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色々あるけれど、とりあえずはご主人のことについてから始めようと思う。
ご主人の家は、風が吹けば飛びそうなくらい、壮絶的な貧乏屋敷だった。それはもう、同情を通り越してドン引きされるほどに。当時ミジュマルだったぼくはまだそんなに大食らいでもないし、ちっぽけな食いぶちが一匹増えたところで、火の車の勢いはさして変わらなかっただろう。一家揃ってご主人の幼なじみのところへ馳走になったことも、何度かあった。向こうが一緒に暮らしていたのはツタージャ。きのみの上手な取り方も教わったこともあって、ぼく自身はなんとか糊口をしのいでいた。
なかば、追い出される形ではあった。
男の子はいつか旅をするものよ、と後からとってつけたような理由を盾に、いよいよぼくとご主人は家から放り出された。いつでも帰ってきていいからねとご主人のお母さんは言ってくれたものの、こうなったら色んなところを冒険しておっきくなって見返してやろうとご主人と一緒に躍起になってしまった手前、下手な成果なしには迂闊に帰られなくなってしまった。今にして思えば、まんまとしてやられたわけである。扱い方を知っているあたりは、さすがはご主人の親だとつくづく感心してしまう。
† ‡ †
「――、で?」
色あせた記憶が、そこで焼き切れた。
川辺。天気は良好。初々しい春の薫りがする、麗らかな午後。だけれども、気持ちはまだすっきりと晴れない。
「うん?」
「それと、今=Aここ≠ノあんたがいることに、どういう関係があるわけ?」
隣に座るサンダースの女の子が、うさんくさげな視線をくれる。若干赤みがかった毛並みはブースターと交じったからのはずで、サンダースでいるのがもったいないくらい柔らかそう。綺麗な碧眼だが、目つきとへの字に曲がった口元からは気の強そうな印象がうかがえる。
ぼくはもう一度、話の糸口を探って、
「旅をするには、当然だけどお金がかかる。仕送りもしなくちゃいけない。そこまではいい?」
「いきなり確認をとらないでよ。ばかにしてんの?」
高圧的でとげとげしいなあ。フタチマルのぼくは手にしていた小石を川にぽちゃんと投げ入れ、続ける。
「言ったとおり、ぼくたちは貧乏だから、旅を続けるには戦いを繰り返して賞金を得るしかない。なんだけど、残念ながらぼくはうっかりやのへっぽこだったんだ。お腹が減って元気も出ない」
「ふうん?」話の肝に入るまでは興味がないのか、適当な相づち。「そんっなに、ひどい生活してたの?」
「例えば、古新聞紙を濡らしてかちかちに固めて乾かすと、簡単な固形燃料になるんだ。それで暖をとってガス代を節約したり。火種はぼくのホタチ。そもそも暖める必要のある食材は買わないようにしたり」
「うっわ」
率直な感想をありのまま口にされた。
「あ、あとね。即席めんって知ってるよね。あれは大体3分で出来上がるっていうけれど、それを無視して思いっきり放置するんだ。そうすると、麺がお湯を吸ってぶくぶくに伸びきって、この世のものとは思えないくらいめちゃくちゃにまずくなるから、それ一食で満腹になってしばらくは何も食べたくなくなる」
「もう、いい。話戻して」
訊くんじゃなかった、とうんざりした声でつぶやかれた。まあ確かに、女の子に言うような話じゃなかったとはぼくでも思う。
「ええっと、だからこっちに修行に来たんだ。強くならなくちゃ、お金が稼げない」
詳しい説明はことごとく省かれた。あっちにも『同じ世界』があるから、とご主人は言った。あっちには強い仲間がいっぱいいるから、修行させてもらえるよ、とも言っていた。
同じ世界ってなんだろう。
強い仲間ってなんだろう。
色濃い疑問を頭の中で複雑に絡ませつつ、ぼくはボールに戻され、どこかへ連れられ、一字一句たがわずに『世界を飛んだ』。
「それが、『こっち』だった、ってこと?」
「――うん」
信じてもらえないかなあ。荒唐無稽すぎるからなあ。ぼく自身、まだ全然気持ちの整理がついていないからなあ。変な奴って思われても仕方ないかも。ぼくだって誰かからこんな話を持ちかけられたら、その場で鵜呑みにはしたくない。後で担がれたと知ったら悔しいから。
