前編 Black tar
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 ようやくだ。
 ようやく、確認、できたよ。

 お前の言う通りなんだ。
 セブンに闘いの「一」を教えたのは、他の誰でもない、おれ自身だ。それは悪いが他のみんなに譲る気はなかった。最初を間違えさせるわけには、絶対にいかなかったから。
 おれはずっと、セブンと一緒に暮らしてきて、勝手にもがき苦しんできた。ミリィにも、主にも、他の皆にも打ち明けたことのない、おれだけの悩みだった。

 お前には想像もつかないだろうな。おれは、とある研究機関からなる、「時間の穴ぐら」でうまれた。どの次元にも属さない、永遠の異邦者だ。
 おれにはポリゴンZの知り合いがいる。人間たちがたくさんの数式で造り上げた叡智の結晶体、それでも栄えあるひとつの命だ。そいつがじんこうポケモンと呼ばれるのなら、そのじんこうポケモンと人間たちが開発したタイムカプセルに、人知れず浮かんでいたおれは、一体なんだ。そのじんこうポケモンと、おれは、なにがどう違う。

 いつも考える。おれは果たして本当に「普通のポケモン」なのか。
 ポリゴンたちが普通のポケモンならおれも、なんて理屈じゃない。おれは本来ならありえない場所へ産み落とされた、タマゴとして発生したイーブイだ。
 おれがおれであるためには、その一点を考えて生きていくしかなかった。自分が本当にただのポケモンと信じていいのか、自身にひたすら証明を続けて納得させるしかなかった。
 間もなく、一緒にいたい人間ができた。仲間ができた。作法を知った。定石を学んだ。進化して、電撃や加速なんて芸当まで身につけた。モンスターボールには入れる。ポケモンセンターにやすらぎを覚える。ポロックもポフィンも食べる。いろんなところを旅した。闘った。闘って、闘って、闘い抜いた。血を流す自分を見て、生き物だということを改めて実感した。戦果を主に褒められることが何よりも誇らしかった。どんな苦境に立たされても、みんなと一緒にいることができたら、乗り越えられると信じていた。
 そして、ミリィと結ばれた。愛するセブンがうまれた。
 闘って誰かを傷つけることしかできなかったおれが、皮肉にも、新たな生命をこの世界に落としたんだ。

 嬉しかったよ。
 嬉しくて、
 嬉しくて仕方なかった!!

 やっぱり、誰が見ても、あらゆる点でおれは「ポケモン」なんだろう。
「――何を、さっきから言っておる」
 おれが今までセブンに心血注いで託してきたのは、あくまでも敵を『倒す』方法だ。身を護り、脅威から逃れ、自分を生き延びさせるための、最低最小限の手段だ。ただ、それだけだ。

 だから、それは決して、敵を『殺す(、、)』方法であってはならない。

 おれはかつて、主も仲間もプライドも、なにもかもずたずたにされて、怒りと殺意に駆られた闘い方を無様に繰り広げてきたことがある。その敵を殺したいほど憎いと思ったし、殺される運命も当然覚悟した。あろうことか、ただの駒だの、殺戮兵器だのとまで罵られた。こころの底から屈辱的だった。
 でも、否定したいのに否定できないおれが、間違いなくそこにいたんだ。
 自分へ続ける証明が、いつの間にか、自分への嘘に成り代わっていく気がして、それがとても悔しかった。
 ずっとおれを内側から蝕んできた「この衝動」も、おれがポケモンだから、だと思っている。思っていた。思っていたんだ。
 これが、人間とは違う、ポケモンが持つ闘争本能なんだなって、おれはずっとおれ自身に言い聞かせてきた。

「裂の字よ――ぬしは――」
 けれど、見てみろよ。違ったんだ。
 なんてことはない。これは、もとからあった、おれ特有の『本質』らしい。

 せっかくだ、この際だから本当のこと言ってやるよ。おれは、闘いたくて闘いたくてたまらない。血の思うまま疾走って、生きる実感に直面し続けないと、自分を見失って崩れてしまいそうになる。
 誰かのために闘うというお題目は、自分のこころを納得させられたし、同時に見て見ぬふりができた。だからおれは主に道を求めた。闘いの道なら本能が喜んだし、安らぎの道なら理性が喜んだ。何一つと自分で決めて自分の足で歩けなかったから、誰かにそれを決めてもらいたかった。そしておれは、こっちを選んでもらった。そこから先は言うに及ばずだ。

