41 月蝶揺るる闇夜の苑へ
【おれは何度でも……立ち上がってみせる……】 レッパク
例えば今から始めるのは、11回目の話である。
― † ―
そのときのレッパクは、それでもかろうじて生きていた。
閉塞された薄暗い世界の中で、ぐったりと横たわっている。死んだように動いていない。
だが、なんとか生きていた。それが証拠に呼吸している。
傷口という傷口から血を湯水のようにためらいなく垂れ流し、その水分で砂埃にまみれ、黄と白の毛並みを赤黒く染め上げているその無残な姿は、一見では誰も「それ」を「サンダース」と判別できなかったはずだ。右耳は半分以上を斬り落とされ、歯も欠けた。口の中は苦みのある鉄の味しかしなくて不味い。骨にヒビでも入ったのか、左後脚の力は分裂し、思うように動いてくれない。蒼い暗みの中、左耳の羽根だけがほのかな光を灯していた。
最後の情けでとどめを刺されなかったことが、それこそ死にたくなるほど悔しかった。あいつは、自分がこんな風に悔しがることを知っていて、あえて生かしたのだ。
しかしながら失血は、レッパクと死神の距離をぐんと縮め、猶予は時間にして残り10分ほど。だが、天地の感覚が消失された今なら誤差がありうる。もしかしたらそれすらもないのかもしれないとレッパクは思っている。定石、『時計返』をまんまといただいた。そのせいで左わき腹がばっくりと割れ、そこからの出血が死の主たるものだった。
比喩でなければ揶揄でもない。先に明記しておく。
レッパクは間もなくここで死ぬ。
一匹のハエがレッパクの前足にたどりつく。赤い甘露をひとなめし、銀色の羽を煌めかせながら闇に消えた。
視覚は、まだ少しだけ生きていた。
自分の血溜まりから体を起こす。平衡感覚が噛み合わない。まっすぐがどんな感じだったかも思い出せない。自分の体を引きずるようにして歩き、レッパクは一匹の鳥ポケモンに近づいた。その鳥ポケモンは、レッパクとほぼ同等だった。羽毛の色づきもだいたい似ていて、護も共通するところがあった。姿形が違うだけで、兄弟のようだった。自分同様、どうして生きているのかまったく疑問だった。長いくちばしがひん曲がっており、なるべく見たくない。イバラで洗われたかのような、傷がないところなんてないくらいの、むごい大怪我。治るか治らないか、生き残れるか生き残れないかの問題では、もはやなかった。
一番信じられないのは、自分もこいつも今わの際だというのに、口を聞ける余裕がわずかながらあったことだ。
「生きてるか」
大丈夫か、とは訊かないでおいた。
目から生気を失ったそいつは、ゆっくりと顔を向ける。
「すまんな少年。どうやら拙僧はここまでのようだ。助太刀するはずが返り討ちとは、つくづく不甲斐ない。笑ってくれたまえよ」
少年はやめてほしい、とレッパクはこの期に及んで思う。
「いや、力不足はおれの責任だ。よくやってくれたよお前は。その気持ちだけで十分だ」
「それだけで済む話ではあるまい。いずれ少年も拙僧も、ここで死ぬのだ」
だろうな、とレッパクは思う。
その事実を否定する気力は、すでになかった。
血とともに、熱もとうに失せていた。
こんな所で仲良く終わるだなんて嫌だ、なんて口答えする虚飾もなかった。
性格に合わせて見栄を張るのも、もう疲れた。
やるだけ、やったのだ。
やれるだけ、やったのだ。
やりたいだけ、やったのだ。
主もきっと怒ってくれないだろう。褒めてもらおうなんておこがましいことは望まない。
走馬灯が待ち遠しい気すらした。そこで主に会えるのであれば、むしろそれでも良かったほどだ。
しかし、意に反して最期の直感が来た。あらぬ虚空へ顔を向ける。
「――どこへゆく?」
その問いに対し、レッパクは己が未熟さをけなすように、一度だけ屈託なく笑う。
「野暮用さ。ここで死のうとどこで死のうと大して違いはないだろ?」
「死に顔を拙僧に見られたくないか?」
「いや、そうじゃない。たまにあるんだ、こういうの」
間。
「――先に逝く。少年よ、達者でな」
達者も何も、どうせ死ぬのに。
