前編 Black tar
 13 乱れ雪月花


 【虹を越えた先に、壮大な景色がある】 レッパク


   13 乱れ雪月花


 初見ならば長い時間がかかり、鍛錬を名目に足繁く通う常連ならば我が物顔で通り抜けられるチャンピオンロードの先、イッシュ地方のポケモンリーグは、大広間を中心に、それを囲む四つの塔と一つの主郭からなっている。見てくれこそイッシュ地方独自でびよびよと発達した文化とはまた違った雰囲気を醸し出す、ある種イロモノ要塞ではあるが、真の見所はやはり中身にある。

 四つのうちどれでもいい。足を運べば、挑戦者は堂々とそびえ立つ「大黒柱」にたちまち顔を上げざるを得なくなる。チャンピオンロード外部と同様、どうもこのポケモンリーグの関連者は「螺旋」を好むフシがあり、四天王の待ち受ける「場」へ到着するまで、少なくとも一回、柱の周囲を巡って頂上まで登ることを強いられる。
 予期せぬ方向からの歓迎で意気消沈となる挑戦者は、ここまで来たからにはまずいないだろうが、とりあえず、ひとつの中に入ってみよう。お、趣もくそもないゴツめな昇降機が正面に設置されてある。足を酷使せずとも、どうやら親切にも自動で上まであがらせてくれる部屋もあるにはあるようだ。青と赤の信号。隠そうともしない丸裸の鉄筋。いかした大技でも決まりそうなロープ付きリング。その部屋で待ち構える四天王の趣味なのかどうかはことごとく知りかねるが、五歳児が見たらおおはしゃぎしそうなカラクリがとことん詰め込まれてある。
 次に行ってみよう。物理的にではなく霊的に、どこの者とも思えぬ人魂が体を取り囲んで勝手に最上部へ導く部屋もある。塵芥のように積まれている書物や、演出用の雷鳴ビジョン。昼だろうと夜を思わせる暗黒の空間。そりゃあこんなところで文字を相手していたらメガネも必要になってくるわ。アウェー感満載、異質すぎて人をビビらせるか閉口させるには十分すぎる。こっちは五歳児が見たら大泣きして退散することだろう。夢にも見ないことを祈ろう。
 あ、こいつふざけているのか、階段すら用意していない部屋まである。バトルコート兼、寝室のつもりらしい、自分用のベッドまでこんなところにまで運んできている。ここの四天王は寝起き直後にバトルを申し受けるのが信条らしいが、ひょっとして化粧をしたまま寝ているのだろうか。それともすっぴんのまま日頃を過ごしているのだろうか。いずれにせよ、その整った顔立ちと結構勇ましい経歴に、イッシュ地方のみならず、全国でカルト的な人気があったりもする。実際にベッドを運んだのは自分以外の誰かであることは間違いない。
 ここまでくれば、黒塗りのソファをはじめ、テーブルゲームの一通りを私物として持ち込んでいる部屋に何かを期待するのももはやアホらしい。疲れるので省略する。
 本人らはいたって大真面目な四つの部屋を焼き討ちにしたあとは、大広間の中心に立てられた石像に向かう。すると石像はエレベーターのように真下へくだり、最後の本丸へと挑むことが可能となる。ただし残念なことに、プラズマ団員たちの乗っ取った証として石像は取り壊されてしまい、今は機能を停止している。

 さて、それらを踏まえた上で、同じく大広間に戻って見渡してみよう。ここは、すべての部屋に通ずる、総合的な案内のためのだだっ広い空間である。場所決めのラインも引かれておらず、つまりバトルコートなんてものは元より用意されておらず、公式だろうと非公式だろうと、試合にはとかく適さない。ウォーミングアップならばチャンピオンロードなりで事前にやっておいてもらいたいだろうし、何かと理由をこじつけた挑戦者同士が野良でバトルをおっ始めるのは、ポケモンリーグ側としてもあまり気持ちのいい話ではないはずだ。
 が。
 そんな大広間にて、なぜサンダースとダイケンキが交戦しているのだろうか。あろうことか、サンダースは左前足に腕時計のようなものをつけており、しかも壊れているのか針がずっとぐるぐるぐるぐると回転し続けている。一方のダイケンキは細くて短い棒を軽くつまみ、ちゃんばらのように振り回している。
 そういういまいち評価しにくい状態なのに、どういうわけか、これがまたいい感じの拮抗状態を保っている。


