35 龍の律動 その3
【断っておくけど。ゼロ距離って距離が0のことじゃないわよ】 イブキ
35 龍の律動 その3 ――妙じゃ。
ジム全体を埋め尽くすほどのしろいきりが充満している中、バンリは静かに思考する。
何かが始まろうとしている。
霧を張ったのは、不意を突くためか、時間を稼ぐためか。いずれにせよ、これが布石にすぎないということは、バンリにも容易に察せた。目に映るものだけが全てではない。
戦とは全身で視るもの。流を護としているため、ドロップほどではなくとも、この霧の中の動静は多少なりに感じ取れた。
奇襲をかけずその場に居座り続けている大きな存在。おそらくは小娘ドロップ。
なぜか単独でちょこまか動き回っている小さな存在。おそらくは
小倅ゴールド。
宙からおずおずと様子をうかがっている大きな存在。おそらくは局とグラヴィたち。
突如、でたらめに放たれるみずでっぽう。
オボロがいなかった。
――はて。
彼奴らめ、何を企んでおる。
どれだけ入念な意識をこらし、たなびくヒゲから特有のパルスを放ってみても、あの龍の気配だけは一向につかめない。
背後を取られる気がしてならない。バンリは少しだけあせりを覚えた。
やむを得ない。本気を出そう。
全て一掃してくれる。
何かが始まろうとしている。その前に、こちらから打って出る。
トライアタックと『三位一体』の相性がいいのと同じように、この奥義には、うまく制御するための定石が伴う。しかし、その定石はあまりの難易度のため、老練なバンリでさえ修得しきれていない。こころ得なくとも発動できないことはないが、心技体を一糸乱れなく重ねたとき、バンリは更なる世界へゆける。四天王を凌駕するほどの力を誇れるはずだ。
――妾もまだまだ青いのう。
雲のように高い志をむなしく打ち消し、バンリはその場に細長い墨を吐く。辰が護の者しか読み上げられない独特の古文をそらで書き連ね、円環状に仕上げてゆく。
呼び寄せるは破壊の使途。差し出すは自分の精魂。
ひと通りを書き終えたあと、左右のヒゲをちょろっと動かし、印を結ぶ。すると、墨が自然と地面をなぞり、式の残りを書き上げ、見るも鮮やかな円陣が作られた。
真っ黒い魔方陣が、バンリを中心に、バトルコートを染めあげる。
― † ―
――ドロップ。お前今、すっげーやな予感してるだろ。
「それはご主人も、でしょう」
ゴールドとドロップはじりじりと後退し、身を固めあう。
――そなたが霧の結界を張ってくれたからの。妾も堂々と呼び寄せることができたわ。
霧の向こう、こちらの様子が見て取れているかのような口ぶりで、バンリがささやいてきた。あざ笑う姿が不思議とゴールドにもたやすく想像できただろう。白く霞む空を見上げるドロップも、薄々、事の深刻さに感づき始めた。
何かが、ジムを軽く押しつぶせるほどの巨大な何かが、上空からゆっくりと下降し、威圧してくる。
ヤバい。よく分からないがべらぼうにヤバい。ぜってえロクなことが起きない。ゴールドもドロップも強烈にそう思う。例えるなら、「グレンゲがガソリンスタンドで働く」くらいヤバく、「オボロがファーストフード店でカウンターを務める」くらいヤバく、「ソニアがテーマパークで風船を渡すアルバイトをする」くらいヤバい。
――怨むならそなたたち自身の兵法を怨むがよかろうて。視界が不明な以上、妾はこれしか打つ手がないのじゃ。定石を開眼できておらぬゆえ、手加減は保証しかねる。己の無学さを許してたもれ。
言うより早く、本能がドロップの体を蹴飛ばした。正常な思考が蒸発してしまい、何をすればいいのかまったく着想が追いつかない。が、何もしないよりかは何でもいいからやったほうがましだ、と古典的な考えだけがドロップを駆らせた。
今更バンリを叩いたってもう遅い。回避は不可能。受け止めるしかない。
これではプランが
Destroyに変わってしまう。否応なく一時中断。悲壮な覚悟のれいとうビームで地上に半球体を作り、大きさよりも厚さを重視したシェルターを施す。なんでもいいから、兎にも角にもゴールドを守ることを第一優先に置き換えた。トレーナーが己の戦いから背を向けてはならないのなら、自分が背を向けよう。シェルターに身を預け、空から背け、上半身でご主人を包み込むようにした。ドロップに包み込まれながら、ご主人も何かを両腕で掻き抱き、胸元へ押し込めている。
――『星』を呼べるのは、グラヴィだけではなくってよ。
霧の向こう、自分だけがバンリの腹を見抜いたかのように、イブキまでもがささやいてきた。