「――逝ける天国があるといいけど、な」
それが、そいつとの別れの言葉だった。
残り一秒を惜しみつつ、レッパクは何も考えずに歩く。
半身にねばっこい液体がからんでいる。散々血を吐き出したはずなのに、今になって強烈に口が渇いてきた。声にならない声が喉奥からかすれ落ちて、ふと油断をすれば亀裂が走りそうになる。一歩進むごとに左の後ろ足にぐらつきが伴う。血を出しすぎて、酸素がうまく全身に回らない。そのせいで筋肉が思った以上に早く疲労を訴えてくる。筋繊維の隙間に金属片をねじ込まれるような苦痛。動悸が弱々しい。息は浅く、再々にあえぐ。
真っ黒い死はもう背後まで来ている。怒りや悲しみといった原色の感情はなく、茫洋としたこころにはただ静かな絶望が落ちていた。心臓はそれでもしきりに働いてくれるが、あと何回叩けば止まることか。
幾度となく足がもつれ、ぐしゃりと倒れ伏した。傷口から噴き出す真っ赤な血潮が、太陽を跳ね回るプロミネンスのように美しい弧を描いた。
死ぬことより立ち止まることが嫌で、何度も起き上がる。首をぶら下げている最中、血混じりで半透明の桃色となった唾液が、緩みきった口の先から糸のように長々と垂れ落ちた。
前を目指したい。地面だけは見ないようにしたい。一歩でも先へ進んでいれば、死に対しても前向きになれそうな気がした。
固まりそこねた血液は足を伝い、群青色の草道に赤い斑点を残していく。
― † ―
そうしてなんとか、レッパクはそこ≠ノやってきた。道のりは複雑だったはずなのに、限界にまで追いつめられたこの体と頭をどう駆使して到着をなし得たのか、レッパクはもうまったく憶えていない。
呼んでいるのか、呼ばれているのかは、判別つかなかった。
そいつは、最初にこう言った。
やっぱり来ちゃった。
朦朧した意識の半分だけで、レッパクは返した。
「なんだそれ」
うんや、こっちの話。ねえ、僕が誰だか知ってる?
「悪いが全然知らない」
だよねえ。うーん。分かりきったこととはいえ、ちょっと切なかったり。
レッパクは鼻で笑った(つもりだが、息を吹きつける力もあまりなかった)。
「血迷ったんだろう。どうしておれは見知らぬお前に会おうと思ったかすら自覚できないんだ」
ううん、きみは知っているはずだよ。きみ自身もたどり着けないほどのこころの奥底に閉ざしちゃって、思い出したくないだけ。きみ自身の生き方が証拠だ。
「そうなのか?」
きみの思うままでいい。絶対知っているはずだ。死ぬくらいの勇気があるなら、言ってごらん?
レッパクはまたも顔を伏せる。冷たい空気が耳の断面や傷口に染みこんで、神経がひりひりとした。
「やり直したい。全部」
血混じりの声で、呟いた。
長いしじまがあった。
そいつのため息。
何度もそのひどい姿見せられるこっちの身にもなってよ。
そっちが言えっつったくせに、とレッパクは思う。
顔を上げて、
「お願いだ。このまま終わるのなんて絶対に嫌だ。死は怖くないけど、無駄死にはごめんなんだ」
僕にとってはどっちも一緒だよ。何も変えられない確率のほうが、万倍も億倍も高いんだ。次こそはうまくいくだなんて保証、どっこにもないんだよ?
可能性が生きているのならば、レッパクはそれにしがみつくしか道は残されていない。
「それでも、だ……頼む……。『今』の『全部』、投げうってもいいから、やり直したい……おれは……こんな結末……ごめんだ……。だって……だってあんまりだろ……こんなの……なあ……」
何かが、全身からうっすらと引いていった。
限界は、心臓の遠い下半身から殺し始めた。
こころが音も立てずに砕けていくのを感じる。虚勢を貫く精神力も枯れたレッパクはついにその場にくずおれる。神経は先ほど死んだ。五感もろくに働かない。循環器系に今更活動を求めることなど無駄だった。
あまりにも、あんまりだった。
頭の傷からまぶた、まぶたからほおへと血が伝って、レッパクは赤い涙を流してるようにも見えた。
そいつは切なげな表情で見返してきた。
もう、しょうがないな。じゃあまた『全部』戻すよ? いいんだね?
