32 トレーナーの代償
【その反芻に意味が存在するのかどうかは、ぼくたちには決められない】 オボロ
32 トレーナーの代償 違う。
認めない。
自分はこんなことのために、今日ヤナギに会いに行ったのではない。エンテイと戦火を交えたのではない。
無論それは向こうも理解していよう。単にゴールドは自分を助けるために手を貸してくれたのだと。時間を置いて、再びジムを訪れ、正式なバトルを申込むつもりなのだろうと。
相反する事実を、ゴールドはここに突き付けられた。
ゴールドの握り拳は、アイスバッジを固く孕んでいる。力を込めすぎて、わなわなと小刻みに震えていた。
直に手渡されたわけではない。いつの間にやらポケットのしのばされていた。一緒に戦っていたときか、肩を貸していたときか、空を飛んでいたときか。どのときも露骨な接近をされなかっただけに、ひどく不快な不意打ちにも思えた。
ヤナギは、閉まれるジムの扉の前で立ちはだかっている。熱に炙られて顔を流れる汗は、風で乾いて鈍く光っていた。先程までの、わずかながらに残されていた快活な印象までもが消沈し、これではただの老爺であった。
「――わたしも無理をしすぎた。ジムもごらんの有様だ。パートナーであるマンムーもしばらくは戦えん。しかし、きみときみのポケモンの強さも十分知った。きみなりの『答え』からも学べることもたくさんあった。わたしはそれだけで」
「そうじゃない!!」
びり、とゴールドの怒声がヤナギの小皺多き肌に迫った。
ミカンと同じような考えをされることが、ゴールドにとってはつらく寂しかった。用意されたものを拾い食いをしつつ道を進むのでは、なんの意味も得られない。ポケモンたちと一緒に全力で走らねば、自分はいつまでたっても弱い生き方しかできない。
カンニングで満点をとっても、ゴールドはちっとも嬉しくない。むしろトレーナーとしての面目を潰される気だった。
「きみはここで止まるわけにはいかない。すぐにでも前へ進むべきだ。わたしのような老害のために貴重な時間をつぶす必要性はない」
もはや敵意さえも添えて、ゴールドはヤナギを睨み返す。
「冗談はやめてください。それでは本当に近日線香を立てられていそうに聞こえます。俺を見くびらないでください。あなたのために削ける時間なら、いくらでもあります」
ありがとう、とヤナギは杖に支えられたまま気品あふれた仕草で頭を下げた。
「わたしはな、ゴールドくん、こう思うのだ。ポケモンリーグに挑むのではなく、あやつらと対峙するために、きみたちはいるのではと」
ゴールドは、すぐには意味をつかみかねた。
「何やらもっと重大な秘密を抱えているような気がする。なぜかきみを特別に意識しておった。四天王たちの実力をもってしても、あやつらを組み伏せることは難しいやもしれん」
あいつらが異常なのは疑いもないところだ。あれほど気迫みなぎるポケモンは見たことがない。とはいえ、未知なる者同士の力量を天秤に計られても、ゴールドはとっさには判断しがたい。
「あの時、きみがわたしのもとへ駆けつけてくれなければ、きみのバクフーンがわたしのマンムーをかばっていなければ、もっと危ない目に遭っていただろう。無謀なのはわたしだった。その時点で、すでにわたしたちの勝敗は決していたのだよ。――さ、もうお行きなさい。きみはわたしに『勝った』。ジムリーダーを打ち負かしたトレーナーが冷やかしで長々とここにいるものではないはずだ」
それを最後の言葉とし、ヤナギはいまだ熱気こもるジムの奥へと呑み込まれていった。
扉が閉じられる最後の瞬間まで、ゴールドはヤナギを睨みつけていた。
その扉に、バッジを叩きつけてしまいたかった。
とうとうそれができなかった自分が、世界一の腰抜けで欲深だと思った。
― † ―
ポケモンセンターに戻ってみると、レッパクとソニアが治療を終えていた。グレンゲとドロップとオボロもボールから出し、全員を鉄球のようにずるずると引き連れ、しかし言葉は交わさず、ゴールドは個室に戻った。知らぬ間にグレンゲが進化していたとかオボロがついに加わったとかアイスバッジを手にしたとかいう出来事の話題がまずちゃぶ台にのぼるはずなのに、誰も何も口を出せなかった。レッパクは親に似たのか、こういう「間の悪さ」がある。率先すべき自分が戦わずして手に入れたものを喜ぶべきか、かなりきわどいところだ。
ボールの中で絶えずやきもきしていたであろうドロップも、落ち着きを通り越して萎えている。
ゴールドの雰囲気が、周囲を腐食させそうなほど重苦しかったからだ。
個室に戻ったあと、レッパクとソニアへ今日あったことの一部始終を教えた。重いものをがむしゃらに投げ捨てるように。
ベッドに突き刺すように腰を落とし、両手を組み、ゴールドは靴と靴の間の床を見つめている。
今日あったヤナギとの出来事全てが、ゴールドのこころに豪雪をもたらしている。
