50 名を冠せぬ者たち
【もう考えるのはおしまいだ。吼えて果てろ。震えて尽きろ。消えてなくなれよ】 ライコウ
50 名を冠せぬ者たち 人間であろうとポケモンであろうと、世の中の鉄則は「弱肉強食」の一言に尽きる。
野生のポケモンたちが傷にまみれる争いをし、それを通りかかりの人間がいちいちポケモンセンターなんかに連れていけば、世界中どこのポケモンセンターであろうとあっという間にパンクし、スタッフは二日で狂気に身をかられ、ほとんどの回復システムがどかんと落ちる。ことにポケモンは人間と違い、得物を使わず己が体術で技を繰り広げるため、怪我のバリエーションも多岐にわたる。最悪の場合死に至るまで戦い続ける。脆弱な人間なんかが生身でまともに取り合えるはずもないのだ。
それがお互い恨みっこなしの、野生の法則だった。
空気は徐々に陰湿なものへと移り果てていった。格差のある頭蓋同士が激突する音。整合性を保っていたはずの草花たちは、更地よりも荒れた状態となっていた。刃物のように鋭い電流が弾け飛ぶ音。木切れは散乱し、道案内の立て札が壊され、枝がへし折られ、木の葉がちぎられ、幹が炙られる。胴のたくましい大木が真ん中から倒れる音。
それでも、今のレッパクの有様には及ばなかった。
親が子を虐待している。森のポケモンたちはまずそう思った。
あまりにも強烈に恐ろしい
戦場で、ただ息を殺して見守ることしかできない。
人間同士でも、猿と犬でも、蛇と蝎でも、ザングースとハブネークでも、グラードンとカイオーガでもそうそうしない、めちゃくちゃな喧嘩だった。
それが定石、『
風見鶏』の素地であり、150年前に使われていた誘いの戦法、旧弊の定石、『
誰彼』であることを、当然レッパクは知らない。主導権をあえて握らされていることにも気づかず、全ての先制を返しの迎撃で潰され、ひたすら悔しがるだけだった。
レッパクは
廻る。ライコウは廻る。臨戦心理がリアルタイムで更新され続け、お互いの一手に対して吐き出された打開策を片っ端から展開し、必死で背後を取り合う。その場≠ノいるのはもはやその一瞬≠セけ。以降には忘れても差し支えのない、昨日の夜食のような問題だ。レッパクが噛みつく、ライコウが斬り払う、正面からぶつかりあう。
鉄のにおいが充満し、なおも膨らんでゆく。
吐瀉物は複数回に分けてレッパクの口から溢れたが、二回目からは赤色を混じえていた。
どうして生きているのかが不思議でならないくらい、レッパクは傷だらけの血まみれだった。
痛点を電圧で殺さなくとも、痛みなんてとうになかった。油のように流れる血で毛が粘つき、変な風に固まっている。喉の奥に血潮が溜まって、うまく叫べない。大声をあげて隙を作ったとしても、突かせる間を与えてくれないと思う。立派な白いたてがみや黄色い毛並みの大部分が、酸化した血液で黒くギトギトだというのに、
ホウオウのにじいろのはねだけが
穢れを嫌っている。所有者が死に瀕するほど、異様な輝きを獲得しているようにも見えた。
おれの体ってこんなに血があったのか、と意識のどこかが思う。
あとどれくらい失えば死ぬのかな、と意識の別のどこかが思う。
直感はここぞとばかりに冴えた。かつて20回に1回ほどだったものが、いまや10回に1回以上となっていた。
致命傷に違いなかった攻撃をすんでのところで回避するため、中途半端にくたばりそこねていた。
「なあ、ひとつ訊いていいかよ」
薙ぎ払い、
「イヤだっつっても勝手に続けるけどな」
ぶちかまし、
「なんでてめえも感覚加速ができるんだよ。神経を刺激させるツボ、どこで身につけやがった」
レッパクの体が地に叩きつけられたところで、ライコウがぐっと踏みつける。前足がレッパクの横腹にめり込み、あばらがみしみしと鳴った。
知るか、とレッパクは思う。
唾液と胃液と血液と反吐でぐちゃぐちゃとなった口の中を、舌でまさぐる。歯を食いしばって顔を上げ、答えてなるものかとばかりに血の唾を吐きつけてやった。が、それはライコウの白い牙にすら届かず、前足をかすめ、弱々しい軌道で腐葉土へと不時着した。
前足で蹴り飛ばされ、子ヨーテリーのような悲鳴をあげ、ピッピにんぎょうのように転がった。
