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――私の不甲斐なさが故、と言ってもよかろう。
「どういうことですか」
無駄な努力にすぎないが、やり始めてしまった手前、今更ミカンに「止めろ」と告げるのは酷というものだろう。数少ないキズぐすりをルギアの傷口に擦り込み、丁寧な手つきで治療している。
ミカンの薬が尽きるのと、ルギアが話し終えるのと、果たしてどちらが先か。ミカンが手を止めない一方で、ルギアも懐旧談を続ける。目を閉じれば、つい昨日の出来事のように思い出を飛躍させられるらしい。まぶたの奥に浮かび上がる光景を、ゆっくりと口でなぞっている。ブラックが耳を澄ませると、ルギアの口調はわびしさを感じさせず、むしろ誰かに聴かせるのも興とでも言いたげな、少しばかりの懐かしさを思わせた。
――150年前に大きな争いがあったという史実は、お前たちの時代にも語り継がれているのだな?
「ああ」
始まりは、小さな一点の火だったに過ぎない。嫉妬や憧憬、野望に近い、人を動かすこころのエネルギーだった。
それらを抱えつつも、お互いの世界は相互に守られていたはずだった。種族としての血が薄れていくのとともに、火は悪鬼へと徐々に化けて腹の中に巣食う。干渉の一線を超え、人間には持てないものを、人間は次第に欲した。神ともとらえられる力に酔いしれ、やがては火薬のように炸裂させた。数多の人間が背負う黒い何かに、ルギアもホウオウも、とうとう最後まで気づかずじまいだった。
――人間が私たちに憧れていたのと同様、私たちも人間に憧れていたのだ。だから、私もあやつも、人間と共にあろうとして生きていたよ。しかしそれも、所詮は思い上がりに過ぎなかったのかもしれない。その答えがこれだ。争い故に、私はこうして深手を負ってしまった。
「ひどい――」
――確かにきっかけは人間の些細な欲望だ。その小さな穴が刻一刻と広がり、こうして大きな穴を歴史に空けてしまった。それは動かしようのない事実だ。……しかし、
その時のルギアは、確かに微笑んでいたと思う。
――私は、人間を恨んではいないよ。
保護フィルムを貼ろうとしていたミカンの手が、時間を奪われたように止まる。盲目的だった目に色が宿り、急に目の前の傷口を見ていられなくなって、じっとうつむく。ミカンの両目に涙がたたえられる。
――お前は優しいな。相手を憎むことより、許すことのほうがずっと難しい。それでも、私はその道を選んだ。そうすればいつかは理不尽の波は消えるはずだと考えたからだ。お前のその優しさが同じ人間たちに広まれば、それで私はいい。私の望みはただひとつ、天秤が水平になる世界だ。
ブラックは腕を組んだまま、周囲をうろつく。ルギアの身を休める場所として用意されたせいか、寸法は異常に大きく、今もなお水音がおどろおどろしくエコーして暗闇の奥へと吸い込まれいく。ブラックとミカンの小ささはけし粒とも言える。
天井を仰ぎ、
「ホウオウは。あいつはどうしたってんだ」
――そう、問題はあやつだ。私ほどではないが、こころに深い傷を負ってしまったという点では、私よりもずっと深刻であろう。これ以上の争いごとは避けるべきだと、私はみずからここへ閉じこもった。150年間、この水の流れからジョウトの情勢を体で感じてきたものだったが……不覚だった。あやつがその間、どれほどもがき苦しんでいたのか、私はついぞ察してやることができなかったのか。
何を思ったか、ルギアがゆっくりと体を起こし始める。骨や肉がきしむ音と苦痛の声。姿勢がずれたせいで水しぶきが二人へと広がり、しかしミカンはそれよりもルギアの安否を気遣う。
「ちょ、ちょっと、動いちゃいけませんって!」
――なりふりかまっていられない気がしてきてな。
ブラックは抑揚のない低い声で、
「どういうことだ」
――150年前よりも我々や人間が多く住まうようになったこの時代。あやつは、人間が我々と接していて本当に良い存在なのか、新たに確かめようとしているのかもしれぬ。
「歴史は繰り返されるというからか?」
ロケット団のように、とブラックは独白する。
長い時間をかけ、やっと両足を付いたルギアも天井を仰ぎ、周囲から何かをうかがう。
――胸騒ぎが、する。
「おいおい、大丈夫なのか。あんたは自分の体のことも考えろ」
――なに、腐っても、海の神と呼ばれた者だ。念を飛ばすくらいならば造作もないこと。これを、持ってゆけ。
震えた右翼を、そっと二人の前に差し伸べる。
― † ―
結論から言うと、定石、『
六丸』は完全なる失敗に潰えた。一因としては、レムが幼すぎるということもあるし、そもそも全員の息が合わなかったというのもある。六体が揃って初めて成立する、精到なる定石をいきなり真似るなど所詮は
彌縫策にすぎず、いくらほどの才能があっても経験が追いつかない。
熱気と冷気が煙のように濃い湯気を作り、雷による焦げ臭さがそれに付随する。なだらかだった部分はほとんどなくなり、圧による凹凸が代わりにシロガネやまの頂上に広がっている。激闘は周囲を取り巻く雲をも空のかなたへ消し飛ばし、渦を絞ったような空気の奔流を力の中心としていた。
そしてそれらは、つい15秒ほど前の出来事だった。
その戦場の中心で、ゴールドが両腕を広げていた。
――もう、いい。
