59 告別の哀歌
【いつか帰るところがある。お前にも、私にも】 ルギア
59 告別の哀歌 重要なのは、敗北させることではなく、屈服させることでもなく、納得させることだ。
大層なことに、最後の雷が扇状に広がって、ポケモンリーグの屋根は完全に吹き飛ばされていた。電力はとうに失われていたものの、頭上から光が入ってきたお陰で、バトルコートは自然な明るさを確保していた。
その中心、怪鳥ともいうべき巨大な鳥ポケモンが、にじいろのはねを自分の体へ幾層にも積もらせて倒れている。死んだとは誰も思っていないが、殺す気で戦ったのは確かだ。
ホウオウがおずおずと起き上がろうとする。震える体に伴い、にじいろのはねが意外なほど早くこぼれ落ちた。
あくまで抵抗するのかと、グレンゲはとらえたようだ。そんならそれで上等と、有り余る力と癇癪を抑えきれないらしく、大股でのしのしと無遠慮に歩み寄った。はあと息を吹き付け、トドメのついでに鉄拳を見舞おうとした。もう十分だと、レッパクとドロップが制し、なんとかなだめた。すると、なぜかオボロがグレンゲに向けて手を差し出し、いまだ固いグレンゲの握り拳にこつんと当てた。終始無表情のまま、ホウオウへゆるゆると近づく。
バトンタッチのつもりだったらしい。オボロは自分の体に斜めの螺旋を加え、天地を旋転。しっぽを振り放ち、逆時計回りにねじった。グレンゲの分もだとばかりに、ホウオウの顔をもう一度地面へ叩きつけた。
本当に打首にする気だったのか、今度はレッパクとグレンゲとドロップが、錯乱するオボロを取り押さえねばならなかった。歯ぎしりの奥から凶暴な吐息が漏れている。ふしぎなアメのせいで
酩酊状態にでも陥っているのか、「素」を引き出されすぎている。ソニアとレムが後ろからしっぽをぐいと引っ張ったところで、ようやく腹の虫が収まっていた。
――ホウオウ、
背後。
七体全ての手持ちを倒されたモミジが、バトルコートの入り口にたたずんでいた。華やかな衣装に穢れは一切見当たらず、五体満足でここまで来られたことについて、レッパクはピカチュウたちへ感謝の念をそっと送った。
――もう、終わったんどす。
ホウオウに唯一近づくことのできるその人間は、おぼつかない足取りでホウオウのもとへ駆け寄った。意識を混沌とさせていたホウオウも、かたわらへ寄りかかる人の気配に気づいて、首をもたげる。
「モミジ――」
――戦っていて、うちもよう思い知らされましたわ。やはりポケモンは、人と一緒が一番やて。こうしてホウオウの器を探している自分の中には、やはり、それを止められる人を探す自分がいたんどすえ……。
その言葉を機に、レッパクは廻転の止まっていた思考を再び廻し、前後の物事から内情を考える。
ホウオウが特に基準なく器を選んでいたというのも、あながち嘘ではなかったのだろう。今の時代のジョウト地方を渡渉することを確約された人物であれば、誰でも良かった。そこをたまたま、主が通り過ぎただけだ。
けれど、モミジはどうだろう。主の才能を見抜いてくれていたのではないだろうか。まいこはんとしてではなく、主と同じトレーナーとして。自分たちの企みを実行する最後の一歩まで、モミジはずっと主の本質に賭けていたのだと思う。ホウオウ同様、ずっと葛藤にさいなまれていたはずだ。
一歩踏み出して、闇の中の真相を訊き出そうかどうか、レッパクは少しこころを揺らす。今になって本音を知ったところでどうとするわけでもないし、落とし前は自分たちできっちりとつけた。経緯がなんであれ、これ以上の結果をレッパクは望まない。
「――だからさ、ホウオウ。認めちゃう他ないだろう? 答えは出尽くしたよ」
太陽の光とはまた違う、うっすらとした輝きがバトルコートへ降り注いできた。臨戦心理を解除できていないグレンゲとオボロは新手とみなして構えた。しかし、レッパクとホウオウにはそのあどけない声の正体がすぐに分かり、残りの毒気をすっかりと抜かれてしまった。
「やあ、レッパク。一日ぶり。『明日のきみ』に出会えるなんて嬉しいよ。なんとか生きのびたみたいだね。これが、これこそが、きみの新しい未来だ」
セレビィだった。
「お、お前。どうしてここに」
「やっだなー。森の神様が外へ出ちゃいけないって決まりでもある? それだとただの引きこもりに成り下がっちゃうじゃん」