「はん、この期に及んで自分を捨てたくねえってか。しぶてえ奴。ならせっかくだ、最期の最期に、いいこと教えてやるよ」
ぼんやりした意識が、ライコウの言葉をゆっくりと拾っていく。
「アサギのデンリュウ――アカリちゃんだっけか。あのガキが倒れたのもな、オレ様の仕業よ。まさかこころを半分奪われただけであそこまでしぼんじまうたあ、さしものホウオウ様も予想外だったろうよ。『見当違いだったか』、とな。だからな、オレ様がガキんちょを再び動かす為に一役買ったんだ」
二度と耳にしたくない者の名前。誇大妄想に陥った者によるどす黒い思惑が、耳から頭へと入り込んでくる。
「主の、おれたちの旅は、まがい物だったと――?」
こいつの仕業で再起を後押しされたと思うと、自分がいままでやってきたこと全てが、虚無へ引きずり込まれ、ホウオウ同様に分からなくなってくる。主という人間がいなければ、今の自分は到底ありえない。主を慕うことで維持していた部分が最初からなかったものとされるのは、自分たちの存在をそのまま否定することに当てはまった。
「涙を誘われるくらい、てめえら鈍いんだよな。ま、だからこそ、ここまでうまく事が運べたんだけどよ。てめえの主が腑抜けたできそこないとして腐らせないためにも、総ての発端、総ての意図は、あのお方がわざわざ仕向けてやったものなんだよ」
「お前は、お前はそれで満足なのかよ――」
震えながらも、ゆっくり、立ち上がる。
「あ?」
悔しかったわけでも、時間を稼ぎたかったわけでもない。ホウオウとライコウを否定することによって、奪われかけていた自分を取り返したかったわけでもない。とにかく、なんでもいいから突き返してやらねば気が済まなかっただけだ。自分の信じたい方向へ進めるのなら、この際思い上がりでもなんでもよかった。
「あいつの言いなりになって、やりたいことばっかやってるだけの自分、それが本物の自分と重なるのかって訊いてるんだ。おかしいんだよいちいち。お前は最初から悪だったわけじゃないんだろう。なのに自分からそっちの道選んで、自身を欺いて、それに違和感を持ったことは一寸たりともなかったと言うのか」
そこで、ライコウは意外な反応を示し始めた。
「その言葉、そっくりてめえに返してやる」
「なんだと――」
正面と正面、まともにくらう眼光に心臓を射止められた。生半な対抗心で敵と真っ当に対峙できるのであれば、怖いものなど最初から何もなかった。恐ろしい、敵わない、今すぐ逃げ出してしまいたい。しかしプライド最後の一滴が体にのしかかり、四肢を重くする。
「いいか、誰かが誰かを動かし、傀儡とする。そのからくりの顛末は、生物の定めそのものなんだよ。オレ様はあのお方に命を与えられた。だからあのお方はオレ様の総てだ。てめえこそ人間のいいように扱われているだけじゃねえかよ。何も決められなくて、あのガキんちょに頼って、無力な自分を言い訳したかったんだろ」
単調な物言いながらも、その言葉には妙な力が入っていた。その剣幕にはレッパクを何らかの視点から責めたいという、明確な怒りがこめられてある。主とレッパクの考えの矛盾をえぐり出すような鋭さが秘められており、熱のこもった体は完全に冷えて硬化した。
「ち、違う、」
突かれた虚に対する焦りは、口の震えから滲み出る。
「どこがだ! 何かひとつでも自分で考えて、自分の足で歩いたことがあんのか! なんてこたねえ、
最初っからずっっっと立ち止まっていたんだよ! てめえも、オレ様も!」
「違う!」
「今のてめえはただの駒だ! 人間の欲を満たすためだけの、殺戮兵器だ! いい加減楽になっちまえ! てめえとオレ様は、どこにも違いがねえんだ!」
「違う、違う!」
言葉だけでは我慢できず、ミサイルばりを全身からがむしゃらに発射した。空笑いが出るほどに全て避けられる。
胃液に荒れた声で、レッパクは問いかける。
「――なあ、150年前に生き返って、今日まで再び生きてたんだろ。だったら教えてくれよ。楽になるってどういうことだよ。嫌なこととか背負いたくないこととか全てを否定して簡単な道だけを選ぶってことかよ。
それは、自分らしさに繋がるのか?