   ― † ―


 レッパクはかつて、自分の水嫌いについて、ミリィから更に掘り下げられたことがある。
「誰かを守るために、(ながれ)を護とする者といざ真っ向から闘わなければならない時が来たら、レッパクはどうするの?」
 即答だった。
「お前は溺れている自分の主人を助けるのに理由を求めるのか?」


   ― † ―


 定石、『時計返(とけいがえし)』。
 定石、『静寂洋琴(せいじゃくようきん)』。
 定石、『八夜光(はちやこう)』。
 定石、『誰彼(だれかれ)』。
 定石、

 それを、レッパクの先手奪いと言えば吉と思いやすいが、ツノマルによる先手譲りと言えば結果は曇る。
 レッパクは全身を己が武器とし、あらゆる方向からの、あらゆる進撃を展開する。ツノマルを中心に据え、至近距離を極力維持しつつ回り込み続ける。四方八方からの繰り出しを見せてみる。水に連なる技を使ってこないのは、自身を感電から守るためだろう。飛び道具を絶ち、あくまであの簪一本で迎え撃つつもりらしい。逆にそれがこちらとしてもいろんな意味で助かった。時折壁や地面問わずせわしなく跳ね回るレッパクとは打って変わって、ツノマルはその場をどうとも動かず、構えにこれといった締まりがない。素早さではかなわないと向こうも腹を決めたのか、小川に漂う笹舟がごとく緩やかな立ち振る舞いで、レッパクの手を数瞬早く読み切って返しを入れてくる。読み切られたことをレッパクも刹那の差で読みとり、手を変えて返す。撃ち放った矢がすれ違うように、判断と対応が入り交じる。
 体格と体重、腕力では逆立ちしても勝てそうにない。だが、足、手、護に関してはこちらが倍も有利。その優位性はツノマルも承知の上だろうし、肉弾戦のみに持ち込んだ以上、それらすべてに罠を張り巡らせているはずだとレッパクは信じて疑わない。藪をつついて何が出てくるか、冷やかしの(から)め手を選んではツノマルに投げつけてみる。ワルビアルのときとは違い、ダイケンキは基本的に体を四肢で支えるポケモン。体を覆されるのを危惧しているらしく、二つ足の状態にツノマルはなろうとはしない。
 右手は簪、左手は地にあり。諸手を封じて構えているのを有利と自身に言い聞かせ、レッパクは時計を返してツノマルの右へ動く。横腹に定めたミサイルばり。あわせて、敵陣を左右に切り分けるような鋭い踏み込み。ミサイルばりによってツノマルの意識を「射出地点」へと無理矢理向けさせ、自身はその盲点へ潜り込む。見向きもされなかったが、構わずに跳躍。レッパクがツノマルの背を真横にまたぎ越そうとした瞬間、跳躍に使いきらなかった力すべてを後ろ足に注ぎ、背骨を蹴りつけてみる。そのとき、

 ぱんっ、

 それでもそう強くは踏まなかったはずだ。しかしツノマルの背筋から伝わる反動がレッパクの予想を上回り、ただでさえ軽い下半身の軸芯が若干だけ狂った。背骨に通そうとした衝撃がそれを覆う肉と皮膚の地点からあっけなく跳ね返され、覇気に気圧される形でレッパクの後ろ足が真上に弾けて振り上がる。空中で足元をすくわれたような形を取り、上下逆さまの視界でツノマルの様子をとらえようとするが、ツノマルの左手の先がどこに向かっているかまでは瞬時には追いつけなかった。
 雲のように静かな力が、いつの間にかレッパクの死角から出現し、そのまま側頭部へ忍び寄った。簪で叩かれたかと直感で思ったが、正体は得物を持たぬ左手のほうであり、レッパクはその手の無力さにどうという抵抗も表せられない。瞬間後、眠り続けていたツノマルの勁道が、魔獣の(てい)をもって分厚く膨張した。ツノマルは後ろ足一本で地盤を踏み抜き、反動の力を腕の先にまで波立たせる。上体を浮かせたまま、宙にあるレッパクの全身を竜巻のように巻き込む。脳みそひっくり返れとばかりにわりと近くの地面へ投げ飛ばした。

