いつか見た夢
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さっき、大事にあたためていたタマゴから、やっとポケモンがうまれました。うれしくなって、いそいでウツギはかせにほうこくしに行ったら、さいしょに、「おめでとう」って言われました。そして、今書いているこのレポートをわたされました。さいごに、「大切にするんだよ」ってやさしく言ってくれました。
ウツギはかせが言うには、ポケモントレーナーはみんな、さまざまな形で「レポート」をのこすみたいです。よくはわからないけれど、そういう決まりらしいです。今日一日あったことをそのまま書くんじゃなくって、自分のポケモンをしっかりかんさつするんだって。むずかしいけれど、自分だけの日記みたいにしてはいけないんだって。そんなこと、うまくできるかなあ。さっきから消しゴムをいっぱい使って、書き直しばっかりしています。さいしょのレポートなのだから、しっかり記ろくします。
今日はまだお昼の一時。さっきも書いたけれど、はじめてのポケモンでうれしくなったから、すぐにつくえにむかってこのレポートを書いています。書きたいきもちでいっぱいです。
今、そのポケモンは、クッションの上で丸くなってねています。イーブイのオスなんだけれど、とてもおとなしいです。さいしょのうちはむやみにさわらないで、そっとしておくのがいいらしいです。
イーブイってもっとくりくりとした大きな目をもっていると思いました。だって、テレビで見たからです。なきごえも、テレビで聞いたのとはちがって、ちょっとふしぎな感じでした。こせい、っていうのかなあ。でも、毛はふわふわで、ちっちゃくて、とってもかわいいです。どんなポケモンにしんかするのか、楽しみです。
なまえは、まだ決めていません。うまれてくる前からいろいろと考えていたんだけれど、イーブイだとわかると、どれもなんだかしっくりとこなくなりました。
どんなのがにあうかなあ。
明日、イーブイをつれて、もういちど、ウツギはかせの所に行って、相だんしようと思います。
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1回目でも、15回目でも、100回目でも。
この少年による、この書き出しは、きっと変わらないはずだ。
終幕 いつか見た夢 果てのない快晴が頭上にどこまでも広がっており、なんだか作り物のようにさえ感じる。
さざ波の打ち寄せるここちよい音が、喧騒の隙間をくぐり抜け、ここまで届いて鼓膜を洗う。鼻をこすり、すん、と嗅いでみると、いつもと変わらぬ潮の匂いがした。押し寄せる熱波を察するに、じきに土砂降りの雨が来るはずだ。雷を読む力は無いが、かつての経験からそう思う。
太陽の熱を受けて、白亜の石畳が濃厚な蜃気楼を作っている。サンダル、作業靴、スニーカー、ブーツ。港町ならではの、色とりどりの履物が、その上を交錯している。低い視線からそんなさまを観察できるのも、アサギの特徴といえば特徴だろう。かつての二日間が静寂に支配されていたとは思えないほどの盛況で巻き返され、人々は慌ただしさすらも思い出したように走り回っている。うっかり踏みつけられそうになるのをなんとかかわしながら、通行の邪魔にならないよう、道の端をてくてくと歩く。
いた。
ポケモンセンター入り口前付近にて、マサキとポリゴンZが機材を運ぶ指示を与えているのだが、グレンゲも一緒だった。ミカンとともにNAILを見上げ、なにやらぶつくさと文句を言っている。
「おうおう、お前さんも分かんねえ奴だな。ほら、ミカンの姐さんからも言っておくんなせえ」
ミカンも困ったような笑顔で、NAILの硬質の肌を優しくさする。
――ほら、グレンゲもこう言っているんだから。『今のグレンゲ』なら、一度くらいは、
NAILはそっぽを向き、血も涙もなくあしらう。