そんな風に自分をけなしつつ、ちらりとサンダースを見たけれど、その子は意外な反応を示した。
「そっか。あたしと一緒なんだ」
「――え」
サンダース自身、意図せず口からこぼしてしまったらしい。話をそこで強引に打ち切って、いかにも今思い出したといった挙動をし、
「あ、訊き忘れたことがあった。そもそも、あんたの
字は?」
「字?」
「――、名前よ、名前」
何を今更、と思うのだけれど、それはお互い様だった。ぼくがこっちに来てから、まだ15分もたっていない。体を慣らすのにはまだまだ時間がかかる。こっちの世界のご主人に挨拶をするのが精一杯で、近くの川辺で休憩しているところでこの子に話しかけられたのだった。
「
剣」
「冠しているのは?」
ああ、こっちにもそういう文化があるんだ。
「斬水。『斬水』のツルギ」
そこで、サンダースの顔が至極いぶかしげになる。
「なんだかえらく名前負けしてない?」
ものすげえ言われよう。そういうきみはなんなんだ。
「あたしはセブン。『明星』のセブン」
そっちも大概だぞ、と文句のひとつも言いたくもなるが、なんだか手痛い反撃をくらいそうなのでやめておく。
「それなら、ぼくもひとつ訊きたいんだけどさ、」
「答えるかどうかはあたしが決めるけど、一応どーぞ」
「さっきセブンも」
がさり、と草むらの揺れる音がした。
ぼくの臨戦心理が敵襲とみなし、気持ちより体が先に反応する。とっさにホタチを手に取ろうとしたが、
「エーテルッ?」
セブンがそれよりも何倍も過敏だった。正体までずばり言い当てた。隣にいたはずのセブンはぱっと消え去り、物陰にこそこそと隠れるシャンデラのそばまで駆け寄っていた。はええ。
「なに、なに、どうしたの!? またエギルにいじめられたの!?」
エーテルと言うらしい、シャンデラの女の子は、セブンが猛接近するなり腰を砕いて(シャンデラでいう腰だとぼくは強く思う)、
「い、いえ、その。こ、こちらに新しい仲間がやってきたとお聞きしましたから、ご、ご挨拶をと……」
頭の炎が途切れ途切れに燃えている。緊張している反応なのだろうか。
「あーだめだめ。あんなへなちょこなうっかりや、エーテルにはつりあわないから。水かけられるのヤでしょ?」
うっかりやは否定しないけど、へなちょこはでっかいお世話だ。
「いえ、そういうことではなく、」
「だいじょぶだいじょぶ。エーテルはあたしが守るから。それよりさ、さっき美味しいきのみがなってるところ見つけたの。エーテル好みの、しっぶーいやつ。ほら、こっちこっち!」
絶句。あっという間にと言うか、あっという前にというか、ともかくぼくは気がつけば置いてけぼりにされていた。背中に突き刺さるヤミカラスの鳴き声にやりきれなくなって、手にしていた小石を川に向かってでたらめに投げた。
小石だと思っていた。
大切なホタチだった。
† ‡ †
気を取り直すことにした。
そうしてぼくは、成り行きではあったものの、こっちの世界でしばらく過ごすこととなった。予定通り、修行に明け暮れることに身をまかせ、難しいことは一旦考えないようにした。
「握り方に無駄がある。故に打点もかなりずれている。頸道が得物にまで伝わっていない証拠だ。内息を充実させて、体内に滞らせるな」
「はい。もう一度お願いします」
元のご主人の計らいあってか、好都合にも、師匠に足れりとする方がいたのだ。そのお師匠様は、ダイケンキの
角丸さん。若輩者のぼくよりずっとずっと年輩の方。みんなのまとめ役。とっても強い。お酒にも強い。よく見ればかっこいい。アシガタナを果敢に振るう姿が勇ましい。貫禄十二分なのに、ご主人にはかなわないところがちょっと面白い。
疲れない日は一日と無かったけれど、充実はしていた。それは断言できる。
あの後になって知ったことだけど、エギルというのはゼクロムのことだったらしい。ぼくの世界にも代々言い伝えられる、大きな黒龍だ。それを鼻にかけただけの高慢ちきなやつとセブンは散々毒を吐いていたが、よそ者のぼくからしたらどっちもどっちだと思う。口にしたら命はないので黙っておく。
