30 氷の律動
【わたしたちの絆の深さを、お前が決める? 笑わせるな】 ヤナギ
30 氷の律動「よお、お前さん、足に自信あっか?」
「あんまりないんだな」
「そっか。じゃあ俺が先行すらあ。あの野郎、ただもんじゃねえ。俺の炎とどっちが強力か、くらってみなきゃ分からねえだろうし。俺にあわせなくていいから、自分の要領でやっておくんな」
「すまないんだな」
「いいってことよ」
グレンゲが軽やかに駆ける。定石、『
一本橋』。
マンムーが力強く突き進む。定石、『
静寂洋琴』。
エンテイが端然と身構える。定石、『
肉切骨断』。
小細工は通用しないと即断。グレンゲは火炎を身にまとい、一散に突撃した。対するエンテイは、戦闘前からずっと体内でたぎらせていた爆炎を吐き出し、勢いの相殺を狙った。グレンゲは後脚に力を振り落とし、なおも前進を試みる。紅蓮と灼熱の衝突で、周囲の景色がおかしく歪む。とんでもない肺活量だった。グレンゲの全身をもってしても、エンテイのかえんほうしゃひと吹きで押し戻されそうなほどだった。
エンテイも、かえんほうしゃを出しつつ、ゆっくりと歩み寄ってくる。
――やっぱ強えなこいつ。
下半身に更なる力を込めて、グレンゲも根性を見せるしかなかった。体内成分からまず違うらしい。自分とはおよそ異質の猛火だった。皮膚よりもまず骨が溶かされそうな気分。自分が「熱い」と感じるほど、エンテイの炎は案の定強力だった。血潮を全て燃料にしてでも張り合いたい。
エンテイが距離を縮めれば縮めるほど、熱と圧が増していく。
そんなに近づきたければ来るがいい。こちらは両腕が空いている。拳のひとつやふたつを見舞うくらいの虚は突いてみせる。
唐突も唐突、エンテイの全身も炎に包まれた。己を守る火炎の向こう側、グレンゲはそれを見た。
「ぬるいわ」
たったひと蹴りでトップスピードを得たエンテイが、グレンゲの火炎を打ち破り、懐へ素直に飛び込んだ。ただそれだけの攻撃なのに防御が間に合わず、体の何かが軋む嫌な音がした。グレンゲは元来た道をまっすぐ突き戻され、地面を何度か跳ねた。追撃を思わせるエンテイの動きを、マンムーがこおりのキバで横から妨げた。
「あたたた――」
頭をさすりつつ体を起こす。口の中がじゃりじゃりと気持ち悪い。
――グレンゲ!
すぐ背後にいるゴールドとヤナギに怒鳴った。
「大将もっとさがってろ! やっこさん只者じゃねえ、溶かされちまうぞ!」
――そうじゃない、胸だ胸!
言われてやっと気づく。エンテイのフレアドライブをくらった際に、胸あたりの羽毛が薄く焦げていた。焔を護とする自分が身を焦がすだなんて、あってはならないことだと思った。生まれて初めての体験に、さしものグレンゲも背筋がぞくりとした。
覚悟を決めるしかなかった。口に含めた土をぺっぺと吐き出し、唇を拭う。舌を歯でしごく。もう一度首から発火。気合の咆哮をあげる。
マンムーが対の牙を果敢にふりまわし、エンテイの動きをかき乱す。火炎に対抗してふぶきを呼び寄せるも一瞬で蒸発し、生き残った熱がマンムーの全身を襲う。しかしマンムーもそう簡単にはひるまない。
「――ほう。大したものだ。我輩の炎でくたばらんとは」
「なめないで貰いたいんだな。ちょっとやそっとじゃあこの体毛は燃えないんだな」
業火にも負けずマンムーは上体を宙へ放り投げ、両前足を大地へ叩きつけた。瞬間、その振動はじしんの力へと変わり、波紋が地中を波紋状に走る。エンテイの足元を急襲し、民家が一瞬で爆散するレベルの衝撃が弾けた。逃げを許さぬ追い打ち、マンムーはグレンゲ以上の質量と体積でエンテイに激突した。ついに入った一撃目は、エンテイに相当の屈辱も与えた。そうして反撃として襲ってくる、先程よりもセ氏50度は軽く超える炎を、横ざまのグレンゲが身を盾にしてかばう。
「――なあ、思い切ってよ、俺を後ろから押し飛ばしてくんねえか? あいつに近づかなきゃ話にならねえ」
後ろにいるマンムーに無茶ぶりをしてみる。
「そんなことするとあんたの骨が折れるんだな」
「心配しなさんな。あいつで折れなかったんだ。俺も耐えてみせらあ」
それは、この戦いとはまた違う、グレンゲなりのちょっとした対抗心でもあった。
「あいつのところまでうまく押し飛ばせる手加減、しないんだな」
「あたぼうよ。迷ってる暇ねえぜ。鍋にされたくなけりゃ俺を捨て石にした方がいい」
夢に見そうである。躊躇を思わせるしばらくのち、2トントラックで轢かれたかのようなキツイ一発がグレンゲの背中をぶち抜いた。予想はいくらでもしたが、やはり後悔したくなるほどの痛みだった。臨戦心理の高速処理。マンムーにどつかれた痛みを腕力へ流す暗示。定石、『
画竜点睛』。炎を受ける面積を最小限にする細長い体勢を瞬時に組み、一点から突き破る。
その時のエンテイの驚愕の揺らめきを、グレンゲは忘れない。
グレンゲの拳は、次こそエンテイの顔面に届いた。
それは、ひたいを、しっかりととらえていた。
腕に返ってくる振動を感じてみるに、手応えは結構あった。
直後、シャレにならない衝撃力。グレンゲは喜ぶ間もなくエンテイの右前足で横から打ち据えられた。地面へ顔面から激突。苦痛が戦意を上回り、立ち上がることを体が嫌がった。
エンテイはまたも火炎を全身からたぎらせ、怒りのフレアドライブでマンムーを真正面から吹っ飛ばした。300キログラム弱あるはずの巨体は、体当たりひとつで簡単に地面を浮き、数メートルも向こうに不時着した。
――マンムー!
