29 名を冠する者 その3
【無力を感じたから、余計に前を目指したくなる】 ゴールド
29 名を冠する者 その3 アカリちゃん救出劇以上の、しっちゃかめっちゃかだった一日が、ようやっと終わりを迎えた。
というわけで、ポケモンを長らく苦しめた電波と、それらに連なる事件の一から了までは、ゴールドが意識を飛ばしている間にすっかり解決されていた。惜しくもロケット団は不死鳥にはなれなかった。
穏やかな日常がまた戻ってきたというのに、ワタルの放送による人々の興奮は、月と太陽が三回
廻っても醒めなかった。その裏で血を流すほどに戦っていた少年の苦労など、誰も知らない。
また反対に、ポケモンセンターのとある個室に封印されたゴールドも、ワタルの正体にとうとう気づかずじまいだった。マサキの指摘するとおり、ゴールドはこういうところで実に鈍い。座学で一歩及ばぬコトネが知ったら、もれなくおうふくビンタがサービスされる。
人間とは得てしてよくできているもので、ゴールドはポケモンセンターでじっくり寝こむだけですぐに回復した。後頭部に少々立派なたんこぶ、所々に白いものは残すものの、自分の足で歩けるくらいには快方へ向かっていた。熱さが喉元を通り過ぎたせいかもしれない。戦慄あふるる死闘を、こころは良性の思い出へと昇華し、すっかりと前を向いてしまっていた。メンバーそれぞれの課題は浮き彫りとなったし、省察を重ねたのち、対策をとらねばなるまいとあれこれ思索を巡らせていた。
――ご主人、動いちゃだめですってば。お願いですからじっとしててください。
しかしドロップがそれを許さなかった。人間のおかん顔負けのおせっかい母性パワーをここぞとばかりに遺憾なく発揮させ、ゴールドのあちこちを世話している。現実では、手足の自由なグレンゲをこき使っているのだが。
ゴールドはきつく巻かれた腕の包帯をいじり、
「俺よりもレッパクとソニアの心配をしてやってくれ」
――しました。たっぷりしました。だから今度はご主人の番です。
やれやれ、とゴールドもグレンゲも鼻からため息。
言う通り、ゴールドよりもレッパクとソニアのほうが深刻の域だった。レッパクは通信交換の時間稼ぎのためにヘルガーにいたぶられまくったし、ソニアはマタドガスのじばくで凄烈なダメージを受けていた。
命には別状なかったものの、両方とも別の治療室で体力を取り戻そうとしている。復帰にはまだしばらく時間がかかる。まともに動けてまともに口が聞けるのは、途中参戦で暴れ足りないグレンゲと、戦闘不能をまぬがれたドロップくらいなものだった。この組み合わせ、いつかどこかでもあった。
「この町のジムはまだ先の話、か」
――あ、あのですね、
「分かってるよ。みんなと俺が完全に治りきるまでは、無茶なことはしないって」
でも、散歩くらいなら、とゴールドは思う。ケガすることよりも、体がなまることのほうが嫌だった。こんな窮屈な個室に縛り付けられ、植物のようにただ呼吸を繰り返す物体と化してしまうのは勘弁だ。
外の空気が吸いたい。窓ガラス一枚向こう側の世界が恋しい。
それがだめなら、せめてマサキとポリゴンZに連絡を入れたい。ワタルが一度面会に来てくれて、事の顛末を聞いた。マサキにも話したり話されたりだったそうだが、ゴールドは自分自身で礼を言いたかった。レッパクとポリゴンZが機転を利かせてくれなければ、間違いなく全滅していて、二度とみんなと会えなかった。
――見ろって、大将あの通りピンピンしてるじゃねえか。教頭先生は心配しすぎだっての。
――誰が教頭ですか。ご主人は私たちに気遣って、外面で無理してくださっているんです。
――そうなのか大将?
