54 ゴールドのことば【記】
【あの人はあたしたちの前を進んでいたはずなのに、あたしたちの背中を見てくれていた】 ソニア
54 ゴールドのことば【記】 悪運に恵まれたのか、それともしぶとさの底力なのか。
10時間にも及ぶ長い激闘の末、オボロはなんとか意識を取り戻した。
「生きてたか」
「悪い?」
不機嫌そうにしっぽをくねらせ、夜光虫のように翼を光らせる。オボロはやけどなおしをマーガリンよろしく全身へ塗りたくられており、出来損ないの蝋人形みたいであった。
取り替えられたばかりの天井の電球が明るさを主張し、消火栓のランプがどす黒い赤色を忍ばせ、緑色の蛍光灯が非常口はここだと時折明滅し、廊下に貼られたポスターの色気ない人間が半身の内臓をさらけ出して健康の大切さを訴える。滅菌処理用の隔離ドアすらも全開にし、椅子を蹴飛ばし書類をばらまき、空調設備をフルスロットル、バイパス用の電力ケーブルはモンジャラ状態。せめてポケモンセンターだけでも稼動するよう、最善を尽くした痕跡の数々が、その集中治療室に散らばっていた。
回線を経由して駆けつけたポリゴンZがプロセスを組み、コマンドをプレーンテキスト化し、シグナルとしてパケットを発する。かつてロケット団の所有物であったポリゴン2がそれを組み立てなおしてワイヤードで機械へ飛ばし、システムを9割方取り仕切っていた。スタッフのラッキーから口頭でマニュアルを聴き、一から百を想像し、使用手順を履歴から探り出し、誰彼問わず寄せ集めた雷の者たちから電力をいただき、アサギのポケモンセンターを己が牙城と増改築していた。
「いや、安心したよ、相変わらずで。本当に良かった」
「レッパクも大丈夫です? 血液が不足しているという苦しみ、ボクは数値から想像するしかできなくて――」
「随分派手に暴れてしまったからな」
オボロの隣、同じくストレッチャーに横たわっているレッパクもレッパクだった。きずぐすりを擦り込み、しばらくすると溶けて皮膚と同化する保護フィルムをあっちこちに貼っつけ、それはそれは痛そうな太い針を体にブッ刺し、輸血パックからなみなみと血を注いでもらっているレッパクは、誰がどう見ても重症そのもの。
――見よう見まねで動くものなのですね。
システムの残り1割は、人間の手でないと動かしきれないデリケートで柔軟な部分だった。レッパクとともにアサギへやってきたアポロがポリゴンZの操作をサポートし、人間らしい判断を下している。いざというとき、誰でも扱えるように設計されたAEDのようなものであったため、機械に強いアポロには高級なおもちゃも同然だった。
「楽しいかよ、お前さんたち以外の人間がこうなっちまった世界征服はよ?」
おっかねえ針だと心配していたグレンゲは顔を上げ、憎々しそうにアポロに振った。
――どう答えたら正解になるのでしょうか。
「よせ、グレンゲ。これでも一応、おれとオボロの恩人だ」
「しかしよ、」
「抑えてくれ。実はおれだって、今この場でこいつらのはらわた噛みちぎってやりたいくらいだ」
それを聴いたロケット団たちの手が石のように硬直する。前半のたしなめよりも、後半の爆弾発言のほうが説得力に長ける。治療室内のざわめきが一瞬落ち着き、黒く染まった布なら火がつきそうなほどの目線がこちらに集まった。自覚があるらしいアポロは苦い笑みをこぼして受け流す。
「こらこら貴殿たち、ここで暴れるのはやめることだ。わたしの愛の鉄拳をくらいたいのかね」
ずははははははははははは。
例のステンレス製五段ワゴンをがらがらと押しながらタブンネは笑い、車から外された一本のタイヤのように横切っていく。
にがいきのみを噛み潰したような顔で、グレンゲがぼやいた。
「……なんであいつがここにいんだよ……」
「知るか」
― † ―
夜のアサギシティには、人の気配と体温がなかった。
昨日まで約束されていたはずの日常。荒くれの船乗りたちが毎晩楽しみにしている酒宴は、今日を限りに時のかなたへ封じられる。風は弱々しく、潮の香りがわだかまり、闇そのものの匂いのようであった。街並みは夜に沈みきり、煉獄に暮らす魂の居所に他ならない。海原は油のように黒々とし、水平線の向こうはあの世に通じていると誰しもが思った。
人の形をしただけのあれ≠そのまま屋外へ放置していたら、おそらくみんな気が違っていたであろう。それぞれがなんとか家へと帰し、今も看取っているそうだった。
