13 つづきからはじめる
【人間がそばにいたいのか、ポケモンがそばにいたいのか、という話だけでもなかろう】 シジマ
第二章 六色少年 13 つづきからはじめる///
決して「ついでに」のつもりではない、ということだけは先に明記しておきたい。
アカリちゃんの件を済ませたらさっさとワカバに戻るつもりだった。控えめに言っても俺はそのつもりだった。
しかし、本当にこのままでいいのか。
また俺は逃げることになってしまうのではないか。
みんなの気持ちも考えず、旅を終わらせてしまっていいのか。
悩んだ末に、もう一度歩き始めることにした。
こう書いてしまうととてもあっさりと決意し直したように思われるかもしれないが、これはあくまで決断であり、ここに辿りつくまで――気持ちの整理を終えるまで、相当時間がかかった。
アカリちゃんの件は落着し、俺の旅は一旦終止符をうつ。
そして直後から、新たな道を歩き始める。
それは決して「ついでに」ではない。
みんなと同じ道を歩けることに、感謝したい。
みんなはずっと前から、いや、そもそも許す許さない以前の時点から、俺の気持ちを理解してくれていたのだろうけれど、俺が俺を許せなかった。
この罪の意識がいつ消化し切れるのかどうか、それだけが少し気がかりである。
だから、償わなくてはならない。こいつらを連れて、何がなんでも頂点に行ってみせる。誰に指をさされてもいい。泥水だってすする覚悟だ。壁があるのなら乗り越えるし、風が吹くのなら突っ走る。栄光を勝ち取らせたい。そのために傷つくのであれば、それは自分だけで十分だ。
今度は俺の番だった。ここまで俺を引っ張ってくれたこいつらと代わり、次は自分が前を進んで道を示さなくてはならない。
随分遅れたけど、やっと「ただいま」と言える気がする。
///
― † ―
とっくに目を覚ましていた。
頼りなげな緑蛍光で表示される時刻は午後7時。
眠っていたのは3時間ほどで、まだまだ疲れていることに違いないのだが、どうにも寝付きが悪い。中途半端な暗闇の中、今までのことをずっとぐるぐると反芻していた。
夢は濃密な記憶の旅だった。胸苦しくて、すすり泣きたくなるようなつらさ。今までずっと馳せていた想いの道筋を、一度立ち止まって振り返る、追憶の足跡だった。
枕を頭でこする。17回目の寝返りをうって、魂が抜けそうなほどのため息をひとつ。
疲労感と眠気が絡みあい、わけの分からないマーブル模様となって頭の中へ浸透していく。悪寒をこらえきれず、寝汗の気持ち悪さを無視できず、横たわって膝を抱えて震え続ける。もしかしたらこのまま死んでしまうのかな、なんてことを真剣に考え始める。
このざまを、スクールのみんなに見せつけてやりたかった。
スクール内屈指の実力保持者であるだろうゴールドの、まさに弱い姿だ。思い知ったか。ざまあみろ。生徒ひとりひとりの顔を思い浮かべながら、こころで罵倒している。
分かっている。誰がどう見ても100パーセント自分が悪い。客観的かつ論理的に結論づけることができる。
あんなしょうもない理由でワカバまで逃げ帰ってきたのだ。負け犬と言わずになんと呼ぶ。地獄ですら門前払いだ。姓名判断師が10人いたら10人が、100人いたら100人が、ろくなあだ名を付けないだろうという絶対の自信がある。まったく、なにが「三色」か。信号か俺は。弁当か俺は。団子か俺は。麻雀か俺は。
端末に何かが転送されてくる音がした。
泥沼の思考がでたらめに折りたたまれる。
布団を内側から蹴り上げ、服も着ないで2つのボールをぶんどってぶん投げた。
――ふっかぁーつ! 不死身のグレンゲ、ただいま見参ッ!!
