55 くじら座のうた
【じっとなんかしていられない。動きたくて仕方ないんだ】 オボロ
55 くじら座のうた ポケモンセンターの屋上。そこにレッパクとポリゴンZはいた。夜景の電飾全てが断ち切られてより鮮明に輝く夜空を、揃って見上げていた。ひとしきり泣いてすっきりでもしたのか、頭の中は涼しさで満たされている。レッパクの右耳には、新たにぎんいろのはねが飾られている。両耳のはねは、お互いをたたえあうかのようにつややかな煌きを繰り返していた。これが不思議とまぶしくなく、絶妙な具合にレッパクの視界を灯している。ホウオウとルギアの隔てられた距離は、これよりもずっと遠い。
ポリゴンZになら分かるかもしれないと思い、レッパクは無責任につぶやいてみる。
「で、結局おれは何者なんだろう」
「レッパク、でしょう」
リフレクションドライブをオフにして直に座り込むポリゴンZは、にべもなくそう返してきた。
「いや、そうじゃなくて、」夜空を見上げるのをやめ、海原を見つめる。「最初はどこだったんだろうか。繰り返しこうして生まれ変わってきたが――最初があったはずだ。1回目も、おれはお前に見つけてもらったのだろうか」
「そういうことになるンでしょうね」
海原を見つめるのをやめ、顔だけでうつむく。
「じゃあ、どうしてだ。何があっておれはそんなところにいた? 始まりはどこなんだ。まさか木の股から生まれてきたわけじゃないだろう」
「一種のタイムパラドックスですね。それはボクにも判断しかねますが――ひとつだけ、言えることがあります」
うつむいたまま、流し目をくれる。
「聴かせてくれ」
「始まりはどこであろうと、あなたはゴールドさンのパートナーをしていますよ。ボク自身の推測――いや、断言してもいいです」
「――そうか」
流れ星の光芒一閃に、気づかない。
― † ―
灯台ふもとの岬。そこにグレンゲとメガニウムはいた。おっかなげに切り立った岬の土手っ腹に波が激突する荒っぽい音が聴こえる。そうして揺れるたびに、鏡のような水面に移る月が幾重にも千切れている。風が吹けば、鬱蒼とした草木はグレンゲに呼びかけるようにさざめく。それに伴って、影が地面をなでるように揺らめく。絡む枝が垂らす緑葉に帯びる露は光り、跳ねて弾ける。
「ばーか」
背中にそんな売り文句をふっかけられても、グレンゲは視線を碧海へ固定したままだ。
怒る気にもなれず、ただため息。
「お前さんよお、俺の字を『ばか』だと思ってねえ?」
「ばかにばかって言って何が悪いのさばか」
偉そうな足取りで隣に座ってこようとしたので、グレンゲは気遣って首の炎を消した。あれから何度か試してみたのだが、もう青い炎は燃え上がる兆候を見せない。酸素が十分行き届くことによる完全燃焼。あれほどの窮地へ追いやられなければ、再び現れることはないだろう。蜃気楼のような儚さよりも、それならそれでもいいかと思えるあきらめの気持ちのほうが実は強い。疾風に勁草を知る自分はどこへ行ってしまったのか。それでも、休戦状態で精神的な余裕が残っている今をわずかな慰めとし、グレンゲは今をぼんやりと過ごしていた。
メガニウムはブラックゆずりのへの字に曲がった口とじっとりとした目をくれて、
「単細胞ないつものあんたはどこ行ったんだよ。ぼーっとしちゃってさ」
「――怖いんだよ」
メガニウムの両目が大きく見開かれた。
ちらりと一瞥を返してやって、
「悪ぃか? じゃあもっぺん言ってやるよ、怖いんだ。俺ぁホウオウが許せねえ。大将やブラックの旦那、ミカンの姐さんたちをこんな風にしたあいつを、俺はなんとしても一泡吹かせてやりてえ。でも、こうして自分の無力さを思い知らされた。戦いてえが、戦いたくないんだ。死んで、俺たちのやってきたことがお釈迦になっちまうのが、怖」
視界の色素が斜めにずれこんだ。メガニウムのつるがいつの間にか腕に絡みついてきて、いつぞやのようにグレンゲは後方へと軽々放り投げられ、情けない姿勢で着地した。
「――ぁにしやがんだてめえ!」
