番外編 滴と朧
わたしは海を見ていた。彼は空を見ていた。
番外編 滴と朧 見目姿がいくら魅力に溢れていようと、中身はあいにく伴わないことがある。わたしにも非常に身近なこころ当たりがひとつだけある。目の前にいる。そんないじっぱりな「彼」のことを知るようになったのは、彼が正式な加入を果たしてからではない。ご主人とともに、ワカバタウンへ戻ってきたときからだった。その時の彼はまだ進化しておらず、小さな、本当に小さな野生のビブラーバだった。
3番目だと思っていたわたしだったが、どうやらご主人にとっては、潜在的な4番目ともとらえられるようだ。
なんとなくだが、残念だった。
一方で、そのとき以前からすでに、彼はかたくなな態度を涙ぐましいほどに作り上げていた。
不安がないと言えば、もちろん嘘になる。
万が一仲間になってくれた後も、わたしたちははぐれ者の彼とうまくやっていけるのかどうか。
ご主人に余計な迷惑をかけたくないだけに、それが当初からの悩みの種だった。
引く手数多に違いない、色鮮やかに光る翼としなやかな体格。見た目の立派さだけではなく、戦闘における実力も確かで、唯一飛行能力に長ける。二番目に素早く、二番目に力持ち、二番目に守りに優れ、二番目に技が多彩という無冠の帝王。普段は物静かだがツメのようにキレた気性を持ち、色々と難しい事情を抱える。嫉妬深く、一方でご主人からの信頼は厚く、彼も本当にこころを許しているのはご主人だけ。わたしたちにはあかんべー。仲間になったのはつい最近で、そういう観点から考えれば、新入りという立場になる。しかし面識に関しては昔からで、それだけにメンバーとしての優位性も中々高い。
つきあいにくいことこの上ない。
「どうしてぼくが今更ついていくことを決めたかってこと?」
「ええ」
「そんなこと知ってどうするの」
苦々しそうな赤い視線を受けつつも、わたしは改めて、彼の姿を眺める。
菱形の綺麗な双翼を背負う、細身のフライゴン。
美しかった。
月並みな表現しか思い浮かばないが、わたしたちが見ても、人間たちが見ても、口を揃えてまずそんな感想を述べるだろうという強い確信がある。それだけに尖った性格も目立ち、相反する「外」と「中」の落差を一層のこと際立たせていた。もっと胸を張ってもよかろうに、コンプレックスを教え込まれた幼き頃の自分が、どうしても首を縦に振らないようだ。日常生活に支障をきたすほど、妙なところばかり態度が大きくなっている。輝きのやまぬ翼とは相対的な、靄がかったこころの闇が、わたしたちの知らないどこかに潜んでいる。
当時無謀で世間知らずだったわたしにも、人間とともに生きる選択をする、ターニングポイントというものがあった。それからというもの、何事にも飛び込むよりも先に考えるようになり、みんなはわたしの性質をしんちょうと呼ぶ。しかし、このような思考性のベクトルを持つようになって、わたしはこれといって後悔していない。生きていく中で得たものを身にまとっていると称すればそれまでだった。これが、「今」のわたしだ。
そうなった「今」からでも、遅くはないはず。
わたしは今日、思い切って彼の闇へ潜ってみる。
彼のことがもっと知りたい。
誤解を紐解き、彼の本質、本音を探りたい。
今日は、昔の自分のことを呼び出しつつ、行けるところまで踏み込んでみようと思う。
「そりゃあ気になりますよ。これまでさんざん知らんぷりをしておいて、今になってご主人に背中を貸すだなんて」
「状況が変わった、じゃあ納得しない?」
「はい」
実は、おおよその見当はついている。口にしたら金輪際話し相手になってくれないはずだから、黙っていることにする。
その旨を彼自身に言わせ、聴き出すことが、わたしの目的だ。
無視とは違う、断続的な間があった。ためらっているのか、反芻しているのか、それは見当つかない。
「――あんたたちがいたから、戦力に関しては十分だと思ってた。ぼく自身は進化しきっていなくて弱かったし、正直なんのためについていくのか、そこが分からなかった。一回目も、二回目も。だから考える時間が欲しかった」
「戦いに限ったことでも無いのでは?」
うん、と彼は珍しくうなずき、話をうながして、
「だから進化した後、こっそり空から見てた。気づいてた?」
――?