悩まずに生きているやつなんて誰もいない。そういうのを自分の中に置いておくから、今の自分が出てくるんだろ。それを他の誰かが支配する権利なんて、あるわけがない。苦しくても、つらくても、おれは、おれを忘れたくない。どんな時でも、自分でいたい。今までの自分を壊したくない。こころすらも誰かに操られて楽になるくらいなら、苦しくても自分で生きる道がいい。
おれの体だ。おれの命だ。おれが、決めるんだ。おれは、おれの意志であの人についていくと決めたんだ!
おれが頑張ったときの! あの人の顔が! とても嬉しそうだったから!!」
「じゃあそのまま死ねよ」
ホウオウと同じで、どれほど感動的な
啖呵であったにせよ、多分ライコウはそうしていたはずだ。
熱も情も思わせぬ、無慈悲で一直線で、適当な雷撃。しかし当たれば衝撃で本当に死ぬだろうなと、レッパクはまるでよそ事のように思う。コトネのエモンガのときと同じで、電流は特性上逃せても、それに伴うショックはこらえきれない。
「よく言った少年よ!」
避けなかったのには、理由があった。
絶対死なないと確信していたからだ。
実にシビアなタイミングだった。角が擦り切れた多面体のような、薄緑色の球体がレッパクをあたたかく包んだ。レッパクの鼻先でライコウの雷撃が渦のように切り開かれる。このひかりのかべに守られているのがもしも人間なら、安全だと分かっていても反射的にまぶたを閉じたであろうが、レッパクは一度も視線を変えることなく、目の前で弾けるエネルギーをおぼろげに見つめていた。
森の屋根を突き破り、深緑の木の葉をばらまき、2匹の広い間へ割り込むように鳥ポケモンが素早く舞い降りる。
「うむ、なんとか間に合ったか」
まったくお互い初対面のそいつに、レッパクはこう言った。
「間に合ってない。来るならもっと早く来てくれ」
まったくお互い初対面のそいつは、レッパクにこう返した。
「無理を言うでない。カントーからこちらまで大急ぎで飛んできたのだぞ。もっとねぎらいの言葉をむけたまえ」
突然の部外者をライコウは剣呑な手合いとみなし、慎重に勘ぐる。
「――聞いたことあるぜてめえ。150年前のあの日、カントーで暴れてた奴だな。てめえも何かの名を冠してやがんのか? あ?」
レッパクやライコウと同じく、美しい
黄金色の体毛を全身にまとうその者は、細長いくちばしの切っ先をツイと斜め前へ上げ、ふふりと鼻で笑ってみせた。
「お生憎だが、拙僧にそのような仰々としたものは、無い。サンダーと申す。その身に刻んでよく覚えておきたまえよ、紫電のライコウ」
― † ―
「一直線に突っ込むたわけがどこにいるのさトンチキ! いっそ飲み込まれて本質を知りな!」
曇天が散らす雨は止むどころか、むしろ勢いを増すばかりである。無益な戦いなんかやめてしまえとでも言いたげな、暴言めいた激しさをたたえている。
味方になってくれるのであれば、鬼でも悪魔でも良かった。そんな願いを聞き届けてか、ファイヤーが炎の翼でエアポイントを強引に切り開きつつ、カントー地方からはるばる参上した。
間が悪かった。
最初は突然の第三者に、グレンゲは本能的に反応してしまった。よそ見しかけた隙に、エンテイに叩き込んでやろうとした勁力を
鹵獲され、右の掌をあっさり討ち取られた。地面をとらえていたはずの後脚に鋭い足払い、地から離れたグレンゲの体はエンテイの重々しい踏み込みから逃げきることができず、控えていた左手を受け流しとして捨てる。そのまま派手に突っ返されたグレンゲをリザードンが抱き寄せ、共々に転倒した。