「そうなのか俺」
――きっと内面は、高い巣から落ちかけのひなポッポです。
そこまで言うか。
いやまあ、ドロップの気持ちも分からなくもないのだ。無様な戦いをしたがためにご主人をここまで傷つかせてしまった、と猛省しているらしい。負い目を感じて、せめてもの罪償いにと(グレンゲの)身を粉にしているのかもしれない。
待った、むしろ逆ではないのか。負け戦を無理強いしたのは自分だし、それに対してひそかに怒っているのではないのか。かつてのつながりのどうくつのように自分をここに閉じ込め、同じ苦痛を味わってもらう。そしてくたびれたところに二度と無茶なことをさせないよう誓ってもらおうと、そういう腹ではないのか。体をろくに動かせないだけに、ゴールドはそこまで考えてしまう。
うーん、とゴールドはもの案じ、指をばきばき折って、
「グレンゲ、」
返事を挟ませず、ゴールドは右のこぶしで空を切り裂き、グレンゲを直線的に打ちすえようとした。
グレンゲは、グレンゲだからこその反射神経で瞬時に対処。左の逆手でゴールドの右を受け止め、無駄の入りすぎた余勢を下半身へゆるやかに流す。しかし反撃はしない。しれっとゴールドの手を解放。
右を自由にしてもらったゴールドは続けて左を選択、滅多刺しのような左ジャブを三回。間髪入らぬ右、左。立て続けの猛攻。
素人同然のでたらめなラッシュだったのに、グレンゲは正確に軌道を予測してつかんでくれた。わんぱく小僧を相手するように、隙だらけのパンチをぱしぱしととらえてしてしのぐ。その遊んだ右手を、ゴールドは鎌のような軌道をもった右こぶしで外側へ弾き飛ばす。グレンゲの懐がガラ空きになる。自分の体が回るほどの勢いだったので、ゴールドは右足を垂直に叩きおろし、それを強制遮断。つま先を滑らせ、バランスを求めて無理に開脚。靴底が床を噛み、キュイイイと高く鳴いた。適度な開き具合を感じたら、かかとも落として重心を
固定。一方そのころ、上半身では、左のぱーと右のぐーでヘリコプター合掌。
グレンゲの胸をいただく右肘鉄、
悠々の回避、
ゴールドとしてもそれは予見済み、本命は次、
グレンゲの右っ面を、何かが狙っていた。
中途半端な角度まで上がった、ゴールドの左足刀。
もちろん当たらなかった。まんまと甲で守られた。
っとっと、
ゴールドは身長1.65メートル。グレンゲは身長1.7メートル。まったく初めてのハイキックだったので、高さはグレンゲの肩にも満たなかった。ゴールドの危なっかしい姿勢は背後へ崩れ、しりもちをつく。起きあがりこぼしのような動きで立ち上がる。両手をぶらぶら。急な運動による脈拍をごまかすために、にまっと笑いをひとつ。足がつりかけているのも内緒。
ドロップは、目を点にして呆然としていた。
グレンゲは別段驚いた様子でもなく、
――ああ、うん。大丈夫。動けるじゃねえか大将、余裕余裕。これなら散歩どころかジム戦もわけねえわ。
ゴールドはにまにましてドロップを見やり、右手の指全部をわきわきと曲げてみせた。
はっとしてドロップは、
――もう! どうなっても知りませんからね!
その顔には、「これだからこれだから」と書いてあった。
― † ―
『アカリちゃんの病気? えっと、ゴールド君が来る3週間ほど前からでした』
もしやとは思ったが、ゴールドの予想は外れた。タブンネが言う日付けと重ねると、ポケモンが電波で苦しみだしたのはそれよりも後。アカリちゃんは、怪電波の装置が作動するよりも早くから病気にかかっていたことになる。そもそも、アカリちゃんはすでに進化しきった姿なので、電波を受ける可能性はほぼ皆無。外れて当然といえば当然だった。
「そうか。悪かったな変なこと訊いて」
ううん、とミカンは嬉しそうに、
『あとそれと、この前ブラック君も電話してきてくれたんです』
「お、そうか。おさがりをやった甲斐があったよ」
『え?』
「ああいや、こっちの話。んで、なんか言ってたか? まさかあいつに限って世間話はしないだろ」
くすくすとした気配が聞こえて、
『なんて切り出せばいいのか分からないみたいで、ほぼ無言電話状態でした』
人目も気にせずゴールドは大笑いした。
ポケギアに向かって必死に話題を作ろうと冷や汗流す幼なじみの姿がおかしすぎた。
そんな会話を交えつつ。
レッパクとソニアはポケモンセンターにまかせて、道のりの予習がてら、チョウジタウンのジム前まで来た。
子供を諭すような口ぶりでドロップが、
――入っちゃだめですよ。
「入らないって」
だって張り紙があるし、とゴールドは口にしかけた。
言っちゃあ当然だが、ポケモンはよほど学習しない限り、人間の書いた文字が読めない。だから、グレンゲもドロップも、このジムの扉に張られた一枚の紙切れの内容を、からきしつかめずにいる。
品評会に出してもいいほど達筆なだけに、なおさらだった。
『諸事情により、ジムはしばらく閉鎖させていただきます ジムリーダー ヤナギ 以下一同』
「どういうことだこれ――」
おさらいしてみる。チョウジタウンのジムリーダーは氷タイプ使いのヤナギ。
木訥なじいさんで、数いるジムリーダーのなかでもずいぶんなご年輩。ジョウトは特に若輩のジムリーダーが多いだけに、肩身は狭かろう。「次の世代を担う若い者が、来る日も来る日もボールを投げているのに、寄る年波に勝てない自分だけが私情でジムを空けるだなどあってはならない」とか考えてそうな偏見が、少なくともゴールドにはある。もちろん会ったことなど一度もないが、ヤナギはこんなこと思ってそうなイメージだった。
そしてそのイメージは、この紙切れ一枚で圧殺された。
「ぎっくりか? ぎっくりなのか?」
――なあ、大将、
――あの、ご主人、
グレンゲとドロップが、同時に気づいた。
――このジム、どこか妙だぜ。変な感じがする。
――私も同意見です。
なんだそれ、とゴールドは思う。
「でも開けちゃだめ入っちゃだめだしなあ」
「今、ヤナギさん、ジムにはいないんです」
一斉に振り返った。
一人の少女がいた。
急激な反応に少女は気弱そうな様相を見せた。フレンドリィショップで調達してきたらしい、両手でかかえるでかい紙袋をもぞもぞとさせながら、
「すいません、わたしはジムでヤナギさんのもと、修行をしている者です。ですが、その。ヤナギさんは少しばかりこおりのぬけみちへ用がありまして、」
「用事があるだけでジムをわざわざ閉鎖? ちょっとおかしくないか?」
――この感じ。湯気、いや、蒸気か?