前述のとおり、エーテルはシャンデラの女の子。セブンとは対照的な性格だった。儚げなたたずまいで、相手を立てるひかえめさで、すごく恥ずかしがり屋。セブンとは大の仲良し。というより、何かと物怖じするエーテルを、セブンが色々なところへ連れてってやろうと引っ張っているようにも見える。とはいえ、雷と炎、セブンとエーテルがコンビを組んだら、びっくりするくらい相性が良かった。
誰に訊けばよいものかと迷ったけれど、ぼくはそのエーテルを選んだ。
慎重に話しかけたつもりだった。
「エーテル、」
「ひゃあ!?、ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!」
「ちょ、ちが! ぼ、ぼくだよぼく!」
エーテルに話しかけるのは、何度やってもやはり勇気がいる。こんなところをセブンに見られたら問答無用で殺されるから、ぼくも気が気でない。頭を抱えて謝り続けるエーテルを、必死でなだめる。
ようやくぼくを認めたエーテルが、
「――あ、ご、ごめんなさい。てっきり怪獣かと」
うーん、ぼくって普段からそんなにおっかなげな存在と見られているのだろうか。
度重なる修行の甲斐あってか、ぼくは見事ダイケンキへと進化することができた。いくらかは威厳がついたってことなのかな。お師匠様との違いと言えば、ひげの長さと肌の色合いくらい。あ、それと剣術の腕前。
「ツルギ? どうか、しましたか?」
「え? あ、そうだった。えっと、セブンのこと、なんだけど」
エーテルの青い炎が、少々弱まった。
「セブンがまた失礼なことでも?」
できればそういった関係の話題であってほしい、というような感じの先回りだった。でなければきっと愉快な話でもないのだろうと考えていることが察せる。
「いや、ここへ来たばかりのとき、訊き損ねたままのことがあったんだ。いつか言おうかなと思ってたんだけど、ずるずると引きずり続けちゃって。明日、ぼくは元の世界に帰らなくちゃいけない。なのにあれっきり、セブンの口から出ないってことは、ぼくはまだ仲間って認められていないのかな」
こういう風に持っていけば、エーテルはフォローせざるを得ないことを、ぼくはもう知っている。
「――大丈夫ですよ、わたしにとっても、セブンにとっても、ツルギは大切な仲間ですから。確かにちょっといきすぎなところもありますが、根は優しいですよ」
それを聴いて安心した。言質をとったぼくは今から遠慮を忘れ、肉を斬り血を啜るアシガタナのように、鋭く残酷になる。
「じゃあ、教えてほしいんだ。どうしてセブンがここ≠ノいるのかを」
† ‡ †
正確な日付と時間は忘れてしまった。いつか出会った川辺。あのときと一緒の青空。
セブンはそこにいた。水面を見つめているのか、川の向こうを見つめているのか、それは分からない。
「セブン」
「なに」
気配でばればれだったみたいで、さしたる反応は示さなかった。こっちを見ようともしない。
そこでぼくはちょっとためらった。次にどう声をかけてやればいいのか、こころも言葉もまったく準備できていない。土壇場であれこれ考えたあげく、揺さぶりのある一言を投げた。
「後悔、してないの?」
舌を噛み切って死にたくなるような、重苦しい間があった。清涼感溢るる空気は、一気に曇天のそれへと移り変わった。
その一言で、全てを悟ったようだ。けれど、セブンはまだこちらに顔を向けてはくれない。
いつになく挑戦的な口調で、
「こっち来てから、体格以外も随分でかくなったわねあんた。誰から訊き出したのよ。まさかエーテルをいじめて無理やり――」
固唾を飲み込み、ぼくはあえて最低な返事をしてみた。
「――だったとしたら、どうするの?」
「今ここであんたを殺す」
熱を通さない低い言葉に伴い、赤みがかった体毛がハリーセンのように逆立つ。セブンはそこで初めて、明確な敵意を添えた目を向けてきた。透き通るような瞳に、どこか気弱な光がたたえられていた。
ぼくとセブンは、そのまま10秒ほど、日の浅い夫婦のように見つめあっていた。
