51 時を廻ったレッパク
【その時計を、返すな】 レッパク
51 時を廻ったレッパク 時刻を少しだけ戻す。
「しつけえなあ。ああ、分かった分かった、そんなにあがきてえならそうしてろ。あがくほど敗北の味は苦くなるぜ」
苦戦を強いられていたのは、やはりここだった。
どれだけ厚手にしても、ひかりのかべは三度目の雷撃で破壊されることが分かった。それならばいっそのこと守りを捨てて攻めに入ったほうが速い。加勢に来てくれたサンダーが決して弱いのではない。死の淵から蘇った貫禄みなぎるライコウが、理不尽なくらい強い。不利な戦況となった相手ながら、ライコウは実に良く健闘していた。逆風となった戦況に飲み込まれ、痛々しい創傷を増やしつつも、激烈な反撃をこちらへ何度も見舞ってきた。嵐の申し子さながらの暴れ方。レッパクも先程以上に出血箇所を増やしたが、一体どこにそんな血と力が残っているのか、果てるそぶりをまだ見せようとしない。戦意の詰め込まれた形だけというのは、誰の目でも明らかであった。意識を保つためにも、奥歯をそっと噛み締めている。
風前のともし火と化しているからではない。
繋ぎ止めねば、荒れ狂いそうになるからだ。
もう一度やる。
もう一度やれる。
もう一度やりたい。
あと少しで、その先にあるものがつかめそうだ。
サンダーの援護は期待できない。自力で見つけるしかない。つかみどころのない何重もの方程式にひたすら挑み、冷たい解と解と解の虚から漏れる啓示を突くような執拗さ。今はそれが欲しい。
疾。
察、
爪、
避。
踏、
逃、
追。
雷、
返。
移、
右、
右?
――なるほど、そこだったのか。
戦闘開始から数十分。47手目にして、レッパクはあと少し≠ノたどり着いた。軸足を確保。これならば大きく前進できる。電撃を鎧う予備動作は終了済み。ライコウの左前足を深く狙った、出るも入るも自在の一歩。
廻。
――あ?
方程式の解を導き出せたのが、よほど嬉しかったのかもしれない。この至近距離において、思考を空虚にすることは、戦いを放棄することに等しかった。その間隙に体内の一点へ潜り込んだライコウの力を、レッパクは化かしきれなかった。背中に左右それぞれ別の鳥の翼がついたような、でたらめな作用に振り回される。次を狙うライコウの震脚はかろうじて目で追えた。体重の跳ね返りをそのまま頭に寄せ、こちらへ頭突きを打ち込んでくるはずだ。しかし、乱れる自分の体が死角となって、打点の予測がつかない。
古新聞で作った紙飛行機のほうがまだまともな飛び方をしたであろう、無様な投げ飛ばし。ライコウの左前足を殺そうとした直前の突撃が思ったより効いてくれたのか、失策における代償は存外安いもので、レッパクは命までは投げ出されなかった。
起き上がるよりも先に、レッパクは必死に検算する。
あと少しにたどり着いた先にあったのは、奴との物理的な間合いではなかった。
それとは別、自分のみに相互する、潜在的な力の割り出し。
10メートル先の殺気が、5メートルまで狭まっている。レッパクはミネズミ捕りのような弾性力で跳ね上がる。もう一度試してみようと思った矢先、5メートル先と信じていたライコウの右前足が視界のすぐ左にあった。一方的にくらうしかなかったが、そのまま素直に受けるだけではやはり癪だった。頬の裏側に歯が食い込んでいくのを煩わしいと感じつつ、0.2秒だけ加速。レッパクの頬とライコウの足が密着している最中、レッパクは四肢を振り上げてライコウの足に巻きつく。力点を探り当て、わるあがきの電流を注ぎこんでやった。これであいつの両前足のコンディションに差を開かせる。
そうして、再びレッパクは投げ飛ばされる。
諦める。
もう確認はできないだろう。
それだけは、諦めてやろうと、レッパクは思う。
しかし。それにしても。
きゅるる――
これは、一体なんだろうか。
レッパクがあと少し≠ノたどり着いてから、この間10秒。前足からつたい落ちる己の血をひと啜りし、ライコウも見切りをつけ始める。
「はん、大層な口叩いてくれた割にはてめえらたいしたことねえし、そろそろ潮時だな」
「ぅ、ぁ、」
「あん?」
体を起こす。だが、首がうまく据わらない。視界がひどくブレて、焦点が咬み合わない。ライコウが薄く3体に分裂している。
次の一打で死ぬかもしれないというのに、不思議と、集中力が高まってゆく。あと少し≠ノ入り込んでからというもの、自分でも分からない流れが発生している。
――おれは、この感覚を、知っている?
