49 方位445、バンテージ・ポイント
【憶えておれ。絶望と希望は、毛ほどの違いしかないのだ】 エンテイ
49 方位445、バンテージ・ポイント ショックのあまり、空中にもかかわらず2秒だけ気絶していた。
体に残るルギアの力が勢いを削いでくれるものの、落下の速度はまだ危険な域を脱さない。ルギアがあらかじめ降下して稼いだ距離など、毛ほどにもならない。最悪の結末が、決して頭から離れようとしない。
とにかく、姿勢を作らねばまずい。風圧か、もしくはいずれくる衝撃で骨が砕ける。計算している暇はない。本能が諭す勘が全て。不本意な加速を一時的に味方へとまわし、ねじれるだけねじり、できるだけ理想的なものへと移していく。
シロガネやまの時もそうだったが、少なくとも地上よりかはいくらか太陽に近づいたはずなのに、どうしてこれほど寒いのか。体の芯まで霜が降りそうな空気の中、風を斬るおぞましい音が両耳に轟く。
視界がまったく安定しない。風圧で目が乾き、反射的に潤む。木々の連なった巨大な塊が、レッパクの眼下にあった。その塊がどこのものであるのか、記憶が勝手に照合し始めるが、そんなものにかまっている暇はなかった。落下と同じ速度をもって、深緑色の海が立ち上ってくる。想定しうるあらゆる事態を覚悟し、目をつむった。
記憶が答えを出した。
ウバメのもりだった。
数秒の間をおいてやってくる、すさまじい振動と打撃。緑葉による緩衝材など屁の突っ張りにもならなかった。枝が鞭のようにしなり、びしびしと体へ叩きつける。幹の裂ける鋭い音が鼓膜を突き破ろうとする。顔面を打ち、足を切られ、身を擦られ、減速時の反動が血を体のあちこちへ偏らせる。太い枝にいちいち引っかかってはずり落ち、中途半端に高度を下げつつ、ついに地上で群がる茂みの中へと不時着した。空からの来訪者に、キャタピーやホーホーが慌てて逃げていった。
いるのは、確信した。
容赦のない静寂がレッパクの全身へ一気に襲いかかる。切り傷の痛みなんてどこかへ消し飛んでしまった。代わりにあるのは、足先、鼻先、耳先、頭の中、あらゆる箇所の狂おしいほどの熱さ。それでいてこころは冷たい。魂も落下の際にどこかへ落としてしまったのかもしれない。緩みきった口から漏れる吐息は、白く震えている。心臓にぽっかりとした
孔が空いた気分。あまりのこころ細さに涙が溢れそうだった。全ての感情を束にして叫び狂いたかった。しかしそんなことをすれば、あいつはさぞかし喜ぶはずだ。理性を失って暴れるところをじっくりとなぶり痛めつけるのが、あいつの何よりの楽しみなのだと信じた。だからできなかった。あいつが喜ぶことなんて、死んでもしたくなかった。
いる。
いるはずだ。
舐め回すような目つきで、こちらをうかがっているはずだ。
体中にぶり返される激痛をこらえつつ、
レッパクは、
茂みから、
恐る恐る、
這いずり、
出る。
「よお、小僧」
――ああ、
レッパクは、願った。
こいつを、殺したい。
忌むべき宿敵を前にして、レッパクはおもむろに目を閉じ、悲涙に耐えるような面持ちで、暗い森を仰ぐ。憎悪と恐怖に思考を引き裂かれ、何もかもが全身から遠のき、薄らいでゆく。
グレンゲの沸点の低さが、これほど羨ましいと思えた日はない。自分も全てを叫び声にして口から吐き出してしまいたいのに、きっかけとなる一歩がどうしても踏み出せないせいで、いつも腹の底に溶け残ってしまう。
両者の臨戦心理の錠が、音を立てて崩れていく。戦闘意識の生み出す殺戮の信号が束となって頭脳へ送られる。こころの海が急激に煮えたぎってきた。たゆたう感情の氷塊群を次々と溶解し、熱い蒸気へと変換。
そうして、お互いの体に、静かなる電気が青白く蓄積されてゆく。