「――紛らわしいこと言ってごめん。いじめてはいない。そんなことしたらきみに倍返しされることくらい、ぼくもよく分かっているから。でも、それでも、知っておきたかったんだ」
きみのことを。
だから、きみ自身の口から訊かずにはいられなかったんだ。
どうしてなのか、どうしても知っておきたかったんだ。
敵意に対して、ぼくは誠意を持って見つめ返す。
セブンから先に目を伏せ、また川辺のほうへと移し、逆立った毛を整えた。
「――もう、エーテルってば。甘いんだから」
「――ごめん」ぼくは再度謝り、隣に近寄って座る。
「別にいいわよ。どうせいつか知られることだと思ってたし」
セブンは、ぼくと一緒だった。ジョウトという、聴いたことのない地方から、ぼくと近い要領ではるばるとやってきたらしい。
勝手に。
己だけの意志で。
両親と、両親のご主人と、仲間たちを置いて。
一方通行の指向性を持つ転送装置のため、もう元の地方には戻れない。
「知ってる? あっちの地方ってね、仁義の切り方がまた独特なのよ。字とか
護とか、聴いたことないでしょあんた」
時々は思い出すのも一興なのか、昔のことを語るセブンはどこか誇らしげで、なんだか幼げで、無邪気だった。
お母さんとはともかく、お父さんとの仲がいまいち良くない方向へ傾きつつあったらしい。娘さんによくある反抗期なのかもしれない。わがままの言えない環境下だったぼくにはまだよく分からない。
「そのくらいあたしも承知してるわよ。でも、そんな簡単な一言で片づくなら苦労しないって。父さんがあたしを心配してくれることも分かってる。まったりした気だるい環境にうんざりしてたの。父さんも、主も、みんなも、大切な何かを忘れちゃったように同じ毎日を過ごしてて、あたしだけが勝手にいらいらしてた」
セブンは若い女の子ながら、高みを目指したいという野心的な一面がある。それはぼくもみんなも熟知している。戦いたいとか強くなりたいとか、そういうことじゃなく、言語に尽くしがたい自分の思いを世界に広げたいといった、崇高な手触りがある。
「セブンってのは、父さんがつけてくれたの。この目も父譲り。でも、あたしが父さん絡みで気に入っているのは、その二つだけ。父さんに倣ってサンダースになったことはすっげー後悔してる」
なるほど、幼少の頃はお父さんっ子だったのかな。
「お父さんの、名前は?」
「
裂帛。『
神舞』のレッパク」
大層な名前だ。この不良娘がそうであるように、お父さんも若い頃は相当やんちゃしていたのだろうか。ニョロゾの子はニョロゾって言うし。そうでないとしたら、何かと手を焼いていたんだろうなあ。こころから同情します。
母は思った通りブースターで、その主は別人らしい。だからセブンが、レッパクさんたちにとっては正式な七番目の仲間となる。
「エーテルには、こっちへ来た当初、お世話になったの。今もだけどね。右も左も分からずさまよっていたあたしに対して親切にしてくれて、こっちの世界のことを色々と教えてくれて、あたしに足りないものをたくさんくれた。だから、今度はあたしが強くなって、エーテルとみんなを守る番なの。あたしが、あたしたちの名をこっちの世界に知らしめる番なの。それが、今のあたしが望む生き方」
あたしは、父さんと母さんの子供だから。
そんな理由だけで褒められることは、絶対、ぜったい、嫌だった。
父さんは強かった。
だからあたしも後を追いたかった。
あたしの本質を、そのままに認めてもらいたかった。
出来が悪いって思われたくなかった。父さんにも、母さんにも、主にも、みんなにも。
やれることはなんでもやった。本気でやろうと思えばなんでもできると信じてた。やったもんがちだったから、こうして「やっちゃった」の。
過程が立派であれ無様であれ、成功は次の一歩に繋がる。あたしは、あたしの強さに自信があった。
……ごめん、うそ。
こころのどこかでは、分かってた。
やっぱりあたしは、本当に、本当に弱かった。
弱くて、生意気で、泣き虫で、負けん気で、ずぶとくて、無鉄砲で、いいのは威勢だけで、うまいのは口だけで、得意なのはいんちきだけで、空元気振るまうばかりの、ちっぽけな蓮っ葉サンダース。