きゅるるううぃいいああ――
頭の中で、何かが、加速されていく。
「ぅぅ、ぁ――、あ――」
きいぃぃいああぁぁるぅぅうういあぁぁるるるるう――
いつぞやのように、ゆっくりと、そして急激に、加速されていく。
解読できない情報が、すさまじい勢いで頭の中を流れている。口に言い表せない、色とりどりの何か。抑えきれなくなった頭から下へ降り、全身をも駆け回り、血をよりいっそう噴き出させ、レッパクの感覚をより鋭敏にしている、それは、
それは、廻転しているようでもあった。
「血ぃ出しすぎて狂い始めてやがんのか? 薄気味悪ぃな」
そちらを見ていないと悟ったらしいライコウが、しげしげとうかがってくる。
「怖いか」
レッパクの口が、無意識に動いた。
「――はあ?」
そこには怒りも憎しみもなかった。排水口へ流れていく水のように、レッパクの表情が抜け落ちていく。
「お前こそまだおれにとどめを刺せていないだろう。このとおり生きているぞ、ほら。来いよ」
拙劣にもほどがある。マンキーですら買いそうにない売り言葉だったが、その薄気味悪さが奇跡的にもライコウの焦燥感を著しく煽った。
「ちっ、往生際の悪さだけは褒めてやる。仕方ねえ、最期はてめえの好きなそれ≠ナシメてやる」
上等だ、と思う。
空気が濃密に張り詰める。それを突き破ろうとする雄々しき力が、ライコウの体内へ凝縮されていくのが分かる。対するレッパクは、陽炎を彷彿とさせる虚無の型。
ライコウは駆けた。定石、『
時計返』
レッパクは賭けた。定石、『
時計廻』
「!?」
今日だけ、ばかになろう。
伸るか反るかの、30倍加速。
時を越えた、一撃必殺の間合い。
今度こそ、見えた。
真正面、ライコウの驚愕の表情が目前にあったことを、レッパクは憶えている。
― † ―
今までとはまったく違う、イレギュラーに擾乱する衝撃波だった。
右回りと左回りの一騎打ちであったため、三時間ほどを進んだところでお互い衝突し、ベクトルを跳ね返しあった。全身を魔力のような波動が走り、引き裂くような痛みがあちこちに駆け巡り、身体の内部で何度も何度も乱反射した。電撃はとてつもない熱光を発し、目を焼きつぶすような鋭い光線は2匹の体をかすめていった。外力で生み出された真空波は刃となり、それぞれの足や腹などを斬りつけて鮮血を出した。
ライコウが背中から吹き飛んで、木と共に倒れる。レッパクはまず地へと打ち付けられ、何度か弾んだ後、同じように木へと激突し、力なくずるりと横たわった。
呼吸すらも忘却のかなたへと捨て、数秒間、2匹はそうしていた。
やはりライコウが先にゆっくり起き上がる。その体には、レッパクが刺し違える覚悟で展開した定石による、確実なる一撃が叩き込まれていた。噛み殺しきれなかったライコウの不安は、小さなため息となってか細く漏れていた。
「これまで、だな。最後のそれはちと焦ったがよ。所詮付け焼き刃さね」
聞き取った気配を確認しないまま去ろうとして、立ち止まる。振り返る。