「……ああ……」
そして、レッパクの心臓は、その数秒後に止まった。
第三章 七つの戦火、血の記憶
41 月蝶揺るる闇夜の苑へ 加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が止まらない加速が
おい、レッパク、大丈夫か、レッパク。
誰かに体と意識を揺さぶられて、レッパクはやっと目を覚ました。
「――ぁ、あ?」
頭の中の加速がふと緩む。感覚が急浮上して体の一点に集結される。両耳が空を切ってひょいんと跳ねる。体内を逆巻く反動につられて顔を起こす。茫然自失にも等しい寝ぼけ眼で、付近を見渡す。
ただの真夜中だった。
頭の中の加速が収まっていく。チャンピオンロードの手前、26ばんどうろで野宿していたことを認めるのに、なぜかずいぶんの時間を要した。
穴を埋めた五円玉のような満月と、薄明かりの星座が夜空に浮かび上がっている。神秘の光を瞬かせた、時空のアート。地上には力なく揺れ動く炎。焚き火はすでにすっかり勢いをなくし、細い毛糸のような白い煙を出していた。グレンゲもドロップも、オボロもソニアもレムも、広大な大地に抱かれて深い眠りに落ちていた。
頭の中の加速が、ようやっと止まった。身もこころもぐちゃぐちゃの違和感まみれだった。眠気のしっぽだけが全身のそこかしこに残り、香辛料でも擦り込まれた風に神経がつーんとしていた。ふと不安になったレッパクは体の無事を確かめたくなって、臨戦心理の回路を少し炊きつける。前足は――動く、目も、動く、首も、動く、
目と鼻の先に、ゴールドの顔があった。
「主?」
主はみんなには聞こえないような小さい声で、
あ、いや、起こして悪かった。なんか気の毒なくらいうなされていたから、悪い夢でも見ていたのかなって。
「ご、ごめん」
レッパクはまごついた。うなされるだなんてまったく身に覚えがなかっただけに、どう弁明すればいいのか言葉に詰まった。もしかしてこれが一回目なのではなく、みんなずっと前から知っていたのではと思うと、情けない気持ちが湧いてくる。
眠れるか?
「ああ」
うなされていたなんて思えないくらい、脈は落ち着いている。
人間も夢は見るし、自分たちも見る。けれど内容がすっかり思い出せない。もしかしたら、見ていたかどうかも怪しい。黒い霧の向こうにある記憶は、脳裏にかすかな映像を結びつける。色彩の奔流が目的もなく弾け、うたかたとなって消えていく。夢は毎日見るものだ、憶えていないだけの話だ、と論じたのは誰だったろう。
安心した主は一息ついて、よつんばいで自分の寝床に戻り、再び寝る姿勢となった。
その枕のそばにレムがいた。闇色に溶け込みすぎて、首飾りがなければそこに子供ムウマがいるだなんて誰も気づかない。
その組み合わせに、こころがちくりとした。
寂しさと、妬ましさの狭間の感情だった。
レッパクはしばらく考え、かなり迷い、恥ずかしさを内心で打ち負かし、立ち上がった。
近寄って、
「主」
うん?
「、ん、えっと。その。」
主は淡く笑い、
なんだよ?
「。……。………。………………おれも、一緒に寝ていい……?」
いきなり余計なものを挟むが、ここで甘えん坊ランキングの話をする。
ゴールドに一番まとわりつきたいのは、レッパクでもなければレムでもない。オボロだ。
レッパクだって抱きついて頬ずりのひとつやふたつ、やりたいと思ったことはあるし、やったことだって昔何回もある。いやまあ、なんというか、一番長く付き合ってきたし、これでも一応年長者だし、メンバー増えたし、みっともなさが先に出るため、むやみやたらなことはしない。
オボロもオボロで頑固に築いてきた性格上、みんなの前で滅多なことができないため、かろうじて自制している。レッパクたちこそいなくなれば、自尊心も何もかも捨てて、凄いことになるんじゃないだろうか。それはそれで興味深い。
んで。
その極致を軽々とやってのけるライバルが現れたとしたらどうなるか。
レムはその点知ってか知らずか、最年少かつ新顔の立場を存分に活かした。「べたべた」と「べとべと」の中間くらいの状態で、ゴールドに甘えている。周囲にピンク色の空気が漂っている感じすらする。そりゃもう、オボロのジェラシーっぷりといったらなかった。態度には出さない振りをしているがバレバレである。ゴールドも悪い気しないところが、なおっさら嫉妬心をそそらせている。みんなの目の届かないところで血も凍る「ヤキ入れ」とか「かわいがり」をしなければいいが。
主はさっきよりも大きく笑い、
やっぱり怖い夢見てたんじゃないのか?