――ご心配をおかけいたしました。
どこで覚えたのかも分からない決めポーズとおじぎ。これで背景が爆発されちゃたまらん。
さておき、今度こそ魂が抜けたかもしれないため息が出る。
ゴールドは膝をついてへたり込む。
「よかった。本当に、よかった――」
――ったくよお、俺たちより自分の心配しろっての。んななりだと風邪ひくぜ。召しもんくらい俺が乾かしてやっから!
「ジョーイさんにも同じこと言われたよ」
苦笑しつつもゴールドは生乾きの服を持ち、グレンゲにかざす。炎を出したくてうずうずしていたのか、グレンゲは張り切って残りの水分を飛ばそうとしている。端末で部屋の危険察知レベルを下げておかねば、スプリンクラーが発動してまた水浸しになるところだった。今すでにその二歩手前。
「くすりは手に入ったよ。ドロップのお陰だ。ありがとう」
ツノの根本あたりを優しくなでてやった。ドロップは目を細め、ここち良さそうに小さく鳴いた。褒めるためになでたことはこれまで何度もあるが、感謝の意をあらわすためのそれは久しかった気がする。そもそも海原にでなければこんな危険な目に遭わなかったわけで、因果関係はややこしい。が、とりあえず、生きてここまで辿りつけたのはドロップの懸命さがあってこそだ。
――俺は?
「お前なにかやったっけ」
――私の背中に乗って雨と波をかぶっただけですね。
殿どころではありませんね。
「えんまくは無駄だったし」
――何をしについてきたんですか。
――いくらなんでもあんまりだろ! 校長先生泣いちゃう!
情け容赦ないツープラトンに、グレンゲはそっぽを向いてうそ泣きする。冗談冗談、と手の甲でのどをさすってやった。
乾ききった上着とズボンを身につけ、次はリュックにとりかかる。
全員が扉の向こうの気配に気づいた。
劇的な臨戦反応を示し、グレンゲとドロップがすぐさま定石を展開しかけた。ポケモンセンター内だろうと、こころの深いところではまだ安心しきっていなかったようだ。
「待て待て待て。もう全部終わったんだから」
――す、すまねえ。どうにも警戒心が麻痺ってて、うっかり構えちまった。
ゴールドは端末を復帰させ、ドアのロックを解いた。向こうのランプは赤から緑に変わるはずだ。青は空室。赤は閉室。緑は在室。
途端に、遠赤外線が作動して、自動ドアがスライドした。
鉱山みたいな人間がそこにいた。扉が低いために顔が見えていない。筋肉におおわれた少しもそそらない肉体。何食ったらここまででかくなるんだと思う自分がいたのは確かだ。
気配と山の正体はシジマだった。
「その節はどうも。よくここが分かりましたね」
関係者に訊ねなければ、個室を利用している人の名前は判別できない。ということは、部屋を割り出してまでの用があるということか。
「ひとつ訊きたいことがある」
シジマが重々しく口を開いた。
なるほど、グレンゲとドロップが反応したくなるわけである。先程とはだいぶ顔つきが違う。体格が頭二つほど違うから自分が見下ろされるのは致し方ないとして、もっと古傷をなじるような、失望的な双眸がそこにあった。熟考しているだろうと見て取れる、会話三つほどのやや長い間、
「小僧、手持ちはいくつだ」
――?
「3つです。あ、でも今1つ手元にはないから2つ」
シジマの眉間に力がこもった、気がする。
「その1つは今どこだ」
「――アサギシティです」
次はふと和らぐ。
「本当か」
嘘を言っても仕方がない。
「残りの2つはそのマグマラシとラプラス。1つはアサギシティ。それでよいな?」
「ええ」
シジマは少しもゴールドから目をそらそうとしない。返すゴールドも、怒気をはらんだような目つきから背けられず、訊かれたことにひたすら正直な回答を繰り返すことしかできない。
「――そうか」
いかつい肩が若干緩んだ。ゴールドの深呼吸よりも長そうなため息が鼻から出ていた。
「すまなかった、急に押しかけてきて」
それだけを残し、シジマはでかい肩甲骨をさらして出ていった。
――どういうことでしょう?
