前編 Black tar
 15 The Godling's Rapture








 その大体において病的な戦意は倫理観を曖昧に濁し、自分でも決してたどり着くことのないこころの深淵に沈める。
 代わりに、その泥沼の彼方から這い出て、背後へと忍び寄ってくるものがある。
 一抹の不安だった。
 理性を切った限界の闘いをすること、守より次なる攻を選ぶ捨て身となること。それらが裏返って、自身の体を予期せぬほど破損させてしまう可能性が顕著となること。殺すこととは殺されること。まったく不相応の対価だと、一欠片の理性は自身の体と名誉と守ろうと叫んでくる。
 レッパクの場合は、それらではなかった。承知の上だった。
 本当に殺してしまうかもしれない、という恐怖だけだった。


 【おれの夢が、消えてゆく――】 レッパク


   15 The Godling's Rapture


 金色(こんじき)の刃が蹂躙する。高笑いを交えて。
 臨戦心理の状態は、闘いの範疇を越えた、殺しの域へとすでに突入していた。片方のランプがぶっ壊れた信号を今更制御できるとは思えないし、思わない。それが果たして赤か青かも真面目に考えようとしない。
 自身の神経野を電流で刺激し、鋭敏化。断続的に速めていくなどという悠長な戦略、とうに度外視。封印して長らくおこなっていなかった感覚加速を、いきなり30の倍率で断行した。それどころか、痛覚を遮断することをあえて拒否し、痛みからも生きることを味わおうとすらする。瞬間的に叩き出したGは、10を決して下るまい。
 2秒が60秒になるその世界を、レッパクにはまるで時が止まったように見えて仕方ない。雷神のごとき闘志と速度を得た自分に対する周囲の不整合っぷりが楽しくておかしくて笑いが止まらない。久しぶりに没入できる世界を全身で味わいたくてたまらない。ミリィと初めて体を重ねた時のような快感が脳天に鋭く刺さり、全身を絶頂で満たし尽くし、ふぐりがひくついて射精しそうになる。生かしておくという意識はとうに遥か彼方。傷めつけていたぶりたいと殺したいの狭間で、レッパクのこころは風に吹かれる蝋燭の火のように何度も揺れ続ける。
 跳んでは跳ねるそれを肉眼で追うのは、ツノマルでも難しい。セブンにはもってのほか、中央に置かれたツノマルがその場で右往左往するように見えるだけで、何が起きているのか理解できない。本当の体を取り返したキュレムなら、あるいはどうだっただろう。
 今までの闘い方とは、一線以上を画していた。
 能力的な覚醒以上の、戦闘態勢の異質化。
 それすなわち、武道を重んじるか、殺戮を欲するかの差。
 その動きを定石で表現するのなら、なりふり構わずに一手また一手と絶え間なく攻め立てる『虎三(とらさん)』が一番近かったはずだ。
 しかし、今のレッパクにそこまでの意念を込めていたかどうかすら怪しい。そして、それを掴み取れる余裕がツノマルにあったかも危うい。とにかく攻めることこそが呼吸、止まれば死んでしまう、そんな気概をもって決死の連撃を続ける。体の青に対する額の赤。右に対する左。腕に対する足。その細く、あらぬ方向へ乱暴に力を働かせればあっさりと折れてしまいそうな一本から、岩盤を突き抜いて割らんばかりの、破壊的な一撃が確実な命中のもと生み出される。