「最初に訊いたことに答えないそっちが悪いんだばか。単細胞ないつものあんたはどこ行ったんだって言ってるだろ。ばかはばからしく暴れてるのが一番だよ!」
四足を充実した力でどっしりと地面に据える。二本のつるを左右に構え、しゅしゅっと軽い突きをして見せた。
「付き合ってやるから感謝するんだね! さあかかってきなよ!」
しぼんだこころ持ちでしばらく見つめていたが、メガニウムの挑発めいた口元の笑みはやがてグレンゲにもうつった。二本足立ちとなり、震脚。首の炎を再着火。
よし。
やはり、自分には赤い炎が似合う。
やはり、自分にはうだうだと考えるのは似合わない。
迷うことなく正面を狙って駆け出した。
――ありがとよ。
― † ―
アサギの少し沖。そこにドロップはいた。特に泳ぐこともなく海に漂い、大きい月を見上げている。
月の裏には別の文明社会ができあがっていると言い出したのは一体誰で、いつのことだろう。確かにどこから見ても同じ面を見せているような気がするが、それは当時の検証がまだまだ及んでいなかったからだと思う。別の地方からだときっと違った模様の月がいてくれるに違いない。人間は海に還ることよりも
宇宙を目指すことを選んだ。そしてそれは実現された。知らないことを知ろうとする力が発揮された。けれど、月は所詮天体に浮かぶ物体であって、それ以上でもそれ以下でもなかった。
海の中から、何かが盛り上がってくる気配。
なんだか身構える気になれなかった。警戒することもせず、ぼんやりと待ってみた。
「ああ、いたいた」
「――あなたは」
見覚えのあるドククラゲだった。
「お久しぶりね。いやあ、あの時はごめんなさいね。正直自分でも何やってたか憶えていないくて、できれば忘れてしまいたかったんだけど――ごめん、あなたからしたら、ただの言い訳よね。やっぱり、どうしても謝りたくって」
そうか。
あれから随分たってしまうのかと思う。遠い昔のことのようにも感じられ、つい昨日のこととしても感じられる。まぶたを閉じるだけで、すぐそこにあの振動を呼び出すことができる。霧と煙に閉じ込められ、雨と風でもみくちゃにされた海上。飛び交う咆哮と触手と刃。願わくば、ドロップもあまり思い出したくはない、落ち着きのない記憶だ。
「いっきなりカビゴンとフシギバナが豪快に落っこちてくるんだもん。びっくりしたわ」
「ああ、あなたが導いてくださったのですね、ありがとうございます」
「礼には及ばないわ。腹を酸素で満たしてブイのように浮かぶカビゴンなんて、一生かかっても拝めそうにないもの。それと、これを返したくって」
ドククラゲが触手の一本で、小さなものを見せてきた。
「――えっと、これって確か」
薄汚い色に錆びついた十徳ナイフだった。刃は出たままで、もう折りたためそうにはなかった。無理な力を少しでも入れようものなら、全てが粉々に砕け散りそうだ。
「そうそう、あなたの主人のものよ。いやあ、あっれは痛かったわー。もう、惚れちゃいそうなくらい」
無邪気に笑い、別の触手に刻まれた痕跡が海上から姿を見せた。だいぶ再生しきっており、当時はもっと強烈だったのだろう。人間の腕一本で刺さる刃などドククラゲにしてみればそれほど大層なものでもなさそうに思えたが、絶望的な状況でも生き抜こうとするご主人の底力を、ドロップはひしひしと感じた。胸に差し込まれるものがあり、急に居心地が悪くなる。もうちょっと揺さぶられると、自分はまためそめそと泣き出すかもしれない。
ドククラゲは傷跡を引っ込めて、
「――今、大変だそうね」
「ええ」
「迷ってる?」
「色々と、複雑です。何が正しいことなのか、私には分からなくなります」
「自分は正しいと思う?」
そんなことを急に言われても困る。
ドククラゲは質問を変えて、
「じゃあさ、あなたの主人は正しいことをやってきたって思う?」
それなら堂々と宣言できる、
「はい」
「そういうことよ。迷ったとしても、その道が正しいと思ったのなら、そのまま進むが吉。勇気が次へ繋いでくれるから。どんな結果が出てくるにせよ、正しいことなら、きっと後悔は無いはずよ」