――あのおやっさん、確か浜で大将を助けてくれた人だよな。
その通り。まさか見舞いに来たわけでもなかろう。ゴールドは視線を伏せ、眉根にしわをひそめ、口元を手で覆う。
――まだあそこで稽古していたのでしょうか。
――どうしてそう思うんだ?
――磯の匂いがまだ付いていましたから。
シジマは手持ちの数を訊ねた。自分みたいな若造が少ない手持ちでタンバシティやってくることに、いまだ疑問を引きずるのも無理はない。そのことを確認するためだけに、わざわざここまで来るだろうか。
磯の匂い。砂浜の鍛錬。現在もなお。今の手持ち。残り1つの正体。
自分はなにか、とんでもない見落としをしている気がする。
時間はそんなにかからなかった。
予感と予想が、左右の脳を一斉に乗っ取った。
「グ、グレンゲ、ドロップ、」
自分でもおかしいくらい声が震えている、
「ここにいろ、いいな。よほど、か、鍵は外しておくが、余程のことがないかぎり、外に、出るなよ」
返事も聞かず、ゴールドは転がるような勢いで廊下へ躍り出る。
さっき出ていった背中が、鼻先にあった。
振り返りもせず、シジマは言った。
「あのフライゴンは小僧のか」
「これから決めます」
肩越しに流される視線が、射止められそうなほど鋭い。
負けじとゴールドも、さっさと連れていけとばかりに睨む。
― † ―
人間であろうとポケモンであろうと、世の中の鉄則は「弱肉強食」の一言に尽きる。
野生のポケモンたちが傷にまみれる争いをし、それを通りかかりの人間がいちいちポケモンセンターなんかに連れていけば、世界中どこのポケモンセンターであろうとあっという間にパンクし、スタッフは二日で狂気に身をかられ、ほとんどの回復システムがどかんと落ちる。ことにポケモンは人間と違い、得物を使わず己が体術で技を繰り広げるため、怪我のバリエーションも多岐にわたる。最悪の場合死に至るまで戦い続ける。脆弱な人間なんかが生身でまともに取り合えるはずもないのだ。
それがお互い恨みっこなしの、野生の法則だった。
特にこころあたりがなければ、よほど深刻な事態でなければ、シジマだって片手を眼前に添えるだけで終わっていただろう。
フライゴンが浜に打ち上げられていた。
波が何度も海の中へ引きこもうとするが、進化して大きくなった巨体は、もうその場からは動かない。幾重にも刻まれた戦いの痕跡を往生際悪く洗い続け、体温と命の灯火を次第に奪っていく。
気を失っているフライゴンの首を掻き抱いて、ゴールドは胃の奥に凍えたものを落とす。オレンジ色の何かが視界の端っこをくすぐっている。ぞっとするほどのフライゴンの冷たさが手へ伝わり、それと同じ早さで判断力が一寸刻みにされてゆく。
どうすればいいのか、分からなかった。
理性と名目が、この期に及んで大喧嘩を始めた。
ギャラドスとドククラゲの襲撃から脱出するとき以上の選択が両肩に重くのしかかってくる。シジマが一緒とはいえ、ポケモンセンターまで運ぶのはどだい不可能だ。ひとつの良心は、迷うことあるか早く連れていってやれと悲鳴にも近い絶叫をあげている。かといって、このような形でボールの中に収め、顔なじみのままで済んだ関係を終わらせるのがあまりにも不本意すぎて、もうひとつの良心がどうしても首を縦に振らない。いつかはさしかかる分かれ道だ。幼少の頃からこいつをどうすべきかをみんなと考えていたはずなのに、いざこの窮地に立たされると、そんなものは綺麗事とともに波にさらわれてしまった。
シジマに意見を仰ぐわけにもいかない。
自分とフライゴンだけの問題だった。
いっそのこと全てをかなぐり捨てて逃げ出してしまいたいのは、決断を迫られたからではない。体のあちこちにある無惨な裂傷から一瞬でも早く遠ざかりたいというのが動かしようのない本音の部分だ。