「それとこれとは話が別なのよ。この前は不覚を取ったけどね、ここは誰がなんと言おうと、お嬢の特等席。こればっかりはお嬢の命令でも聴けないわ」
「だから、俺たちがなんとかしなけりゃあ、そのお嬢はここにいないんだっての!」
ポリゴンZもいくらかおかしそうに、
「チーフは乗りたいと思います?」
――ワイ、高いところとカリフラワーだけは絶対勘弁や。
何の話かさっぱり見えなかったので、話の継ぎ目を選んで口を挟んだ。
「何やってるんだよ」
グレンゲたちが声に気づき、一斉に視線を集める。
「んあ、レッパクか。なあ教えてくれよ。NAILの頭の上の景色、俺も見てえんだ」
本当に何やってるんだよ。
「あの時は戦いに必死で楽しむ暇も無かったぞ」
あー、そうだったかー。どうしてこううまくいかねえんだ。グレンゲは悔しそうに頭をかく。NAILは食いしばった歯を見せて、よくもまあそこまで自分を捨てられるものだと思えるほどの「いーっだ」をくれている。ゲンガーなどがやればまだ可愛げがあるものの、ジムリーダーのハガネールなんぞがすれば傍目にも凄まじい迫力である。
「それより、主はどこだ」
「大将? 大将なら――」
――浜辺にいると思いますよ。久しぶりに釣りがしたいって。
――ブラックも一緒やったと思うで。
なるほど、自分とグレンゲを呼ばないわけだ。
「行くぞ」
「おう!」
話は済んでねえからなー!、とグレンゲは去り際に捨て台詞をNAILへ投げつけ、レッパクはそんなグレンゲを気にせず海の方角を目指してさっさと走りだす。
― † ―
時計は、少しだけ戻される。
ゴールドはゆっくりと階段を登る。ここへ来ることが何よりの目標であり、信じ続けていた道だった。「生身で」ここへ来るのは初めてだったが、自分でも薄気味悪いくらい落ち着いている。緊張と興奮が綯い交ぜになった挙句、無心になってしまったようで、ゴールドはただ段数を数えることに専念していた。
ポケモンリーグ、ひとつ目のバトルコートに着いた。観客席はがらんどうとしており、人の気配はまったくしない。たってのお願いというやつで、あらかじめ連絡を入れておいたのだ。そちらへ伺いたいから、誰もいないオフの日を作ってほしいと。勝敗を喫する儀式。これまでの聖戦を繰り広げてきたかつての英雄たちを、少し寂しく思った。
向こう側に、四天王と、そしてチャンピオンがいた。
五人の内、中心の人物には、見覚えがあった。
「よく来たね、ゴールドくん」
「どうも、ワタルさん」
お互いそれなりの距離があるはずなのに、声は不思議とよく届く。
「――さすがに驚かないんだね」
「いえいえ、これでも心底驚いていますよ」
ゴールドもつられて、いくらかおかしそうに苦笑した。右手のぐー、左手のぐーを、ワタルに向けて突きつける。
神妙な顔つきへ戻す。
両手をぱーにした。
ジョウト地方のジムバッジが左右の手からそれぞれ四つずつ、ぼたぼたとこぼれ落ちた。足元に散らばり、しかし拾おうとはしない。ゴールドは空っぽの両手を突きつけたまま、
「ここにジョウト地方のジムバッジ、全部あります。嘘偽りなく、自分たちで集めたものです」
「うん、確かに」
遠すぎてワタルには見えていないはずだ。嘘をつくトレーナーではないと思われているらしい。
ゴールドはしれっと、
「全部返却させていただきます」
「――えっ?」
ワタルがまゆを跳ね上げた。意味が分からないのか、うまく聞き取れなかったのか。
ゴールドはにへらと笑い、膝を折ってその場にしゃがむ。バッジを丁寧に拾い直し、いつもの調子に戻る。
「いやあ、色々考えたんですけどね、俺にはやっぱりまだ早いかなって。せっかくここまで来られたんですから、何もせずに帰るのは冷やかし同然ですよね。敵前逃亡、そう思ってくださっても構いません。本当、情けない。でも、でもですね――『こいつら』、今ちょっとまずい状態なんですよ」
拾い上げたジムバッジを上着のポケットに入れると、ゴールドは腰のボール6つを一斉に宙へと放り投げた。