ヤナギの声にひと握りの勇気をもらったグレンゲは、昏倒したマンムーから注意をそらすため、形だけでもと再びエンテイの前に立ちはだかる。
「さがれ」
スイクンと同じ、感情のない声だった。
「もういいだろ! こいつとの勝負はついた! 何もそこまでやるこたねえだろが!」
「ならば、ぬしもろとも焼き尽くしてくれるわ」
大将とヤナギの爺さんを逃がすべきだな、とグレンゲは思った。
決意と捨鉢を交差させ、体内成分を炎に変換。胸元に溜め込んだ。
エンテイの目が、かっと開かれる。グレンゲも眉間のしわをぐっと寄せた。
開かれたまま、エンテイは硬直した。
グレンゲは、気づく。
エンテイは、その
眼で自分を見ていない。
唐突に、
「――いえ、違います」
続けて、
「――申し訳ありません」
そして、
「――は。承知いたしました」
グレンゲの頭は、混乱に濁った。
エンテイは仰々しい口調に戻して、
「――すまぬな。らしくもない、過ぎた興奮だったようだ。ぬしたちの相手できる時間はここまでだ」
ごほっ、とグレンゲは自分の煙でむせた。
「お、おいおい世話ねえな、ったく! 自分から売った喧嘩だろ! どういう了見でえ!」
「我輩は、帰らねばならぬ」
エンテイはそう言って2、3歩後退する。ペルシアンやレパルダスのように足をそっと前後に揃えた、巧みな型だった。自分たちのような四足歩行をする者たちが「意味」を添えたいときにやる姿勢で、それとなく「礼儀」を感じさせる。その幽玄な凛々しさに、思わずグレンゲも好戦的な体勢を正した。大将とヤナギも、いつの間にかそばにまで寄ってきていた。
エンテイはふたりを何気なく横目で見た後、
「ひとつ訊こう。なぜぬしらはそこまで戦うことができるのだ」
何をいきなり、と思う。
「命を賭すほど人間のいいように扱われ、それでぬしらはぬしらでいられるのか?」
「――はっ。根本が違ってらあ。大将たちがいるから今の俺たちがいるんだ。少なくとも俺はいいように扱われた憶えもねえし、戦うのも自分の意思ってやつさ」
――扱う者と扱われる者の関係ではとどまらんよ。わたしたちはその上を目指している。それが強さというものだ。
グレンゲとヤナギの堂々に、ふむ、とエンテイは偉そうに
斟酌する。
更に一歩しりぞく。
「ぬしよ、なかなか筋がよかったぞ。次に戦うことがあれば、お互い悔いのないようにしたいものだな」
「次回の俺ぁ、もっと強くなっているぜ? 今のうちに摘み取っておかねえと後悔するぞ?」
「減らず口よ。今はまだそのときではないわ」
エンテイはまた穏やかに後ずさり、跳躍。目で追おうとした次の瞬間には消えていた。
グレンゲは念のため5分、その場で構えていた。
本当に去ったと知ると、こころの底から安堵した。
体に取り残されたのは、赤い気焔ではなく、痛みとおびえだ。
背中以外の痛みを無視することは、どうしてもできなかった。
― † ―
ジムリーダーには肩を貸したり貸されたりだな、とゴールドは思う。
エンテイがしりぞいた途端、ヤナギが苦しそうにその場にうずくまった。あの異常な高温下だ、よほど無理をしていたらしい。氷に慣れきった体では高熱と酸欠は毒だったろう。自分だって暑さのあまりに今も汗と脂汗が交互に流れていて、ガーゼや包帯のあちこちに嫌な水分を含んでいる。
ゴールドがヤナギを中途半端に引きずる。怪我に響かないこともないが、ヤナギに比べればましだと信じこませる。
「きみには迷惑をかけてばかりだな」
「お気になさらず。それよりこれからどうします? ジム外で戦うのも不本意でしょうし。もういっそ、ジムが修復しきるまで、先のフスベシティに行っててもいいんですが」
ヤナギの体がこわばったことを、ゴールドは感じ取った。
「――すまないが、それも難しい。あやつ、フスベへと通ずるこおりのぬけみちすらも溶かしおった。わたしのジムよりもひどい有様だ。決して通り抜けられないこともないが、サウナ以上の高温高湿状態となっている」