別にそんなことまで言ったつもりではなかったのに、セレビィは自分の言葉に対し、無邪気に「うくくくく」と笑った。波打つ体を落ち着かせて、セレビィは駄々っ子に言い聞かせるようにホウオウへ述懐した。それはかつて主が――レッパクは居合わせていなかったが――オボロに語りかけるときのそれと、よく似ていた。
「ねえ、ホウオウ? きみだって、こころのどこかではこう感じていたんじゃない? こんなことをしても何にもならないし、自分も満たされないって。この子たちに止められるのならそれでいいって願っていたんだろ? 融通の利かない、自暴自棄になっちゃった衝動を抑えこんでもらうには、やっぱり最後は腕っ節だもんね。拳を交えて向こうの言い分を聞かないと、納得できないからね。きみってつくづく、脳筋で、不器用で、どうしようもないやつだよ」
ホウオウを相手になんたる言い草だろう。さっき自分たちで徹底的に傷めつけたというのに、こいつは精神的にもなぶり殺しにする気か。レッパクは、ウバメのもりで怒鳴りつけられたときのような、セレビィの本性の一部を垣間見た。
「吾と――何が違っていたというのだ」
「うんや、何も違ってないさ。そうだね、強いて言うなら――きみが昔捨てた、人とともにありたいっていう強い気持ち?」
ちょっとくさいかな。セレビィは指で自分の頬をかく。自身の照れくささを打ち消すように、続ける。
「人間がまた争いを起こすかどうかなんて、これから先、生きてみなければ分からないじゃないか。きみにとっての150年は永かっただろうけどね、僕にとっては短すぎる。昔の過失を、今になって無理やり償わせるんじゃなくて、少しずつ正しい方向へ導いていけばいいじゃないか。きみは本来、そうあるべき存在として慕われているんだから」
セレビィはホウオウの本心を掘り起こし、ありのまま代弁しているかのようで、ホウオウは虚をつかれたように表情を変える。
「――吾に、まだ道が残されていると――?」
「だから作るんだよ。彼らみたいに。なにもさ、全ての関係を断ち、孤立して躍起になることはないんだよ。きみにならできるはずだし、やり直せるはずだよ。レッパクと一緒で、これまで何度もやり直してきたのは、他の誰でもない、きみ自身の力なのだから」
ものものしい顔つきでずっと黙っていたレムが、そこで何かを思いついたらしい。テレキネシスの念力をレッパクの右耳へと傾けた。ぎんいろのはねを取り外して手繰り寄せたあと、ホウオウと正対し、面前へと差し出した。
「それは――」
目を開くホウオウの顔は、思い出の写真を偶然見つけた人間のそれと、なんら変わりがなかった。
「会いに、行ってあげてください。待っているはず、です」
ホウオウにしばしのためらい、
しかしレムは珍しくムキになり、ホウオウの口元へと強引に押しつけてわめき散らした。
「いいから行ってあげてください! それが嫌ならどこへでも飛んでいってください! わた、わたしは、あなたのことなんか、大、大、大っ嫌い、です! か、顔も、見たく、ありません! なさけなく、にげる、みっとも、ないところをっ、わた、したちにっ、みられちゃえば、いいん、です! さいごぉっ、きらわれ、ものとして、かっこ、わるくっ、かざっちゃえばっ、いいん、です! だから、だからっ、そうっ、したくっ、ないならっ、にげ、るっ、じゃなくてっ、ともっだちっ、あいに、いって、なかなおりっ、すればっ、」
レムの両目から溢れる大粒の涙。しゃくりあげて体を震わせるたびに、頬から顎からへと滑らかな弧を描いて伝い落ちた。思念波を傍受せずとも、レムが伝えようとしていることを、嗚咽の間から多少なりとも汲み取ったようだ。ホウオウがモミジと顔を見合わせると、モミジも両目に雫をにじませながら、雅やかな挙措でうなずいた。
ホウオウは眼前でほんのりと光るぎんいろのはねをそっとくわえ、モミジはホウオウの背へと乗る。受け取ってもらえたことにも気づかずに泣きじゃくるレムを、セレビィが後ろからそっと柔らかく抱いて、背後へ連れ戻した。
す、とした力がホウオウを中心に張り詰めた。
虹色の巨翼が、対をなして広がる。動くほどに七色の鮮やかなグラデーションを体毛に滑らせ、ホウオウは一度翼を前方へ巻いた。力を取り戻し、首と背を反らして翼を一気に広げると、虹が爆ぜるように羽根が散った。元をふわりと離れたそれは、先ほどとは違ってしっかりと空気につかまっている。蛍のように自ら発光しながら周囲を泳ぎ、レッパクの頬をそっとなでた。
ホウオウは翼で風を打ちつけ、希望と悔恨がともに渦を巻く。砂埃を立ち起こしながら、大きな動作で激しく羽ばたく。オボロやカイリューとはまた違う、昔からある厳かな様式の飛行らしい。全身に勁力が取り戻され、徐々に持ち上がり、騒がしく上昇を始める。