「ほら何グズグズしてんだい、さっさと立ち上がりなよ! あたいだけに戦わせようだなんて虫が良過ぎやしないかい!」
ファイヤーの援護、翼を燃やして勇敢なる飛行。羽ばたきを利用し、雲に風穴が空きそうな竜巻を作る。自分の炎を絡め取らせ、渦の目となり、一散に突撃した。対するエンテイは、予測のつかない構え。左前足を開き、ファイヤーと同じ角度を作って跳躍した。ほのおのうずに対するフレアドライブ。螺旋と螺旋が火花を散らし、雨のひと粒ひと粒を更に細かく刻んだ。
あと数秒もすれば、ファイヤーが根負けするのが傍目にも分かる。後方へ転がり込んだ勢いでリザードンはグレンゲをその場に残し、両足を地に滑らせて軸芯を奪還。振り子のような軌道で空を飛んだ。ほのおのうずに巻き込まれる速度を受けてエンテイの真上を確保。二者の火炎でしっぽが活力を調達。臨戦心理の開放に繋がった。ファイヤーがつばぜり合いに押し飛ばされたと同時にリザードンは垂直降下、両足でフレアドライブを突き破り、その先にある本体を踏み抜く。地面に這いつくばらせてやろうとして、そのまま重力に身を任せてみたが、次の一瞬にはエンテイの体が虚となる。重を素通りさせられ、フレアドライブに伴うエンテイの転身に追いつけなかった。体と体がすれ違いかけたわずか後、リザードンは振り上げの右前足に横っ面を弾き飛ばされた。
地上、本命をいただくグレンゲ。エンテイの沈墜勁を予感し、何かしでかす前に迎え撃つ。リザードンを見舞ったエンテイの右前足による、下りの
劈掌は覚悟済み。身を捨ててこそ浮かぶ瀬もあれ。自分がこんな紙一重の博打に二の足を踏むようなやつだとは、向こうも思っていないはず。当たってでもいいから、当ててみせる。グレンゲは両足で空を漕ぎ、後ろ首の火炎を噴出。見た目こそいつも通りのかえんぐるまに違いはないが、目的は遥か別。残勁冷めやらぬ奴の体軸の核を見つけて揺さぶる。それ一点に全てを注ぎ込んだ破砕の一撃。
その瞬間、全員が宙に浮いていた。
轟雷を背景に、自分の右腕とエンテイの左前足が、交差した。
それから先は、光に輪郭を白く塗りつぶされて、意識できていない。
ファイヤーが墜落した。
リザードンが墜落した。
エンテイが墜落した。
グレンゲが墜落した。
全ての炎は消されるためにあり、全ての水は消すためにある。
雨はまだ止みそうにない。
「今回ばかりは……もう……駄目かもしれねえなあ……よっこら、せっと……」
最初にグレンゲがもう一度起き上がった。それでもリザードンは起き上がらず、ファイヤーは起き上がらず、仕方ないからといった感じでエンテイが真似てきた。
50点。いや、30点か。生きて口が聞けるだけ上等だった。痛さと怖さがかけ算されて、口の端からひきつれた笑みすらこぼれる。
「まだ続けるつもりか」
当たり前だ、と思う。手応えはそれなりにあった。痛烈さが染みているのは向こうも同じはず。三体を同時に相手してまだ弱気にならないのは、立派を通り越してもはや自分同様の命知らずである。
このような窮地がいつか来ると予感していなかったわけではないが、現に死期が近いらしい、いざ直面すると様々なことを思い出す。
レッパクは、もっと冷静になれと自分に言った。
ドロップは、もっと慎重になれと自分に言った。
対する自分は、もっと勇敢になれと言い返した。