 受け身はとれた。
 どういう兵法の昇華か。ツノマルの力は「静」と「動」が明確に分かたれてある。レッパクの仲間でも持ち合わせていない、独特の呼吸と発勁。後ろ足で接触してみて初めて知ったが、練兵ともなると、手足を振りかざさずとも肌に触れさせるだけで相手を突き飛ばせるらしい。足ではなく噛みで挑んでいたら、顎に何が起きていたのだろう。
 地に二度叩きつけられ、完全に突っ伏す直前に起きあがり、即座に軸芯を戻す。自分で動くときは無意識に脳へ補正をかけるからそうならないのか、相手に意識せぬうちに無理矢理座標を動かされたときは、どうにも視界の残像がひりつく。じんわりと傾いて滑り落としてこようとする大地を集中力で相殺し、その場にいることを一瞬と置かず、レッパクは今度も右から攻め立てていく。同じ速度をもって、ツノマルが視界の左側へ移動していく。簪の描く打撃線を目測し、わずかにとどかない距離を残して回る。二回、三回と足を一歩だけ入れて挑発をかます。しかしツノマルにはそれすらも即席の陽動と読まれているらしく、再び静に徹して誘いに乗ろうとはしない。有効な一打を返すことのみを念頭に置いているのか、大山のように待機している。
 全身で発勁を出せるのならば、こっちも相応の力で対抗すれば、よりツノマルの深い反応を引き出せると考えた。レッパクは体内の器官を稼働させ、命には遠く届かない程度の電力を羽衣のように薄くまとう。代わりに露骨なくらい音を出してみるが、なおも向こうは表情ひとつと動じない。筋力を半分だけ引き締めた、引くも入るも思うがままの足さばきを使い、光の残像を目に焼き付かせて撹乱してみるが、ツノマルの兵法にここぞといった異変は見当たらない。