――そうですね。ちょっと水っぽいにおいがします。
グレンゲとドロップは冷静だった。扉一枚向こうの世界を、目で見ずとも精細に探り始めた。
それを聞いた少女はほんのり青ざめ、唇を噛みしめる。降参のつもりか、紙袋をおろし、ドアノブを握った。
「よく育てられていますね、あなたのポケモン。見事な洞察力です」
「――どうも」
ドアノブをつかむ右親指の爪の先が、すっと白くなった。ぐっとした力が入ったことをゴールドは見て取った。
「あなたのようなトレーナーはぜひ歓迎したいところでしたが――おっしゃる通り、ヤナギさん自身の問題だけではないんです」
開けた。
最初に来たのは、生ぬるさのある水のにおい。
ゴールドとグレンゲとドロップは、愕然とした。
― † ―
暑いし、熱い。
脂汗がにじみ、あご先まで伝う。
蓬髪に水分が染み込んで、いくらかがひたいに張りついていた。息をするほどに肺が焼き焦げそうで、気が遠くなる。
心の臓は老体には気の毒なくらい暴れていた。
こおりのぬけみちの近く、ジジイは一匹の巨大なポケモンを目の前にし、立ち尽くしていた。
「なぜジムを襲った」
――我輩に訊いているのか? 答えはぬしも知っておろうに。
余裕を見せたくて、ジジイはあえておどけてみせる。
「さあ、どうだかな。なにせ最近物忘れがひどくっての。昨日の昼飯すらあやふやなのだよ。腰もきついし厠も近い」
――ほざけ。ぬしの町を中心としてはびこっていた電波。知らぬわけがなかろう。
「もちろん気づいていたさ。ロートルとてポケモンと共に生きる者。だが、弟子どもが解決に躍起になっての。わたしなど所詮、この期に及んでも、ジムの奥で待ちかまえるだけの置物に過ぎなかったのだよ。それにな、わたしとて同じ気持ちだ。老いぼれネズミをいぶり出すためがだけにあのような凶行に及ぶとは、お前もつくづくおつむの回らぬ奴よ」
ポケモンの顔面に、凶暴なオーラが凝縮される。
ポケモンの主張は、こうだ。
怪電波でみなが苦しんでいる間も、どうしててめえはなおもジムの中にこもっていたのか。
返すジジイの意見は、こうだ。
ジムを襲った以上、あんたも同類だ。ジムリーダーはジムリーダーであって、その職務を超えることなかれ。
巨大なポケモンが、その巨大な口をゆっくりと開く。喉奥に、何かがうごめいている。
覚悟するしかなかった。痩せても枯れてもジジイはジムリーダーの端くれ。心臓発作くそくらえの俊敏な動作で右手の杖を倒し、手袋を脱ぎ捨て、ボールをつかみ出した。
そのとき。
「グレンゲ――――――ッ!」
――みなまで言うなあッ!