そもそも戦に対する目線が違っていたのだろう。敵陣に深く斬り込むのが自分にとっての華であり、背中はまかせるに限る。自分はいつだって前衛だった。これまでがそうだったように、これからもそうなのだ。たとえ西から太陽が昇ろうが、この意見を変えるつもりはない。
自分と同じような、直線的な戦い方をしてくれる相手を、こころのどこかでは望んでいたはずなのだ。
理解の齟齬ゆえに、レッパクやドロップ、大将すらも踏み入れることのできなかったグレンゲの奥深くの部分が、ここにきてようやく一筋の光を浴びる。みんなと生きているうちに自然とこころの中でわだかまっていたものが繋ぎ合わされ、形を成し、ある種の爆発となって、グレンゲの中を巡った。
グレンゲは、自身に課せられた運命を思った。
思考する。
自分は、リーグへ行くためだけに、大将と出会ったのではない。
確信する。
こいつと果たし合いをするために、今の今まで生きてきたのだ。
――ああ、そうか。
それは、理解を超越した一種の覚醒だったのかもしれない。目の見えぬ者が
虹霓を拝めたような感嘆。耳の届かぬ者が銃声を聴いたような衝撃。結論に達すると気持ちが軽やかさを取り戻し、臨戦心理が勝手に動き始めた。
体勢を変える。前足をだらりとぶらさげ、後ろ足の軸をずらす。平らげていた足裏、かかとの負担をほぼ無くし、つま先立ちに等しいほどに前傾となる。
刃の上を歩くような、一か八か。
いつものことだった。
深呼吸。内息を満たし、形として顕現させる。発火。
さすがのエンテイも、眉根を上げた。ファイヤーとリザードンも、唐突に出現した異質の存在に肌を震わせ、目を覚ました。
「その炎は――」
グレンゲの後ろ首から、青色の炎が溢れている。雨の中、残りの酸素を有意義に燃焼させているそれは、現世に取り残された人魂のように見えた。
「燃やしすぎてここらへんの空気も薄くなってきたし、雨も止みそうにねえし、もうお互い、そんなに体力残ってねえだろ――。次の一撃で決めようぜ」
「――よかろう」
あえて乗ってきたんだな、とグレンゲは思う。体力の差は自分でも分かっている。次の一撃で終わらせなければ、自分が終わってしまうのだ。自分よりかろうじて余裕のあるエンテイにとっては、きっとどっちでも良かったはず。最後の最後まで、向こうに仕切られていた。
定石、『
画竜点睛』。グレンゲはつま先に。青。
定石、『
画竜点睛』。エンテイは四足に。赤。
泥を蹴り、お互いの中心を狙い定める。
――よし、じゃあ今日からお前は
紅蓮華だ。よろしく頼むよ、グレンゲ。
目に映る周囲のもの全部を蒸発させてやると言わんばかりの、やけくそな水蒸気爆発が起きた。二匹を中心に、雨滴がガラスの粉のような鋭さを持って飛び散った。
濃度の高い水煙の向こう、信じられない近さでグレンゲとエンテイが背中合わせしていることを、ファイヤーとリザードンは認めた。力を使い果たし、突っ立ったまま死んでしまったのかもしれない。二匹とも、間合いを取り直すこともせず、そのまま硬直し続けた。
やがて、グレンゲが自分を後ろ足で支えきれなくなり、先にひざをついた。
そして、エンテイが自分の中で暴れる力にこらえきれなくなり、吐血した。
「み、ごと……っ!」
「先に、ひざをついちまったのは、俺、だけど、な……」
青い炎が、ここでついえる。
「しかし……我輩の、負け……だ……。潔く、老兵は去るとしようぞ……」