ルギアに謝りに行くか、無様に逃げるか。
ホウオウは、そのどちらも選ばなかった。
やらねばならないことが、あったからだ。
口に含む砂埃も気にせず、堰を切ったように大口で泣き叫ぶレム。味な事をやるじゃないか、とレッパクはそんなレムを見て忍び笑いする。セレビィもこればかりは予想していなかったのか、苦笑しつつあやそうとする。レムのあっぱれな号泣っぷりにそろそろ苛立ってきたらしく、オボロがいい加減こづいてやろうかとしたその時、レムの泣き声がはたと止んだ。
― † ―
ちぎれ飛ぶ雲に並び、悠然と蒼穹を横切るその姿は、遠目にはとても遅いと感じる。ホウオウの風切から、尾羽根から、揚力の摩擦音と共に何かが星のようにまたたいてこぼれていく。かつて、主に託したのと同質のにじいろのはねでないことは、レッパクもすぐに見極められた。体の中で小さな力が流動する感触があり、体の内側を静かに洗っては弾けて消えた。
今のホウオウには、なんの憎悪も感じられない。未来へ可能性を託す安らぎに満ち溢れており、体から空へと優美に流れ出ていた。
セレビィを除く全員が、その存在感に圧倒されて言葉も出ず、ただ感嘆のため息を漏らしていた。
無数の光たちは重力を忘れ、風に吹かれることもない。己の速度をもって、穏やかにジョウト地方全体へ舞い降りていく。果てのない青空のもと、輝く粒子の雨は祝福をしているようで、なんだかとても優しい仕草で、あらゆるところをまぶしさで満たしていった。
ホウオウが、ジョウトの空へと還っていく。
150年前を境に封じられた、かつての凛々しき姿。
あれが、自由を取り戻した、本来のあいつのあるべき姿なのだろう。
レッパクは、そう思う。
― † ―
ホウオウの姿が完全に見えなくなったあと、セレビィは何かに納得し、ううんと気持ちよさそうに伸びをした。
「さて。じゃあ、僕も帰ろうっかな。これできっと人間たちも元通り。あ、そだ。ねえ、レッパク、」
「ん?」
「約束。忘れないでよね」
セレビィの笑みは、明日の遠足を待ちきれない悪戯小僧のそれだ。
「もちろんだ」
よろしい、とセレビィは目と口を線にする。薄緑色の光を身にまとい、ホウオウの追随するように軽やかに飛翔。青空に吸い込まれそうになる最後、小さな手を振ってよこしてきたので、レッパクは居住まいを正し、耳を特定の角度に開き、まばたきで返してやった。四足歩行の者なりのお辞儀だ。残るみんなも、それぞれの礼儀作法でセレビィを見送った。
結局、あいつはこのためだけに来たのか。
言いたいことを全部レムとあいつに言われてしまって、いいところを全部持っていかれてしまった。一番乗りに憂さを晴らそうとしたオボロの抜け目の無さが憎い。どうせなら自分だってあと一発くらいぶちかましたかったのに。惜しいことをしたものだ。
部外者を追っ払い、たまりにたまった借りも叩き返し、レッパクたちは取り残される。その場の空気が完全に意気消沈としていることに、ふと気づいた。
勝った実感は、あまりない。
これで全てが終わったわけではないのだ。
今からアサギまで帰らねばならないのだ。
道はまだ途中なのだ。
行く手にある、ちょっと大きな石を蹴飛ばした。この二日間の出来事は全て、それだけに過ぎない。
「みなさン、お体のほうは――」
ポリゴンZの気遣いに、レッパクは無言でうなずいた。
なんだろう。うまく表現できない。実はそれほど疲れていない。力を出し尽くしたという感じもしない。極端な話、満足していない。大暴れした
余燼が、まだ体の中で響いているのかもしれない。
その時、気の抜けたあくびのような声を突然に聞いた。
意外すぎて、誰の声だか一瞬認められなかった。
レッパクとポリゴンZは、慌てて振り返る。
夢かと思った。信じられないものを見てしまった。オボロが仰向けなり、緩みきった体で寝転がっている。しかも朗らかな顔だった。こんな無防備すぎるオボロは初めてだった。上に乗って腹をつつきたくなるほどだった。
――いや、なんだか、違う。
「うあっ、」
グレンゲも何故か急に足腰を崩し、尻もちをついた。さっきまでの勇姿がなんたることか。上体だけはせめて倒すまいとしているのか、首を若干震わせていた。ドロップも、ソニアも、レムも、いつの間にかその場に伏してしぼみきっていた。
「おいおい、どうしたんだよ、しっかり――」
――!?