― † ―
潮の匂いがますます濃密になる。
人の波をくぐり抜け、浜辺との境目であるちょっとした下生えをかき分けると、視界が開けていきなり段差が無くなり、足をすくわれた。軸芯の取り戻し方なんてもう忘れてしまった。大した音も立てずに、レッパクとグレンゲは浜辺の付け根へ落下し、頭にかぶった砂を振るってお互いに飛ばしあった。太陽のもと、椰子の木の作る影は意外なほど涼しくて暗く、レッパクとグレンゲは少し瞳孔を広げた。
主同様、どこに行ったのかと思いきや、オボロとソニアは砂浜にいた。さざ波の音を背景に、ぼんやりと日光浴している。よくは分からないが、とても気持ちよさそうなのが、レッパクにはちょっとだけ羨ましい。
「砂さらさらー。いー天気ー。どーお、オボロー?」
「――なんて言えばいいか、よく分からない。悪くない気分」
「後ろ向きに言うからだめなの。そんな時は、『気持ちいい』でいーの」
「――うん、気持ちいい。ここに巣を作ろう、かな」
「そーそー。その意気その意気」
うひひと笑うソニアは、どう見てもゲスい中年オヤジそのもの。
視界の左の遠くに、コンクリートで固められた一本の桟橋が見える。そのそば、真っ白の塗料に染まる小舟を、大の大人二人が海原へ向けて必死に押し出していた。陽光をためこむ砂地は信じられないくらい熱く、レッパクは焼いた鉄板の上で躍らされるような気分だった。一歩、また一歩、アメタマのようにちょっとずつ跳ねながら走り、桟橋の先端を目指す。
ふたつ、少年の後ろ姿があった。どちらの背中も、レッパクは非常によく知っている。どうやらミカンの言ったとおり、釣りをしているようだ。何もそこまで見栄をはらなくてもいいのに、二人ともそれぞれでっかいバケツを傍らに用意していた。あぐらをかき、背を丸め、自分のウキを見つめているようだ。二人がどんな顔をしているのかすら、眼に浮かぶようであった。左側の少年のそばに、レムが支えられるように身を寄せている。右側の少年のそばでは、メガニウムが海面を睨みつけている。釣竿をつかむ手に集中している今、声をかけるのはなんだかまずい気がして、グレンゲと一緒にしばらく見つめていた。
――なあ、釣りってこんなに退屈だったか?
――知るか。獲物がかからないからだろ。
――昔はこうじゃなかったはずだよな。こう、目に映るもの全部がなんでも魔法にかかったみたいでさ、拾った棒切れは魔王を倒せる伝説の剣に違いなくてさ、遊びの中心にいる自分は無敵だと信じていてさ。少し、大人に近づいてしまったのか。それとも、昔の遊びよりもっともっと楽しい時間の過ごし方を知ってしまったのか、って、どうした?
右の少年が、おもむろに立ち上がる。
――おい、手を貸せ。
左の少年の前髪が、若干揺れる。
――なんで俺が
――でけえんだよ、こいつ。
――ま、まじかよ。
右の少年の釣竿が、面白いくらいしなっている。左の少年は自分のそれを据え置き台に託し、慌てて隣に手を貸す。
――うおわ、まじだ、え、ちょ、いくらなんでも大きすぎやしないかこれ!
「マ、マスター?」
レムとメガニウムは、そんな二人をハラハラと見守っている。レッパクとグレンゲは、そんな二人と二匹をぼんやりと見守っている。
――レム、手を出すなよ。って手はないよな、なんでもいいや。とにかく、邪魔するんじゃないぞ。釣りってのはな、こうした一進一退の駆け引きが醍醐味で
「大将」
――お? いたのか。
ゴールドが首だけで振り向き、次いで手をぱっと離した途端、ブラックの体が一気に海のほうへと引きずり込まれそうになった。慌ててメガニウムがつるでキャッチし、グレンゲと主に向かって「ばかあーっ」と叫んでいた。
ひざをついて見下ろしてくる主が、いつもよりも大きく感じるのは、決して錯覚ではない。
――悪い悪い。まだ水は無理だろってことで、黙って来たんだ。『その格好』でここまで走らされるのは大変だっただろ。
― † ―