「器が決まった今、てめえらも用済みさね。だから言ったろ、せっかく買っていたんだから、その分はオレ様を幻滅させんなってよ。しっかしなあ。てめえには、つくづく、がっかり、したぜ」
樹海の中、円形の更地を作りかねないほどの大声量で、ライコウが言い放った。
「朽ちていきな――この寂しい森の中でよ!!」
そのときレッパクは、何を叫んだか分からない。
筋肉を蒸発させかねない加速、自分の影をその場に置き去りにするような踏み込み、地を這うような体勢の低さ、鎌首のような動線。
定石、『
時計返』。
瞬間後、レッパクの目の前で火花が弾けた。ライコウが身をひねったところまでは憶えているのだが、左右のどちらから来たのかは判断が追いつかない。それは額だったのか脚だったのか尾だったのか。自分の身に何が起きたのか、逐一理解することができない。ライコウめがけて放たれた逆時計回りの螺旋は、想像したくない方向へとねじ曲げられた。前後不覚の尖った力学に全身を貫かれ、天地の逆転、次に来たのは背中への鈍い痛み。樹の根本へと打ちつけられていた。あちこちを蝕む痺れを我慢することはどうしてもできず、喉をえぐる胃液にむせ返り、丸まった姿勢で数度空咳した。
痛さよりもまず、怖さで体が重くなる。
「オレ様と初めてやりあったときもそれ使ってたよなあてめえは。右から攻める癖でもあんのか?」
表情を一切変えようとしないライコウが、右前足で土を軽く掘る。
「定石、『時計返』ってのはな――こうやんだよ!!」
定石、『
時計返』。
とてつもないことが起きた。感覚加速したはずのその全身をもってしても、意識できなかった。
「こう」で、ライコウの体が消え、
「やん」で、左に回り込まれ、
「だよ!!」で、
爪が
― † ―
同刻。
「落ち、落ち、落ち!」
「す、すんません、オレっちはこれが限界です……ッ!」
2匹にとって、雨は重すぎる。
吹きすさぶ雨風のせいで、うまく飛べていない。これでは落下と変わらない。
少ない体力が、大雨でなおのことどんどん削り落とされていく。グレンゲはレッドのリザードンの腹につかまりながら、どうすることもできずに揃ってずるずると落ちていく。地面にぶつかる寸前、すぐそばにヒワダの町並みが見えた。
冷たい雨が、うつ伏せのグレンゲとリザードンの体を洗っていく。痛みを必死でこらえるその鼻先で、泥のにおいを感じた。この世とは皮肉にできているとグレンゲはしみじみ思う。つい先刻まで一戦交えていた相手と共同戦線を張り、そして一緒に地上へと戻ってくるのだから。これ以上、何が起きるというのか。
「大丈夫、ですか……?」
「あ、ああ……なん、とか……お前さんがいなけりゃ、たぶんマトマのみを潰したみてえになってたろうよ……」
「今にそう変わらない結末を見せてくれる」
ただでさえ低下していたグレンゲとリザードンの体温が、更に落ちた。四方の太い脈ごと心臓を切り落とされたかと思った。体は起こせない。起こす間も与えてくれないと思う。グレンゲは、それでもゆっくりと、顔だけを崖の上へと向ける。
その体温のあまりに、エンテイの周囲を取り巻く雨は蒸気と化していた。
この世とは皮肉にできているとグレンゲはしみじみ思う。
「――つくづく、お前さんとは、サシでやりあえねえ運命だなあ」
「その強情さ、いつまで持つことか」
まったくだ、とグレンゲはこころの中でぼやいた。
― † ―
同刻。
「ま、間に合ったぁ……」
「……か、間一髪……でしたね……」
どうして生きているのか、ドロップは自分でも不思議である。
運良くドロップの下に回ったカメックス。たくましい両の腕でドロップを持ち上げるような体勢となり、甲羅の下から噴き出した水圧で重力を相殺。ドロップもあるったけのみずでっぽうで落下軌道を無理矢理修正し、思い切り体を水面へと突貫させた。体格が大きい分、ルギアの力の残滓もわずかながらにあったようで、命を救うほどには落下速度の威力が和らいでいた。