 気が短い方ではなかったが、(らち)があかない。せわしなく走り回っている分だけ、長丁場の持久戦に持ち込まれたらツノマルの思うつぼだろうし、この闘いが終わった後の「本戦」に影響を残すのは誰にとっても望ましくない。
 臨戦心理の判断よりも数秒先にレッパクの痺れが切れ、一気に足を(はし)らせる。先刻以上の手痛い返り討ちを覚悟で、更に深い接近戦を仕掛ける。今にも当たるぞというところまで注意を誘い出し、とにかく何かしらの一手を使わせる。自身を囮に、たとえ結果的に損傷を見舞われたとしても、向こうの行動の一片をその身で学習できれば大きな利に代わるはず。一対一の勝負において万能な攻撃などなにひとつと存在しないとレッパクは思う。ゲンコツひとつにしたって、「相手に押し込む」ということは裏返せば「拳を引かない」ということであり、そこにつけこむ対策を持たれたら、体を細かく割って別の動作を予備として秘匿するしかない。一撃目の初動を餌に、二撃目の本命を叩き込むにしてもその等式は変わらないはず。対策が対策を生み続け、そこから先は同じ応酬の繰り返し。判断力と練度が両者の差を開かせ、最終的にどちらかの引き出しを先に空にさせたほうが押し勝つ。
 レッパクのこの持論にも当然いくらか欠陥はあるだろうが、目の前にいるこのツノマルも考えるところは同じらしい。こちらの一手に対する対抗を体の奥に隠し続け、まったく読みとらせてくれず、闇雲に攻撃することへの不安をほのかに煽ってくる。そこいらのダイケンキとは比べようもない存在であることは、先程の発勁と投げ技で十分に思い知った。こいつがいてくれたおかげで、セブンは今まで大事なかったのだろうと、感謝すらしたくなる。
 うずうずして今にも爆ぜそうなこころをなんとか抑える。
 こういう形ではなく、単純な形で巡り会って闘えたらな――と、純粋に、ごく純粋に思う。
 三歩進んでは二歩下がる、ふと何かが起きればあっという間に決着が付く、付けられる、そんな危うい均衡をぎりぎりのところで保っている、城攻めのような進撃を続け、腕時計の回転は今まで以上の速度となる。
 行けるか。
 いや行く。
 行け、
 そこだ、
 定石、『時計返(とけいがえし)』を解除。ついにレッパクはツノマルの左背後から攻めた。飛びかからず、左の後ろ足を地面に残したままの猪突。狙うのは同じく左の後ろ足。ツノマルの勁力は地から支えて強く放つものと考察し、その内のひとつを崩して反応の広がりようを調べる。
 張りつめていたツノマルの尻尾が垂れ下がり、渦のような転身。ほぼ振り回される形で、レッパクの右から襲った。アシガタナであれば目から上を平らに斬り飛ばす勢いで打ち払ってくる。レッパクは更に前足を伸ばして背を沈め、それでも後ろ足は残す。耳の先端が横ざまになぶられ、それだけで残勁が摩擦と絡まって燃えそうになった。狙おうとしていたツノマルの左後ろ足が視界の奥へ逃げ、代わりに右の後ろ足が現れる。払ってくる様子はなし。目標を変え、目的を変えず、このまま右の甲冑めがけて頭から突っ込む。
 ところが、その右後ろ足すらも遠くへ逃げた。
 ツノマルが旋転を続行し、正面を向いてこようとする。
 右手には簪。
 ついさっきまで取るに足らないと嵩にかかっていたその頼りない棒きれが、いきなり得体の知れない脅威に化けた。
 レッパクはそれでも恐怖心を押し切って断行。最後まで地面に温存していた後ろ足で蹴り込んだ。地面すれすれに浮き上がった体を簪がなおも追従する。「逃」と「追」の意念を揃え、レッパクはツノマルの足を執念深く追い立てる。かなり危険な賭けだが、ツノマルの悠々たる動きに歯止めをかけるには、ある程度の損傷を支払ってでも足一本を撃つ必要がある。背後に迫るツノマルの右腕から逃れようと、ミサイルばりを置きみやげとしてばらまく。当たる当たらないは本意の計算外で、少しでも気を逸らして威力を軽減できれば十分である。見届けることはなかったが、ある程度の効果は得たらしい。逃げていくツノマルの下半身がその場で停滞し、レッパクの急接近も相まって、視界に迫ってくる。
 よし、あと、
 一歩。

 結局のところ、ツノマルがその場に止まったのは、なけなしのミサイルばりが効果を得たからではなく、罠を張り直すための誘いだった。頭から突撃した時、ツノマルの右後ろ足が、のれんのように虚となった。最後の最後まで粘りを効かせた一歩で繰り出した、それだけで骨に直接打撃を与えられたはずの、なけなしの力を使って押し込んだ頭突きが、あっと言う間に素通りした。力はツノマルの体内へと鹵獲(ろかく)され、意識も大部分を奪われ、しまったとレッパクが思い直すよりも早く、新たな転身に拍車をかけた。
 意識の外側からまたぐらへ、鈍色の簪が滑り上がってくる。
 細いそれが切り開く真空に、レッパクの体が巻き込まれる。
 夢に見そうな一撃だった。重力、衝撃、作用、慣性、打算。それらすべてに裏切られ、レッパクを残して天地が三度もひっくり返る。まともな声すらあがらず、表情も追いつかない。手玉に取るとはまさにこのこと。事情を知らぬ野次馬が見れば、その天晴れすぎるほどの飛び上がり方に歓声を出し、お捻りを投げ入れただろう。
 支点と勁力を吸い込まれ、無様な格好で舞うレッパクを、当然見逃さなかった。
 定石、『四閃村祭(しせんむらまつり)』。
 簪が閃いた。
 刃のない、しかし確かな斬撃だった。