ゴールドの投げたボールから現れるポケモンたち。
イーブイがいた。
ヒノアラシがいた。
ラプラスがいた。
ナックラーがいた。
マラカッチがいた。
ムウマがいた。
2匹を除き、4匹とも退化していた。
予想以上に予想外だったらしく、ワタルたちも驚いて、しばらく黙っていた。その空白がいたたまれなくなって、ゴールドが続ける。
「――まあ。この通り。なんです。はい」
すまなかったね、とワタルが言おうとした。のを感じた。ので、瞬時に先回りした。
「不肖ゴールドっ」
わきを締め、両足も密着。棒を飲んだような直立不動。つま先の開きは精確に40度。顎が外れても別に良かったから、リーグの屋根を突き破らんばかりの大声で叫んだ。その一喝に、6匹と5人はたまらず跳ね上がった。震える空気に、ゴールドは自分でも肌をびりびりとさせた。
ゴールドはまだまだ青い15歳だ。
語彙も度胸も貧弱である。
こころのままに叫んだはいいが、続く台詞が用意できていない。
思いつく限りの言葉を並べ、必死で繋いだ。
「自分の至らなさゆえに、皆様各位に多大なご迷惑をおかけしたことはまったく自明であります! 我がポケモンたちの管理を怠り、ありとあらゆる損害をこうむってしまいました! わたしにどれほどの責任が問われるかは判断しかねますが、まずはポケモンリーグへの挑戦権を自ら放棄し、1から出直して参ります!! ほんっとうに!、申し訳ございませんでしたぁっ!!」
地面に叩きつけそうなほどの勢いで頭を振り下ろし、腰を折った。その角度も精確に40度。
いつまでも、いつまでも、下げているつもりだった。やめてくれと言われても、そういうことはするなと言われても、下げているつもりだった。
顔を上げろと言われるまで、下げているつもりだった。
「ゴールドくん、」
「はい」
「ゴールドくん、」
「はい」
「―――、ゴールドくん、顔を上げて」
「はい」
顔を上げる。
「しかしきみは、きみたちは、おれたちの命の恩人でもあるんだよ。みんなを救ってくれた」
「はい」
「でなければ、おれたちはこうして再びここに立つことはできなかったし、こうしてきみと対面することもなかった」
「はい」
「それってある意味、ポケモンリーグ制覇以上の偉業を成し遂げたことになるんだと、おれは思う」
「いいえ」
ぴしゃりと切り捨てた。
「俺は、みんなとは一緒に制覇していません。みんなを置いて、一人で勝手にくたばっていましたから。俺の目標はただひとつで、それはみんなでここへ来て、勝ち上がることなんです。何も、カウントされていないんです」
― † ―
時計は、更に少しだけ戻される。
ポケモンセンターの、その一室。
窓の外に見えるアサギの街並みを眺めていて、それでもゴールドは振り返らない。
扉の向こうにいるのは、とっくに気づいていた。練習でもしているのかもしれない。
もぞもぞとした、実にじれったい気配が、さっきからゴールドの背中をくすぐっている。ずっと待っててみようか、とゴールドは意地悪く思う。
1分が過ぎ、3分が過ぎ、5分が過ぎ、そして10分がたってから、やっと扉がスライドした。最初に顔を見せてくれたのはドロップだった。次に、ソニアだった。
「よ、ごぶさた」
――ご、ご主、人?
この時点でもうドロップは涙声だ。
「おお、幽霊じゃないぞ。ほらほら、足もちゃあんとある」自分の右足を持ち上げ、ぶらぶらとしてみせる。「みんなもそこにいるんだろ?」
――リーダー、そ、そのこと、なんだけど。……え、えっとね、あのね?
「うん?」
とらえがたい表情のソニアが扉の向こうへ目をやり、しばらく何かを考えたあと、やがて部屋に入ってきた。続いて、
イーブイのレッパク、ヒノアラシのグレンゲ、ナックラーのオボロ、ムウマのレムが、まるでこっぴどく叱られたような面持ちでおずおずと現れた。
「ああなんだ、みんなちゃんといるじゃないか。何事かと思いきや」
――ゴールド、分かるの?