自分でも憶えていないが、いつの間にかレッパクは起き上がっていた。麻酔が切れ、全身を蝕む痛みのあまり、どこがどのように破損したかが分からなかったが、幸いどこもやられていなかった。額から流れる血でレッパクの右目はふさがれていた。中に血を入れないようにと目蓋が痙攣している。
「――なんでだよ。なんでまだ立ち上がろうとするんだよ。それ以上動くと、てめえ冗談抜きで終わるぞ」
地に体をかすめるような低空姿勢からの突貫。サンダーがライコウの横っ腹を狙い、ひねりの力を加えたドリルくちばしを放った。粘りの強さを思わせる右前足の豪打でなぎ倒され、吹き飛ぼうとしたところでサンダーは背中を踏みつけられた。体を地面にこすりつけられ、サンダーは怒りと痛みで喚いた。圧に耐えられていない背骨の音がここまで聞こえてくる。
その間、ライコウはレッパクを睨みつけたままで、レッパクはライコウを睨みつけたままだ。
「――その目をやめろ」ライコウが言った。
「遊びが過ぎるぞ。お前の相手はこっちだろう。半端者め。まだ死なせてくれないのか?」レッパクが返した。
意気地の欠片を燃やす。こいつに恐怖を覚えさせることができるのであれば、何度でも立ち上がるつもりだった。意識がかすむあまりに、視界の黒さはより一層深いものとなりつつあったが、ライコウだけは決して見逃さない。小さな体に宿る
敵愾心で、ライコウの獰猛さを沸き立たせ、虐げてみせる。
「そんな目で、」
レッパクがその先を奪う、
「あれが本気だったというのなら笑わせてくれる。おれとお前との距離は、存外大したことなかったんだな」
「そんな目でオレ様を見下すんじゃねえよ!!」
猛った。
サンダーをなすることをやめた足が地を蹴り、殺意を凝縮させてこちらへ飛んできた。
これで決まる。もしくは決められる。
自分はすでに、戦闘における全てを断念している。
避けようとも思わなかった。
むしろ、今度こそ死ぬと思った。
もう、ここしかなかった。
やるだけ、やった。
やれるだけ、やった。
やりたいだけ、やった。
主の顔を、最後にもう一度だけ見たかった。
観念するしかなかった。
またおれは死ぬのか、と思った。
おかしい。
命はひとつしかないのに、どうしてまた≠ネどと思うのか。
― † ―
――静かに。頼む、おれの話を聴いてくれ。いいか、今からお前に電気を流し、催眠麻酔をうながす。ちょっとの間、眠ってもらうってことだ。気配を遮断して、あいつの不意をつく。でも、麻酔が切れていずれ目を覚まそうとも、おれはお前のことを一寸たりとも注意しないし、呼びかけもしない。徹底的に無視する。だから、何があろうと、お前も絶対おれのことを気にするな。完全に孤立した行動をとれ。おれは、死ぬその瞬間まで囮だ。
大丈夫、そう安々とやられはしない。耐え抜いてみせる。よく分からないけど、そういう自信がある。囮以上の戦いをしてみせる。
お前はお前の役割に集中するんだ。好きなタイミングでいい。ここだと思ったところで、きっと正解だ。おれはお前を信じるから、お前もおれを信じて、最大級の一撃をかましてくれ。
間違えたら、そこでおれたちともども仲良く「最期」だ。分かったな?
