31 朧一閃
【みんな、自分を世界のどこかにあてはめたくて生きているのかもしれない】 ゴールド
31 朧一閃 構えて損した。
敵襲を思わせる影は、宙から追い抜く色違いフライゴンの仕業だった。
道路が強風に掃かれて、砂煙が左右に広がる。ゴールドとヤナギの頭上寸前を飛び越え、フライゴンは正対してそっと舞い降りた。
ヤナギは、そのオレンジ色の両翼に見惚れて、
「ほう、珍しい翼をしたフライゴンだ。きみのかね?」
「いえ、単なる知り合いです。まあ、一度ボールの中には入れちゃいましたが」
そう紹介してみたものの、ほんのりとだけ、フライゴンの様子がおかしい。
何やらむすっとしたような、うずうずしたような、つかみどころのない表情。人間で例えるのなら、今日履くべきお気に入りの靴下の片方だけがどうしても見当たらない、といった具合である。こいつのレパートリー少ない面相はあらかた制覇したつもりだったが、こういった顔は初めてだった。
しばしの沈黙。
言いたいことがあるのなら早く言えよ、と思う。
フライゴンはかすかに頭を動かし、ヤナギを一度見て、またゴールドのほうを湿っぽく見た。長いしっぽが、少しだけくねった。
サシで話がしたいらしい。
「ヤナギさん、すいません」
「いや、構わんよ。積もる話でもあるんだろう。ゆっくりしたまえ」
ヤナギを解放し、その場に腰掛けさせ、ゴールドはフライゴンを引き連れて距離を作った。
――教えてほしいんだけど。
フライゴンがぶっきらぼうに言った。
――チョウジで一緒にカイリューに乗せてもらった人って、誰?
「カイリューっていうと――あれ? ワタルさん、だけど。お前見てたのか?」
フライゴンは無言を突っ返す。カイリューを知っているからには、見たに決まっていた。
タンバで別れたときと同じ、あのもじもじしたような、こっちがくすぐったくなる面持ち。枝切れを渡したらそっぽを向いてケムッソつついて遊びだしそうな、いじけた感じ。
ははーん。
伊達に腐れ縁やっていないゴールドである。次こそはすぐにピンと来た。自分から言い出す勇気がないようでは、こちらからの言葉を待っているようでは、まだまだ甘い。ゆっくり誘導してやろう。直接本心をほじくるのもアレなので、適当なところから揺すってみる。
「どうだったあのカイリュー」
――別に。
嘘つけバレバレだドアホ、とゴールドは思ったが、気づかないふりして意地悪くとぼけてみた。あのときのカイリューのそらをとぶを思い出す。雲とともに空を駆けるあの感覚。陸を走るのも、海を泳ぐのも違う。あのときの感想は本物だったから、材料にするのには苦労しなかった。
ゴールドはむかつくくらい白々しい笑顔を作って、
「そうか。いやあ、気持ちよかったよ。いい年してはしゃいでしまった。あのカイリュー、本当によく育っているよ。でさ、乗りごこちもまた感動的なんだ。俺たちを」
揺するまいと、と言いかけて噴きそうになった。
話を進めれば進めるほど、フライゴンがみるみるうちに不機嫌そうになっていくからだ。顔に「むかむか」と殴り書きされてある。
メイデイ。伏兵フライゴンにより、横隔膜が絨毯爆撃されたり。損傷は甚大なり。すぐに心理武装し、応戦せよ。繰り返す、
だ、だめだ……!! ここで笑ったらすべてがお釈迦だ……!! こらえろ俺……!!
歯を食いしばる。ズボン越しに、太股を思いっ切りつねる。腹筋にかつてないほどの力を入れる。頬の筋肉がコンクリートになる暗示をかける。息を殺すのも同然に、笑いの虫を必死で押さえ込む。腰のボールすらもぴくぴくと震えている。
笑いの息をごくんと呑みこんで、
「――揺するまいと、丁寧に体勢を維持してくれるんだ。ドロップのなみのりみたいにな。気流とか風圧って、俺たち人間にとっては激しくて危なっかしいのかなって思ったんだけど、いざ飛んでみればなんのことはない、普通にあいつの背中に任せるだけ。すごかったし楽しかった」
むかむかむかむか。
くっ、くっ、くっ……!!