エンテイは無用の長物と化した肉体を起きあがらせ、誰とも顔を合わさず、敗走の足取りとなる。攻め、守り、両の意思も感じられないあたり、本当のことだとグレンゲは察する。
「なあ、」
返事はない。
グレンゲはもう一度、
「なあ、お前さん。白刃くぐったあとで言うってえのもなんだけどよ。あんなやつの本意なんか、本当はどうでも良かったりするんじゃねえの?」
その言葉で、エンテイは飛び上がろうとした脚力を緩める。しかし、振り向いてはくれない。
「どういうことだ」
いずれにせよ自分は勝ったのである。説教のひとつやふたつくらい土産に持たせてもいいだろうと思った。
「お前さんは自分の力を使いてえ場面と、死に場所探し求めていたんじゃねえのか。自分の存在意義を、手触りを、生きていく力を試せるのであれば、善だろうが悪だろうが、なんだってよかったんだろ?」
一秒目の沈黙、二秒目の無言、三秒目の静寂。
「――そうかもしれぬ」
四秒目の告白。
「手に持て余すほどだ。使い道はいくらでもあった。我輩はあのお方に仕えつつも、何かを探していた。生きるか死ぬか、全てを分かつその一瞬。今にして思えば、それをひたすらに追い求めていたのやもしれぬ」
ここでようやっと、エンテイはグレンゲと向きなおす。
「しかし、なにゆえそう思う」
「なんとなくさ。俺とお前さん、結構似てるのかもしれねえんだ。お前さんのこと、俺ぁは別に嫌いじゃないぜ。むしろ礼を言いてえくれえだ。つくづく思い知った。やっぱ俺は、自分で考えて、人間と生きる道ってやつを選ぶよ」
「そうか」
無様さは最後まで捨てきらなかったようで、エンテイはあの時と同じように音もなくその場を去った。
最後のどつき合いの余波が天にも及んだらしく、降り乱れていた雨にもついに終わりの兆しが垣間見える。蛇口を絞るように雨足が弱まり、広がっていた雲にも速度の違いが生じてきて、徐々にちぎれ始める。
「やっと雨止んだわね」
「タイミング悪いですね。止むに越したことはありませんが」
先程までの白兵戦はどこへいったのか、死線を乗り越えたことも素直に喜べず、グレンゲとリザードンとファイヤーは体の水滴を払い、雲の隙間からお天道様を仰ぎ見る。
「んもう、ルギアのアホ、なんてとこにあたいを呼んでんのよ」
「お前さん、ルギアと面識があんのか」
「そりゃそうよ。150年前の争いの中心にいたのはあたいたちよ」
んな、
「人間ってほんと欲深。ジョウトで起きた争いがカントーにも派生しちゃってさ。だからあたいたちもぶちんとキレて大暴れ。サンダーとフリーザーと大喧嘩」
リザードンが、恐る恐る続ける。
「もしかして、ですけど。ルギアが大怪我をしているのって、」
「そ。あたいたちの喧嘩止めようとわざわざカントーまでやってきて、とばっちりに巻き込まれてあのざま。ま、お陰であたいたちもやっと目ぇ覚まして。しかもなんなのあいつ、それでも人間信じてるって。マゾなのかしら。人間と一緒に居過ぎると変な性癖まで感染るわけ?」
「オ、オレっちに訊かないでくださいよ」
「――俺も、信じてるぜ」
リザードンとファイヤーが同時に反応し、彩り豊かなベトベターを見つめるような顔でこちらを見てくる。
「たわけ、大将をだよ。人間だ」
ファイヤーは少し間を置き、
「まだ前へ進む気?」
「あたぼうよ。こんなところで立ち止まってなんかいられねえよ。壁があるならぶっ壊すまでだ。止めんじゃねえぞ」