こっちに来て、つくづく、そう思い知らされたの。
全部、あっちの世界で学ぶべきことだったのかもしれない。
父さんと母さんに、教えてもらうべきことだったのかもね。
あたしは、父さんと母さんの子供だから。
メスでガキで子供だから、こういう無茶なことをしてでも、みんなに振り向いてもらいたかった。
† ‡ †
どのくらいの時間、一緒にそうしていただろうか。いつの間にか夕刻が迫ってきていた。夕空に藍がにじみ始め、ぬるい空気が徐々に引き締まってくる。川辺にも夕日の眩しさが強調され始め、ぼくとセブンは視界にいくつもの残像の斑点を作る。
ふう、と小さな口から可愛らしいため息が漏れた。
「――もう、これでいい? 満足したでしょ? こんなことまで白状したの、あんたが初めてよ。土産話なんかにしたらただじゃおかないからね」
ぼくの世界、どういった手段でそれを知るというのか。そう言い返したかったけれど、この子なら何をしてでもぼくの軽率さを止めてくるかもしれない。
「うん、ありがとう、気をつける。セブンのことをやっと分かることができて、嬉しいよ」
正直に言ったつもりだったんだけれど、セブンは不服げに、
「何よそれ。あんたにとって、今までのあたしはなんだったのよ」
「命が惜しいから、口にするのはやめとく」
「大丈夫よ。このこと知った時点で、あんたには一切容赦しなくなるから」
「なんだよそれ。きみにとって、今までの容赦のなさはなんだったんだよ」
同じ切り替えしをされたのが気に食わないのか、セブンはすんと鼻を一度鳴らした。
ぼくは半分ほど地面に埋まっていた小石をアシガタナの切っ先でほじくり、川に放り出した。
「さみしくない?」
安直な問いかけに、セブンは小首をかしげる。そのままゆっくりと
頭をめぐらせて、ゲンガーもかくやとばかりの、いやらしい笑みをよこしてきた。
「明日なんでしょ。別にさみしくなんかないって言ったら、むしろあんたがむせび泣くんでしょ。だからさみしがってやるわよ」
――?
「明日? むしろ? ぼくが泣くの?」
二度目の問いかけに、セブンの顔にもはたと疑問が塗り固められる。次の瞬間にはそれは打ち消されて、
「――え。あ、ああ? あーはいはいはいはい、そっちね、父さんたちのことね。っとに紛らわしい」
なぜかセブンは軽く狼狽し、自分の鼻先をぶしぶしとこすって何かをごまかした。
えへんと、咳払いをひとつ。
「まだ決められない。向こうの世界が恋しいって気持ちは、今のところは無い、かな。さみしいと思える余裕もないほど、こっちの世界でめいっぱい楽しんでるから」
「そっか。強いなあ」
「嫌味?」
「いや、本音だよ」褒められることに慣れていないのかな。なだめるように笑ってみる。「ぼくはほら、このとおり貧乏根性が身に染み付いちゃってるからさ、こっちに来た当初はやっぱり色々戸惑ったよ」
「ああ、あの座布団の話は傑作だったわ」
セブンも節操なしにからからと笑う。こうして笑っているところを横から見ると、本当にただのサンダースの女の子としか思えない。
こっちの生活は、黒が白に清められるほど裕福だった。初日の夕食時、あまりの歓迎っぷりに、主役であるはずのぼくはなんだか申し訳なくなってしまい、布団代わりにしていた我が家のぼろ座布団が急に恋しくなった。縮こまった態度からバレてしまったようで、その旨をうっかり白状してしまうと、こっちのご主人には腹を抱えて笑われた。セブンも失礼なくらい笑い転げていた。きちんとした食事と寝るところがあるだけでも、ぼくからしてみればありがたすぎるくらいの贅沢なのだ。セブンがみんなを守りたいという気持ちは、今のぼくになら分かる。
「向こうは、お父さんとお母さんは、さみしがってると思うよ」
「ふん、思いっきりさみしがればいいのよ。母さんと主にはちょっと悪いことしたかなって思ってるけど、こっちは退屈な毎日から抜け出せて清々してるわ」
「――たまには素直になって、お父さんのことも思い出してあげたら?」
「何よ。あんた父さんの肩持つ気なの?」
「いや、そういうつもりじゃないよ」