自分たちは確かに『自由』を手に入れたが、それが正負どちらの流れになるかはまだ定まっていない。故に、方向を見失った混沌の時間が始まろうとしている。これはあるべき形なのか、そうでないのか。望まざる自由の先にあるのは、本当に栄光なのだろうか。
浜辺。
アサギの海原へ着水していたらしい、レッドのフシギバナ、カビゴン、ピジョットが無事帰還したのがきっかけだった。ポリゴンZとアポロの付き添いのもと、応急手当を一旦終えた一同が集まった。黒い雲から月が見え隠れし、不安定な光が全員の足元を暗く染めていた。
まずレッパクにとってすべきなのは、確認を取ることだった。
「レム」
「ごめんなさい」
「いきなり謝るな。まだ何も言ってないだろ」
「はい、ごめんなさい」
出鼻をくじかれ、レッパクはやれやれと思う。しかし訊ねる覚悟ができていなかったのは自分もだ。上あごに息をこもらせ、改めて決意して、
「じゃあ――おれとしてもこころが痛いが、あえて訊くぞ。知っていたんだな?」
レムの返答は、意外に早かった。
「はい、知っていました。シロガネやまに行けばホウオウが現れるかもしれないということも、マスターもああなるかもしれないということも、全部知っていました。黙っていてごめんなさい」
「ご主人なら、私たちなら、ホウオウを退けられると――?」
慌ててドロップの考えを否定する。
「い、いえ。わたし、忘れようとしたんです。全部見なかったことにして、できることなら忘れてしまいたかったんです。けど、まさか、結局こうして、マ、マスター、まで、巻き込んで、」
一筋だけ流せそうにたたえる雫。レムは自分の言葉と罪悪感で、だんだんと感情的になっていく。嗚咽を必死でこらえながら、秘め事を打ち明けていく。あまりに痛々しく見ていられなかったが、こうなった以上、レッパクも最後まで続ける。
「レム」
優しく呼びかけたつもりだった。
「はい、ごめん、なさい」
「お前だけの責任じゃないよ。お前がいたにせよいなかったにせよ、主はライコウたちにそそのかされただろうし、おれもなにかしらの理由をこじつけてシロガネやまに向かおうと提案したはずだ。お前だけで抱え込まなくていい」
「ごめん、なさい――」
そこにいるのはムウマージではなく、罪の意識に苛まれて謝り続けるだけの機械だった。
「レム」
「………」
今度は少々強く、
「レム」
「は、はいっ」
どんな罰でも受けると思いつめたレムの顔を、レッパクは目で否定する。
「正直に話してくれて、ありがとう」
レムの両目に熱が通った。喘ぎ、泣きべそ、そのどちらともとれそうな浅い呼吸の隙間から、小さな声が漏れ始める。何かを言おうとして、
啼泣に邪魔をされて、それも我慢することを諦めた。レムは柔らかい砂地に雫をこぼし、初めて自分の主人を想って、大声で泣いた。煮えて反吐のように滅茶苦茶となった思考をひたすら泣き声へと変えて、反吐を口から吐き出させるしかなかった。
レムの中にある何かに、亀裂が入る音を、確かに聴いた。がんじがらめに縛っていた呪いがようやっと解けたのだとレッパクは思う。レムに必要だったのは、罪悪感を真っ向から否定する言葉ではなく、そのまま受け入れる態度だったのだろう。
「おれも、みんなに告白しておきたいことがある」
ウバメのもりであったことを、告げられたことを、レッパクはありのままに語る。自身、気持ちの整理がついていない部分があったため、自分でも苛立つほどのたどたどしさだったが、みんなは黙ってそれを聴いていた。
― † ―
逃げるか刃向かうか、それに関しては言うに及ばず。
語り終えたあとのレッパクには、頭の奥に小さく引っかかるものがあった。押し黙って違和感をたぐりよせている最中にも、レッパク以外の全員は敵情から手練手管を話し合っている。中でも、ライコウ、エンテイ、スイクン、あの三匹と交えた者たちは、圧倒的な実力差を目の当たりにさせられ、それでも諦めきれずにホウオウの鼻を明かしてやろうと躍起になっている。
「でもさー、どーするの? あたしたちが今更反撃したって、どーせ返り討ちにされちゃうよー?」
「居場所もつかめねえようじゃあ、なあ。仮に見つけられたとして、どう戦うか。あのせいなるほのおの守りを突破できなければ、物量作戦も意味がねえ。この大所帯で奇襲もかけにくいだろ」
「ばか。トライアタックでも通じなかったんだ。小細工なんてなおのことだよ」
場の中心にいながらも、レッパクはなおも黙ってぐるぐると考え続けている。周囲から沸き立つ打ち合わせにあれこれと邪魔をされ、なかなかまとまった思考を保てない。その隣のグレンゲが頭をがりがりかきながら一言、