― † ―
砂浜の陸側。そこにオボロとNAILはいた。潮風が椰子の木を揺さぶり、かすかな音を立てる。砂の熱で立ち込めていた空気がぬるくどこかへ泳いでいく。峠を一度越えただけでまだ完治したとは全然言い切れないオボロだったが、ポケモンセンターへは断固として戻らず、むしろNAILを拉致ってここまで来た。なんともいえぬ緊張感と、腹の一点で凝り固まる闘争心と、煮詰めこねた怒り。アドレナリンが異常なまでに分泌され、目が冴えている。今なら、30秒と数えずとも1000メートルを突っ切れるかもしれない。
「死ぬわよ」
「死なない」
正対するオボロの頭の固さは、NAILの身体並だった。
生きる者にとって死とは絶対の運命であり、最大にして最凶の選択肢だ。これにかかわるような可能性のある凶事はできるだけ避けるべきだし、ゴールドもそんなことは望んでいないはずだろう。
でも、そんなの知ったことではなかった。
ゴールドのいない世界を生き抜くくらいなら、死んだほうがましだったからである。
いたわってもらうくらいなら、一秒でも早く会得したほうがましだったからである。
「あんたとわたしとじゃあ、体格からして違うじゃない。それなのに無理に覚えようとしてどうするの。今は自分のケガのことを考えなさいな。練習中にくたばるかもしれないし、本番でうまくいく可能性も」
ぶちっ
オボロの何かが切れた音だった。
きんっ
オボロが何かを斬った音だった。
顔を睨み返していただけのNAILは、斬撃を目で意識できなかった。オボロが両足を踏ん張る動作も分からなかったし、電光石火の閃きは翼の光が腕へ飛び移っただけにしか見えなかった。今の片腕の開き具合が残心を意味するのにも、最後までとうとう気付かなかった。
オボロとNAILの隣。椰子の木の葉は、幹が横倒しになるその瞬間まで揺れていた。ドラゴンクローの一振りで椰子の胴は完璧に切断され、他の余計な作用は一切挟み込まれる余地がなかった。やがて、自重に耐え切れず斜めに滑り落ち、ガラスのようにつややかな断面をさらけ出し、形容しがたい音で砂地に突き刺さる。それでも砂地は幹を固定させることができず、むしろえぐられ、大した音も立てずに両者の間に倒れこんだ。
負けじとNAILも、表情ひとつと変えなかった。
「――あんた、性格は屈折しているくせに、斬り方は几帳面ね」
「ほっといてよ」
地に潜っても追いかけるだろう。海に逃げてもついていくだろう。それほどにオボロの目の力は強かった。
「いい? まず――」
― † ―
その近く、波打ち際。そこにソニアとドンカラスはいた。潮の満ち引きは、こんな時でも変わらない。世界が自分たちに追いついていないのか、それとも自分たちが置いて行かれたのか。人間がいるかいないかだけで、昨日か今日かだけで、これほど変貌するとは思わなかったし、思いたくもなかった。リーダーを失った今の自分は、リーダーと出会う前の自分とは、明らかに違うと思った。
「そうそう、あっし、こんなものくすねてきやした」
ドンカラスは、懐に小さな瓶を潜めていた。
う、うわー。
さすがのソニアもひくしかない。何がそうそうだ。
飴色を装うその瓶の中身は、テキーラだった。
「あ、あんたねー、この非常時に、」
「こんな時だからこそですよ、っとお」
まるで罪悪感を持っていないドンカラスは軽く受け流し、瓶の首を翼でしゅきんと切り落としてみせた。身も蓋もなくくちばしでつかみ、喉をさらして景気よくあおった。あまりに飲み慣れすぎている手際。一体ブラックはどういう教育をしてきたのか、再び疑問に思う。
一度口から離したドンカラスはソニアの足元をうかがい、
「――そっちにかけたほうがいいですかい」
ソニアはちゃぷちゃぷと揺れる瓶の液体をしばらく見つめた後、
「んーん。そのまま飲む」
ドンカラスの言う事には一理ある。もう飲める機会なんてあまり無いかもしれない。世界の変容についていけず、やさぐれた神経を洗浄するにはこのくらいのアルコールは欲しい。人間の言う「やってられん」は、こういう時に使うのだろう。
