前編 Black tar
 09 ゼロゼロ


 【すべての事象が左から右へと流れていくように】 キュレム


   09 ゼロゼロ


 仮にカラカラが十匹いたとして、そのうち九匹は見下げ果てるほどの泣き虫で、残る一匹は掛け値なしの臆病者である。
 なるほど。確かに。
 では、百匹いた場合はどうだろう。
 それでもレッパクは図鑑の意に沿い、九十九匹が泣き虫で、残る一匹が臆病者と判断する。
 ならばこいつは、いったいなんだろう。
 うまれてこの方、一戦はおろか、ロクな礼も世間話も交えたことがない。だからこそ立ち聞き話をそのまま独自の偏見に持ち運ぶことができる。天涯孤独の境遇、ひと振りの骨と兜に逃げる弱腰の(おもて)。それでも一応はポケモン、泣く暇を惜しんで鍛えさえすれば、どの個体でも経験から浮かぶ立ち回りを随所に見せるだろうし、鍛錬の末にガラガラへ進化を遂げれば、悲涙に溺れた過去に訣別もするだろう。要するに話はそれからであって、決して今ではないはずだとレッパクは思う。
 たいして長くはない半生だが、程度の知れる実力をあたかも武神の現れと騙り、どこが発祥かも知らない由緒を嘘偽りで塗り固めて豪語する輩は様々な形で見てきた。でも、こいつはある意味違う感じがする。正解でなければ外れでもない。なんともうまく表現できないが、一番近い言葉を選ぶなら、百一匹目の「物狂い」であろう。
 あるいは、
 あるいは、ひたすら純粋な「本物」か。
 レッパクとミリィは、その判断を、まだ決められずにいる。
 唯一、確かなことがある。
 氷の冷たさは、本物だった。

 口元を固く閉ざしたまま、レッパクはキャンディをがりがりと歯でしごく。カロリーの高さ、塩分補給を優先し、味付けは二の次とした職人気質の塊のようなマッドなブツだが、そういった理由でレッパクが無表情を徹しているのではない。
 場所は引き続きのチャンピオンロード内部。人間からすれば岩と草むらと土壁のみの景色が地続きするだけで、一向に変わろうとしないように見えるだろうが、実は徐々に変わってきている。変化を追うに、ルートは正規のままだと信じたいが、そこから大きく外れたところまで逃げる必要があった。潜伏できそうな死角をようやく探しだし、レッパクとカラカラ、そしてミリィが、身を寄せ合うようにして固まっていた。
 ごりっ、がりっ、ごきん。
 行儀悪くもかみ砕いた音である。主人譲りの荒業だった。驚愕とも呆然ともまた違う、一切の感覚が麻痺したような顔をなおも保ち、奥歯にひりついた砂糖を舌で少しなめとることで余韻とし、
「――キュレムだと」
 主人の部屋にある本で一緒に見たのとはまるで異なる。
 図体も鳴き声もカラカラそのものではないか。あの荘厳な雄姿とはまさに天と地の開き。本物とこいつをポケモンセンターに並べたら、三日間はぶっ続けで笑っていられる自信がある。
 いくらミリィといえど思うところはレッパクと同じのようで、清々しくうなずこうとはしない。そう簡単には鵜呑みにすまいと、もう一度確認をとる。
「キュレムってやっぱり、あのドラゴンの?」
 控えおろう、とキュレムはそれっぽいポーズを取る。もう一度腰を下ろし、
「話せばすっっっごく長くなるけどねえ」
「そりゃ、『夜寝て朝起きたらこうなってました』と一呼吸で言い切られたらこっちも納得しない」
「レッパク、とりあえず聞いてあげましょう?」
 キュレムも別段怒る様子でもなく、
「私もそれだけで済ませられれば、話すのは苦労しないんだけど」