「よく憶えてないけど――そうかもしれない」
さっきやっつけた羞恥心がゾンビのようにしぶとく蘇り、レッパクはほんのり顔を赤くした。耳の先まで熱くなったが、それでも悟られなかったのは暗闇のお陰だ。変な夢見たごときで主人のそばに寄りたくなるなど、レム以下の子供だと、自分でも思う。
主は横になったまま腕を差し出し、柔らかく頭をなでてくれた。レッパクはもちろんこれが好きだった。緊張も嫌なことも何もかも溶けていく、魔法の手。ボールの握りすぎでたこが出来上がっている箇所を特に感じた。
かゆみを覚えるところは電流で解決できるし、毛の隙間を住処とするノミなどは簡単に焼き払える。人間の手を借りるまでもなく、レッパクは自身の衛生面を自力で管理することができた。だからその分、人間の手で頭をこすってもらう感触がとても新鮮で、嬉しくて、はにかみたくなることは何度もあった。主は電気や火炎を出して戦うだなんてすごいと褒めてくれるが、それは自分たちも同じ気持ちである。すらすら文字を書いたりぐつぐつ料理をしたりぱしぱしパソコンを触ったりと、とても複雑そうなことをいとも簡単にしてみせる。レッパクは、そういうところに人間の魅力を感じていた。
自分は、この「よしよし」と「よくやったぞ」のために、忠誠を捧げていると言ってもいいくらいだ。このためなら、なんだってできる気がした。
遠慮するなよ。自分が損するだけだぞ。
体をずらし、スペースを作ってもらった。レッパクはもじもじしながらも、そこで猫のように丸くなった。鼻を後ろ足に近づけるやり方。チビのイーブイのときから身につけていた寝方のひとつだった。みんなも寝るときは思い思いの体勢をとるが、ソニアは目を開けて突っ立ったまま寝る。加入当初はえらく不気味だと思ったりもしたが、慣れるとこれはこれで面白い。ん、待てよ。ってことはもしかして狸寝入りしているんじゃないのか。とりあえず今はからかうのを辛抱して、朝になったらみんなに密告するって腹じゃないのか。もしそうだったら、いいだろう、ここでぶち殺す。
主の体温が、すぐそこにあった。
「なんていうか、久しぶり、かな。こういうの」
俺もそう思う。結構大所帯になったもんな。お前のことだ、一番先輩だからずっと我慢してたんだろ?
「主には嘘をつけないな」
お前には感謝してるよ。今までありがとう。これからも頼む。
「うん」
こっちが感謝したい気持ちは、きっと主以上だと、レッパクは思う。主から色んな物をもらってきたからこそ、今の自分がここにいる。
目の奥に、じんわりと込み上げてくるものがあった。
それをごまかしたくなって、無理して話題を作る。
「さっき、うなされてたって、話だけど」
ん?
「多分、だけど。みんなから置いていかれそうな夢だった、気がする」
まさか。みんながお前を置いていくはずないよ。
「気がするだけだ。言ってて自分でも違和感ある。なんだろう、決していい感じの夢じゃなかったのは確かなんだ。訪れたことのありそうな、薄暗いところだった。主も、みんなも、どこにもいなかった。別の誰かと何かの話をしてた。自分でもおかしいくらいめちゃくちゃで、自暴自棄になってて、こころ細かった――そんな夢」
ふうん。まあ、夢って大体がそんなもんだから。よく憶えていなくて当然、支離滅裂で当然だよ。
「――おれがみんなから置いていかれるのか、おれがみんなを置いていくのかすら、よく分からない」
そう。
違和感の正体は、まさにそこにあった。
みんながレッパクを置いていくはずがなかったのだ。
むしろレッパクがみんなを置いてきたのだったから。
15回目、だった。
― † ―
レッパク。
……ん?
おやすみ。
……おやすみ。
主の手は、まだレッパクの頭にあった。
朝なんて来なければいいのに、と思った。
ずっと、ずっと、こうしていたかった。
主に気付かれないように、レッパクはちょっとだけ泣いた。