「どういういきさつでそのフライゴンと知り合ったかはしらんがな、」
シジマがゴールドの肩をそっとつかんだ。
「そいつは小僧を助けるために体を張ったんだ。後悔はないはずだ」
シジマとしては、「こんなところで仲間として加わることになっても決して嫌がらないはずだ」と言ったのだろうが、冷静さを欠いたゴールドには「こんなところで果てても多分悔いはないはずだ」としか解釈できなかった。
時の一秒が血の一滴。
腹を決めた。きつく唇を結び、目をつむった。
腰に意識を凝らす。右の手前がレッパク、右の奥がグレンゲ、左の手前がドロップ、
そして、左の奥にある空のボールが、こいつが入るところ。
いつか入るときが来るかもしれないと、ずっと前から空けておいたところ。
「すまない――!」
ここでフライゴンは、一時的にゴールドの手持ちとなった。かなり弱っていたのか、一向に揺れようとしない。やけに軽い気もした。その錯覚が途方もなく恐ろしい。
シジマはああ言ったが、もしこいつが望まなければ、ゴールドは治療後すぐにでもフライゴンを手放すつもりだった。こいつがこれからも一緒に来てくれるというのならこれ以上にない喜びだが、まずはこういう状況で已む得ず捕獲してしまったことに、ひたいを地にこすりつけるほど頭を下げたい。何よりこいつには借りができたのだ。そちら側の意見を絶対優先したい。
また服を乾かさなくては、と思う。
― † ―
んなこたあ当のフライゴンにとっては果てしなくどーでもよく、回復しちまえば万事こっちのもんで、ゴールドの悔恨なんぞ微塵にも関係ねえことなのである。
気楽なこっちゃ。
「行くのか?」
――うん。
あの後、またも海水浸しになったゴールドはフライゴンを預け、個室に戻り、とうとう力尽き、服も乾かさずに真正面からベッドにぶっ倒れた。ポケモンセンターをとび出すと同時に眠気をパージしていたものだから、切迫感からの解放がある種のカタルシスにも近い状態を呼び起こした。体の中にあったしこり≠ェ砕かれ、まぶされ、ここぞとばかりに全身を呑みこんだ。
グレンゲとドロップの慌てようを、遠巻きに聞いていた気もする。起きたら服をひん剥かれていた。かなりびっくりした。
やっぱり、風邪をひいていたのかもしれない。もしくはそれ相応の体調不良を起こしていたものと思われる。
どうしようもない泥沼思考に沈みかかっていたのも、頭の中がいつも異常にパニクっていたのも、度し難い視野狭窄に陥っていたのも、それが原因だと決めつけられたら、どれほど救われるだろう。
とにかく。
夕飯も摂らずにたっぷり寝まくった翌朝、完全に蘇ったゴールドとフライゴンは夕べの砂浜に戻っていた。
昨日の嵐は嘘のように静まっている。雨雲を使い果たしたのか、アサギから眺めたものと変わらない海と空が左右いっぱいに広がっていた。あの後、徹底的にぶちのめしたから、もう危惧の念を抱かなくてよいとのこと。仮にとはいえボールの中に収めてしまったことをゴールドはしつこいくらい謝ったが、フライゴンはいつものごとくそっけなく、適当に流すだけだった。
いざこうして対顔してみると、両腕広げて褒めたたえてやりたいくらい大きくなった。ビブラーバのときはレッパクといい勝負だったのに、今や自分の身長をぐんと追い越している。昆虫のような関節の目立つ体つきは、滑らかさの際立つしなやかなそれとなっていた。進化前の名残か、腕っ節は細くて小さいままだったが、そこから繰り出される攻撃はあらゆるものを斬り裂く無限大の威力を秘めている。
そして翼はオレンジ色の輝きを忘れていない。面積が広がった分、前よりも更にまばゆくなった気もする。
――本当にありがとうございました。あなたのこと、誤解してました。
――別にいいよ。卑屈な態度をとったことは否定しないから。
――ワカバに戻んのか?