来たか、とだけ、バンリは思う。
ジムから見上げるのにはでかすぎて、それはもはやひとつの天体だった。
戦闘開始から間もない時期に呼び寄せるのはある意味では屈辱的だったが、英気のあるうちに呼び寄せることができた。霧を逆利用して、時間も十分に得られた。
「星に還るがよい」
力を振り絞り、バンリは最後の印を結んだ。黒の魔法陣が地面へ溶け沈んだ。
突如、鋭い光が幾重にも巨大な星の内側から差し出され、音もなく自ら崩壊し、空一面へ散りばめられる。
この世の全てが嫌になるくらいの光弾の群れ。
バンリの切り札、りゅうせいぐん。
霧の障壁を突き破り、一気にゴールドとドロップのもとへと降り注いでいった。
たとえ微細な粒だろうと、星の欠片は超々爆発的な破壊力を誇っていた。
聴覚を引きちぎられそうな爆音の中でも、ドロップたちの悲痛な声がバンリにはよく聞こえてきた。二重の音と共に大地は大雑把にさらわれ、激しく縦に揺れる。
光弾を使い切るのに、それほど時間は要さなかった。満ち溢れた光は消滅し、絶望の残響が空気の跡を曳いた。ジムの外壁の軋みもおさまり、しろいきりはとっくに効果を失っている。代わりに戦場を支配するのは、砂煙の積乱雲だった。
――さて。あの小娘と
小倅どもは持ちこたえたかのう。
自身としてもかなりの体力を消耗したバンリは、水を撒いて簡単に視界を修正する。
予想は大体当たっていた。
三者は、驚くほど近い距離にいた。
ドロップがバンリに背を向け、己を盾にゴールドを守っていた。
氷のシェルターを張っていたことにバンリが気づかなかったのは、跡形もなく砕け散っていたからだ。光弾の威力と比べるのもかわいそうなくらい、やわな氷壁だった。しかしながら数発は防いでみせた。それが立つか伏せるかの僅差をうみ、ドロップの意識をかろうじてつないだ。
ドロップの口から、か細いため息が漏れた。
「ご主人……お怪我は、ありませんか……?」
――な、なんとか。それよかお前のほうが重傷だ。
「これしきのこと、と言いたいところですが――正直、限界です。あとちょっと揺さぶられるだけで飛びます」
両方とも、気分も格好もずたぼろだった。ドロップの額から垂れる赤い雫が、ゴールドの頬に生暖かそうな感触を落としている。のろくさした動きで体を起こし、バンリと正対、それでも苦痛を表情に出さないよう努める。ゆっくり横へ傾きかけたドロップの首を、ゴールドが全身で支えた。
――もう少しだけでいい、頑張ってくれ。ここからが正念場なんだ。
「ええ」
その気になれば今すぐにでも決定的一打を与えられたが、バンリは両者の体勢が整うまで待っていた。
ゴールドの瞳を見る。あどけなさを残す15の少年とは思えないくらいの雄々しき光が宿っている。諦めも食い下がりも感じさせない。ただ戦況に身をゆだね、行き着くところへ流れようとする気構えだけ。一人の人間、一匹のポケモンという肩書きを捨てた先にあったのは、まさに
戦場に生きて戦場に死ぬ、
兵の潔さそのもの。
バンリは実に嬉しそう笑った。
「天晴れかな。よくも耐え抜いてみせた。そなたたちの力、このバンリが認めよう。これ以上の余興は要らぬ。安心せい、もう空威張りする必要はないぞよ。そなたたちに敬意を表し、詰めの一手を」
背後。
真っ白い鋭痛が、稲妻のようにバンリの背中を走った。
プラン
D。
― † ―
りゅうせいぐんによる局地的な大爆撃。白い煙が茶色い霧へと変わり果てるさまを、イブキとグラヴィたちは空から嘱目していた。
「い、いつも思うんだけど、これってやりすぎじゃねえかな。死んで、ないかな」
――ばか、敵の心配してどうするの。これは戦い。命のしのぎあいなのよ。
「でも、でもよう、」
――大丈夫よ。バンリがりゅうせいぐんを使ったのは、あの子たちの技量を見切ったからこそ。バンリが本気を出さねばならないほど、あの子たちが強いということよ。軟弱な相手に見せびらかすほど落ちぶれちゃいないわ。
グラヴィたちが恐る恐る土煙の中へ身を沈めようとしたとき、急に水のショットガンが内から飛び出し、ちょうどアーボ1匹分の右を通過した。
「みずでっぽう――あ、ああああいつら、バンリのりゅうせいぐんをくらってまだ起き上がれるのかよ! うそだろ!」
グラヴィたちが泣き声を濃くした。
その仰天ぶりがあだとなり、2発目は更に正確にグラヴィたちを狙ってきた。
――いや、違う。この2発ははったり。観測のための射撃。次が本番よグラヴィ、構えて!