潮が引いたかのように、レッパクの全身から唐突に力が溶け失せた。関節という関節全てのネジが外れたのかと思った。つんのめった拍子に視界が急激にふらついて、嫌な角度であごをしたたかに地面へ打った。不思議と痛みはなかった。
――うわ、まずいな、これ。暴れ、すぎた、か?
最後まで気力を繋いでいたふしぎなアメも、ここでとうとう効果が切れたのかもしれない。生きて帰ろうとみんなで決めたのに、もう、限界が近い。自分が今どんな体勢で倒れているのかも知覚できない。もしかしたら足を嫌な方向へひねっているかもしれない。
それを確かめる間もなく、まず視覚が断ち切られた。
覚悟を決めなければならないときが、こんなにもあっさりと来てしまった。
――主、ごめん。最期まで、わがままなおれたちで。
これまでなんどもしにかけたじぶんだが、しぬといったかんかくとは、またちがうとおもう。
――なあ、セレビィ……これで、良かったのかな……?
空気の流れが急変したのをなんとなく察して、意識をかすかに浮上させる。まぶたの力はかろうじて残っており、レッパクはもう一度だけ目を開いた。ポリゴンZやピカチュウが今にも泣きそうな表情でこちらを見下ろし、何かを必死に叫んでいるのが分かる。聴覚が抜け落ちているが、レッパクはそう理解した。自分の顔は、みんなにはどんな風に見えているのだろう。見すぼらしい、枯れ切った表情となってしまっているのだろうか。
反り立った髪型をしている人間の顔が、残りの視界を埋めた。ワタルだった。みんなに倣って、腕を回して抱き上げようとしてくれている。何も感じ取れず、ただふらつくだけの視界が、レッパクにはまるで他の誰かのそれのように思える。
目を閉じてしまったら、今度こそおしまいだろう。
うん。
そんなに大声出さなくてもいいよ。
分かってるよ。
言われなくても、立ち上がってやるから。それで満足なんだろ。
だから。
もうちょっとだけ、待ってろ。
小風に吹かれるだけでも潰えそうな意識の中、レッパクは気力を振り絞る。懸命に足を動かし、ワタルの腕で突っ張ろうとするも、そんな努力は半分も成功しない。筋肉が死んでいるのではない。自分と体を繋いでいたはずの何かが、ぶっつりと遮断されている。
声を出せない。
舌が動かない。
呼吸の仕方って、どうやるんだっけか。
当たり前すぎて気づかなかったことを、今更思い返してみる。
そういえば、おれは高圧の電気を出せるのか。人間からすれば、変な生き物に見えるのも無理はない。そんな危ない体でよく主に抱きつこうとしたものだ。まったく笑わせてくれる。こうして無様にへばっているところを抱かれているほうが、お前にはよほどお似合いなのだ。
しかし、なんとなく懐かしい気分だった。
ええっと、なんだっけ。
そうだ、あれだ。思い出した。
進化したあの日。自分の体をうまく制御できなくて、走り過ぎて、壁にぶつかった時と同じだ。水たまりに落っこちて、どうしようもなくて、沈んでいった時と同じだ。全てが一新されて、自分の体との付き合い方を一からやり直さねばならなかった、あの日。
力の糸のようなものが、体からほぐれていく。
視覚が、またしても黒く狭くなっていく。
主の顔を、最後にもう一度だけ見たいのに。
意識が、
いしきが、
くそ、いい加減にしてくれよ。
ほら動け。うごけよ。
ああ、畜生。
ねむいな。