   ― † ―


 どこから話せばいいかな。
 じゃあ、順序よく私のことから話そっか。うん、それがいいね。

 私はね、今も昔も相変わらず、ジャイアントホールでのんびり過ごしてたの。あ、知ってる? ジャイアントホールってのは、イッシュ地方の北東にある、でっかい洞窟のことね。なーんにもない殺風景なところだけど、それがむしろ取り柄な私の住処なの。
 数日前だったかな。気絶してた時間を考えたらもっとかもだけど、まあいいや。プラズマ団とかいうカルト集団の襲撃に遭ったの。ご想像のとおり、ここらへんを陣取ってうろうろしている悪趣味な服装集団のこと。
 どうやら連中、私の兄弟たち――レシラムとゼクロムを復活させるつもりらしいの。そのためのカギである私も拉致しようって魂胆だったみたい。私は兄弟たちみたいな無抵抗なストーンにはならないから、生身を腕っ節で黙らせるしか、あいつらには手段がなかった。
 もちろん抵抗したよ。束になってかかってこようが、こっちも腐っても伝説のドラゴンだからね。蹴る吠える当たり前、私が「こわいかお」してやったら、連中、なんだかすんごいびびってた。うーん、私ってそんなに怖いかな? 威厳あるといったらそれまでなんだけど、なんだか複雑。ほら、どお、やっぱり怖い?
「いや、その格好で言われてもな」
 あ、ごめんごめん。ついうっかり。
 正直なこと言うと、兄弟たちを長年の眠りから起こしてロクでもないことをけしかけるなって気持ちより、私のシマに無断で土足で勝手に堂々と無言で大勢で一気に正面から踏み込んでくんなこのやろーっていう気持ちのほうがずっと強かった。氷と岩と数種類ばかりのポケモンだけの世界、久しぶりのお客さんがそんなんだもん、そりゃもーたまりませんて。

 でもね、甘かった。人間だってばかじゃない。生き続けると、生き続けるための悪知恵のひとつやふたつは思いついちゃうらしくって。
 プラズマ団は、ずっと前に私がどこかで失くした『いでんしのくさび』を持っていた。
 お見合いに出されたのがこのカラカラ。引き合わせる前から気絶させられてたらしくって、この子がどんな気持ちで捕まって、あの場所にまで運ばれてきたかはわかんない。本体の私、目は悪くないんだけど、やっぱり乱闘は久しぶりで色々となまってたし、首が長いから足下がどうしてもおろそかになりがちだったみたいで。
 まんまと不意をつかれて、いでんしのくさびを後ろ足に撃ち込まれて、私の魂は、この子へと結びつけられちゃったの。
「今持っているそれ、いでんしのくさびだったのね」
 うんうんそうそうそう、お姉さん察しがいいね、大正解。賞品にタワシあげちゃう。あ、残念。氷と岩しかないや。

 で、気がつけばこのとおり。目を覚ましたら、プラズマ団も、私の体も、なーんにもいなくなってた。ジャイアントホールが上にも横にもすっごく広くなってて、私の体ってあんなにおっきかったんだなーってのが、のんきにも最初に思ったことだったりして。
 今は私が「格」を担ってるから、この子の本来の魂は奥底で眠ってる。凍結状態って言えばいいのかな。住み分けみたいなのがされていて、どんな記憶があるのかは、私でも干渉できない。
 後になってわかったんだけど、私そのものが狙いだったわけじゃあないみたい。私の体だけが目当てだったの。あーひどいやあの人たち。散々に遊んで最後はポイよ。
「お前、どこか楽しんでないか」
 んっと、話がそれたね。
 私たちが元はひとつのポケモンだったってお話は、ジョウトにも伝わってる?
「聞いたことはある」
 どうやら私をも配下に加えて、『かつてひとつだったポケモン』を復活させようっていうハラ。私の体と兄弟。合体させたら伝説の一丁上がりよ。パズルのピースをはめるより簡単だろうね。あとは世界にそれを見せつけるだけで、天下は取れる。イッシュ地方に住んでいる人間もポケモンも、全員その神話を知っているはずだから。全盛期と比べるとちょっとは劣るかもだけど、それでも世界を折って畳んで裏返してやるくらいの『力』は十分持ってるはずだから。本来なら、いでんしのくさびを使えば元のひとつのポケモンに戻れるはずなんだけどね、さっきも言ったけど、私の抵抗を恐れてたみたい。だから、魂を抜いた、空っぽ状態の私の本体だけを奪っちゃえばいい、って思われたのかも。今の私の本体は、魂空っぽの、ただの器。磁石みたいなもの。もちろん試したことはないけど、レシラム、ゼクロム、どちらも復活しちゃえば、お互い引っ張られるようになって、私の体と合体、融合しちゃうかもしれない。
「本当にその目論見通りに行くかはさておくが、カラカラのお前を見る限り、奴らの作戦の第一段階は成功で、読みは間違っていないと思える。よく始末されなかったな」
 連中もうすうす感づいていたんじゃない? 私がこの体のまま死ねば、私の本体も朽ちていくって。別の体に移ったにせよ、とりあえず魂が生きてれば、本体もかろうじて生きたままってな具合に。お兄さんの言うとおり、いろいろ計算しなきゃ、こんなむちゃくちゃなことやってのけられないからね。念には念をという執拗さと計算高さから、連中の本気っぷりを感じさせるよ。しかも、しかもだよ。これ、肌身離さず持ってなきゃ、この体からも魂抜けちゃうんだよ。ひどくない? ひどいよね? ――こほん、つまり、プラズマ団は私の魂もうまく、適当に、適度に、泳がせておく必要があったの。それでいて、絶妙な距離を保ちたかったわけ。