 セブンには、(けが)れたおれと同じ道を歩んで欲しくなかった。
 そんなものに苦しまれない、ただの一匹のポケモンとして、自由に生きて欲しかった。最初を間違えないよう、闘いの基礎は教えたが、それ以外のことはあえて語らなかった。どれだけせがまれようとも、口を開くわけには絶対にいかなかった。
 昔の、大きな闘いで目覚めた後遺症を明かすまいと、封印した。
 だからおれは、セブンから逃げた。
 だからおれは、セブンから逃げられた。

 思えば――
 みんな、全部気づいてくれていたんだな。
 気づいてくれていたことに、おれは最後まで気づかなかったんだな。
 おれは、肉体的に若いだけでなく、精神的にも「まだまだ」のようだ。

 でもおれの思惑は、とりあえずは違わずに済んだ。
 セブンは見事、おれの教えた通りの闘い方を学んでくれていた。
 それに倣って、お前は「おれが教えたセブンの闘い方」を熟知し、今、おれに合わせて闘ってくれた。

 僥倖。
 なんて、僥倖なんだ。

 ありがとう。
 主。
 みんな。
 ミリィ。
 ゼット。

 ああ。
 本当に、本当に。
 こころから、ありがとう。


   ― † ―


 そこがわかれば、十分満足。
 そのはずだった。
「じゃあ、もう――遠慮する必要は、ないよな」
 ゆらりと、体を楽にする。
 泣き声で、絞り出した。
「だって、もう――色々と我慢の限界なんだよ」
 長らくの平穏からの、連戦に継ぐ連戦。平常を誇示するレッパクと言えど、『鎖』が古く緩く、脆くなりすぎていた。
 セブンの基礎は完成している。それを知った。ここまでを一緒に闘って観察するに、闇深いこっちの世界へ引き込むなどできないだろう。できないはずだ。そう信じたい。
 今自分と対峙しているこいつなら生き抜いてくれるはずだ/もう耐えたくない/魅せつけてやりたい/思い知らせてやりたい/暴れたい/解放したい/

 本気で、闘いたい。

 レッパクの姿が忽然と消失し、ツノマルが咄嗟に身構える。
「キュレム」
 ところがレッパクはその場から遠く離脱しており、涙目のまま、よどみない品行ある足取りで、キュレムに歩み寄っていく。腕時計のボタンを押して、拘束を解除。そのまま、洗練された柔らかい動作を通して、そっとキュレムの眼前へと差し出す。
「持っててくれ。それと、セブンとミリィのそばにいてやってくれ」
 少年のそばにいるセブンとミリィを一度ずつ優しく見やってから、一呼吸、
「何かが起きるといけないから」
 鼻先の腕時計を見ず、レッパクを神妙に見つめたまま、キュレムは拒まず、しかし確認。
「いいの、それ? 大事なものじゃない?」
 涙目のまま、微笑む。
「だからこそだよ。親友からのプレゼントなんだ。壊したくない」
 キュレムはちょっと考えた後、うなずき、くさびの先端でひっかけ、受け取ってくれた。
 ありがとう、とレッパクは頭を下げ、しばらくそのまま垂れ続ける。
 垂れ続けたまま、つぶやく。
「――ツノマル。最後に、お前に、」
 垂れ続けたまま、振り返る。
 低くドスの利いた声で、ゆっくりと宣告した。

「――チャンスをくれてやる――」

 遠く名を呼ばれたツノマルは、目に失望をたたえたまま剣を抜く。簪よりもはるかに鋭い切っ先で突き刺す挙動を見せ、同じく遠くのレッパクへ向ける。
「裂の字、これ以上の何を望む。続けるというのなら今度こそ」
 目の前にいた。
「やれよ」
 誰にも見えないし聞こえない、光に匹敵する、瞬きの間をつけこむ速度だった。
 ツノマルの望み通りか否か、切っ先がレッパクの額に触れている。
 普段からは想像できないくらいの恐ろしく低い声で、ゆっくり、ゆっくりと一定のリズムで話す。
「おれの『(しん)』はそこからは微妙に遠い。が、『脳』ならすぐここにある。まっすぐ勁を入れて刺突するだけでいい。それだけでおれは簡単に死ねる。自分で言うのもあれだが、おれは確かに『石頭』の『頑固おやじ』だ。しかし、頭蓋骨は薄いはずだ」
「――父さん?」
「何を、している――」
 ツノマルの言葉には、明白すぎるほどに怒りが込められてあった。それはアシガタナを持つ右腕にも表れ、勁がちりちりと燃えるように切っ先で暴れており、額がちょっとくすぐったい。

