07 海と空と
【ずっとに一緒にいたからこそ、その気持ちに気づかないってことも――】 ゴールド
07 海と空と ――いいのかよ大将、あれで。
「どうだか」
ブラックにもマサキと同じようなことを言われることは予想ついていた。むしろこの1年間、焼き討ちに遭われなかったのが不思議なくらいだ。濃淡に違いがあれど同じ内容のはずなのに、マサキのそれよりも痛く耳に響いている。
ポケギアを機内モードに切り替え、電波をこちらから強制遮断するよう設定し直す。霧の中では全てが無駄となる。ドロップの力だけで渡り切るしかない。当のドロップはものすごく張り切っており、元気よく体をあっちこっちへとねじ曲げ、ストレッチをしている。グレンゲは砂浜に小さな足跡を残しつつ、来るたびに位置が変わる波打ち際を避ける遊びをしている。
――そういや、さっきから誰かに見られている気がするんだが。
「え、そうか? 誰もいないけど」
――気のせい、にしては妙なんだよなあ感じ。ブラックの旦那が見送りに来てたりしてな。
まさか、とゴールドは思い、周辺をグレンゲと同じように見回す。快晴にも関わらず、今日は誰もいなかった。強い陽射しによる痛みが、目の奥でじんわりと広がった。砂の粒ひとつひとつに光が食い込み、熱気のせいで生ぬるくて重い風が一度だけ吹き付けた。その風は白い砂や微妙な空気と一緒に逆巻き、どことも知れぬ虚空へ散り交って舞う。5年ぶりのアサギが賑わしかっただけに、さざ波の砂浜へ打ち寄せる音だけがやけにうるさく聞こえる。遠い空の向こうでキャモメがのどかに鳴いている。
先日の38ばんどうろにて対峙したライコウは、妙なことを数多く残して去った。数少ない情報を頼りに推測する限り、他にもあいつと似たようなポケモンがいないとも言い切れない。
――あ、ご主人、あれ見てください、あれ。
ドロップに促され、空を見上げると、天を突くように高い灯台の最上階バルコニーから手を振っている、白のワンピース少女が見えた。その隣、柵の隙間から顔をのぞかせている黄色と白色のポケモンがいた。たぶんぞんざいなあかんべーをしていると思う。
にっと笑い――見えていないだろうが――右手を耳の横まで挙げてよこした。
「グレンゲ、あれじゃないのか?」
――そう、だといいんだけどよ。
歯切れ悪く、自分で納得させていた。
――ま、何が来ようがドロップと大将は俺が守ってみせらあ。
殿はまかせろ。
「ああ、期待しているよ」
だいぶ体がほぐれたところで、いよいよドロップは砂浜を縦断し、海に浸かった。息を大きく吸い込み、潮のにおいを胸一杯に詰め込んでいる。ここち良さそうな笑みがこぼれていた。
「準備オッケー、と。よし、頼むぞドロップ」
――はいお客様、どちらまで?
「タンバシティまでだ。もちファーストクラスで」
――かしこまりました。それでは快適な海の旅をごゆるりとお楽しみください。
― † ―
――しっかしすっげえなー海ってやつぁ! 俺たちがちっぽけに思えてきて仕方ねえぜ!
――そうですね。私もこんなに広いところは初めて泳ぎます。
ラプラスが人間とマグマラシを乗せて、ゆったりと海を横切ってゆく。
グレンゲはレッパクと違って大はしゃぎだった。楽しめるものはなんでも楽しむ主義である。ドロップの背中に乗って大空を見上げては、あの鳥はなんだ、あの雲でかいと、いちいち騒いでいた。こんなに喜んでもらえるとドロップも嬉しいようで、独特のメロディーでハミングしていた。潮流にたゆたいながら、雄大な海の感触をひとかきごとに楽しんでいる。
それも束の間であった。
海を渡り始めてから15分ほどで、霧が漂い始める境目に入った。触れそうなほど立ちこめる白い空気が、たちまち空も地平線も10メートル先も見えない空間を作り上げた。
「ドロップ、方角は大丈夫か? 狂わされていないか?」
――潮の流れで大体はつかめます。うずまきじままでのラグランジュがポイントですね。
アサギとタンバを分断する海原には、4つの島が存在する。そこに海の神様が眠っているという伝説を、ゴールドは小さいころから耳がたこになるほど聞いていた。身を削りそうなほどの激しいうずしおが近寄ることを許さず、誰も上陸しようなどとは考えない。船の推進力ですらかなわず、ときどき巻き込まれ気味になるくらいである。そのうずしおを越えてから、海流の流れが変わることにも気をつけねばならない。ドロップは大きくこれをそれて、堅実なルートを選んだ。
――だいぶ前に半分は越えてます。あと20分もあれば着くでしょう。もうすぐ霧を脱出して、向こうの町を確認できるはずです。
「初めてなのに分かるのか」
――はい。潮の流れとパルスで。レッパク同様、私たちにも水の世界を渡る際の器官がありまして、海と「会話」するんです。そこに住まう生物たちの情報も交え、距離感やアクアポイントを……難しい講釈はやめますか。
「それなら人間だって一緒だ。最近じゃあ船の技術にものを言わせ、時間の効率化をはかろうとしてるが、まあいいさ。俺たちはのんびりいこう」
――なあ、大将よお。
「うん?」
霧が立ちこめたら立ちこめたで興奮していたグレンゲが、いつのまにか落ち着き払っていた。どことなくあざといような、しかし真剣な目つき。
そして唐突に、その話題を振った。
――あのミカンって姐さんのことが好きなのか?