「カラカラに封じ込めて、それを捕獲しておかなかったの?」
 他の目的もあるみたいだけど、詳しくはよくわかんない。ジャイアントホールでの闘いのとき、ちらっとわき見したんだけど、私に喧嘩ふっかけてきたポケモンはみんな、自分でトレーナーの腰から飛び出してきたの。プラズマ団のモンスターボールはどうやらすべて改造されてるみたい。――あーいや、どうだろ。思い返したら、あの微妙な音波。ボールの直接的な改造というよりかは、開閉システムに障害を与える音波装置みたいなのを持ってたのかな。だから、私をボールに閉じこめたとしても、こっちの意思で簡単に脱出されちゃう。なーんでそんな七面倒なことやってるのかは知らないけど。
「ああ、だからか。あのワルビアル。おれが故障させてしまったのかと思ってた」
 うん。私の魂は生かしておかなくちゃいけないけど、伝説の復活へ立ち会うことは許さない。隙を計らって脱出して、私が再びこいつを本体に撃ち込めば、元の木阿弥だからね。
 こいつを「所持」できる「手」があって、それでいて小柄で、追跡なんて絶対無理だろうっていう「カラカラ」が適任だった。ま、そこは連中の浅はかさ、さすがにここまで追ってくるとは考えもしなかったんだろうねえ。力もかーなーり失われたけど、どうにか闘えるし。

「一応この地方の命運がかかってるんだが、そこも承知か」
 まあね。でもそこは人間たちが勝手に始めたことだし、私としては巻き込んでほしくなかったってのが本音。闘いの世界で目を覚ますくらいなら、兄弟たちにはずっと眠ったままでいてほしかった。私も私で、あのジャイアントホールで引きこもって寒々と余勢を過ごすのが大好きだった。まだ死にたくないし、しゃーなしに必死こいてここまで私はひいこらと自分の体追っかけてきたってわけ。
「どうしておれたちを助けてくれた」
 えー。そりゃあ。
 お兄さんたちもあの城に用があるっぽいし、悪いやつじゃなさそうっていう直感。ここは手を組んだほうが得策かなって。

 それに――
 あの時、きのみをわけてくれたから。


   ― † ―


「というわけで、私の話の一部始終はこれでおしまい。あー、こんなに一気に喋るの久しぶりだから喉乾いちゃったなー、なにか美味しいものでも食べたいなー」
 レッパクは話の駄賃代わりに、かばんからきのみをくわえだして投げ渡す。命をきのみで支払えるなら安いものだった。
 どうも、と素直に笑うキュレムをよそ目に、レッパクはいでんしのくさびを専門家のようにまじまじと観察する。黄色く出っ張った頭部は、一欠片と破損しておらず、鈍い照りを今も見せている。おそらく、分子レベルの歪みがあるだけだろう。
 力もかなり失われたけど。
 冗談じゃない。
 質量相応のストーンエッジ。
 先端に対する先端での迎撃。
 しくじった際の甚大な損傷。
 それら全部をド正面切って覆し、無謀さを解消したのはただの度胸のみにあらず。「やれると思ったから」、やったのだ。カラカラという色眼鏡があったものの、手練のレッパクですら皮一枚向こうの本性にとうとう気づかなかった。力を失った、それを自覚している時点で、身の程を知らぬ雑魚よりずっと上等だ。小さい体になおも秘める潜在能力は相当のもののはずで、伝説の名に恥じない。「カラカラで闘うときはどのような型を使って立ち回るのが最善か」の要點(ようてん)を短期間で見つけ出し、無駄なくここまで仕上げている。
 こいつと同等の力を内包するドラゴンポケモンが、いずれ敵側に寝返るというのか。
 それも二匹も。
 そんな奴を相手に、セブンはなおも闘うことを選んだのか。
 どうしてか。
 セブンのこころの中にあるレッパクは、生きているのか、死んでいるのか。
 その答えを知りたいようで、知りたくないようで。
「ここまでしゃべっておいてなんだけどさ、私自身が訊くのもなんだけどさ、」
 レッパクがいでんしのくさびを見つめている間、キュレムも両手で受け取ったきのみを見つめながら、
「――信じて、くれる?」