「うわあん! もうやだあっ!」
口を開けば弱音ばかりだが、追い詰められれば追い詰められるほどグラヴィたちは強くなる。深層心理で圧縮されたフラストレーションが炸裂するその瞬間を、イブキは何度と見ている。嫌だ無理だと言いつつも、3つの頭が感覚を共有し、全神経を尖らせたその様はどうだ。臆病だから避けられたのではない。強いから避けられたのだ。少々かわいそうだが、愛の鞭を手にとって戦意を奮い立たせるしかなかった。
プラン
E。
「行きます、よ!」
煙の向こうからの、弱々しくも凛とした声。
本気で照準を絞り尽くした、信念の3発目。今までのみずでっぽうの中でも、一番強力で大量の水勢だった。バンリの放つそれよりも威力が上ではなかろうか。
「やあ――――――――っ!!」
見切って、避けた。
喜ぶ間もなき4発目。
それは見切らなくても平気だった。3発目とさほど変わらない軌道だった。
4発も撃たれると、いくら錯乱状態のグラヴィたちといえども、どこから発射されたのかくらい分析できる。泣きじゃくりつつも三色の星を生みだす。青、赤、黄。小さな月と太陽と地球のようだった。
3つの頭が臨戦心理を融合させ、それぞれ距離や角度や矢頃を高速演算。いじめられっ子さながらの妄執をたぎらせ、仕返しのトライアタックを地上へぶっ放した。バンリのりゅうせいぐんに比べればププリンのくしゃみのようなかわいいシロモノだったが、とどめを刺すのには十分のはずだ。あいさつがてらの波動のときと同じ螺旋を束ね、3つの相反するエネルギーが土煙を押しのけていく。
トライアタックによって晴れて明瞭になった地上、ドロップとゴールドが真正面からくらい、木の葉のように吹っ飛ばされた。
ついにドロップが力尽き、余波をこらえきれなかったゴールドも豪快に転び、大の字に倒れた。
「やった! これで全員――」
ゴールドたちのそばで気を失っているのは、バンリだった。
引き算の問題。
腹の底が冷たくなった。
――オボロは!?
イブキが叫んだとき、信じられないことが起きた。
再三と周囲を確認したはずなのに、オボロが陽炎のようにグラヴィたちの後ろへ現れていた。
りゅうせいぐんをくらったはずなのに、オボロは無傷そのものだった。
太陽を背負い、逆光でグラヴィたちよりも薄黒く塗りつぶされていた。
イブキとグラヴィたちの顔が凍った。応戦と逃走の動きが同時に出た。
よくもゴールドとドロップを痛めつけてくれたな、とオボロが思った。
かつん、と固い音がした。誰かのモンスターボールが落ちた音だった。
オボロが出現し、グラヴィたちが振り向いてから、一秒少々が過ぎた。
それが、勝つか負けるかを分かつ瞬きだった。
プラン
F。
お仕置きの時間だ。
さて、縦と横、どっちで斬ってやろうかな、とオボロが思ったとき、
斜め斬りだ――――――――――――――――っ!!
仰向けになったままのゴールドの声が天を突いた。
オボロの体がそれに反射した。
手早く右の爪を左腰へ納め、浪人の居合い抜きといった動作を瞬時に開く。
グラヴィたちの左下から右上へ、素晴らしい太刀筋が滑った。
右へ払った勢いはまだ死んでいない。身をねじって時計回りし、次はしっぽを腹部にどやしつけた。それに伴う左腕が下りの斬撃を描いた。
されど負けを認めたくないグラヴィたちが、後方にへし曲がった体をがむしゃらに正した。そのときにはもう何もかもが遅かった。絶対に確保しておくべき懐の間合いを、オボロが潰していた。
定石、『
四閃村祭』。
套路も起式もなく、オボロは翼龍の舞踏劇を始める。
一閃、若き日の。
星を、牙を、かわすその都度、軽やかに舞い、雄渾な一太刀を浴びせていく。
二閃、想いを託し。
グラヴィたちのわるあがきすらも踊りの内に取り込み、前もって打ち合わせていたかのようだった。
三閃、龍の背に。
ここでオボロは背後に回る。グラヴィたちの背中から放り出されたイブキを両腕で受け止める。
最後は爪ではなかった。オレンジの翼を水平に構え、鋭さを形成。グラヴィたちの脇へめがけて最後の突貫。そこにある隙間を一気に駆け抜け、
四閃。