ドロップは荒ぶる呼吸を整えながら、とにかくは陸へとあがろうとする。
あがろうとする。
する。
鼻の先に、水色でしなやかな前足があった。
あの時のような、何も感じさせない視線が、ドロップの脳天に突き刺さっている。
見下ろしているのではない。見下しているのだ。ドロップは今そう思う。
潤っていたはずの口の中が、急激に乾燥していく。
ドロップは、スイクンの顔を見上げることもできず、そのままつぶやく。
「私たちと……戦うのですか?」
スイクンはしばらく黙った後、
「考え中」
― † ―
同刻。
「いや――っ! いやあ――っ! 落――ちるう――っ!!」
「せんぱあ――――い! マスタあ――――――――ッ!!」
ソニアとレムの泣き叫ぶ声が、縦の青空に響き渡る。
それを、オボロのどこかが拾っていた。
ホウオウのだいもんじをくらった反動で、記憶の箱をひっくり返されたのかもしれない。
同時に意識の奥から蘇る、あの声。
タンバでささやかれた、あの言葉。
もうだめだった。聴き終えた瞬間、フルメタルの強気が一片も残らず粉々に砕け散った。あと3秒とその顔を見ていたら何もかもがぐしゃぐしゃになって、力なく砂浜に突っ伏し、みじめな声で慟哭し、自分の弱い部分をさらけ出していたはずだった。それを見られるのがつらい一心で、全てを振り払ってアサギまで一直線に向かい、灯台のバルコニーへひでんのくすりを放り捨て、その時にはすでに体力の限界がそばにまで来ていて、それでもまたわき目もふらずにがむしゃらに飛んで、誰もいないところを探して――
――気がつけばやっぱりワカバまで戻ってきて、へとへとになって雑木林の広場に降りて、誰もいないことを確認し、ようやっと安心し、涙に滲んだ声を吐き出し、ついには空に向かって大声でわあわあ泣いた。
おくびょうなくせにいじっぱりな自分を、殺してやりたいくらい憎んだ。
あんなにも自分のことを気にかけてくれる人は、他にいなかった。
ゴールドと、みんなと、いつまでもどこまでも一緒にいたかった。
空の世界は、寂しかった。
深層心理に沈められた根性が体内の奥底から急浮上。一気に頭まで届き、オボロの目がかっと開かれた。そして、すっと細くなった。
視界に、空の青さと太陽のまぶしさがこみ上げた。
「キァァァァッ」
剣士の発勁を思わせる、甲高い咆哮。
青空に広がる両翼に、一時的に輝きが戻る。内息が活力となって十文字に開かれる。オボロの長い体は瞬時に8の字の舞踏を描いてみせた。
力の流れを体内へ奪還し、風の流れを読んで更なる落下。相対速度を徐々に縮め、為す術もなく落ちていたゴールドとブラックに追いすがり、背中で柔らかく受け止めて救出した。揚力を潰しつつ、ソニアを両腕でがっちりと抱き寄せた。その後ろを、慌ててレムが追尾する。視界すらまともに定まらなかったブラックとソニアにとっては、全ての段取りが瞬く間の出来事のように思えただろう。
それはもはや飛行ではなく、飛行に近い別の何かであったはずだ。
――待て、とにかく一旦降りろ。お前の治療が先だ。
「ブラック」
――聴いてんのか、おい。
叫び疲れて声を枯らしたソニアは、ひいひいとオボロの胸にしがみついている。
「もし、もしゴールドが目を覚ましたら、伝えておいて」
胸の中のソニアが息を止め、一度だけぴくんと反応した。
――どういう意味だ。
オボロの体は面白いくらいにぐらいている。
「ごめんって。ちっとも素直になれなくて悪かったって。あと、今までありがとうって」
ブラックが怒鳴りつける前にレムが、
「お願いですからそんなこと言わないでください!」
――ンな弱音ほざく体力あったら一秒でも長く生きやがれ! じゃなければオレがぶっ殺すぞ!!