「何が?」
――だってよう、俺たち、またこんな姿に戻っちまってよ、
みんなはまるで窓ガラスを割ってしまった子供のようで、その落ち込み加減がなんだかおかしくって、こらえきれずにゴールドはつい笑ってしまった。怒鳴りつけられるとでも思っていたのか、全員がその反応に縮み上がった。笑い声の隙間からゴールドは、
「分からないことあってたまるかっての。こんな成りでも、一応ポケモントレーナーの端くれだぞ。俺がみんなのことを見分けられないとでも思ったか。トレーナーが自分のポケモンを疑っちゃあ世も末だよ」
ひとしきり笑ったあとに口元で弧を結び、窓際にひっかけていた両ひじを離す。
ゴールドから、一歩だけ、近寄ってあげた。
「おかえり」
その一言にみんなが顔を上げ、息を詰まらせた。
――あ、ある
そこから先は、声がねじれて言葉にならなかった。
6匹も揃えば、騒音さながらだった。
泣きながら駆け寄るだけでいいその距離を、ゴールドを含める全員はとても、とても長いと感じる。あの日、抱きしめたけど抱きしめられなかった体。呼びかけたのに答えてもらえなかった口。あの二日間で作られてしまった主人とポケモンとの隔たりとは、今縮めようとしている間合いそのものなのだろう。ゴールドは足を開いて両腕をそっと広げ、胸に飛び込んでくる小さなイーブイを優しく抱きとめた。ヒノアラシの体重を腹で感じたときはまだ踏ん張れたが、ムウマが顔面に突進してきたところでゴールドはとうとう自分を支えきれなくなり、後ろへ派手に倒れこんだ。後頭部をしたたかに打って、目を回しかける。
腹と背中と後頭部の痛みを、フローリングの冷たさを、6匹分の慟哭のうるささを、こんなにも気持ち良く思えた日はない。
「おーおー、お前らがそんなに泣き虫だったなんてなあ。退化したついでに子供帰りもした? まあ、俺もこの前ひんひん泣いてたんだし、これでおあいこか」
痺れるような地鳴りと生暖かい湿り気を胸元に感じる。ここちよい振動に、ゴールドは水をかぶせればとろけて流れてしまいそうなほどの呆けた表情となり、一息つく。顔をうずめて号泣するレッパクの栗毛頭に手を乗せ、くしゃくしゃにしてやった。
「本当にありがとう、俺のために。悪かった、約束する。もう、どこにも行かないから」
― † ―
桟橋の向こうの海原で、ドロップが楽しそうに歌っている。歌のリズムに合わせているつもりなのか、テッポウオが海面を跳ね、コイキングがせわしなく波を泡立てている。
二人がかりでも苦戦を強いられたのが嘘みたいだった。存外小さかったブラックの獲物に、ゴールドは抱腹絶倒の勢いで笑った。まったく失礼なことに、指までさした。ブラックは黙ったまま背中を向け、叩きつけるように海へと還していた。あんな小さな魚でも人間二人を軽くおちょくれる力を持っているのだから、生命の神秘とはなかなかどうして不思議である。
ふりだしに戻った状況がいたたまれないのか、レムがつまらなそうにぼやいた。
――あーあ。進化したときの姿、マスターに見せたかった、です。わたし、また戻っちゃいました。
「いや、見てたよ?」
――え、えっ?
レッパクも片耳をぴくんとしならせる。ゴールドは笑い涙の溜まった目じりを中指でぬぐって、
「んー。なーんて言うか、なんとなく、だけど。ホウオウに取り込まれた後でも、ぼんやり意識はあってさ。起きたまま眠ってるって感じ? そしたらみんな一斉にこっちに向かって飛びかかってきてさ。俺たちごとぶっ倒すつもりなのかなとも思ったり思わなかったり。レム、最後らへん、なんだかのべつ幕無しのものすげえ剣幕で怒ってなかった?」
――ご、ごめんっ、なさいっ!
いいよいいよ、それだけ本気で戦ってくれたんだろ、ゴールドは嫌味のない晴れやかな表情を浮かべながらレムの頭をなでてやった。なでつつ、隣のレッパクを見た。
「次もサンダースになりたいか?」
こんなところを見ていても大して面白くないはずなのに、姿勢の実に整った律儀な「おすわり」で、ずっと水平線を眺めている。
――どうだろう。
「シャワーズになったら、水嫌いが解消されるかもしれないぞ」
――それもいいかもしれない。けど、
「うん?」
――主は、おれがシャワーズになったところを想像できるのか?