 殺意を持たねば殺られる、という事態が、レッパクのこれまでに何度もあった。
 ありすぎた。
 ありすぎて、レッパクはその沼に、足から頭まで、とうに浸かりすぎていたのだ。
 生死の狭間を揺らぐことの、背徳的な快楽をとっくに覚えてしまったのだ。
「ここから先を望まないのなら、今のうちにおれを殺してくれ。そのほうがお互いのためだ。早くしないともう目覚める。お前のは適当な手加減じゃなくて、真面目な手加減だったな。そこは詫びる。満身創痍のはずなのに、ダメおやじのおれなんかによくも律儀に付き合ってくれた。嬉しいよ、ありがとう」
「何をしていると訊いておるのだ!」
 呪文のようにぶつぶつと続ける。
「殺さないってのならそれもいいだろう。お前に代わって、おれが生きる。おれならまだ十二分に闘える。セブンとお前の主を助けてやれる。――多分な」
 自分の言葉で徐々に感情的になってきたのか、今度はレッパクの体が小刻みに震え始める。その具合は、先ほどとは逆に、切っ先からツノマルの腕にまで伝わってきているはずだ。なおもレッパクは涙を流し続け、醜く顔を歪ませる。
 それは、触れるほどの死に直面した恐怖からか。
 それとも、己のこころの脆さを憂う絶望からか。
 数時間前のイメージトレーニングのように、四肢を土に構えて固定――できない。全身に通電して関節に強度を与えることもしない。踏ん張りをやめ、ツノマルの刺突の力に沿って、そのまま素直に後退したい。死にたくないからだ。
「ほ、ほら、見ろよ、このざまを。ここまで来て、死ぬのを、怖がって、いるんだ。な、情けないよな、本当に。でも、おれなんか死んだほうが、セブンの今後のため、かも、しれないんだ。父親の、わがままだと、思うだろうがな、お、おれは、あいつの将来を、おれの血で、染めたくないんだ」
「小僧、いい加減にしないか!!」
 小僧、という言葉にレッパクは過去の屈辱をつつかれ、爆発的な反応を見せた。泣き声混じりに怒鳴り返す。
「いい加減にするのはてめえのほうだ耄碌ジジイが!! お前なんざに言っても意味わかんねえだろうがな、こちとら中身とっくに七十越えてんだよ!! おれもお前も、もう後戻りできないところまで来ちまったんだ! さっきお前がセブンの代わりに出たのは何のためだ! おれを敵とみなしたからだろ! 敵を倒してでも自分の道を進む覚悟があるからここまで来られたんだろ! ならばその邪魔をしているおれも倒せ! 腹くくりやがれ!」
 一気にまくし立てて、己の全存在を懸けてレッパクは泣き叫ぶ。自ら敷いた逆境を取り消すのは簡単だが、あえて困難とし、ツノマルにすべての運命を一滴残らず託そうと、命懸けですがりつく。
「セブンの問題は解決した、あとはおれ自身の問題だ! おれの扉を開けるか閉じるか、その相手にふさわしいお前に、選択の権利をくれてやるっつってんだよ!」
 覚悟のウォークライ。怒りとそれ以外の感情すべてを混ぜ込んで睨み合う二匹の気合の咆哮はやがて断末魔となり、地盤を確かに揺るがした。レッパクの眉間に深く皺が刻まれ、怒りとも笑みとも言い表せられない、歪んだままの表情が、ずっとツノマルを煽る。
 ――二匹とも、もうやめるんだ!
「父さん!! ツノマル!!」
「やれ、やれえええええっ!!」
 断末魔はやがて衝撃波となった。少年が自分たちを止めようと走ってきていたのを視界の端ではなんとなく意識していたが、ただの邪魔者でしかなかった。余波に巻き込まれた少年は案の定そのままそっくり吹き飛ばされ、ミリィの後を追って気を失った。
「うおおおおおおおおおっ!!」ポケモンバトルにてトレーナーに直接手をかけるのはご法度中のご法度。少年の気絶の件も含め、ツノマルの怒りがついに頂点となった。

 ぞんっ

 拳達の一撃だった。残勁がレッパクの脳天にほとばしった。頭がのけぞり、顎が勢いよく開き、鼻を天に向け、二、三歩と後ろへよろめく。それらすべてがスローモーションに見えて、全員の目にしかと刻まれる。憤怒と動転が、ツノマルの手元をわずかに狂わせ、力の入れどころを最後の最後で失わせた。それはツノマル渾身の躊躇いでもあったし、気遣いでもあったし、奇跡でもあった。切っ先はレッパクの額の表面をまっすぐと登り、頭皮をやや斬りこむだけで済んだ。それだけでも血柱が間欠泉のごとく噴き出る。
 レッパクの軸芯が完全に失われ、支えの足がなくなった方へ、どう倒れてもおかしくないほどに傾き、ついには転倒