オボロは聴いていない。ふらふらと宙を浮きながら、龍の古文をぶつぶつと口の中で転がしている。そうでもしておかないと命がついえてしまうかのように、ずっと続けている。
「レム!、レム!、オボロの口をテレキネシスで塞いでえ! もう聴きたくないー!」
そんなのレムにはできっこなかった。
すでにオボロの全身をテレキネシスで支えているからだ。飛行と浮遊、ゼロコンマ単位の力を合わせて、やっとの思いで1に近づけたのだ。その上オボロの口をチャックする余裕などどこにもありはしなかった。レムがいなければ、ここにいる全員がとっくに地上に激突していた。
――くそ。ぜったい死ぬもんか。
あいつより劣った飛び方はしないって、空に誓ったんだ。無様な飛行を見せたら、太陽に笑われる。
もうちょっと、だけ、
がんばって、みせる。
― † ―
同刻。
「お前はここに残れ」
今度こそ同行させてもらえず、ブラックにそう言われてから、かなりの時間が過ぎた。ミカンにとっては拷問のような長さであった。悶々とした気持ちを消化しきれず、ひとりアサギジムの中をうろうろしている。
自分は一体、何をしているのだろうか。
自分は一体、何がやりたいのだろうか。
その自問に対する答えを真剣に見つけ出そうとしたとき、自分は壊れるかもしれない。ゴールドと別れ、ブラックに置いて行かれ、気がつけば自分はこうしてアサギでひとりぼっちとなった。別れが寂しくなかったといえばこれ以上にないほどの嘘となるが、ミカンには、あの二人のようなアサギを離れる勇気がどうしても湧かなかった。
アサギは出会いと別れを象徴する港町だ。アクアごうを初めとした船に乗って、毎年多くの人々が訪れる。そして去っていく。気配の入り乱れるその慣行に麻痺した自分は、いつしかこう思うようになっていたのだ。
ポケモンが、再び自分たちを結びつけてくれる。
決意してからは早かった。あっという間であった。
ゴールドは走り、ブラックは追い、自分は待つ者となった。当初の簡単な決心は案の定ポケモンの魅力へと入れ替わり、ややもすれば努力を惜しまぬ日々を連ねるようになり、髪を切ることも忘れ、ジムリーダーというところまで登りつめてしまった。
本当に、その時≠ェ来てしまった。
負けてしまった。
また、見送ってしまった。
そして今。また、置いていかれてしまった。
自分は一体、何をすればいいのだろうか。
いじろうとした右の髪留めが、突如まっぷたつに割れた。
頭の右側で、自分の髪量を改めて感じた。
なぜか思考が追いつかず、とっさには拾えなかった。
どちらを先に拾おうか迷い、やがてゆっくりと腰をおろした次の瞬間、壁の上部にある窓ガラスが大爆発した。
世にも情けない悲鳴が喉から溢れ出た。
ガラスを突き破ってきたポケモンは、珍しい翼の色をしたフライゴンだった。着陸だなんて生ぬるいこともしない。音からして、ミカンには自らバトルコートへ飛びこんでいったようにしか見えなかった。
地面と衝突した際にフライゴンの背中から転げ落ちた人間がブラックだったとは、一目ではとても分からなかった。
「え、えっ!?」
土煙が巻き上がるその向こうで、ブラックが頭のガラスをがむしゃらに払いつつ、
「ミカン!!」
「はい!」
鬼の形相を見た。結った左の髪が一本残らず逆立った。背筋が脊髄反射して、ミカンは直立不動の姿勢となった。
ブラックに怒鳴られるのはこれが初めてで、おそらく今後も一生ないだろう。
「ポケモンセンターだ! 全速力で呼んでこい!!」
ゴールドの姿に気づいたのは、そこでやっとのことだった。息をしないまま眠っているように見えた。
そのゴールドとそう変わらない状態で昏倒している、色違いのフライゴンに向かって、マラカッチとムウマージが涙声を枯らして呼びかけている。
――オボロー! 死んじゃやだあ――っ!!
――目を開けてください! せんぱ、せんぱぁい!