎりとミリィのほうを向く。いじわるにも、微笑み返してくるだけだった。
 応援に行きたいのは、自分だけではないのだろう。
 そのことは、痛く理解した。
 そうしてレッパクは、ついに姿勢を戻す。再び、主人の背中を下から上へ目でなぞる。
 主人が、スクールの講師になった理由が、やっとわかった。
 セブンが自分に色々と似てしまったように、自分も主人のこういう部分が似てしまっていた。
 自分がセブンに教えたいことがあるように、主人も生徒たちに教えたいことがある。それでも、うまく言葉や行動に示せず、あくせくと遠回しに試行錯誤するところが。
 とりあえずは仁義を済ませようと耳を伏せ、床を叩こうと前足を上げて――やめた。
 こころで苦笑する。これはポケモンの作法だ。これではさっきの二の舞いだ。
 主。
 忘れん坊なのは、人間だけじゃないよ。

 決意して、
「わかった、言うよ、主。どうか聞いてほしい」
 ――言ってくれ。
「――行ってくる」
 主人は途端に凶猛な笑みを浮かべ、白い歯を剥いて振り向く。虚空へ突き出された右の正拳、そこから更に人差し指を突き出し、扉一枚先の世界をびしりと指す。手形は針。意念は示。正鵠は外。
 声高らかに、最後の命令をしてくれた。
 ――よっしゃあ、行ってこい!! 俺たちの娘を傷つける奴ぁどんな目に遭うのか、とこッとん思い知らせてやれぇ!!

 どこまでも、そのつもりだった。


   ― † ―


 まあ、向かうのは二階のパソコンからゼットの部屋へ、なのだが。

 準備は物理的な部分から始まった。携行品の再確認。兵糧用のきのみをいくつか。緊張状態で大いに消耗するだろうカロリーを補給するキャンディ。これには塩分もかなり含まれている。四足でも自力で経口摂取できるポケモン用ボトル。向こうのトレーナーとの合流を果たした時に備えた道具も、最低限は揃えた。キズぐすりなどの止血剤がそれだ。
 全部を綺麗にまとめた、ファッション性度外視の小さなかばんを受け取る。代わりに防刃性と耐電圧性をばかばかしいくらい強化した、地雷畑の中でも生還できそうな業物であり、背中から横へ下げる鞍のような造りだ。少しだけ重いが、動きまわることに不自由なほどではない。
 カモフラージュのため、数万パターンから選び抜いた最適な迷彩ペイントをレッパクの顔や体に施そうかという案もあったが、ミリィが断固拒否した。自分のパートナーがまたしても好き勝手落描きされているみたいで嫌、洗い落とすのが後々大変そうだから嫌、怖くてセブンが泣いちゃいそうなのが何より一番嫌。ちょっと残念だと思う当のレッパクだったりもしたが、沈黙は金。

 次。手術室にぶらさがっていてもおかしくないほどの大きなライトたちから、四方八方に光を浴びせられ、滅菌処理。長距離の転送酔いをしないために注射を二本。ミリィには一本。ゼットが作業用マニピュレータを操作し、寸分の狂いなく前足へ通してくれた。即座に刺し傷へ保護フィルムを貼ってもらう。
 そしてその間、レッパクは少なくとも十本以上はプラグの突き立ったヘッドギアをかぶっていた。バイザーをおろし、アイピースで両目を覆う。わざマシンのレーザーディスケットを側頭部分のデコーダーへ一枚挿入してもらい、そこから溢れる光を集束させ、両の網膜へ滔々と流し込んだ。視神経から信号を焼き付け、臨戦心理を最適なものへと更新していく。新たな技能を、百時間の鍛錬ではなく百万言の情報で習得する。レッパクにとってあまり好ましい方法ではないが、時は金なり、やむを得ない。アイピースの外からゼットの声。「後でこっちのディスケットも挿れます?」「そっちはなんだ」「エッチな画像集500メガバイト」「超いらん今すぐ叩き割って薬品滅却しとけ」
 15セカンド後、更新完了のログが網膜上に出た。オールグリーン。それもそのはず、途端に嫌でもレッパクの臨戦心理が炊きつけられたからだ。闘志が燃え、こころの中で静かに乱舞する。今か今かとクリスマスケーキを待ちわびる子供の状態だ。