「ずっと、ですか? アサギの海やチョウジだけでなく?」
「一度見つけたからには、ずっとつけてないと見失う。いくらぼくでも、人間ひとりを再三に渡って探し出すだなんて面倒だよ」
驚きだった。
となると、わたしたちの旅は、彼に上空からずっと観察され続けていたことになる。彼の言わんとすることは分かってきた。安い同情、などではない。アサギからタンバへ向かい、帰ってくるだけの道のり。その間は、最低限わたしがいれば事足りる。『いないよりかは、いたほうがいい』といった考え方をされるのが気に食わなかったのかもしれない。
しかし、今はもうそんなことを考えなくても済んだ。新たな道が開かれたならば、彼の力は欠かせなくなる。水を渡るわたしの力が発揮されたのと同様、現に彼の力も即座に披露されることとなった。それに、アサギの海で助けてもらわなければ、わたしたちは今頃どうなっていたことか。油断していたつもりではなかった。海の潜める魔力は承知している。それでも及ばないところがあるときつく教えられたのは、今後の行く末を暗示していたのかもしれない。
そして、次なる問題が出てきた。
これからどういった時に、彼の力が頼りとなるのか。
冒頭で断っておいたことだが、彼は嫉妬深い。ご主人が彼以外の龍の背中に乗った光景を目にし、自分の胸中を強いものにしたのだろう。
わたし自身、そうだからだ。
彼もわたしも、背中に人間を乗せることができる。その観点から、わたしは主観的にそう考える。
ご主人がわたしの背中に飽きて、よそでなみのりして楽しんでいたら、少なくとも愉快ではない。
人間が自分の可能性に期待をかけてくれるから、わたしたちも精一杯それに応える。そこに両者の喜びがうまれ、関係がより深まってゆく。
「あんたが前に言ったとおり、ぼくにだってプライドがある。人間と生きる上での、戦う上での、位置づけをしたかったんだ。何もせずにただついていくのは、ぼくにとっては死んでいるのも同然だ」
いつの時代になってもそうだ。
誉めてもらいたいのだ。
だから彼も、生まれつきの体質うんぬんをさておいた、彼自身の可能性を見極めてほしかったのだろう。
単に他とは違うから、といった構え方で近寄られるのが、面白くなかったのだろう。
まさか、ご主人に限ってそれはないだろう。けれど、それはわたしたちがご主人と生活を共にしてきたからそう言えるのであって、彼とご主人は、深く両者の世界に立ち入ってはいなかった。
ある意味では、他の誰よりも一番、彼は自分の気持ちに素直だった。
「そう思ってていいよ。あんたの解釈にケチをつけるつもりもないから」
その通り、これはあくまで彼の言葉から察した一方的な私の思いこみで、真実は彼の中にしかない。
「自分の力の使い道、ご主人なら正しく扱ってくれそうですか?」
「そう信じてる。あんたは海で、ぼくは空。本当にやりたいことを見つけて、本当にぼくを必要としているのなら、力になってもいい」
「大丈夫ですよ。私も信じていますから。信じたからこそ、ここまで来られたんですから」
「あんた、あいつが好きなの?」
不意打ち過ぎて、心臓が喉からはいずり出たかと思う。
かろうじて石化を免れた思考の隅っこが、実に安っぽいカウンターを選んだ。
「。――、そ、っくり。お返し、します」
「あっそ」
― † ―
さて、どうだろう。
素直に認めてもいい。わたしはご主人が好きだ。恋愛沙汰の生臭い話でも、血に記憶された本能的な不可抗力でもない。わたしにとってご主人は命の恩人で、この気持ちは敬愛に部類するものだ。わたしのこころを暗闇の底から引っ張り上げてくれたあの人には、感謝の言葉でいつも胸がつかえる。
ご主人についていくみんなが、そうだ。
尊敬すべきところがある。
弱いところ以上に、強いところがある。
だから、わたしはついていく。弱いところがあるのならば、わたしがそれを支える。そうすれば、わたしはわたしに意味を与えることができる。それを慰めの拠り所にさせられる。
彼は、どうだろう。
彼は、ご主人の何に惹かれたのだろう。何を支えたいのだろう。
それはまた、今度の楽しみにとっておこう。