更なる火炎。
背後に追いすがってきた人影。
その少年は体中にガーゼや包帯をまとい、バクフーンとともにやってきた。
― † ―
こおりのぬけみちは、チョウジタウンからはさほど離れていないらしい。ゴールドとともに、グレンゲはヤナギを追いかけた。急を要する事態だということは、レッパクを介さなくとも丸分かりである。ツノから変な光線を出しそうなほどヒスを起こすドロップは、移動を優先のため、説教3時間コースを代償にボールへ引っ込められる。
ジムリーダーの特権で、ミカンたちと同じように、チョウジジムの内部は独自に増改築していてもおかしくない。こおりタイプ使いなのだから、例えば決して溶けない氷をあしらって、挑戦者を偽りの冷気で歓迎するかもしれない。立派な彫刻品のひとつやふたつも飾ったり。事実、ジムを管理している少女もその通りだと言った。床も壁も、冷たくなくて滑らない、特殊な氷を張ってバトルコートとしていたそうだ。
ジムの中が、溶けていた。
あまりにも、あまりにも異常な光景だった。外側は厳かな造りなのに、内側は地獄の沙汰を見ているようだった。
目に見えて蒸気だった。
かなり暑かった。襲われたのは数時間前らしいが、ジムが内包する熱は一向に下がる様子を見せなかった。手で捕まえられそうな湯気がもうもうと漂っている。中にあった氷たちは蝋のように形を無くし、「氷水」と「水」の中間をさまよっている。それでいて、少しも乾く様子でもなかった。ヤナギの付き添いのジム内トレーナーたちが、手持ちのポケモンたちと決死の冷却作業を続けている。冷やせども冷やせどもそれらはすぐに水へ戻って無駄を重ねるだけらしいが、何もしないくらいなら動いたほうがましだった。
ヤナギはもちろんくせ者を追うことを決断。腰巾着たちがしゃしゃり出たせいで、怪電波の事件こそ何もできなかったが、襲われたのが自分の第二の家とあらばもう黙っていられない。熱の斬跡をたどり、フスベシティ側へ逃げたと仮定。ジムを留守にして、追いかけ始めたらしい。
やっぱりジジイだった。追いかけるのに潰した手間は、午前を午後にかえるほどだった。
もちろん犯人側も――正確には人ではなかったが――それを承知で、ヤナギが来るまで待っていた。
そこへ、ゴールドが転がり込んだ。あっと言う間に追いつけた。
「ぬしは確か『器』の――」
その言葉の先を遮るべく、グレンゲが炎を吐いた。巨大なポケモンは途方もない跳躍力で背後へ飛びすさり、ゴールドたちから距離をおいた。ゴールドとヤナギをかばうようにグレンゲは一歩前へ出て、臨戦心理を叩き起こす。しかし、気持ちをいつも以上に高ぶらせているグレンゲですら、これより踏み出すことをこころのどこかで怖がった。
グレンゲもゴールドも、そしてボールの中にいるドロップも、このポケモンが放っている殺気を、ヤツら≠ニたやすく重ねることができた。鳶色の毛並み。火山の白煙を思わせる、背中の毛。対に落とされる髭は、鋭利な牙に見えなくもない。こいつは間違いなく、ライコウ、スイクンと同類の難敵だ。
――お前は何の名を冠する。ライコウが紫電、スイクンが青嵐だった。残るは『赤熱』か?
大将の名指しを受け、まなこをぐっと開いたそいつは、天を割りそうなくらい盛大に笑った。
「如何にも。我輩こそが『赤熱』のエンテイ。最近姿を見せぬと思ったが、よもやこんなところで邂逅を果たそうとはな。話は紫電や青嵐から聞いておるぞ」
「てやんでえ弁償しろ弁償! ジムがどろっどろになっちまってたじゃねえか! あれもお前さんの仕業なんだろ!?」
エンテイは小馬鹿にするように鼻を鳴らし、
「そこな人間には失望したのだ。あの土地のあの怪電波、人間たちが起こした不始末すら、自分たちの手で止められぬのだからな」
大将は挑戦的な体勢となり、両手の人差し指と中指だけを立て、くいくいと曲げてみせる。
――ほおー、言ってくれるね。でもな、「それ」と「これ」とは話が別だと、あたしゃあ思いますけどねえ。迷惑かけたけど、自分たちできちんと解決させたし、世話ないじゃないか? 今やチョウジはいたって平和。そこをお前が勝手なことしでかし、ややこしくした。……で、あなたが「堅氷」のヤナギさん? 俺はワカバのゴールド。ジムに軽くあいさつしようと思ってましたが、あのざまだったもんで、追いかけてきました。
ヤナギもようやっと理解し、
――そうか、それはすまないことをした。見ての通り、いささか不都合があっての、
大将は苦笑し、エンテイを軽く指さし、
――俺たちもあいつらにはちょっとした縁がありましてね。どうします? ふたりでとっちめます? このまま帰すわけにもいかないでしょう。
――かたじけない。きみさえよければ。
ヤナギはそう言って、つかんでいたモンスターボールからマンムーを繰り出した。
エンテイが闘志を集中させた。
「面白い。やってみせよ。ぬしらの力、存分に見せてみよ」
「そんじゃ改めまして、だな」
応えるように、グレンゲは仁義を切った。