なるほど、体の融通が利かないから肉体的にではなく精神的に詰め寄るか。自分は考えぬくことができなかったから、次世代のこちらに託すか。未来永劫、提出できそうにない宿題。前払いのバッジ。亀の甲より年の功。腹に一物も二物もあるたいした爺さんだ。容赦のない一発をもらい、リングに伏してカウントを8ほど数えられているのは、間違いなく自分側だ。
魔力を得て復活しただけに、呪いは強烈にしぶとかった。今までの旅の「負」の部分が、堰を切ったようにぶり返し、考え始めればもう止まらない。かつてのたうっていた情熱の炎はとうにどこかへ消えていた。答えにならない答えが、休みなく出口を求めて渦巻いている。どろどろに溶かした飴を繰り返し煮詰めてこねているかのような、意味のない作業だ。喉奥をミミズが這っているように気持ち悪くて、嘔吐感がする。何もかもを叫んで体の中を空っぽにしてしまいたい。
心境を察し、最初に勇気を出したのはレッパクだった。
――主。
「――ん?」
そこで、左耳の羽根が更に色味を増していたことに気づくのに、数秒かかった。
実に分かりやすい言葉が来た。
――ごめん。
ゴールドは頑張って笑みをつくろう。
「どうしたよ?」
――おれがもっとしっかりしていれば、こんなことにはならなかったんだ。おれはロケット団とエンテイ以上に、自分が許せない。
「よせよ。それなら俺も同じ気持ちなんだ。お前だけが抱え込んでも意味がないだろ」
こころのどこかで密かにくすぶっていた、ひたすらの疑問。
目をふさいで背けていたもの。認識することを拒絶していたもの。
我慢の糸は、すでにずたずただった。無視できなかった。
タンバでの疑問が、ヤナギへの答弁が、オボロとのやりとりが、呪詛のように蘇った。
――俺は人間で、こいつらはポケモンだ。指示するのは俺で、戦うのはこいつらだ。真っ先に傷つくのはこいつらで、俺は大して痛くない。しかし名声は平等に……いや、もしかしたらそれすらも平等でないのかもしれない。采配のうまさや育ての良さを、俺は他人から讃えられる。名前を呼ばれるのも俺からだ。
でも俺は、代わりに何をやっている? 何を、こいつらに差し出している? そしてそれは、命に等しいものなのか?
俺はただ、背中をこいつらにまかせて、手ぶらで先頭を進んでいるだけだ。
あまりにも、不釣合いすぎるのだ。
トレーナーとポケモンの、生きるリスクのバランスが。
誰に指をさされてもよかったし、泥水をすする覚悟だってした。何がなんでも突き進む勢いだった。
だのにトレーナーの重荷が、ポケモンとそれと比べて予想外に軽かったことに、バッジ7つ目にしてやっと気付かされたのだ。
軽すぎるという事実が、今のゴールドには重すぎた。
かつて自分はタンバにて、トレーナーは損で不条理な役回りと嘆いた。しかしそれはまったくの逆だ。損で不条理なのはポケモンたちだ。餌を食わされ芸を仕込まれ、下手したら崖の一歩手前まで追い詰められる戦陣を提供される。底なしの戦況に全身を浸からせて、自分は更にその顔を足蹴にしている。
もっと極端な言い方をすると、トレーナーは、生きた戦闘兵器を自らの手で作り上げている。
その気さえあれば、ポケモンはいつでもその研がれた牙を人間に仕向けることができるというのに。
グレンゲがあぐらをかいてどっかりと床に座った。ぞんざいに頭をかいて、
――いくらなんでもそいつぁ聞き捨てならねえな大将。確かに大将は人間で、俺たちを調教している。大将が軍配うちわを振るい、俺たちは戦う。ははあ、結構なこった。でも、それでいいんだ。よござんすか。俺たちはよ、それだから大将と一緒にいたくてここにいるんだ。
思い出したかのように、ドロップが続けた。
――そうですよ。物事の見方や価値観を考え出したらきりがないです。私たちが傷つくことで、ご主人まで傷つく必要なんてありません。怪我をしたのは、私たちが未熟なせいなのですから。ご主人とは倫理観がまず違うのです。私たちにだって……「プライド」というものがあります。違うものをまぜこぜにされて悩まれると、ええっと、やるせなくなります。
ソニアもシャカリと腕を上げ、
――みんなに同意ー。難しいことは気にせず、リーダーはリーダーらしくしてるのが一番だとあたし思う。無理に思いつめる必要なーし。もう夜だし、ごはん食べてシャワー浴びて休んだほうがいーかもよ。
オボロは最後まで何も言わなかった。黙ってゴールドを見つめていた。
それぞれの温かい励ましが、このときばかりは最凶最高にわずらわしかった。
承知している。こんなぶつくさした自問自答に答えなんて一切出てこないと。
――ポケモンはポケモン。それ以上でもそれ以下でもない。
その通りだ。その持論を曲げるつもりは毛頭ない。世界あまねく生き物にパーソナルタグをつけて喜んでいるのは、きっと人間だけだ。
みんなひとつだ。有機生命体という視点では、自分たちにどこにも違いはない。命を授かり星に生まれたからには、平等はどこまで行っても平等だ。むやみやたらにヒエラルキーを上げ下げすることもいらない。あげるもらうの話では、もともとないのだろう。