ここが踏ん張りどころなのだ。あのフライゴンがいつになくまじめに自分の話相手をしてくれているのだ。笑うなど失礼極まりない。少しでも噴きだしたら最期、プライドの高いこいつは泣き叫んで暴れるかもしれない。空の果てまで飛んでいってしまい、二度としっぽも見せてくれないだろう。押さえろ押さえろ。気むずかしい奴だとは確かに昔から思っていたが、こんな可愛いところもあるとは予想外だった。これほどからかいがいのある奴だと、どうして今まで見抜けなかったのか。
気づかれないように、鼻で深呼吸。
「空を飛べるってあんなにもここちいいなんてな。あの体験はやみつきになる。うん、ぜひまた味わいたいよ」
――だめ。
ついに、さえぎった。
ついに、本音をぶちまけた。
――あんなのだめ。ぜったいだめ。あれのどこがよかったの? 空を甘く見ないでよ。気流っていうのは、もっともっと恐ろしいものなんだ。目に見えない「罠」がたくさんある。あんな飛び方、乱暴もいいところだ。いつか搭乗者を落っことす。だからぼくはとても参考にしたくない。あんなやつに、ゴールドの翼をまかせられない。
いい感じだ、と思う。フライゴンの剣幕に笑いを煽られる不安が一瞬訪れたが、運良くそれは足から地面へと遠のいた。ゴールドは笑顔の構成要素を変え、タンバのときと同じにする。駄々をこねる子供を落ち着かせるような優しい口調で、
「そんなに悔しかったか?」
――そんなんじゃないけど。
「負けたくないか?」
――うん。
「見返してやりたいか?」
――うん。
「お前の言う空の世界、俺に教えてくれるか?」
――うん。
しばらく置いて、
「みんなと仲良くできるか?」
――がんばる。
「よし」
ゴールドはそっと手を差し出す。
フライゴンが、少したじろいだ。
「握手だよ」
――無理。ぼくは人間じゃないし、それに、
気弱げによそのほうを向き、
――それに、爪、傷つけちゃうから。
頭の奥でフラッシュバックされる嵐。平行するオレンジの残像と、岩をも容易く裂きそうな斬れ味を思い出す。ソニアの手はそれほど気にしなかったが、ゴールドは差し出した手を自分の腰に当て戻し、
「そっか。ま、改めて、よろしく――オボロ」
――オボロ?
「月に龍とかいて
朧だ。不服か?」
――ううん。好きに呼んでいい。
オボロと字を付けられたフライゴンは正面を向き直し、真剣な顔つきになった。
――そのかわり、約束して。
「うん?」
きっとずっと、オボロは最初からこれが言いたかったんだろう、とゴールドは後になっても思っている。
――もう、ぼく以外の背中に乗って空を飛ばないって。
はは、とゴールドは軽く笑い、
「分かったよ、約束する。海の世界はドロップの背中を借りる。空の世界はお前の背中を借りる」
言ってしまってから、オボロは控えめな口調で、
――陸は? 陸はどうするの?
そこでゴールドはにやっと笑い、あごを引いて不穏な上目遣いをし、親指で肩をさしてみせるのだ。
「俺の背中を見ろ」
― † ―
「いいか、このお方はな、それはそれはやんごとなき身分のじっさまだ。言ったからには、下手な飛行するなよ? ショックのあまり、ぽっくりとおっちんじまうかもしれない。失礼のないようにするんだぞ」
――ゴールドが一番失礼だよ。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
翼を伏せ、ぐっと姿勢を低くしたオボロの上へと、ヤナギがよっこらせとのぼる。続いてゴールドも乗り、二人の体重を認知したオボロが両翼を蝶のように左右へ掲げた。つややかな肌は午後の太陽の光を受けて、濡れた氷のような光沢をたたえている。頭部から長く伸びている触覚のようなものをいじってみると、意外と反応は悪くなかった。
こういう状況を想定していなかったといえば、もちろん嘘になる。
いつかはこうして、オボロの背中に乗せてもらおうと思っていた。
向こうから申し出てくる、とまでは思わなかったが。
宙に張り詰めていたオレンジ色の翼が、ゆっくりと羽ばたいた。オボロは風を打ちつけ、上昇を始める。穏やかな重圧が、ゴールドとヤナギの体に降りかかった。どこからともなく、つむじ風が生まれ始める。よほど印象づけたかったのか、カイリューの飛翔方法とは随分と違った、かなり入念なそらをとぶだった。高度もあまり欲張らず、影の地面に投影されているのが肉眼で確認できるほどである。
――行くよ。
「よし、行ってくれ」
座標を固定していたオボロが、前触れなく
空を滑った。それと一緒に、今まで引きずり歩いてきた道のりが、静かに遠くへと去っていく。正面のなだらかな地平線から、じわじわとチョウジの町並みが立ちのぼってくる。
もっと早くこうしていればよかった、というオボロの気持ちが、ありありと伝わってきた。
内心とても嬉しかったのだろう。彼我の差を見せつけるように、オボロの滑空は完璧に意識されていた。カイリューのような速度も高度もスリルもなかったが、それでも素晴らしかった。一度目には決して感じ得なかった興奮で、ゴールドのこころは破裂しそうなほど騒いでいた。
次第に加速を得て、オボロは空を走る。チョウジはすぐそこにまで来ているのに、減速をしない。気流は今考えなおすとやはりおっかないものかもしれなかったし、吹きつける寒さもあった。しかし感激による熱が全身を駆け巡り、ゴールドは口から何かを叫ばずにはいられなかった。前からぶつかってくる空気が、それを邪魔した。前髪が踊っている。顔を押され、真上を見る。果てない青と白と、光があった。空の世界だった。
蜻蛉の飛行だった。