06 アサギの三人
【友達を大切する想い、忘れたくありません】 ミカン
06 アサギの三人
高台であるここから眺めると、アサギは海側と町側に二分されていることがはっきりと分かる。隆起する波によって太陽の光が幾層にも乱反射し、顔をしかめたくなるほどまぶしい。海の向こう側を見渡す限りでは、遠くのキャモメを数えられるほどのはっきりした色合いを誇る空が広がっているだけだ。人間は見えるものしか見ていない、という神様からの教訓なのか。
アカリちゃんが病床について以来、空元気を奮い立たせているのか、町は一層活気に満ち溢れていた。今までポケモンの力に頼りすぎて、肝心なことを忘れていた――その反省を含んでいる気もする賑やかさは、ここまでほのかに届いてきて、陽性の哀愁を覚えた。
足りないのは、船の汽笛と、灯台の光だけだ。
自分は、あまりにも無力すぎた。
どれだけ細心の注意を払っても、アサギの砂浜の微細な粒は、絶えず髪や服にこびりついてくる。ミカンは乾燥した細い指先で耳の裏あたりの髪をすき、右の髪留めをいじる。
アカリちゃんの首筋をそっとなでてみる。ぐったりしていて、名前を呼んでも元気のない返事しかできない。見ているほうがいたたまれなくなるくらい、苦しそうにうつむいている。原因がまったくつかめないだけに、どこの痛みをどう和らげてあげればよいかも分からない。このまま解決できなければ、もって2週間を覚悟していた。アカリちゃんが本当にいなくなってしまえば、次の世代が完全に成長しきるまで、アサギは海との交流を絶ち、光と音を失った町と化してしまう。それだけは絶対に避けたかった。
ぐっと眉間に力をこめたとき、ポケギアが着信を告げた。
『――あー、なんつうか。5年留守にするだけで、町ってこんなにも変わるものなのか。俺の知ってるアサギじゃないぞここ』
このぶっきらぼうさ。自分に対してこんな口を叩いてくれる人物を、ミカンはふたりしか知らない。
「ゴ、ゴールドくん、もう着いたんですかっ?」
あまりにも早い到着だった。もう3日ほどはかかると思っていた。さすが旅に慣れたトレーナーは、方向音痴の自分とは足のペースが違う。自分ならきっとそれぞれの町で寄り道してしまう。
『灯台のふもとまで来たんだが――なんだよこれ。なんでご丁寧にエレベーターまで設置されてやがるんだ。若いうちは階段使え階段。足腰鍛えられるぞ。歳くって寝たきりになってからじゃ遅いんだ』
びっくりした。
ゴールドの言う通りである。ゴールドがワカバへ引っ越したあと、この灯台は思いきった改装をし、エレベーターが設置された。間違いない。アサギシティに着いたのではない。アサギの灯台に着いたのだ。ワカバの鉄砲玉は、数階を隔てたもうすぐ下にまで来ている。
「い、今からそっち行きますから! 1階で待っていてください!」
『ん』
通信を切り、気持ちの準備もしていないまま、すぐさまエレベーターの下向きボタンを弾くように叩いた。
この縦長の通路は、今、時を渡る。5年という長き歳月を0に戻す。
これに乗って降りれば、自分は、5年前に別れた幼なじみに会える。
右の髪留めをいじる。
あまりにも緊張しすぎて、このままエレベーターが来なければいいのに、とすら思った。
しかしエレベーターはおせっかいだった。ドア上部のランプは予想していたよりずっと早く最上階へスライドしてくる。
ふと考える。
もしかしたらこのエレベーターにもう乗っているのでは。
断言する、間違いない、絶対そうだ。ゴールドはそういう人だ。「今からそっちいく」と伝えたときにはもう玄関前にいるような性格をしている。10年つきあってきた自信がそう
「よ」
めちゃくちゃびっくりした。思考と言葉がこんがらがり、両肩が跳ね上がった。
声は前からでなく横から来た。
手品でも見ているのかと思った。
エレベーターに乗り込んでこちらに向かってきているはずのゴールドが、なぜかすでに横にいた。
驚声をあげるタイミングを狙ったかのようにエレベーターが到着し、「ピンポン」と鳴った。
誰も乗る必要がなくなったのに黙って口を開くそれが、なんだかひどく間抜けだった。
「だから言ったろ、階段使えって」
5年前と比べ、目線の高さに違いができたことに、何より一番びっくりした。
― † ―
「すぐそこまで来ていたのならわざわざ電話してこないでいいんです!」
「悪かった悪かった」
柳眉を逆立てるミカンをゴールドは適当に受け流し、アカリちゃんの具合をうかがう。5年前と比べて少し大きくなった気もするが、それ以上に痩せている。最近ろくに食事もとっていないようだ。ミカンのレアコイル2体やレッパクも電磁仲介をおこない、体内の異常をじっくりとまさぐっていた。レアコイルがレッパクの強い電圧をいただき、レントゲンのようにマイクロ波を発し、反射してきたそれをもう1体が傍受している。ミカンやグレンゲやドロップは黙ってその様子を見守っている。