 そこから意識をそらすべくか、ゼットがヘッドギアを外してくれて、とあるものを最初に見せてきた。
「これを」
 気力旺盛のレッパクは二回、短い間隔でまばたきする。
 両手で差し出されたそれは、顔が映りそうなほど丹念に磨かれた金色の腕時計だった。訊くまでもなく電波ソーラーだろう。なぜだか文字盤そのものが、三時間分を時計回りに進めており、頭は12ではなく9となっている。バンドのボタンを正面からプッシュすれば取り外せる構造。サンダースの自分でも気楽に着脱できるよう、優しく設計されていた。
「セブンの誕生祝いに渡そうかと思っていたンですが、なンだかしそびれてしまって。ちゃっかり特注です」
「何か、敵をかいくぐるための特殊な装置でもついているのか」
 血中糖度をベストな状態に保ってくれるとか、アドレナリン促進の効果とか。開発マニアなこいつのことだ、そういう機能をこんな小さな腕時計に搭載することくらい容易いはず。スパイ映画めいたギミックがあってしかるべきというタイミングだ。
「実はその辺に関して、なンですが、」
 ふふふ、と望み通り、マッドサイエンティストのような薄気味悪い笑顔を見せてくれる。そして、ころりと表情を戻して、
「特に何もないです」
 まさか。
「本当です。元々は単なるプレゼントのつもりだったンですから。強いていうならば、ばか強烈な電波でも死なず、強度、歯車の噛み合い、どれひとつをとっても恐ろしく頑丈にできています。あなたの電圧でも壊れない腕時計、ってところでしょう。攻撃に転じたあなたの電磁波を受けたとき、それを即座に消費すべく勝手に針が回り、ぐるぐるした挙句に元の時刻へと戻ります。秒針、長針、短針、それぞれ独立して回転するよう開発しましたので。が、ただ、それだけです。それだけなンです。せっかくですので持って行ってはいかがでしょう」
 なぜ今頃になって。
「まあ、お守りみたいなものです。気休め程度に捉えてください。時計としての出来は問題ないはずですから。ハード面でご不満でしたら、『カナラズキカンスルヤクソク』というソフトなオプションでも付与いたします?」
 この期に及んで嘘をつくやつだとは思えない。
「いや、それは結構だ。でも、ありがとう」
 主人は左手首にポケギアをつけるので、それに倣って自分も左前足につけてもらう。両者の予想は見事的中、吸い付くようにぴたりとはまった。ぶらぶらと振るってみる。きつくもゆるくもない。重量感は少しあるが、装着感はごくわずかだけで、息苦しくない。
 ここで、文字盤が三時間だけずれている意味がわかった。人間は腕時計を見る時、肘を曲げる。自分は前足を正面へ上げる。その角度の違いを考慮したのだろう。どうやら、左前足につけることすら、ゼットには想定内だったようだ。自分は時計や時間につくづく縁がある。
 秒針の動きをしばらく追ってみる。
 うん。
 ゼットの笑顔をレッパクは不敵な笑みで返し、一言、
「アナログなのが気に入った」
 そこが一番の仕事ぶりだと思う。正確には腕時計ではなく前足時計となるのだが、便宜上腕時計と呼ぶことにする。

「レッパク」
 ミリィが、お互いのたてがみが触れ合う距離まで体を寄せてくる。
「お願い、無茶だけはしないで」
 レッパクとセブン、どっちを第一に心配すればいいのか迷いかねている、おぼろげな表情。
「そんな顔をするな。おれがヤワに見えるか? ほら、」
 そこでゼットは、あららら、とヨルノズクのように首を180度回転させてそっぽ以上を向いてくれた。
 ゼットの前だということも遠慮なしに、レッパクは右前足をミリィの頭部へ差し出し、首元にかき抱いて、白いたてがみへと強引に埋め込ませていた。
「お前にそういうのは似合わない。そんな顔じゃなくて、母親らしいとびきりの優しい顔を、セブンに見せてやれ。おれの代わりに」
 ミリィは白いたてがみの中で、うん、と小さく頷いた。



水雲 ( 2016/04/26(火) 12:38 )