レッパクたちの火照った体を一瞬で冷ます、無情な宣言だった。
――もうこれ以上は、いい。これ以上みんなが傷ついた姿を見るのは忍びない。結果は見えている。俺たちの負けだ。
「主……」
振り返らずに笑う。
――グレンゲの言うとおりだよ。やっぱり俺、トレーナーになりきれない甘いところがあるんだよなあ。でもそういう非情さをもって手に入れた勝利なんか、これっぽっちも欲しくないんだ。
レッドもそれを聴き、無言のまま中心へと歩み寄る。それぞれは自分のポケモンたちを背後に、戦闘開始前と同じように向かい合う。
みなが意気消沈する中、レッパクは思う。
これで、終わりなのだろうか。
こんなことをしたくて、自分たちはここへ来たのだろうか。
疑問は尽きない。
頭の中の加速が、一向に終わろうとはしない。
むしろ、先程よりもずっと活気が増している。
主が、すっと右手を差し出す。
待ってくれ。
そう、言おうとした。
待ってもらって、どうするというのか。負け惜しみのひとつやふたつを捨て台詞にしてやろうというのか。体内に残された力を全てかき集める努力をしても、無駄なあがきをする勇気になろうとしない。
気づくべき、というより、察するべきだった。
とてもひそやかに。そして、じらすように漂わせる、さりげなさ。
――ありがとうございました。
その手を握りかえそうかという迷いの間隔がレッドにあって、
鈴が一度だけ鳴いた。
誰しもが、その音を耳にした。
聴いたことのある音色だった。
主の全身が、石のように硬直しきった。
その後ろ姿からでも、主の目を開ききった表情がレッパクには見て取れそうであった。レッドを見つめたまま瞳が虚となり、身の毛がよだち、粟立ったに違いなかった。
Xee Lo He Che He La.
Lwo Wer Shi Hi Ha.
主は、
腕を差し出したまま、
ゆっくり、
ゆっくりと、
逆時計回りに、
振り返った。
モミジがそこにいた。全員がその気配に気付かなかった。
瀟洒な格好はフスベで出会ったときとなんら変わりがない。どこにいたのか、どうやって来たのか。不審点がひとまとまりになって喉奥でつかえ、言葉にならない。突然の来訪に肝を抜かれ、その玄妙な動きに目を奪われ、空白が全員の脳天を埋め尽くす。とうめいなスズを右の親指と人差し指とで挟み持ち、左手で袂をぐっとたくわえている。
――ここまで、どすか。
もう一度、鈴を鳴らした。
1年前、主が鳴らしたときは、あれほど透き通る音色は出なかったはずだ。
Xee Lo He Ru U Wa.
Shi E Nie Na...
爆発的な勢いで、気温が急上昇する。上空の一点から、光が形を成し、天使の梯子となって降り注がれる。太陽が落下してきたかのような威圧感にこころが乱れる。つややかな煌きを身にまとい、厳かに下降してくるそれは、
「あいつは――!」
忘れようもない、虹色の巨躯。全員がそれをホウオウの降臨と認めた。視界の左上。にじいろのはねが輝いているのをレッパクは自分でも感じる。衝動に駆られ、無意識にゴールドの前へと立つ。グレンゲに目配せをしようとしたが、あっけにとられるグレンゲにレッパクのサインは届かない。やむ得ず帯電。リニア形式のミサイルばりを少しだけ飛ばし、今度は首もおおげさに使ってグレンゲを急かした。
思念波ではなかった。
「ついぞ決したか」
じゃりっ。
背後、何かの軽い音。主が両膝をついた音。尻も落とさない最後の一点が、渾身の抵抗と見て取れた。
――あ、あ……!
これまでの旅を再び全て破壊する、
心的外傷の復活だった。
ホウオウによって気温を変えられたのだから、人間にとっては決して寒くはないはず。しかし、レッパクですら見たことのない、己の崩壊を覚悟したような表情が、主のそこに刻まれていた。歯の根が合っていない。事の重大さを自分よりも八割増にとらえ、ただ恐れおののき、震える体を止めようとはしない。
――うああ、あああ……!
ホウオウはレムをまず見て、そして主に
頭をめぐらせた。
「吾を見て臆すか。変わらぬな、何もかも」
主を煩わしげな目で見つめ返し、うわ言のようにホウオウは続ける。失望を含めたような、少し切なげな息遣いだった。
「ジョウトはこれまで、か。よもや隣のカントーに譲ろうとは」
ごくっ――。
全員が、一斉に青ざめた。
それは唐突に耳に入り込んできた。
自分が生唾を飲みくだしたのではない。
その
嚥下の音は、まさに呑み込まれた≠アとを意味していた。
両膝をついたままの主の体が、一度だけ弓なりに反れて強く痙攣することにより、震えを止めた。心音が一度だけ大きく鳴ったのを、レッパクは確かに聞いた。ホウオウを見つめたまま、暗雲の雷を浴びたように目を見開き、やがてゆっくりと右へ傾いていく。重力に捕われず、固有の緩慢な速度を保っているように見えた。膝が崩れ、右腕が地面に擦れ、
最後の瞬間、レッパクは、自分の主人と目があった。
体重を感じさせない音とともに、自分の主人がその場に倒れた。
レッパクが、グレンゲが、ドロップが、オボロが、ソニアが、そしてレムが、ゴールドの名を呼んだ。その叫び声の重なり方は、定石、『
六丸』を遥かに超越していた。
【始まりがなんであれ、この意志だけは自分のものだと信じていたよ】 ゴールド
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