「ああ、それなら簡単にできるぞ。楽勝だよ。15回生まれ変わろうと、100回生まれ変わろうと――なんだっけ、ニンフィアか――あれに進化しようと、お前はレッパクだから」
レッパクは、ここでやっと見上げてきた。潮風にあわせて揺らめくゴールドの前髪を見つめて、何か言いかけようとして口を開き、結局やめたようで、また水平線へ視線を投じた。
レッドとの約束を、ゴールドは思い出す。
――あの人は、ホウオウに勝てなかった。でも、俺のポケモンたちは勝ってしまった。まあ、なんでもありのインフォーマルな形で、だけど。
レッドはというと――修行不足だとほとほと痛感したらしい。ポケモンの気持ちは精一杯理解しようと努めてきたが、それだけでは及ばないところがあると思い知ったようだ。それは自分もだと、ゴールドはフォローした。それ以上強くなってしまったらこっちが困りますよと、嘘なのか本当なのか分からない冗談を入れる余裕もあった。
二人は笑いあって、今度こそ握手を交わした。伝説のトレーナーと戦い、握手までしてもらったのだから、ゴールドからすれば値千金の体験である。バトルで過ごした正確な時間はもう憶えていないが、ある意味では、ポケモンリーグでチャンピオンになる以上に有益なものだった。
次に会う時を楽しみにしていると、レッドの握力が語っていた。
勝ち逃げなんてさせませんよと、ゴールドも力強く握り返した。
ちなみにだが、口ではなく目で話すのがどうもレッドの癖らしく、レッドの肩に乗るピカチュウが通訳を務めてくれた。人間と人間の意思疎通のためにポケモンが仲立ちするのも、今にして思えば滑稽な話である。
個人の尊厳のため、詳しい場所は伏せておく。
ライコウ、エンテイ、スイクンはというと――ホウオウを探しているのか、新たな道を探しているのか、各々ジョウト地方中を駆け回っているそうだ。主君を失ったが、冠した名はどうしても捨てられないでいる。
最近では一般トレーナーの前にも姿を見せるようになったとか言う風の噂まで耳にする。ホウオウが人間離れしたのと同様、あの三匹も人間に対しては150年の懸隔があるのだろう。今後の行く末が気になるが、自分の行く手に現れたあの日まではどうしていたのか。それをまずあれこれと想像しているゴールドだった。
モミジはというと――まいこはんをやめたらしい。どこへ行ってしまったのか、ゴールドにはとうとう最後まで知りうる手段がなかった。エンジュの北側にある、地図にも載らない小さな集落へ帰ったとの話もあったが、信憑性に欠ける。まさか身投げはすまいと気楽に思いつつも、実はそれなりに心配しているゴールドだった。
全てが元通りになったからこそ言えることなのかもしれないが、ゴールドはモミジを憎んではいない。レッドと戦う機会を作ってくれたことには感謝したい気持ちがむしろ強く、お人好しもここまでくれば芸術的である。色々と物事を片付けたら、オボロに乗ってあちこち訪ねに行こうと思う。
ルギアはというと――何事もなかったかのように、今もなおひっそりとうずまきじまで傷を癒している。体こそ完治にいたらないものの、二日に渡った悪夢のような動乱がいびつな形ながらも丸く収まったことに安心し、この上ないほどの重圧から解放されていた。
ホウオウも人間も、もう二度と過ちを繰り返したりはしないだろうと信じている。150年前同様、あの二日のことを決して忘れないでおこうと胸に誓い、友が戻ってくれるのをずっと待っている。ぎんいろのはねがあいつのもとに渡ったことも知っている。どこにいるのかはあえてこちらからは探知せず、いつ突然やってきてくれるかを、幽閉における唯一の楽しみにとっておいた。
たとえ来なくとも、自分の命が尽きるその瞬間には、一緒にジョウトの大空を駆けたことをまぶたに呼び覚ましたい。そうすれば、安らかに逝けるかもしれないと思っている。
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ふと、天を突くアサギのとうだいから一筋の光が飛び出し、キャモメの群れを左右に切り分け、海原を薙いだ。
船が出発する合図だ。
ドロップの歌だけでなく、船乗りたちのたくましい歌声も、遠く沖の向こうから聞こえてくる。今も、150年前も、それよりはるか昔からも変わらない、白浪の剛毅さを思わせるアサギの民謡。大気を震撼する船の汽笛。煙突から吐き出される煙が海上をゆったりと漂い、水平線を覆う真っ白な入道雲と混ざるようにして消える。子供たちの陽気な声が弾けあう。浅黒く染まった肌をさらして駆けまわり、海水のしょっぱさを全身で味わっている。