どうせ今すぐ死ぬか後で死ぬかの違いなんだ。思いっきりやってやろう。
― † ―
真上。
ライコウの脳天を、狙っていた。
ライコウの脳天を、ギロチンの速度で、狙っていた。
ライコウの脳天を、ギロチンの速度で、ピカチュウのアイアンテールが、狙っていた。
そこらのアイアンテールなどとはわけが違う。「伝説のレッド」に鍛えられた「伝説のピカチュウ」が「怒り心頭」で繰り出す「全身全霊」のアイアンテールである。精神を研ぎ澄まし、内息をしっぽの一点に注いで大爆発。重力に引かれる振り落としの破壊力は、ライコウの頭蓋をもってしても計り知れなかった。
嫌な、音。
そういや昔、おれにもしっぽがあったんだっけ、とレッパクは思う。チビのころのしっぽが今の自分にあったらちょっと変だよな、と思って、小さく笑った。
― † ―
ついにライコウの頭から血筋が一本太くしたたる。起き上がろうとするが、四足の勁力全てが痺れに負けて伏せた。
「たっ、立ち上がれない、だと――!」
せせら笑いながら、ゆっくり、ゆっくりと、レッパクは歩み寄る。ちょうどライコウの顔に影が映り込むほどの距離まで、あえて近づいた。
こいつをどうしてくれようかは、もう決心している。
「小僧、最初からこれを狙っていやがったな。何が自分の生き方だ、この野郎――」
「卑怯でおおいに結構。あいにく、おれは使えるカードは使う主義だ。特に、お前に勝つためならなんだってしてやる。しかし、嘘を言ったつもりもない。全部おれの本音だ」
どうでもよさそうな、投げやり気味な口調で、
「んなもん知るか。負けは負けだ。とどめを刺せよほら。てめえの望み通りにさせてやる」
「断る」
レッパクの目には、ライコウに対する興味の一切が抜け落ちていた。
「――ああ? 殺す気でかかってきておいてなんだ今更。怖くなったのか腰抜け」
「それはおれの望みであると同時に、お前自身の望みでもあるはずだ。お前の思い通りにさせてたまるか。とどめを刺さないのが、お前にとって何よりの屈辱になると思う。だから、おれはお前を殺さない。くだらないプライドに苛まれて生き恥を晒し続けろ。お前は、おれたちにすら勝てないことを噛み締めて、みじめに生きなければならないんだ」
レッパクの重苦しい目線を、ライコウが訝しげに見つめ返してきた。
「はっ、ばかばかしい。こんな甘っちょろい小僧に情けをかけてもらうたあな――」
戦意を思わせないそぶりで、ライコウがやっと立ち上がった。
「そのぬるい考え、いつか命取りになるぜ」
「どうせなら相手を疑うよりか、信じて死にたいね。おれは」
「はん、そうかよ。そういうところがあれだな、昔のオレ様とそっくりで気に食わねえ」
「おれは、お前みたいにはならない」
「ほざけクソガキが。不意をついて勝ったからっていい気になってんじゃねえよ」
それが、そいつとの別れの言葉だった。
ライコウが遠い闇の向こうへ姿と気配を消すのを見届けた後、レッパクの体は積み木を崩すよりも簡単に潰れた。
ピカチュウとサンダーが同時に駆け寄り、
「だ、大丈夫!?」
「いや、もう立っているのも限界だったろうに。少年よ、紫電のライコウが言ったとおりだ。貴君はまことに甘い」
いいんだよ。これでやっと、目的を果たせたんだから。
「え?」
ピカチュウとサンダーが同時に聞き直した。
レッパクも自身の言葉に理解できずに、瞳を開く。
「――? おれ、今何か言ったか?」
途端、喉の奥がごろごろと唸り、レッパクは血でむせる。
「――とにかくだ、貴君たちの傷を治そう。拙僧がアサギに送れば良いのだな?」
レッパクは返事をしなかった。あらぬ虚空へ顔を向ける。
頭の廻転が、まだ収まっていない。
「少年?」
「どうしたの?」
廻転に思考をゆだね、しばらく置いた後、
「おれはここに残る」
予想だにしなかった返答に、ピカチュウが血相を変えた。
「な、何言ってるんだよ! せっかく助かったのに、このままだと本当に死んじゃうんだよ!」
「少年、高いところが苦手か」
あいつと一緒にするな、と思う。
「いや、そうじゃない。よくあるんだ、こういうの」
んなもん知ったことか、と言いたげな表情がピカチュウとサンダーの顔に急浮上する。更なるヤジが飛びかけたところでレッパクは畳み掛けた。
「大丈夫、死ぬつもりなんかない。あとからおれもなんとかしてアサギへ行くから。――頼む」
「――何かあるのか」
その問いに対し、レッパクは己が直感を嘲弄するように、一度だけ屈託なく笑う。
「野暮用さ」