レアコイルコンビであるRIVAとELES、そしてレッパクが相談して出した結論は、ないないづくしだった。
――詳しいことは分からない。接触感染も、空気感染もした形跡がない。循環器系とかにも不可解な点は見つからない。ただ、
「どうした?」
――なんていうか、まずあり得ないと思うんだけど、その、
レッパクが目線を曖昧に崩し、アカリちゃんのほうを一度だけ見る。ここまで口ごもるのも珍しいが、聞かないわけにもいかない。
――
雷を
護とするおれたちには、電気を生み出す特有の器官が大体備わっているはずなんだ。えっと、血だったり、臓だったり、肌だったり。そこが顕著に弱っているというか、自分でエネルギーを作り出しにくい状態になっている。元気が出ないのも、灯台の役割を果たせないのもそれだろう。
「どうしたら、そんな状態になるんでしょうか。原因は?」
――ここをやられた経験がないからうまく言えないけど、極めて精確でピンポイントなショックを受けないと、こんなに弱らないと思う。おれたちは攻勢の電圧をくらったとき、全身にそれを受け流してダメージを拡散するようになっているから。直接そこに刺激を与えるなんて、誰がどうやっても無理だ。方法が思いつかない。外傷だってまったく見つからない。まちばりを刺すのとはわけが違うんだ。
「傷穴を作らせないほど細く鋭く、そして確実に急所を――。難儀だな。第一、そこまでしてアカリちゃんを弱らせるメリットが思い浮かばない」
ゴールドは鼻で細く長いため息を吐いた。
― † ―
病状を調べるのはひとまずやめにした。どのような経緯でこのような目に遭ってしまったかより、これからどうするか。本題はここからなのだった。
――レッパクはここに置いていく。アカリちゃんを看ててやれ。いいな?
「ああ。絶対そうする」
一も二もなくレッパクは賛同した。初めから、再び旅立つことを決めたそのときから、ずっとこころに誓っていたこと。
――いいんですか? グレンゲとドロップだけで海を渡るのはちょっと危険ですよ?
――こいつが絶対に「うん」と言わん。
――え?
字は裂帛。
齢は五。
生は
若葉。
護は
雷。
忠義の厚さでこいつの右に出る者はない。ゴールドの命令は基本なんでも聞く。だからこうしてついてきた。しかし、譲れない点だってある。
電気系統に特化したレッパクはここに居残り、アカリちゃんの看病に徹する。
建前はこれでいい。事情を知らない者が聞けば感心する、とても立派な理由である。
本音は違った。もっと大きくて黒い理由が、レッパクの四肢を石のように重くする。
今までさんざん引っ張ってきたが、もうこの際はっきり打ち明けてしまおう。
レッパクは、水が、大の苦手だ。
それはもう、コイキングでも気持ち華麗に泳げるほどの、かなづちだった。
漬け物石のほうが、まっすぐに沈むあたり、まだかろうじて往生際が良い。
主と一緒に風呂に浸かるのは(いまだにちょっと抵抗あるが)千歩譲っていいとしよう。ドロップの背中に乗って、四方八方が底知れぬ水に覆われたところをひたすらゆったり横切る。
考えただけでも身の毛がよだつ。どんな尋問よりもきつい。水責めするくらいならいっそ殺して欲しい。
直感に冴えていると、想像力もよく働く。
海を渡る間、頑なにボールに閉じこもってバリケードを張るくらいなら、最初からここにいたほうがはるかに有益だった。
あらゆる生命は海から生まれ、そして陸を渡るべく進化した。進化しないものはそのまま海に残った。そのうち、人類はやがてふたつの「足」を獲得し、大地を歩き、道を作り、言語を生み出し、人間という生物の頂点に立ち、文明を築き上げる力までも手に入れ、こんな所まで来てしまった。自分たちだってそうだ。
その自分たちがなぜ「この時代」になっても今更、身を清める以外に、精神的に退化し、水に還って魚のように楽しむ必要があるのか。まったく理解し得ぬ。ずっと進化を続けてきた人間と自分たちが、今なお進歩していない、恥ずべきところではないか。
力いっぱい叫びたい。屁理屈だろうがなんだろうが、怖いものは怖いに決まっていた。
とにかく、こうなってしまえば、レッパクはてこでも動かない。
「泳ぐのはとっても気持ちいいのに。もったいないですよ?」と、ドロップ。
「俺だって水は苦手だけどよ、何も海原に突き落とすわけじゃねえんだからさ。ちっとの辛抱じゃねえか」と、グレンゲ。
「お断りだ。何が悲しくて魚のまねごとしなきゃならないんだ」と、レッパク。
「あ、ひどい。私たちの種族に対する侮辱ですよそれ。私は傷つきました。弁護士を呼んでください」
え。
「あらら、やっちまったなあ。刑法に則って、被告レッパクくんには侮辱罪が適用されらあ」
え。
「グレンゲ裁判長、判決をお願いいたします」
え。
「被告に判決を言い渡す! 有罪だおめでとうっ! みずでっぽうの刑に処す! ドロップくん。遠慮なくやりたまへ」
「そーれっ」
「!!」
うわやめろ電撃浴びたいのかお前ら!!