 ツノマルは、おもちゃのように弄ばれた。
 常人間、否、ポケモン間が考えるところの攻防の一切が成立していない。ツノマルの意識が受けに入ろうとする間隙につけ込んだ、レッパクの「攻め」が発生し続けているのみ。身と命を守ろうにもそれを上回る攻撃力がどこからともなく現れ、即席の凌ぎを破壊、そして更なる追い打ちがツノマルの全身へ何度も浴びせられる。立て続けの連撃を繰り返し、ツノマルは足場を崩され、波打ち際のごとくどんどんと押し込まれ続ける。
 いい加減ツノマルは腹が立って、左甲冑に再度納めていたアシガタナを右手でひっつかみ、がむしゃらに抜刀。打撃で阻まれる前に、夜が深く染まる天へと高く放り投げた。アシガタナが宙を旋転していくのと同時に、翻ってレッパクへ突進。レッパクの打撃線を承知で踏み込み、上体をやや起こす。自由になった右の掌底と左の拳を雨嵐のように連続で繰り出し、形勢の逆転を狙う。
 ところが、レッパクはその流れの変わりようを見ると、不敵な笑みをちらつかせた。ツノマルの反撃を察し、両前足を軸に、下半身で申し訳程度の守りに入る。赤子をあやすように、後ろ足による「弾き」をおこない、とん、とんと、律儀に一度ずつツノマルの拳を足一本ずつで受け流し、はらっていき、いつか見た時代劇の殺陣のように、華麗なステップを踏みながら後退していく。レッパク本体へは、まるで届かない。
 ――逃がさん!
 地に支えられた下半身を使い、上体で押しこむ、ツノマル最後の掌底。
 はん、
 レッパクは鼻で笑い、全身を縦に回し、寸分の狂いもない後転を決めて軽やかにさがる。
 ――そこ!
 同時に、ツノマルは隙を覚悟で右腕を開き、右に差し向ける。
 予定調和のように、先程夜空へ放り投げたアシガタナが、ツノマルの手元へどかりと突き立った。
 ツノマルはそれを逆手で抜き取り、アシガタナのリーチそのままを活かし、レッパクの着地を狙って前方へ一気に払う。

 滅殺、『時計廻(とけいめぐり)』。

 一陣のかまいたちか、一筋の剛体と化した体毛か。レッパクは螺旋を体内に作り、体外へ吐き出し、立ち位置をまた大きく回転させる。アシガタナの反時計回りを大きく上書きする、全身の時計回り。ツノマルのそばを過ぎるだけで、恐るべき斬撃が発生する。アシガタナとそう違わない切り口が、左腕にばっくりとできあが
 もうどこからかも判別できない衝撃が、ツノマルの体へ同時に三度も入る。たくましかったはずの勁道に打撃力をねじこまれて発狂し、後押しされた血がその切り口からおびただしくあふれ出た。ツノマルの体は大きく傾ぎ、たたらを踏み、出血による一時的な激痛が絶望的なまでに返しの手を失わせる。打点から予想した後方への払いは無意味、武器で懐を守る意義も今更なし、かといって苦楽をともにしてきたアシガタナを捨て、体ひとつで大勝負に出るほどプライドも腐っていなかった。

 突如、レッパクがここで姿を現した。
 そこでツノマルが再び反撃へ転じなかったのは警戒心からではなく、レッパクはこちらを見ず、ツノマルの流した血溜まりを、先ほどのようにぼんやり見つめていたからだ。
 レッパクは懐へかき抱くように、両前足の中央の空間に血溜まりを据えた。腹をこするかこすらないかの低さにまで、上体を伏せている。
 血だまりに鼻を近づける。
 ここでようやくレッパクも、瞳孔を上げ、上目遣いでツノマルを見つめる。老年の妻へ見せる笑顔さながらに、その目がすぐにうっすらと細められた。
 レッパクは喜悦にまみれた表情のまま、セブンの目もはばからず、ぢゅるぢゅると音を立ててすする。
 ツノマルの元々青かった顔が、更なる青に染まった。
 ツノマルの踏み込み。右の拳でただ真正面からがむしゃらに打ち据えたいはずなのに、肉体に長年刻まれた修練がそれを許さない。後ろ足が地を離れず、体内の勁力を最後の一滴までギリギリに整え、相手の間合い以上へ入ることは理に合わないと、臨戦心理が邪魔をする。だが、このまま正直に技を通してもレッパクに届かないどころか、かえって隙を作るはめになる。
 ところが、レッパクも同じ要領でツノマルの間合いへと踏み込んでいた。自ら左の頬を差し出して殴らせ、勢いをそっくりともらって空中旋転、右腕を狙い澄まして真下からえぐるように蹴り上げる。今度こそ骨へ衝撃を通し、その上下にある肩と爪にも伝達して砕きかねないほどだった。