「いっそ得物でも漁ってみっか?」
あ。
思い出した。
得物という単語に反応し、レッパクの頭から転がり落ちてくるものがあった。
「そういえば――」
今後のことでも考えているのか、少し離れたところでアポロはぼんやり座っている。レッパクは浅く小さい足跡を作りつつ隣に近づき、ぼそぼそと話す。それを聴いたアポロはしばらくレッパクを見つめ返してきたが、やがてアポロはその場を離れた。
ポケモンセンターへと戻るアポロの背中を見届けた後、ポリゴンZがふと、
「あの、ソニア。ちょっといいです?」
「んー?」
「首にかけてあるそのお守りは、どこで?」
「あ、これー? リーダーからもらったの」
まだポリゴンZは納得がいかないようで、ゆらりとソニアの首もとに近づいた。黄色い両目のピントを絞り、凝視した。
「失礼」
「やん」
「やンじゃなくて! ボクは真剣です!」
「――ごめーん」
ポリゴンZがレントゲンを開始し、中を探った。データをデジタルの波に変えて早急に宇宙へ送りつけ、衛星と会話。刺繍の織り交ぜるパターンから地名を特定。シルエットから考えられる答えを受け取り、そのあまりの結果にリフレクションドライブが狂い、安定性の欠けた浮遊で後ずさる。
「どーしたの?」
「こ、これ、どこで、貰ったンです?」
― † ―
アポロの一服の時間は、吸わずにそのまま燃やしている長さのほうが長いくらい、長い。
見覚えのあるリュックが、砂浜に置かれてある。24時間もたっていないというのに、もう懐かしさが込み上げてくる。セレビィの言葉に答えは出たが、レッパクはそれでも気になって中身を漁り始めた。
アポロはフィルタから口を離し、細長い紫煙を風に流しながら、
――顔くらい見に行ってあげたらどうですか。
「いや、いい」
今、言ってしまえば、全員が極度の緊張状態にある。ここで主の顔を見たら、自分の中にある何かが挫けそうになる。気力に穴をあけるようなことはなるべくしたくなかった。
「んあ、こいつは?」
グレンゲがひとつの色あせた書記を見つけ出した。一同がそれに視線を注ぐ。
黒々とした文字がびっしりと続いているようだが、なんて書かれてあるかは分からない。
――レポートのようですね。ポケモントレーナーならば必須の、記録帳。
「読んで」
迷わず申し出たのはオボロだ。
――ここで、ですか。
「うん。お願い」
それはオボロだけではなく、全員の願いでもあった。
みなまで言わずとも悟ってくれたらしいアポロは、まだ長かった煙草の先を砂に押しつける。
― † ―
海に語りかけるように、アポロがゴールドの文字を口で拾っていく。それは耳の奥まで深く染みとおり、水を弾いたような波紋となり、体の底で遠く響き渡る。
……最初に思い浮かぶのといえばやはり……鏡のように向こうも……用がこれだけなら、もう帰って……中、バトルを申し出てきたト……から一刻も早く逃れたい……もう着いたんですか……見たことのない大笑い……い雨の世界に残像を染み込ま……ったゴールドも、落下中の……炎と電光に刺激された……切り株に座りながら……やっぱなんらかのトラブルを起こす……
ゴールドのレポートは過去への旅を彩った。全てが海の向こうから蘇ってくる。
……いや、そもそも許す許さない以前の時点から……体力を燃やし尽くしたら……無呼吸運動による体の緊張が……あの食堂に相変わらず通いつめてることとかもな……3回もくらってみろよ……みから逃れられるの……しっかり躾けておいてよね……実に真剣な面もちで……預けっぱなしにすることを決断……無人の円形空間が……定角度を三角積……低限の兵器以外を全てアンマウント……ずでっぽうで煙を晴らし……生ぬるさのある水の……将たちがいるから今の俺たちが……あんなのだめ……どうしようもない思索に……前で怖じ気づいたの……星がクロスする弾道と射程を……一閃、若き日の……脈の奥底、岩の隙間か……つまりですね、最初の質問の時点で……いいよなお前は。前足が自由で……ざっとこのとおり……って言い草は矛盾してると思う……
ゴールドのポケモンがいた。
ブラックのポケモンがいた。
ミカンのポケモンがいた。
マサキのポケモンがいた。
レッドのポケモンがいた。
……よく憶えてないけど……のレポートを綴って……うだと推し量らえた山岳は……
色んなトレーナーの、色んなポケモンがいた。
誰も、何も、口を挟まなかった。
ただ静かに、そのレポートを聴いていた。
ただ静かに、涙を流していた。