 唯一、確かなことがある。
 氷の冷たさは、本物だった。


   ― † ―


「へー、ふぉのむふへはん? をはがふはめに、わがわがこんらろおいろころまえひはんあー? ふぉふふぉーふぁんらねー」
 読者諸氏よりむしろ、推敲する筆者自身のために、一応以下に翻訳しておく。
 へー、その娘さん? を探すために、わざわざこんな遠い所まで来たんだー? ごくろーさんだねー。
「黙って食うかしゃべるかどっちかにしろ」
 もぐもぐ、
 ごっくん、
「お嬢さんはどっち似?」
「ミリィだ」
「父親似よ」
 言葉が綺麗に重なった。一瞬の間がものすごく気まずく感じられて、お互いはもじもじとそっぽ向いた。その角度とタイミングまで綺麗に揃っていた。にやにやと見られた。
「しかし親不孝だねそのお嬢さん。ご両親がこんなに心配して応援に駆けつけてきたっていうのに、いざしらず、今もあっこ目指して奔走してるんでしょ?」
 だから追っているし、急いでもいる。そういえば今になって思い出したが、ワルビアルごときにここまで時間を割くつもりもなかった上に、ミリィを入れたままかばんをぶん投げてしまったのだ。内心ものすごく怒っているのではないだろうか、とレッパクは他所事のようにぼんやり思う。

「でもま、元はと言えばそれ、私がドジ踏んだせいでもあるんだよね」
 気難しそうに後頭部をガリガリかいているが、それ本当にかけているのだろうか。
「家出したお嬢さんと再会できたとして、レッパクは、どうしたいの? やっぱり説教のひとつやふたつでも垂れちゃう?」
 もしも機会が認められたらそうするかもしれないが、ここは敵地と染まり果てている。ましてやキュレムの話が本当なら、ますます余裕がない。セブンたちには先行して一刻も早くプラズマ団の野望を阻止してもらいたいが、同時に自分たちはセブンに追いつきたい。
「ミリィはどう?」
「わたしは――」
 ちょっとレッパクを見たあと、
「あの子がそう決断したことなら、それでいい。思えばわたし、あまり母親らしいことをしてあげられなかった。というより、あの子が『本当にしたかったこと』をさせてあげられなかった。だから家出なんて無茶な選択にまで迫られてしまったんだってすごく悔やんでる。セブンが親不孝なら、わたしも不孝者。あの子に気持ちにきちんと向き合えていなくて、一匹の母親を真っ当に演じられているんだっていう、ひどい自己満足を続けていただけだったかもしれない。だからわたしは、ただ、素直な気持ちで見送りの言葉を伝えられたら、それで――」
「おれもだ。あいつに『目的』があるんだったら、できる限り父親として尊重したい。一緒にいたい仲間と道が新たにできたのなら、無理強いはしない。そのためなら、共闘もしてやりたい」
 想いは、片時と忘れたことはない。レッパクの視線は闇から光へ泳ぎ、地獄の果てまで続いていそうな道の向こうの一点でひたりと定まる。
「でもその前に、おれは、知りたいことがある。どうしても、目と耳で直接確かめたい」
「うん、なに?」
 ミリィは何も口を挟まず、レッパクに倣う。
「一戦でも交えれば、すぐにわかることだ」
「一戦?」
 目が静かに光を放っている。