 もう多くは望まない。
 回らせろ。
 舞わせろ。

 おれに、
 おれに、

 殴り飛ばされたレッパクが、額からの血で赤い尾を引きつつ、ようやく着地。そのまま倒れそうになるも、気合いだけで踏みとどまり、ツノマルに背を向けてふらふらと歩く。動悸にあわせて、額から血がリズムよく吹き出る。
「おれに、」
 煌々と照り続ける月を見つめる。三年前のあの日。ウバメの森でも、自分はこうして空を仰いでいた。場所と相手、時間だけが大きく違っていた。
 うまれる前から課せられた激戦の運命をずっと思う。胸の内でずっと回転し続けている戦意と殺意を根こそぎにし、ある種の切なさすらも含め、力の限りで叫ぶ。

「おれに闘わせ続けろおおぉぉ――――――――――――――――っ!!」


   ― † ―


 絶叫は鳴動となり、城の壁を伝い、廊下を駆け抜け、並ぶ窓を一斉に震わせ、王の待つ部屋へ走っていく。
 肘掛けに置いていたワイングラスに、かすかな亀裂が入った。
 その冷たい音に目を覚まし、玉座を取り囲むように伏せている左右二匹のドラゴンポケモンが、薄目を開ける。
 そしてまた閉じる。


   ― † ―


「――なんでよ」
 月に向かって叫ぶレッパクをただ見守るだけしかできないセブンが、自然とこぼす。
「なんで、父さんとツノマルが、闘わなくちゃいけないのよ」
 ようやく思い浮かんだ疑問を誰にというわけでもなく呟く。思うことに多少の差異はあれど、同じ気持ちなのか、そばのキュレムも動けずにいる。
 こうなったのもすべて、自分のせいとでも言いたいのか。
「なんで、そんなに楽しそうに闘えるのよ――」

 ここになってようやく、ツノマルは「斬る」ことを決心した。両腕の負傷具合を無視して二刀流となり、レッパクの背中を一散に追う。とっくに気配を察知されているだろうが、後ろ姿のまま迎え撃つつもりなのか、レッパクはたたずまいをかえようとしない。
 小手を返して、左のアシガタナを逆手に持ち直す。獲物をしとめる牙に見立てて振り下ろし、右の順手は左右への退路を潰す、が、出血と痛みがその両方の太刀筋を半分以上も鈍らせ、どうしようもなくさせる。
 レッパクの背中がふらりと逃げ、前へよろめくように少し歩いた。それだけで左の切っ先は標的を失い、地面へと深く突き刺さる。ツノマルはそれでも特攻に転じた流れを捨てない。背後からの初撃が叶わなければ次の手の布石とし、左のアシガタナと左腕を支えに下半身を上空へとねじり持ち上げる。右のアシガタナを右足の甲冑へと瞬時に差し込み、かかと落としの要領で唐竹割りを体現する。左腕より下の体を振り下ろしと間合いの延長に使い、小馬鹿にしているような足取りでの逃げはもう使わせない。
 左足と尻尾で着地時の反動を緩和し、無駄のない脱力と残心。それでも手応えなしと見るや、抜き出した左のアシガタナを懐に構えてレッパクの姿を追う。
 右足で振り落としたアシガタナの、一寸隣で待っていた。
 遅かった。
 いつぞやのお返しとばかりの、強烈な横蹴り。そこにいたのがツノマルではなくただのダイケンキであったら、間違いなく首が折れていたはずだ。
 レッパクの額に負けないほどの鼻血が跳ね跳び、髭に赤い斑点がしぶく。