だけどこれは、自分だけではなく全てのトレーナーに課された、永遠の十字架だと思った。
死ぬまで悩み続けることが、せめてもの償いだ、と誰かにささやかれた気がした。
まったくだ、と同意しかけた自分が、ここにいた。
リュックからポケモンレポートを取り出し、適当に読み返してみた。
思い思いのことが綴られているはずのどのページも、あたかも別人が書いているみたいだった。
何ひとつ分かったことを書いていない気がした。むしゃくしゃした気分になり、右こぶしでベッドを叩き、怒りをぶつけた。思うように殴れず、ただ跳ね返されるだけだった。レッパクたちが代わりに殴られたようにほのかにビクリとした。次いで自分の両頬を引っ叩いた。痛いだけだった。何も消えなかった。
ゴールドはおもむろに立ち上がり、窓際へと体を寄せた。よく磨かれているガラスに、自分の輪郭がうっすらと浮かび上がった。
闇に染まった空を見ると、美しい星座たちが空一面に広がっている。付近には、橙色の木の実のようなチョウジの灯火たちが、暗い闇底に点々と明るく浮かび上がっている。
いつまでもいつまでも、ゴールドは窓ガラスのほうを見つめている。そっと呼吸の跡をつけている。花が結んで開くように、大きくなったり小さくなったり。
差し出せるものが何ひとつ無いトレーナーのくせに、顔を醜く歪ませているところすら見られたくなかった。
窓のふちに両手をそえ、腕をつっぱり、弱々しくうなだれた。
このまま頭ぶつけてガラス割ったら、血流して死ねるかな。
少しでもそう思った自分が情けなかった。弱者の発想過ぎた。
そんなゴールドの後ろ姿を、レッパクとグレンゲとドロップとソニアとオボロは、いつまでも見つめていた。
振り返ってくれるまでずっと待っていようと、思っていた。
― † ―
ポケモンは人間ではない。けれど、人間以上に人間のことを思ってくれる。
その対偶を、一体誰が証明できようか。
永久に来ないQED。
― † ―
為す術がない以上、言われたとおりにするしかなかった。包帯をはがし、飯食ってシャワー浴びてさっさと寝た。臆病な姿を見られるのが嫌なはずだったのに、みんなをボールから出したまま寝床に潜った。
――よく眠れました?
「薄情にもぐっすりと」
どうしようもない思索に一晩を費やすかもしれなかったが、ありがたいことに心労がゴールドの味方をした。悪い寝汗もかかなかったし、腹の黒いものはどうにか沈みきっていた。
――やっぱりリーダー疲れてたんじゃーないの?
「かもしれん」
昨日と同じように腰掛けたまま、レッパクたちを見渡した。
こころのネジをきゅっと締める。
「考え直してみたよ。俺なりに」
――聞かせて欲しい。
レッパクが代表して訊ねた。
ゴールドはイスにひっかけていた上着を手に取り、内側を開けてみせる。
蓄えていた弁舌をこわごわと続けていく。
「改めて表明する。俺はみんなをつれてポケモンリーグの頂点に立ちたい。俺は以前、そこでブラックと戦おうと無言の約束を交わした」
かぶりを振る。
「それとは別だ。あいつとじゃない。みんなとの約束だ。俺が責任を持って連れて行き、栄光への橋渡しをする。俺が方角を決めて進み、戦うときにはボールを投げ、必要とあらば指示をする。勝手極まりないが、それが今の俺の差し出せるものだ。だから――」
目を閉じ、開けた。
「だから、ついてきてくれるか?」
まるで舌足らずだった。こんなときも口下手な自分が憎かった。もっとかっこいい言葉くらい吐けんのか、と思った。
――主、いつも通りだ。それが主の道だ。
「と、言うと?」
――今までとまったく変わりないやり方じゃないか。つまり、考える義務なんて最初からなくて、すでに答えを出してたんだよ。ここまで来られたのは、他の誰でもない、主の力だ。おれたちはそれを十分知っている。「よくやった」の一言だけでいい。それだけで、おれたちは勇気をもらえるんだ。
――前にも言ったろ大将。そんなんだからしまらねえんだって。「ついてきてくれるか?」じゃねえ。「ついてこい!」だ! ちいっと俺たちに遠慮してたんだろ。優しすぎだし、甘すぎだ。良いところで悪いところだ。もっと世間様をあざむく「ずるさ」を持とうぜ。そんくらいあってもバチあたらねえさ。
――それにもう、数えきれないほどたくさんのものをもらったんです。目に見えていないだけで、私たちの中には、しっかりとあるんです。
「そ、そうかな、」
レッパクたちのあまりの雄弁に、ゴールドの虚勢が早くもぐらつく。激励には間違いないのだが、なにとなく否定されている気が少しでもして、怖かった。
「そういうもの、なのか」
――そーそー。約束したでしょー。あたしを色んなところに連れてってくれるってー。大きいこと考えずに、今ある小さなことからやっていけばいーじゃん。だめ?