   ― † ―


 気持ちの隊列を整え、潜入を再開する。
 同伴の申し出を断ろうとは思わない。一匹のほうが見つかりにくいし気楽だと考えを固持するのは、なまじ単独行動を続けたからこその浅知恵とレッパクは省み、キュレムに背後の世界を託した。先刻の戦闘からやがて駆けつける応援の気配にそっと溶け、サンダースとカラカラは、先を目指す。
 無音サインがこの地方でも方言なしに通じるのは助かった。レッパクが先行し、電磁波とクリアリングを続ける。人間の視界は広いようで意外と狭い。焦点が入ると更に限定的となり、無意識が乗っ取ればなおのことだ。見えるものしか見ないのではなく、見たいものしか見ない。長時間同じ景色を見続けていれば、目に疲れも溜まってくることだろう。そのことを十分に理解しているレッパクは、ある種のいやらしさすらも含めて、プラズマ団員の意識の隙間を狙う。タイミングを確認しあい、一秒一足以上の速さで移動。

 それでも、どうしてもプラズマ団員の通せんぼが煩わしくなるときがある。
 イワークが這ってできたような、情緒も趣もない一本道。二百メートル先までも中途半端な常夜灯が織りなす中途半端な闇だが、レッパクは電磁波で感じとる。
 いる。近くに身を隠す場所もなく、わき道もなく、狭い道幅のど真ん中で棒を飲んだように立つそいつ一人を、どう対処すればいいのか。距離的にミサイルばりは難しく、一瞬でも「サンダース」の姿を見られれば、覚醒後がまずい。自分の存在がばれ、別の侵入者という可能性のもと、潜入ポイントを大まかに割り出される。周囲の草むらにまで注意を行き渡らせるようよう指示が出されてしまえば、レッパクといえどもう逃げ場はない。

 そこでキュレムの出番となる。持ち物でばれるといけないから、といでんしのくさびをレッパクに一時的に預け、背筋を更に丸める。兜を深くかぶりなおし、目につばを付けて泣き顔を化粧すれば、キュレムは本当にただのカラカラとなる。護は地。チャンピオンロードにいても別段おかしくはない種族がゆえ、レッパクの所望していた「擬態」を実現可能とする。レッパクが頭と尻を草むらに隠して神経をとがらせ、気配をケチり、ちまちまと進んでいた間も、キュレムはここまでをこの体ひとつで遠慮なしに闊歩してきたのである。
 シーン17、テイク1。アクション。
 物騒な気配で怖くなった、という演出のもと、即席の嘘泣きを装い、キュレムは闇の向こうへとぼとぼ歩いていく。プラズマ団員もやがて泣き声に気づき、やがて現れたカラカラに、わずかながらひるむ。レッパクはいでんしのくさびの腹を口で水平に構え、その場を動かずに軽く伏せ、電磁波でひたすら標的の観測と弾道の補正を続行している。キュレムの声が遠のいていくのと同時に腕時計のかすかな回転音だけが聞こえ始め、次第に加速を帯びていく。めそめそとした声と不確かな足取りで良心をなじるキュレムが、プラズマ団員の足元へ近づいていく。おそらくあと三歩、二歩、一歩、
 そして、通り過ぎる。
 次の、
 一歩。
 キュレムの泣き声がひたりと止み、何かを目指してとんと駆け出す。
 突然の気配の変化に、思わずプラズマ団員が全身を使って振り向く。カラカラ(キュレム)の背中を目で追う。

 そこ。
 定石、『一本橋(いっぽんばし)』。

 体内電流がたちまち後ろ足の推進力に化け、レッパクは矢のように闇へ突っ込む。それまで固定されていた景色全部がGにさらわれて後ろへ吹っ飛び、いでんしのくさびの切っ先が空気を上下に裂いて甲高い音を吹く。レッパクはおぞましくブレる視界の中心にプラズマ団員を据える。そこから一歩と歩かせない。一度目の着地で生じた照準のズレを、二度目の跳躍で瞬時に修整。狂いがあってはならないから、最後の最後まで諦めずに弾道を計測。目に見えない磁界のレーザーがまたも首筋を狙っている。プラズマ団員の立ち位置が、キュレムと自分のちょうど中間地点となった瞬間、計算結果通りのミサイルばりを首筋へ撃ち込んだ。
 それでもレッパクは減速しない。金色(こんじき)の刃となって、すでに意識のないプラズマ団員のそばを瞬く間に通過。口にしていたいでんしのくさびをキュレムに放る。危なっかしげに回るそれを、キュレムも駆け足からの片手で悠々と受け取り、一呼吸。にやりと振り返ろうとするも、カルマン渦のいななきがあるだけで、レッパクの姿はない。数メートル先の死角にて、ノコッチがごとく、とっくに息を潜めている。