――分からない。適当にうろついてみる。
フライゴンはそう受け答えし、ゴールドのほうをちらりと見る。何かを探っているような、じれったい目つき。
視線の先は腰だった。
やっぱり自分のボールが気になるのか、とゴールドは思う。
未練がないと言えば嘘になるのは、どうやら自分だけではないらしい。
ためらいがちな視線を装いつつ、フライゴンが背を向けて翼を広げたとき、
「よお、ちょっと待てよ、もう一回こっち向け」
フライゴンは聞こえないふりをし、羽ばたきの準備にかかる。
「――こっちを向けって言ってるんだ」
腹底からの力を宿らせた声色。怒鳴りつけるような大声ではないが、油断しきったところを驚かせるのには十分すぎる。フライゴンだけでなく、無関係のグレンゲとドロップまで尻込みするほどだった。
なんだよもう、と言いたげに首をひねってきた。仏頂面の奥、内心びびっているのを必死で押し殺しているつもりなのが、面白いくらい見て取れる。
対するゴールドは、即席で自家製の笑みを用意する。つま先で背伸びを演出し、フライゴンの首へ両腕をまわし、優しく抱きよせた。恋人に耳元で何かをひそやかに呟くように、
「ありがとう、助けてくれて。本当に嬉しかった。何にも縛られずに生きたいのならそれでもいい。無理に引き止めたりもしない。でも、お前はもともと俺たちの仲間なんだから、帰ってきたくなったらいつでも戻ってこい。他のナックラーたちはお前を変だと思ったかもしれないけどな、俺はそんなこと一度もないぞ。もし誰かが見下しているとしたら――多分それはお前自身だよ。お前が自分のことをどう思ってるかなんて俺は知らない。でも。俺は、お前の翼が、好きだ。たとえもう一匹、いや十匹似たような色違いのフライゴンがいたとしても、俺はお前を一発で見分けられる自信がある。お前の力は俺が認めている。だから安心しろ。自分に自信を持て」
それから、どれくらいの時間が流れただろう。
フライゴンも、グレンゲも、ドロップも、じっと固まったままだった。
ゴールドはやがてフライゴンから離れる。
宝石のように丸くて赤い両目がそこにあった。
言いたいことは全部言った。
あとは、こいつ次第だった。
笑い、
「ちょっとくさかったか?」
フライゴンが表情を落とした。
その直後だった。
ゴールドのポケットの膨らみに目をつけ、隙ありとばかりに手を突っ込んだ。
「あ、おい、それ」
ひでんのくすりだった。
視線の先は腰ではなく、最初からポケットだったのかもしれない。が、ゴールドにはもう分からない。
さっきの話などまるで耳に届いていなかったことにしようと言わんばかりの、無節操な上昇。
すなあらしが巻き起こる。砂がひっぱがされ、黄色い繊維のように舞い上がり、視界をさえぎる。ゴールドたちの体は黄砂にまかれて白に染まってゆく。どこからともなく美しい音色が奏でられるが、耳の中をほこりで邪魔されて思うように聞き取れない。うるむ目をこすって見上げると、その切れ切れに、菱形の双翼を広げる龍の姿があった。
定石、『
登竜門』。
蜻蛉だ。
誰しもがそう思った。
― † ―
――せっかくなら俺たちも一緒に届けてくれりゃよかった。
――いいじゃないですか。くすりだけでもまず届けてくれるんですし。これで……
そう。
これで、終わってしまった。
自分の役割も、ワカバを出た理由も。
フライゴンにひでんのくすりをガメられたしばらくのちも、ゴールドは砂浜で座り込み、水平線を目で追っていた。
「なあ、グレンゲ、ドロップ」
あのフライゴンをボールに入れる同様、いつかは決めるべきことだった。
「俺、やり直せる、かな?」