素直になることには否定しないんだ。
セブンは不満げに口をとがらせて、
「いーわよ無理しなくて。どーせあたしが全部悪かったんですー。今頃は向こうのみんなに嫌われてるに決まってるんですー。たとえ戻っても、『また無茶なことしやがって』とか言われて笑われるんですー」
「ぼくは、そうは思わない」
「あんたその呆れるくらいの妙な自信一体どこから沸いてくんのよ」
「お父さんとお母さんが、自分の子供を嫌うわけがないだろ? どんなことがあっても見捨てられないって知ってたから、こうして自分からこっちに来たんだろ? 向こうのみんなも同じ気持ちだよ。だから、ぼくもきみのことを笑ったりなんかしない」
喜ぶべきなのか悲しむべきなのかといった、半信半疑な目線。初めて出会ったときのそれと、ひどく似ている。
「――なんで、」そこでセブンは少し踏みとどまった後、「なんで、そこまで断言できるのよ」
そんなの簡単だよ。
「ぼくも、きみのことが嫌いじゃないから」
こころあたりは全然無いのだけれど、この世の破滅にも等しい、とんでもないことを言ってしまったらしい。ぼくの台詞の一体どこに反応したのか、セブンは耳の先っぽまでマトマのように真っ赤っかになり、訛りのある罵詈雑言を浴びせ、無慈悲な稲妻を落としまくってきた。心底慌てふためいたのはぼくも一緒で、わけが分からないまま逃げ回り、命からがらその場から退散した。川のほうに逃げなかったのは、迅速で賢明な判断だったと我ながら思う。
† ‡ †
「おかえりー! うわあ、おっきくなったなあ! いっちょまえに兜なんかかぶってひげなんか生やしちゃって。肌もつやつやになっちゃって。どうせいっぱい可愛がってもらえたんだろうらやましいなあこのこのこの。あ、これが噂に聞くアシガタナってやつ? む、結構重い」
向こうも向こうでさみしかったらしい。進化したぼくが帰ってくるなり、元の世界のご主人は大げさなくらい喜んでくれた。一回りも二回りも大きくなったぼくの体をあちこち見てべたべたとはしたなく身体検査してくる。あ、ちょ、それ危ないから持たないで。引き抜くのにもコツがいるから、ってああっ、だめだめだめ!
「友達、たくさんできた?」
うん、とぼくはうなずく。
「別れるの、ちょっぴりさみしかった?」
その言葉に、帰り際の送迎会で笑いあっていたみんなのことを思い出す。つんとすました態度ながらも最後まで見送ってくれた、あの子のことがとりわけ強く脳裏に浮かぶ。
うん、とぼくはもう一度うなずいた。
そっかそっか、よろしい、とご主人は満面の笑みを浮かべてくれる。その笑顔に、再び思い出されたあの子の笑顔が重なった。
信じられないことに、ぼくが帰ってくるまでの一週間、ご主人はずっとポケモンセンターに滞在し、無料で支給されるライトミールを食っちゃ寝するだけの居候と化していたらしい。無銭飲食の狼藉にも限度がある。相当体が鈍っていることだろう。すぐにお迎えしたかったから、と言っていたけれど、本当のところはどうなのだか。まあでも、ぼくは向こうで快適なぬるま湯に浸かっていたから、こちらのほうがむしろ「いい思い」をしていたとも言える。ぼくは向こうの世界に一ヶ月過ごしていたため、かなりの時間差が生まれている。やるべきこともやりたいこともいっぱいあるから、この一ヶ月で培った力を存分に発揮させたい。ご主人のためにも、これから加わるであろう仲間のためにも。そして、ぼく自身のためにも。
帰るところがあるっていいなあ、と改めて実感する。
† ‡ †
ぼくはそれなりに成長することができた。戦績もそれなりに改善され、生活水準はそれなりに向上した。冒険のペースもそれなりに順調となった。
あの子にはあの子の歩幅がある。ぼくにもぼくの歩幅がある。何も焦る必要はない。ゆっくり進もう。
ぼくの名は、ツルギ。どこでも寝られる便利な肉体と、なんでも食べられる鋼鉄の胃袋を持ち合わせている。このアシガタナに誓う。冠する名に恥じぬよう、いつかは水をも斬ってみせる。
そして、進化したぼくの背中に期待して、ご主人がヒウンの下水場でなみのりを命じるのは、もうちょっと先の物語だ。