 ますますシビアさを重ねていく状況をそうしてやり過ごしていくうちに、確信するものがあった。
 腕時計の性能だ。
 ゼットでも想定していなかったのか。
 いや、あのゼットのことだから、ここまで配慮していたはずだ。
 針の回転は確かに自身を壊されないがために、腕時計が勝手におこなっているのだろう。そこから発生する副作用なのだから、特に言及はしなかったのだ。
 こうだと一度決めた体内電流が、針の回転となり、それは機内で小さな電磁力を紡ぐ。律動的にレッパクへキックバックして、一定のテンポを体内へ刻んでくる。自分のエネルギーを置換した、いわば質は同じはずなのに、体の外から体験するそれは、まさに客観的な自分のコンディションだった。
 面白い。
 とてもいい。
 きゅるきゅると鳴くその姿がなんだかもう一匹の自分とすら思えて、可愛がってやりたくなる。
 これなら、「かつて」の自分の闘い方ではなく、「理想」の闘い方を意識できる。
 やっぱり、人間はすごい。新しく発明するのもすごいが、昔に発明されて日常に同化できるほどの地位を獲得せしめたこれらこそが真に評価されるべき、恒久的な発明品なのだ。主人は人間を愚かだとけなすが、全然そんなことはないし、一度も思ったことはない。だから自分たちポケモンは、人間と一緒に生きることを今も望んでいるのだ。

 やっぱり、時計はアナログに限る。


   ― † ―


 右か左か。
 出口を第一とするならば左だろう。かすかな風が耳に触れており、シャバを思わせる空気が確かに乗っていた。決して遠くはないと皮算用する。
 それでもレッパクは右を選ぶ。道の端から端まで残らず踏み荒らす足跡たちはどれも真新しく、「逃」と「追」の色を感じ取った。その中には自分と同じ足を持つ者の痕跡があった。匂いもした。
 一年ぶりの匂いだ。
 それどころか、足音と騒ぎ声がここまで届いてきた。
 もういいか、とレッパクは自身を限界まで許す。
 視、嗅、聴。様々な形跡の残りカスを三つの感覚で追うことをやめ、代わりに臨戦心理を高速起動。陰と苔を好み、人目をはばかってきた我ながらの醜態に、もとより未練はない。娘に降り注ぐ火の粉がいかな凶事であろうとこの身でかばい、なおも生き恥を晒そう。あとは流れに飲まれ、たどり着くところまでをゆだねよう。幾重にも聞こえる足音から察するに、標的の尻尾を掴んだのはおそらく四人か五人。距離はまだ比較的近い。一瞬で追いつけるし、一瞬でぶちのめせる。計算も理屈も不要。思うがままに闘ってやるのみ。

 逃亡者はどうやら横っ腹へと空いた小部屋へ逃げ込んだらしく、大小の岩が綾なすバリケードを即席でかましていた。外側からプラズマ団員が地回りのような根性でこじあけようとしていて、内側から逃亡者が必死に抵抗している構図が見て取れた。取り込みのあまり、背後から忍び寄ったサンダースとカラカラに、誰ひとりとして気づかない。予想に反して三人。興奮に駆り立てられる足音が多すぎて錯覚していたようだが、まあまあ嬉しい誤算だった。腰だめのボールの総数を勘定するに、五匹より下ということはあるまい。
 関係なかった。
 今のレッパクであれば、相手が一匹だろうが十匹だろうが、そこに七秒以上の開きは決して作らない。
 だから、ついにこっちから話しかけてやった。
「おい、どうした、いい年した連中がそんな瓦礫に寄ってたかって。奥に隠し財宝でもあるのか」
 最後尾にいたプラズマ団員だけが気づき、驚愕の色をした双眸で見落としてくる。次の刹那で疑問のそれとなる。
 ――な、なんだお前ら?
 対するレッパクは、水色の双眸に少しと揺らぎを見せない。
「そこに、いるんだな」
「道案内、どーもありがとね。こういうとき、人間だったら『チップ』とかいうやつを渡すんだよね?」



水雲 ( 2016/05/21(土) 18:48 )