「呆れたし疲れたしで止める気力もさらさら無いわ。でも、今度人間側がヘマやらかしてみなさいよ、次こそあたいたちも容赦しないわよ」
「おっかねえなあ、くわばらくわばら。そんときゃ俺たちがぶんなぐって止めてやっから、堪忍な」
― † ―
ここで、ドロップの精魂が尽き果てる。泥水に汚れた
弊履のほうが、まだいくらかのまとまりがあるように思える。戦闘においても美しさを損なわないスイクンに、これ以上無駄な抵抗することを、恐れ多いとすら感じ始める。
ドロップは、傷ついた体でうつぶせになって、いよいよそのことについて考える。
――死んじゃうのでしょうか。
一度考え始めてしまえば、案外覚悟は安いものだった。生に対する執着心を捨てる己が醜さ、あえてスイクンの前にさらけだすのも悪くない。
――みんなは?
仲間のことを想った。次に、ご主人のことを想った。引っ張り上げてもらった命を、自分は正しく使うことができただろうか。自分なりに精一杯頑張ったつもりだ。それに対して嘘はつけない。そう、頑張ったのだ。自分はやれた。ここまでやれた。
慕うべき人間がいなくなった今、これ以上は、もうどうにもできない。
まだ死にたくないと昔の自分がこころのどこかで叫んでいる。それにしがみつくことが、生への最後の希望だった。しかし、疲労感にまみれ、絶対的な力差で圧倒されれば、理屈なんてこれっぽっちも通用しなかった。
絶望が、ドロップの中で逆巻く。
――せっかく加勢に来ていただいたというのに、無駄足でしたね。すいません。
カメックスももう戦えそうにない。助け舟のフリーザーがまだ空に舞っている気配はする。れいとうビームとオーロラビームが競り合っているのを、うっすらと聞いていた。
「の、やろぉ……!」
墜落音から、その正体がフリーザーだと思う。遅かれ早かれ、みんな同じ運命をたどるのだろう。
ドロップの何かが折れた。
残りの気力を使って、決心した。
走馬灯を見よう。
まぶたを閉じようとした瀬戸際だった。黒くおろされる視界の向こう、楊枝一本が入るかどうかも危うい鼻先に、スイクンの顔があった。
自分を倒した時点で、少なくとも興味を失ったはずだ。もう一度自分の前にやってくるということは、きっとなんらかの意味があるはずで、実際に意味があった。スイクンの体が震えている。見ているこちらが目をそらしたくなるくらいの、苦悩に満ちた顔があった。
こんなスイクンは初めてだった。
目を閉じ歯を食いしばり、眉間の皺が隆起している。長らくそうしていたが、ついにドロップの視線を引き剥がし、距離をとって背を向けた。
「おしまい」
「――?」
スイクンは空を一度だけ仰ぎ、うなだれた。
「ライコウも、エンテイもやられた」
寡黙なスイクンが、これまで我慢していた思いの丈を一気に吐き出した。
「小生たちのやり方が本当に正しいのか、それに抗う者の思いが強かったのか。他の所で決着がついた」
だから、おしまい。もうやめる。全部やめる。
今から殺されるきみを、一瞬でも、可哀想にと思ってしまった。
小生のかつての死に方と、よく似ていたから。
変な話だ。
きみを殺すことは、小生の理不尽な死を肯定することに繋がってしまう。
間接的に、小生は自分を可哀想だなと思ってしまったんだ。
自分の生き方に疑問を抱いていたわけじゃない。150年前の争いに巻き込まれて死んだのは不本意で、生き返らせてもらったことは嬉しかった。名も授かった。このままずっと仕えていても良かった。けれど、それが可哀想だということは、全てを打ち消す大きな矛盾となる。