ドロップがぐらりと揺れた。
ゴールドの眉が跳ね上がり、瞳孔が一瞬で縮まった。
そして次の一瞬後、ゴールドは全身で爆発した。
「だあ――――――――っはっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
背中に甲羅の突起が当たるのもいとわず、両足を宙に放り投げるほどにすっころび、ゴールドは霞んだ空に向かって笑い声をあげた。吸うと吐くが喉元へいっぺんに来て、呼吸困難に陥りかける。ごつごつした甲羅を手のひらが赤くなるくらいばしばし乱暴に叩く。グレンゲも、ドロップも、おそらくレッパクですら見たことのない大笑いだった。転げ回って海に転落してしまいそうなくらいだった。
1年間の引きこもりが夢のようというくらいの、先刻のブラックとの対話が嘘というくらいの、この霧を全部払い飛ばせるのではというくらいの、人はこんなにも気持ちよく笑えるものなのかというくらいの、とにかくとにかくすごい弾けっぷりだった。
話を持ちかけたのはグレンゲだが、こんなにも笑い飛ばされるほどのものとは考えておらず、ある意味自分が笑われているような気さえしてきて、ちょっと複雑な表情になった。
ゴールドは目尻に涙を浮かべ、ひいひい言いながら、
「さ、さあ……どうだろう……。何せ……好き嫌いの問題じゃないから、お、幼なじみって……」
――でも、5年ぶりだったんでしょう?
「そうか、そうだったな。5年間会うこと……おあずけにされちゃ、多少『何か』が動くかもしれないか。……なあ、グレンゲ」
――お、おうよ。
「俺のこと好きか?」
――え、そりゃ、まあ、
まさか自分にも振られるとは思っていなかったのだろう。その返答に困った様子がますますゴールドの発作を呼び起こし、笑いをぶりかえしつつ、
「な、とっさに言われちゃ困るだろ? そんな感じだ。10年、兄弟みたいな幼なじみやってると、感覚が違ってくるんだ」
虫がようやく暴れることをやめてきた。ゆっくり深呼吸。やっとの思いで体を起こし、あぐらをかく。両膝に両手をおく。
「分かったよ、正直に言う。どっちかって言われりゃ、そりゃ俺はあいつのことが好きだよ。嫌いだったらとっくに幼なじみやめてるし、こうして戻ってこないさ。向こうがどう思ってるかは知らないけど。ついでに言うと、俺はお前のことも好きだぞ。もちろんドロップも、レッパクも」
――えっ? あ、あのっ、ありがとう、ございます?
――改めてそう言われるとなんか照れくせえな。
優しい空気がその場に流れた。
そして。
ほおをぽりぽりとかくグレンゲと、目尻の涙を拭うゴールドとが表情を戻したのは、ほぼ同時のことだった。
――ご主人。
「ああ、俺も10年アサギで暮らしてきたんだ、見えてなくても分かる。風の流れとかがおかしくなった。天候が荒れ始めたか」
――いえ。たぶん、違います。
――おい、だとしたら、まさか、
― † ―
同時刻。
レッパクは引き続きミカンやRIVAたちとともに、アカリちゃんのそばにいた。
やれるだけのことはやった。自分が加わってから、多少は元気を取り戻してくれたように見える。RIVAとELESがアカリちゃんの電気器官の位置をたぐりよせ、バイパスを担う。レッパクがそっと語りかけるように電気を送り、
懇ろにリハビリをさせる。これを一定の間隔で行い、循環を体で覚えさせた。
今、アカリちゃんは多少の安らぎにすがり、静かに寝息を立てていた。その間も絶えず、レッパクは電気器官の隠密調査に神経をとがらせている。
ここずっと、アカリちゃんにつきっきりだったせいか、ミカンの顔には疲労の色が浮かんでいた。献身的な人だ、とレッパクは思う。話には時たま聞いていたが、会うのはお互いこれが初めてだった。ほぼ5年間自分が主と一緒にいたように、この人もほぼ10年間主と一緒にいたのだろう。主のことをよく理解してくれるいい人だ。アカリちゃん以外の誰にでも優しく接してくれるに違いない。手つきだけで楽に察せる。逆上がりがどうしてもできず、蝶結びがどうしても縦結びになってしまうのは、5年たった今もなのだろうか。
「――?」
ふと、何かを感じた。
思うがまま、先ほど主たちを見送ったバルコニーに行き、柵の隙間から空を眺める。
相変わらずの晴天しか見えないが、どこか妙だ。
――どうしたの?
「なんだろう、この感じ。嫌な予感がする」
例の直感とはまた違った、ひたすら純粋な胸騒ぎ。
それが海にあるのか、空にあるのかは判別つかない。
やっぱり、ついていくべきだったのか、ついていくべきではなかったのか。それを決めるのは、レッパクの良心次第だった。