今度はゴールドが狼狽した。
「は!? え、ちょ、うそだろ!」
ヤナギがどこか自嘲するように、
「じき、環境にあった菌類が生えてくる」
「アホ抜かしてる場合ですか! ああああもう、フスベに行く道ってあそこ以外には――」
「ワカバ近くにある29ばんどうろの、過酷な上り坂を使うしかあるまい」
がっくりである。勘弁してくれよ、とゴールドは思うしかほかない。ここからどれくらいの距離だ。足並みがいよいよ重くなっていく。またあそこまで戻らなければならないとかあんまりだ。ヤナギの体重を現在加えつつのペース計算をしてしまい、ゴールドは途方に暮れている。
段差だらけのあの坂道――45ばんどうろ、46ばんどうろのどぎつさは身をもって知っている。一体何人の心臓を破ってきたことか。そうしてあの悪魔の傾斜角は、「やめとけ」とか「無茶するな」とかの立て札をふもとに増やし続けるのだ。ケッキングを逆立ちさせるのとどちらが簡単だろうか。いずれにせよ自分には絶対不可能だ。エンテイの残した熱エネルギーが完全についえるまで、チョウジのポケモンセンターで缶詰をくらうしかない。また毎日、ドロップのお医者さんごっこか。
次なる道のりを頭の中でぐるぐるしていたら、
「――ゴールドくん」
まったくの不意打ちだった。
「きみにとって、ポケモンとは何であろうか?」
ゴールドの足が、止まった。
ヤナギの方を見ようともしなかった。
数秒後、笑いを示すように肩を無理矢理すくめ、
「――おこがましい」
「む?」
「あいつに感化でもされたんですか? 哲学ならスクールでやってください」
「きみの思うままでいい。わたしはゴールドくんの答えが是非とも知りたい」
「正解の無い、ずるい質問です。率直に述べましょう。俺にそんなこと決める権利はありません」
そこでもう一度数秒置いて、
「ポケモンはポケモンです。それ以上でもそれ以下でもない」
再び、ゆっくりと右足から動かした。
ヤナギは、素っ気ない答えを、一心に反芻した。
「――そうか。きみは、そう考えるか」
「だからおこがましいんです。おかしいでしょう? グレンゲはああ言ってくれましたけど――人間の俺が、ポケモンのそいつらを『友達』だとか『家族』だとか決めるだなんて、あまりにも勝手すぎる。血を流すのを覚悟してでも戦っているのは俺じゃなくてこいつらだ。何様のつもりだって感じですね」
そこでゴールドは、苦い記憶に甘さを添加する。理論の武器にして使ってしまう。
「俺、一時期、自分でもよく分からないくらい、すげえめちゃくちゃになってたんですよ。なのに俺のそばにいてくれるこいつらときたら、ずっと俺を信じてくれて。身の回りの世話すらしてくれて。一体どっちが親なんだって話なんです。――そうですね、強いて言うなら俺たちは持ちつ持たれつなんですよ」
「なるほど。おもしろい回答だ」
「おもしろいだなんてひどい。あなたが真剣に訊いてくるから真剣に答えたのに」
「馬鹿にしたつもりではないよ」
「それは分かってます」
口はよく動いていたが、そろそろ足には限界が来ていた。戦ってもらったグレンゲの助けを、ここでも借りるわけにはいかない。なんだか上等なことを語ってしまった手前、休憩を申し出るのも少しかっこ悪い気がした。
ヤナギも足取りから疲労感をうかがってきたのか、自分の足で歩こうとし始めた。
「ゴールドくん、わたしはもういい。きみだけでも先に帰りなさい。怪我人の肩を借りるのは老いぼれの挟持が邪魔をする。わたしとてひとりのジムリーダー、こんなところで易々とはくたばらんよ」
「まっぴらごめんです。夜も眠れそうにない意地悪な問答を振ったのはあなただ。最後までつきあってもらいますからね」
自身の言葉で自分を奮い立たせ、ゴールドはなおも踏み出そうとした。
砂煙と影が、その上から覆った。