ソニアが腕を穏やかに振り、緊張をほぐすリズム音を作った。
こころを締めるネジが、それに合わせてぐらぐらと緩んでいく。あとちょっとの何かがあれば、ゴールドは完全に崩れる。
――ゴールド。
最後に、ここへ来てから黙りこくっていたオボロが口を開いた。
ゴールドの腑抜けた視線を受け、さんざん言葉を選んだ挙句、ただ一言。
――背中は守るから。
ゴールドの表情が、すっ、と無に還った。
重圧が、雲のように軽くなった瞬間だった。
ひくっ、と喉が裏返るような細い声が漏れた。
対等なんだからさらけ出してしまってもいいや、と思った。
それで罪悪感が消えるのなら、無様でもなんでも良かった。
ということで、そのポケモンセンターの個室は空前絶後の大騒ぎとなった。
――オボロがいけないんだー! オボロがー!
――ぼくじゃない。ぼくだけじゃない。悪いとすればみんなだ。
大粒の雫によって、袖の染みがじんわりと広がっていく。
緩い志で、何か功を成し遂げられるのならば、この世に難しいことなど何ひとつ存在しないに決まっていた。自分は所詮、無鉄砲で実際は何も完遂させていないトレーナーのひとりであったし、頂点と戦ってやると叫ぶ勇気があればとっくの昔にワカバを出てとっくの昔にのたれ死んでいたのだ。だから、そんな度胸はどうせは思い上がりであり、そんな自分を気にかけてくれるポケモンたちに対して抱く気持ちと、同じ程度に悲しい。
涙に濁った声で、
「くそっ……なんっ、なんだよ、お前ら……揃いっ揃ってっ、俺よりっ、よっぽどっ、上等な、台詞、こさえてやがって……。主人を泣かせて、そんなに楽しいかよこら……」
――そ、そんなつもりじゃありませんって! 私たちの純粋な気持ちの吐露なんです!
ドロップの欠けた精彩さはパニックで補われ、事態は悪化をたどる一方である。もはや誰のためにもなってないフォローは、一層ゴールドの涙腺を煽る。
「ああ、そうっ、だろうな……それは、分かってるさ。……だけど、お前ら、なんでそんなに、いい奴ら、なんだよ。……だって、変だろ、お前ら、俺より10年も生きてないのに、生き様が、立派すぎるんだよ……悩んでたこっちが、みじめに、なるだろ、」
レッパクの狼狽っぷりもなかなかだった。何かを言うよりも事態の収拾を優先し、そそくさにリュックのツマミを噛み、開け、何か拭くものはと顔を突っ込み、その上からグレンゲが更に手を突っ込み、漁る。
――ったく、それでも俺たちの元締めかよ。せっかくの再々出発だってのに、始める前からこれじゃ先が思いやられるぜ。
適当に投げられたタオルを膝上で受け取った。眼球を潰しそうなほどぐっと押し当てる。
「……るっ、せえっ……」
目元は隠れているので、口元で無理矢理笑いを作った。子供と大人の中間に立つ「少年」の、実にそれらしい弱虫のごまかし方。顔全体がじんじんとしびれている。震え声を腹奥で押し殺すが、息だけは潰せなかった。肩が痙攣し、そのたびにこころの奥底にあったものがせわしなく波打つ。
15年も生きていないからこそ、ポケモンはトレーナーにすがるのだろう。一緒になった以上、ポケモンはトレーナーに生き方をゆだねるのだろう。
ポケモンは決して、人間が思っている以上に、強い生き物ではなかったのだ。
誰だって、自分だけで自分の道を決められるはずがないのだから。
認めてくれる「居場所」が欲しかっただけなのだ。
今度こそ、ゴールドはみんなの前で泣いた。
ここでみんなとやり直そう、と胸に誓った。