海は、生命のレシピだ。
波は、世界のリズムだ。
たくさんの命、体、時すらも封じ込めて、ひたすら元気に呼吸し続けている。泡のように生まれては消える、無限小かつ無限大の物語。全てが広大な水脈の奥へと潜まり、静かに乱舞している。子供たちがその欠片を一部だけ両手ですくい、お互いにばらまきあう。体にぶち当たって無数の飛沫をあげ、プリズムとなって戯れに虹色を奏でた。
しばらく無言に徹していたゴールドは、またも据え置き台に釣竿を添える。左右にさとられないよう、両肩を開き、手を後ろ腰で組み、伸びをする――ふりをした。
「レッパク、グレンゲ、」
返事を待たず、ゴールドは両肩を前方に巻く勢いを利用。左右にいるレッパクとグレンゲの背後を、ゴールドの両手が襲った。二匹の首根っこをわしづかみにして、遠心力にモノを言わせ、力まかせにぶん投げた。退化しても声量は戻っていないらしい。二つの
大音声が同時にゴールドの鼓膜をつんざいた。いきなりの衝撃に二匹は宙をどう泳ぐこともできず、叫び切る前に同時に海へ叩き込まれ、続きは二つの水しぶきが請け負った。
うっし、
立ち上がって肩をぐるぐる。屈伸。2、3歩だけ後退。間を計らうついでに靴をいい加減に脱ぎ捨て、一気に助走。
レッパクとグレンゲが水面から顔を出すまさにそのタイミングだった。籠から放たれたポッポのように、ゴールドも桟橋から思い切り飛び立ち、海に飛び込んだ。レムの悲鳴。先程よりもいくらか盛大な水しぶきがあがった。
思った以上の深みにゴールドは今更びびり、足をばたつかせて必死でもがく。レッパクとグレンゲを手探りで確認し、両わきに挟みこんで上を目指す。と、そのとき思いがけぬ水の流れがやってきて、何事かを確かめる間もなく、ゴールドとレッパクとグレンゲは釜揚げのごとくドロップの甲羅に拾い上げられた。
仲良く海水を吐き出しあっているうちに、ドロップによってそのまま砂浜へと連れてこられた。もうだめだとばかりにまずレッパクが砂地へ転げ落ちて、その次にグレンゲがぐってりとしながら落下して、その上をやっぱりゴールドがのしかかった。みんなでひいひいと言いながら砂浜を這いずり、その熱さにようやっと気づき、あたりを転げまわって砂まみれになった。そんな情けないさまを見て、近くのオボロとソニアが笑っていた。
頭がぐでんぐでんになり、自分はいよいよおかしくなってしまったのかもしれない。大の字で仰向けになり、アサギの空を見上げ、ゴールドも大笑いした。水を含んだ前髪が、海藻のように萎えているのを気にも留めない。両耳に海水が入ってしまったからどうだというのだ。おかしさが伝染したのか、みんなもゴールドに負けないくらいの大声で笑った。近くの子供たちは白昼夢からさめたような表情でこっちを見てくるが、ゴールドの哄笑はそれでも止まらず、こころの奥底から湧き上がる途方もない衝動に翻弄され、ついには魔獣のような咆哮をアサギの空全体に響き渡らせた。深みのある碧天が凄いと再度感動する。
顔を獰猛に輝かせてもう一度起き上がる。砂まみれということも裸足ということも忘れ、砂を蹴散らし海に向かって走りだす。入れ替わりで一直線にできあがる左右の足跡。レッパクが追いかける。波打ち際、足首を洗う波間は生ぬるい。砂の柔らかさに足を取られ、海面による照り返しのまぶしさにゴールドは目を潰されかける。どうあがいても不可避、背後へひっくり返すような軌道で両足を振り上げ、腕で支える間もなく顔面から海へ激突した。塩辛い水をがふがふと呑み込み、上体を起こし、貼りつく服の鈍さを無視し、更なる深みを目指して沖へ進む。こびりついた砂がどこかへ流れていく。
波濤の力が全身を重く突き抜ける。世界が生きている証拠だ。水の塊が何度もゴールドへ押し寄せ、その髪を/頭を/耳を/腕を/胸を/足を/指の隙間を通り越し、魂をくすぐってくる。足が届かなくなったところで、酸素を求めて浮かび上がってみる、ちょっと力を抜いて沈んでみる、また浮かび上がる。そうして身をもがいて不器用に踊ってみせる。
軽い水音。レッパクが頑張ってついてこようとしているのに気づき、腕を伸ばして抱き寄せる。ゴールドは上半身を海上に出し、海と空の青に挟まれ、拳を天高く突き上げた。
レッパクがゴールドの腕から離れ、肩、頭、拳へと律動的に飛び移る。小さな足に力を託し、太陽を目指して跳躍。頭を腹部に巻き込み、くるりと一回転。海水に焼かれた喉奥で、青空に向けて命の雄叫びをあげる。
【追いかけよう、どこまでも】 ゴールド
<了>