 がんっ

 しなかった。
 踏みとどまった踏鳴の一歩で、稲妻状の深い亀裂を四方に走らせる。

「う、くっ。ふ、ふふ――。つ、つの、マル、ぅ、」
 レッパクは首をひねり、またもだらりと顔を伏せる。興奮と嗚咽で舌が回らない。もう涙は止まっている。今、顔からこぼれ落ちているのは純粋な血液だった。赤黒い液体が周囲へ流れることなくそこへ溜まっていく。眼球をぎゅるりと回し、まるで自分以外の誰かのそれであるかのように、不思議そうに血溜まりを見つめている。

 きゅる――

 血は潤滑油となり、こころを回す歯車が、音を立てて加速されていく。

 きゅるきゅる――

 それは、あろうことか逆回転していた。
 記憶が飛躍し、レッパクのすべてが、「あの日」へと退行していく。
 目の前の敵を殺したいと願って、何度も何度も死の淵から蘇った、悪夢の一時間へ、逆流される。
 扉を、開けたな。
 それでいいのか?
 いいんだな?
 それが、お前の答えなんだな?
 所詮お前も、そっち側止まり、なんだな?
 血の染みる道を知っていながらも、本能を打ち払って、なおも分かれ道で踏みとどまる気なんだな?

 きゅるきゅるきゅる――

 綺麗だな。
 ミリィやセブンと一緒だ。おれには、あまりにも、綺麗すぎる。
 そして臆病者め。
 おれは、もうすでにその先を行っているぞ。
 そんなおれを生かしてくれて、ありがとよ。礼を言う。
 しからば――

 きゅるきゅるきゅるきゅる――

 お前が死ね。

「ん、くっはっはっはっはっはっは――!!」

 それを哄笑と呼ばずしてなんと呼ぶ。セブンもミリィも、おそらく主人ですら聞いたことがない、狂喜に満ちた、この場の誰よりもある意味一番「しあわせ」そうな声。いつもの高い鳴き声ではない。口の端を歪め、歯をギラつかせ、首を後ろへもたげ、四肢を大きく開き、節を失って壊れた人形のようにげたげたと低いトーンで、全力全開の笑いをひたすらに続ける。目尻をじっと伝うのは、悲しみから湧き出る赤い涙ではない。ただの血だ。
 額の血が左右に伝い、頬を口と右目左目に三分する。
 右前足で拭き取り、長く伸びる舌でねろりと舐める。
 皮肉にも、死に面してなおもしぶとく生かすことが、レッパクの「タガ」を完全に破壊した。
 暗い森のことを断片的に思い出し、ひとつにまとめていく。一叢の暗雲。白い爪と白い牙。自分よりも遙かに年上、自分よりも遙かな体格、それでいて自分よりも遙かに速い。そこでそいつと繰り広げた死闘の感覚が熱く痛く沸いてくる。湯水のように血を失い、摩滅されていく全身の神経。時計を返し、廻り、結局全部捨てて戻ってくる、すべての始まり。
 自分を、あの日ぶりに「解放」した。三年も封じ続けていたそれは、レッパクの中で蠢くうちに、いつの間にか自身でも言い表せぬ異形のなにものかに変質を遂げていた。
 しかしそれは、なにであれ、間違いなくもう一匹の自分であった。
 弁明のかけらもないこのなりをミリィが見ていなくてよかったと、誰かがつぶやき、そして塵より細かく消えた。


   ― † ―


 その代わりに、別の誰かの声が聞こえる。でも、

 ――ひとつ、約束してくれ。
「セブン……」

 ――誰も死なせるな。絶対にだ。
「収まるべき鞘を捨てた、帛裂(きぬさ)きの刃。これが……『おれ』……だったんだ……」

 ――敵味方問わず、人もポケモンも。
「一度だけ……ここで見せて、やる……」

 ――それだけは、守れ。
「これが、おれの進んできた道……。これが、おれの……神髄だ!!」

 でも、もうどうにもならなかった。
 溺れ沈みゆく自分にできることは、たったひとつを除いてすべて失われた。
 闘って、生と死を分かつだけだった。

 碧眼から青い静電気が迸り、横走りの稲妻となって閃く。
 額から眉間へ垂直に流れる赤い血と、十文字に交差する。


 【愛しい痛みに引き裂かれ、あなたの名を星にささやく】 ミリィ


   14 オーバークロックギア



水雲 ( 2016/07/25(月) 16:58 )