 一閃、一合に。
 二閃、積みし貫禄。
 三閃、修羅の太刀。

 四閃、簪を縦に握り込む、黒の拳。真正面。レッパクの鼻がちぎれ飛ばなかったのは、寸前に顔を引き、打点を外すことにかろうじて成功したからだった。
 頼りない放物線を描き、レッパクが仰向けにどしゃりと墜落する。臨戦心理が連撃の顛末を探り、損耗を調べるも、どこをどう叩かれたのかももう記憶が定かでない。ツノマルの容赦の欠片もない力が全身を暴れまわっており、自分でも意識したことのなかった体の奥深くの筋肉がのたうっており、臓腑に強烈な熱が帯び始める。四回はおろか四十回は殴られた気分だった。
 レッパクの勢いが完全に鎮火したところで、ツノマルの順番が回ってきた。滝のような激しさをもって、侵攻速度をあげる。レッパクが起きあがった直後には、ツノマルが予想以上の深さで距離を詰めており、体重差をそのまま押し込み、圧迫感を促してくる。閉じた空間に恐怖を覚え、右に逃げようとしたその先に案の定、左の素手。横顔を即座に受け止められてそこに固定。眉間に垂直の簪が鈍器のように入った。後頭部へ抜けていくそのおぞましい打撃力に、意識も外へ持っていかれそうになる。勁力を化かしきれなかったのは愚かにも自ら跳躍しようとしていたところをあっさりと捕まったからで、そうしなくともツノマルが顔をもたげてきて、こっちの足を地から離しにかかっただろうと、混濁した意識の隅っこで思う。地面をかすかに触れるだけの四つ足では、レッパクでも力を十分に逃がしきれなかった。
 レッパクはがむしゃらになって首をねじり、ツノマルの左手首に噛みつく。握力と圧力が緩んだところで、両後ろ足を振り上げてツノマルの胸板を蹴り、脱出をはかる。懐から逃げ切ろうとするその先をまたも簪が追って、レッパクの腹にそっと触れる。次の瞬間、突如として地面がレッパクの横顔に激突する。重力と落下の感覚はまるで皆無に等しく、叩き伏せられたのではなく、地面が真横から勝手に当たってきたようにしか思えなかった。おそらく遠くのセブンたちにも、逃げようとしたレッパクが簪を軽く当てられ、そこでやっと万有引力を思い出したように自ら地面へ突っ込んでいった風にしか見えなかっただろう。今になって喉の奥がごろごろし始めた。さっき派手に鼻を殴られ、立て続けの攻防の末に出し損ねた鼻血が、行き場をなくして溜まっているのかもしれない。眉間にやられた一撃のせいで耳鳴りが激しく、音から距離感をつかむのはしばらく不可能だ。

 それでもレッパクは諦めない。
 もとより勝ち負けの話ではない。
 勝利よりも「結論」を得たくて、どこまでも貪欲な精神でもう一度起きあがる。
 きゅるきゅるきゅる――
 鎖でがんじがらめにしていた闘争心を危うく制御しきれなくなったが、なんとか踏みとどまった。尻尾きりのように残された戦意が空回りし、うなり声となってレッパクの口からほとばしる。体毛の隙間から火花と静電気が発生し、先ほどよりもずっと不穏な化学反応となってレッパクを包み込む。
 だからといって、攻めに転じつつあるツノマルの勢力が削がれるわけでもなかった。まるで口裏を合わせていたように、両者が同時に踏み込んだ。定石、『一本橋(いっぽんばし)』。定石、『一本橋(いっぽんばし)』。レッパクは荒々しい速度で接近。狙いは髭の先から見え隠れする胸板。正面切って挑む以上、リーチで勝つ気はない。だから、これで最後と決めていた一撃に対する意念はその実はかなり乱雑で、当たるのならそれでいいとだけ考えている。
 ツノマルは盤石な踏み込みで地の力を吸い取り、渾身の発勁。簪の切っ先を地面に当て、扇形を描くようにこすった。粗めの土煙が畳返しさながらに沸き起こり、レッパクの視界と電力を奪う形を起点とした。これで踏み込みを少しでも減速するようであれば話にならないとお互いが思う。こちらが動かねばむこうも応じられないだろうとレッパクは先手を取り、懐へ飛びかかって思い切り突っ込む。空中で旋転。あえて背後を見せ、足の軌道を背中と土煙で隠し、死角から右の後ろ足を稲妻の速さで抜き放つ。土煙で電力を奪われた今、頼みとするは己の脚力のみだった。ツノマルは簪を縦に構え、正眼に突き出す。その狙いはレッパクの足ではなく顎。かなりの相対速度で足と腕が行き違い、お互いの正鵠を見事に打ち据えた。