矛盾を抱えないきみのほうがよっぽどいい生き方をしている。
生き返った小生が、きみたちを死に追い込む理由。分からなくなったから、もういい。小生には重すぎる。耐え切れない。
一歩目を踏み出そうとしたその足を、ドロップが呼び止めた。
「どうするんですか、これから」
「あとは、きみたちにまかせる」
スイクンは後頭部のオーロラから光をこぼしつつ、霧に紛れることもなく、歩いて去った。
ドロップは、思う。
――あの者には、価値がある。
生き続ければ。
あの者は、負けたわけではない。むしろ、自分たちに勝ちつつあった。自分たちの命を奪い、ホウオウの使命を果たしつつあった。まだ生きられる。
ないのは、信念だった。
必ずやり通さねばならないと強く思う、信念に欠けた。
死んだときに壊れたこころを、ホウオウにつけこまれたに過ぎない。ライコウも、エンテイも、あの者も、それをどこまで承知して、今まで生きていたのだろう。
あの者は――
もう、無理だろう。
「なーにが信念だ、訳分かんねえことべらべらしゃべるだけしゃべって満足しやがって、結局なんだったんだよあいつ」
面倒くさそうに起き上がったフリーザーが、あー、と毒づく。毛並みを整えつつ、
「やっと終わったか。久しぶりにジョウトまで来てやった途端にこれだもんな。つくづくアホらしい。俺はもう帰って寝る」
あ、とドロップは思う。
「あの、」
「んだよまだ何かあんのか」
フリーザーの流し目は、ナイフのように冷たくて鋭い。けれど日常的によく見ているため、ドロップはこんなことくらいではびびらない。
「アサギまで、連れて行ってもらえたり、します?」
まずはドロップを、次にカメックスを、じろっと目で図る。一応は確認を取るべきだと思ったのか、
「ちょっと待て、体格はさておこう、てめーら体重いくつだ」
「200キログラムはあったかと」
「ふざけんな殺す気か! 足がちぎれるわ!」
取り付く島もない。カメックスは残念そうに、
「ここからアサギまで、結構遠そうだよなぁ」
「知るかンなこと。わざわざ助太刀してやったのに、その上てめーらまで運ばなくちゃならねえ義理がどこにあるってんだ」
「でも、苦戦してましたよね」
「うっせ! ああ言えばこう言いやがって! もー俺からはしてやれることはねえよ」
意地の悪い子供のようにそっぽを向かれた。ドロップとカメックスは、すがるような思いでその背中に視線を投じ続ける。短絡的にせよ、いくらか効果はあったのか、フリーザーは翼で頭を抱え、足で地面をこつこつしたあと、
「あー、分かったよ畜生め」
定石、『
登竜門』。
20秒ほどのち、再びその場に降下。
「アサギが見えた。ここは39ばんどうろだ。そこの川はアサギの海まで続いている。それでくだって行きな」
ドロップとカメックスの顔が輝く。見合わせる。
「ありがとうございます、ありがとうございます!」
「いーからとっとと行っちまえ、俺は帰って寝る」
命からがら、死線をくぐり抜けたというのに、ドロップとカメックスはもう次なる望みを持って進もうとしている。嬉々とした表情で川をくだって行くその姿を、結局フリーザーは最後まで見届けてしまう。
空気を凍てつかせるため息。
「ったく、あいつの情が移っちまったか?」
あの島から一歩も動くことなく、メイデイのテレパシーで自分を呼びつけやがったあの神に対し、フリーザーはこうぼやく。
「ルギア、これで借りはチャラだ」