 それでもツノマルは生きていた。意識すらあった。
 何ひとつと成し得られないながらも、生き残っている頭の部分で、少しずつ経験を蓄積し直していく。定石、戦術、心理。レッパクの基本的な攻め手は足。特技はミサイルばり、10まんボルト、でんじは、そして意外だと思ったのが、なきごえ。その四つ。声の高さはそのまま攻撃になっていると、以前にセブンから聞いている。小さい体つきで、声を威嚇以上の武器として扱うのは、ツノマルの耳でも珍しい部類だった。
 そして、レッパクはそれらを使う気配をもう見せてこなくなった。隙狙いの隠し玉のつもりか、単なる殺し合いにそれらはもう不要と捨てたのか。よもやここまで見事に追い立てられて、綺麗に逆転できるとは考えにくい。「勝負」から「殺し合い」にすり替わってしまった時点で、この闘いに勝敗などもともと霞のように失われたのかもしれない。
 つまり、勝つか負けるかはさておき、殺されないためには、己もレッパク同様に、一歩先へ進む勇気がいる。それをかなえるためのアシガタナと、残酷ながらもみなさねばならない。「殺される」に「倒す」では対抗に不十分。ゆえに、それ以上を行く。
 これほどの齢になってから、よもや自分自身で思い知ることになろうとは、ツノマルとて考えたこともなかっただろう。しかし、改めて対面すれば、自然と体が覚えている、ごく当たり前のことなのだった。

 斬ると言うことはすなわち、斬ると言うことだ。

 これで、やめにする。
 自分の負けでいいから、とにかくレッパクを止める。このままなぶり殺されるのはごめんだし、これ以上セブンの父が醜く暴走する姿を見るのは忍びない。
 もう目も耳も必要ない。必要ないどころかむしろ邪魔だとすら感じる。踏み込むための最低限の力と角度、そしてタイミング。もう相手の体の流れに逆らわない。流れに沿って、そのまま剣を思うがまま滑らせる。その一点。

 額からしぶく血の滴りを追おうとする。
 現れない。
 というより見えない。
 しかし一歩入る。
 斬り下ろし。
「許せ!」
 目で捉えるなどとうに諦めた世界。経験と計算を重ね合わせた上での第六感。
 ツノマルには見えていなかったが、この振り下ろしと同時にレッパクが右から現れていた。それよりもわずかに速い斬り下ろし。死ぬか生きるかの話ではなかった。
「切捨御免!!」
 土壇場において、ツノマルはあろうことか経験と計算、発勁、踏み込みを狂いなく噛みあわせ、一体の攻勢を示そうと目論み、しかも成功させた。
 この一合においては、ツノマルの完全な勝利だった。
 そして、それ以上だった。
 ポケモンがいればポケモンを斬り、人間がいれば人間を斬る絶招だった。

 名勝負の顛末を良くも悪くも大げさに膨らませてしまうのは勝者敗者問わずしてよくある性であり、ツノマルは自身の勝利を仲間たちに誇張された言葉で褒め称えてもらい、どれほどの数となったかしれない。仲間内の流れに惑わされず、記憶のあるがままに胸中に秘めておくのがツノマルの謙虚さでもあったが、この度の決着までの運びについては、実はあまり憶えていない。
 そこにあったのは、横への移動に対する縦からの斬撃。刃に対する刀。黄色に対する青色。細胞と細胞の境目から几帳面に切り分けていくような、毫の乱れとない、完璧な一太刀だった。ありとあらゆる刺客を簪とアシガタナで斬り伏せ、一括りに雑魚として片付けてきた、弾みのなかった日々が背景にずっと続いていたから、「水を斬るような手応え」を覚えるのは、ツノマルにとってかなり久しい。ただし、言葉にするのと実際に感知するのとではまったく意味が相反する。つまりそれは、凡百には理解すら到底及ばず、一瞬の気のほつれも許さぬ一兵卒(ちゃんばら)の時代を経たツノマルだからこそ顕現しうる、武士の極北であった。

 レッパクの首が、切断された。



水雲 ( 2016/08/10(水) 20:00 )