 一方のツノマルといえど、捨て身のレッパクの突貫に押し負けて、二歩だけ後ろへ下がった。その刹那を置いてから、レッパクの体が今日何度目かの着地に失敗する。
 ぐるり、ぐるりと、力なく体をねじり、レッパクはようやく腹ばいとなる。体のあちこちがすでに呼吸するだけで痛く、起きあがることを真剣に嫌がっている。
 遠くのセブンは、「ざまあみろ」とも「大丈夫なのか」とも言い表せない、真剣な面持ちで見守ってくれていた。
 すべての手が読まれている。
 先回りも定石も通用しない。
 この闘い方。
 もう間違いなかった。
 だが、
 どうしても、
 何よりもその者の本質を現す「闘い」での確信は得た。残るは、こいつからの「言葉」が欲しかった。

「他愛もない」
 レッパクはひと息、ふた息と呼吸を整え、
「――まるでおれの手の内を知っているみたいだな」
「なぜ読まれるのか、知りたそうな顔をしておる」
 表情以前に、おれの言葉そのまま言い換えたじゃねえか。
「ぬしの手の内なら、全部把握できるぞ」
 全部、という言葉に、過剰なほど反応した。

「ぬしが一番よく知っておろう。ぬしの愛娘からだ」

 言葉が小さな歯車となって、レッパクのこころへ組み込まれていく。
 レッパクの戦意が顔から薄れていくのを一種の意思表示とみなしたのか、ツノマルは口元の髭を整え、簪を戻した。
「裂の字、今から言うことは決して嫌味ではない。ぬしに対する純粋な評価だ。こころして聞いてくれ」
 レッパクの動悸が荒くなっていく。
「短い間ながらも共闘したところを加味したが、やはりぬしは間違いなく強い。セブン以上、いや、拙者が闘ってきたどのサンダースよりも強い。単なる技量の、二手三手先の、などという話ではない。想像の範疇を飛び抜けた立ち回りの良さと機転の利かし方だ。何より恐ろしく速い。さては歴戦の兵だろう。これでもなかなか苦戦したぞ」
 饒舌になるのは、昔からのツノマルの自信からくる癖だった。
「だが、それ以上に拙者には経験がある。闘いに関する『憶え』とそれを肉体に即反映できる『技術』がある。この数年以上の開きは、たんなる才能だけでは追いつけんぞ。絶対にだ」
 それすなわち、己の勝利を確信し、これ以上の抵抗は無駄と通告する、最後の言葉だった。

「ツノマル」
 痛みを力の限り無視し、レッパクは四肢を震わせて起き上がる。
「その話、信じていいんだな」
「ぬしの強さのことか、拙者の理論についてか」
「違う。もっと前だ」
 レッパクから表情のすべてが抜け落ちていく。

「――セブンを相手するように、お前はおれと闘ってくれたのか?」

 見栄を張る万策が尽きて、虚しそうに顔を伏せる。
 安心しきると、涙腺まで緩んだ。
「――おれは」
 その場にいる全員が、息を呑んだ。
 レッパクが、涙の二つ以上をこぼし、地面へと静かに落とした。

「おれは、果報者だ」



水雲 ( 2016/07/17(日) 15:32 )