「いいぞそこだやっちまえ! 明日の勝利のためにみずでっぽうだ!」
「はい、コーチ! 私負けません!」
お前らあとで憶えてろよ許さないからな絶っ対に許さないからな町中だろうがどこだろうが本気で雷曇呼び寄せてやるぞ情け容赦なくぶち落としてやるぞいいのかいいんだな泣いて謝ったって知らないからな本っ当に知らないからな無視すんな話聞け――――――――っ!!
――仲良しですね。
――まあな。
――どこで覚えてくるんでしょうね、あんな言葉。
――さあな。
床が水浸しになった。
― † ―
ぐるるるがるるると唸っているレッパクとの別れをこれっぽっちも惜しまず、ゴールドはポケットに両手を突っ込みつつ、もと来た階段を2段とばしで降りていく。ずっと前、スクールの学生から聞いたやり方だ。傾斜角と重心をうまく競合させつつ一気に駆け降りてしまえば、休み時間、誰よりも早くバトルコートを占拠できる、らしい。とはいってもアサギの灯台の階段はなかなか急で手ごわい。改装されてから間もなく何十人もの人に何百回と踏み荒らされた石製のそれは、磨耗しきっていてつややかだった。
最後の5段をまとめて飛び降りて1階までついたとき、階段の側面に、腕を組むそいつがいたことに気づいた。
「奴らがまた動き出している」
こいつともここしばらく会っていなかったはずだ。だがこいつはいつも、ついさっきも会ったかのような口振りで唐突に話を始める。
時間を隔ててもこの先自分たちの関係は変わらない、といった心情の裏返しと言ってしまえばそれまでであるが。
幼なじみ三人組の、最後のひとり。名はブラック。
「誰だよ奴らって」
返すゴールドもゴールドである。
神出鬼没っぷりにいちいち驚いたり呆れたりするくらいなら、こうして初めから何も問題ないように歩調を合わせたほうが気楽になっていた。
言わせるな、とばかりの乱暴な口調でブラックは、
「ロケット団だ。1年前の、ヒワダのヤドン事件のころから妙だとは思っていた」
「ふうん――」思い出す、「ああ、あれロケット団の仕業だったのか」
「いいか。奴らには手を出すな。お前が思っている以上に、奴らは危険な存在だ」
「出すなも何も、詳しいことはまったく知らないしなあ」
間。
「お前どうしちまったんだ」
「何が」
ブラックの鋭い目つきを、ゴールドは半目で返す。
「俺はただ幼なじみのわがままを聞いてるだけだよ」
「見え透いた嘘はやめろ。お前は現状から抜け出したくて仕方ないんだ。1年前、逃げ出してしまった自分が許せないはずだ」
ちょっとの間。
「どうしてそう思う」
ブラックは肩で笑うのが癖だ。
「分かるさ。オレはずっとお前を後ろから見ていたからな。立ち止まることが、オレとお前の死だ。そして、そのお前を追い越すことが、オレの――」
「もうよせ」
今までで一番長い間。
「思い知ったろ。幻だよそれは。俺はお前の眼前に立ちはだかる壁でもなんでもないんだ。お前はお前の道を歩いていけよ」
そうは言ったが、ゴールドも痛く理解しているつもりだった。ブラックは常に自分を目標にしていることを。幼いころから、ブラックはゴールドに対する競争心を異常なほどたぎらせており、いつも張り合ってきた。なんでも後を追ってきた。
今ここで立ち止まられると、ブラックはどうしてよいか分からないのだろう。
立ち止まっているゴールドを追い越しても、なんら意味がない。
ふたりで突っ走って、ぶつかって、追い抜いて、初めてブラックにとっての勝利と言える。
そして、この幼なじみ三人組の中で、一番最初にポケモンを手にしたのは、ブラックだ。
唯一最初に手をつけたポケモンのこととなると、がぜんブラックはゴールドと張り合いたがっていた。
「悪かったよ、お前にも心配かけさせて」
謝んな、とブラックは言い捨て、先に灯台を出て行った。