意味をつかみかねているのか、返答はない。
「ずっと考えていたよ、もちろん。このままでいいのかって。1年前のあの日からずっと。でも、考えれば考えるほどタイミングを後送りにしてしまって、妙な感情がごろごろといや増して、」
頭を振って即座に打ち消す。
「嘘だ。エンジュでも言ったとおり、俺は完全にしっぽを巻いちまったんだ。そこは間違いない。1年間の穴埋めをあんな『すまなかった』なんて言葉で片付けるだなんて、俺だったらぶちキレて暴れ狂うぞ。なのになんだよ、もうちょっと怒ったり嫌がったりしろよ。お前ら人が良すぎだろ。あ、人じゃなかったか。悪い」
ずっと水平線を眺めている。
グレンゲとドロップがこちらを見ているかは分からない。
「トレーナーってさ、ほんっと、不条理で損な役回りだよ。だって頑張れば頑張るほど、お前らが否応なく傷ついて倒れていくんだから。そんな覚悟もない奴がボールを持つなとは多分誰も言わないだろうけどさ。結局俺は、自分が『悪者』になっていくことが怖かったんだろうなあ。いまだにワカバのベッドで毛布かぶってがたがた身震いしてる気分だ。逆にそうして逃げていることがお前らにとって何よりの毒なんだってことに、とうとう俺は気づかなかった」
これも嘘だ。
もちろん知っていた。
許してくれとは言ったがそれは形だけで、もはや悪びれるという意識すらなかったのかもしれない。
逃げ出してしまったという過去に、自分は最後まで抵抗しなかった。人間がいかに言い訳でごまかしたがるかがよく分かるいい例だ。
段々と話がそれてきた気もする。一気に決断してしまいたい。意地を張らずに早く楽になってしまえともうひとりの自分がせっついてくる。こいつらならきっと了承してくれるだろうが、やはり勇気が出ない。
やっとの思いで作った度胸は、実に遠まわしな言葉を口の中で転がした。
「レッパクもいないし、こんな中途半端なところから、なんだけど。また――また、前を目指していいのか? 俺なんかが、歩いて、いいのか?」
ゆっくりと、背後を見返した。
自分がよく知っている、そして自分をよく知っている、マグマラシとラプラスが、そこにいた。
――あたぼうよ。レッパクが一番、その言葉を待っていたろうな。きっと泣いて喜ぶぜ。またみんなで前へ進めるんだからよ。
――生き方に「中途半端」なんて、一切ありません。私も、ご主人のお陰であのどうくつからやり直せたんですから。次は私がご主人を導く番です。
それ以上は、何も要らなかった。
本当のところは、こんなにもみじめな自分を、ただ認めてもらいたかっただけなのかもしれない。
ポケモンという、決して軽くない命たちを抱えて、共に戦う者となる――その宿命と期待に背負わされ、おびえている自分を。
カチリと、こころの錠が外れた。それは裂け目を作って崩れてゆき、中から一点の火を灯した。不思議な生命力の充実を燃料としたそれはみるみるうちに業火となり、体の内側でのたうちまわる。暗い感性の黒煙を決して伴わない、情熱に満ち溢れた、一途な炎。天に向かって大声を上げたい衝動がぱちぱちとはぜて、今にも爆散しそうな勢い。
1年間、呪縛のようにまとわりついてきた「不安」が、完全に消え去った。
フライゴン同様、自分はずっと自分と戦っていたのかもしれない。
なのに、あんな大それたことをまあ堂々と。
我が事ながら、呆れて物も言えない。
絶えず生まれ続けるそんな卑屈な考えすら、絶えず炎は内側から喰らい尽くしてゆく。
背中を力強く押され、つかみとれた決意。
「よし、じゃあ早速行くか。『手土産』増やして、レッパクを驚かせてやろう!」
迷いを捨てて立ち上がる。
再始動の目だった。