負けじとラッパ持ちでぐいとあおってみた。
「――あ、おいしい」
喉奥へとすうっとした感覚がやってきて、舌に変な味が絡みついてきた。苦いといえば苦い。でも、不思議と嫌いになれない苦さだった。口をむぐむぐして、吟味してみる。
「ほう、いけるクチでしたかっとお」
手放すのが急に惜しくなったソニアはもう一口だけ飲んだ後、ドンカラスに返した。
「テキーラってのはあ――サボテンを原料にしていると思われているそうですけどね、」
ちょうどそのタイミングで、何故か後方で椰子の木が倒れる音がした。
ささくれだっていた気分がせっかくましになりかけていたのに、こいつはいきなり何を言い出すのか。
「――なんであたしにそんな話するの。あてつけー?」
ドンカラスは器用にも左翼の羽一本だけを指のようにおっ立てて、
「最後まで聴いてくださいよ。あれって間違いなんですよ、正しくは、アガベ・テキラーナ・ウェーバー・ブルーという少々長ったらしいやつが原料なんですよっとお」
「へーえ。またひとつ賢くなっちゃった」
― † ―
灯台のてっぺん。そこにレムとアカリちゃんはいた。当時はアカリちゃんが動けないから船が出せなかったというものの、今度は船が出せないからアカリちゃんが動けないという妙なこととなっていた。
それはともかくとして、今のアカリちゃんは必死だ。
レムが、どうしても泣き止まないからである。
「ね、お願い。元気出そうよ」
タンバのくすりでも、恐らくこの夜泣きっぷりは治せないだろう。
金切り声をあげないだけ立派だったが、どうにもじめじめとしていて、気が滅入る。アカリちゃんはもう自分だけでもここで生活できるようになっていたが、レムは子供なのだから仕方がなかった。慕うべき人間をようやっと見つけたというのに、子犬を取り上げるかのごとく突き放されたら、誰だって悲しい。
「マスターに、マスターに会いたい、ですう、」
レムはムウマージである。会いに行こうと思えばあらゆる物理学を無視して一直線に行けるはずだ。しかしそういう問題ではない。自分だって今のミカンの状態を見て「会った」気なんてしない。
なにか。ないかないだろうかと探す。その姿は、アカリちゃんをどうにかして快方に向かわせようと東奔西走するミカンのさまに、そのままずばり当てはまっていた。
どこかに正解があるはずだと思い、腹をくくった。唐突に、レムの胸元に焦点を当てて、
「あ、ほ、宝石! その宝石、きれいだね!」
ふと、レムがぐずるのをやめる。
「――これ、ですか?」
かつての首飾りはやみのいしと混ざり合って同化し、胸の中心へとぴったり埋めこまれている。遷移を遂げて、深紅色の硬玉へと変質していた。
この選択が吉と出るか凶と出るか。しかし他を選ぶ余地はない。当たりを出すまで、外れを引くしかない。この路線でいくことをアカリちゃんは決めた。
「そうだ、きみならできるかもしれない。とっておきの技、教えてあげよっか」
アカリちゃんはにっこりと笑い、自分の額の紅玉をきらりとしてみせる。なんのことか分からずきょとんとしているレムに、あれこれを一から丹念に指導してみる。
密会のごとく、話し声は続く。レムは素直だった。そのお陰かとても吸収が早く、時間はそれほど要さなかった。しばらく後、レムとアカリちゃんの間で何かが弾け散った。
それは大成功に違いないとお互い確信し、一発で顔を輝かせあった。
「で、できました、できましたあ!」
「すごい、すごいよ! 本当にできちゃうなんて! きみの新しい力だよ!」
レムはもう泣かなかった。むしろ笑っていた。体の内にみなぎる力に振り回され、なんだかそれがとてもくすぐったくて、あちこちを嬉々とはしゃぎまわった。今なら何を入力されても笑顔で出力し、弾き返せる。バルコニーを飛び出し、灯台の外壁を螺旋状にぐるぐると回転して登る。てっぺんにつくと、月に向かってきゃっほーと叫んだ。
これで自分は怖いものなしだと思った。全長10メートルの怪獣だってやっつけられるに決まっていた。