05 名を冠する者 その1
【怖さを認めることも、ひとつの勇気だと思います】 ドロップ
05 名を冠する者 その1 ついにエンジュと38ばんどうろをつなぐゲートを越えた。
残るこの38ばんどうろと39ばんどうろさえ渡ってしまえば、アサギは目と鼻の先だ。
アカリちゃんの病気の具合がどこまで深刻になっているかは判断しかねるが、鬼門をくぐりぬけたゴールドはかなり上機嫌となっている。体中にまとわりついていた重苦しい空気が全て取り除かれたような気分らしく、今なら空も飛びかねない。
しかも、素晴らしいことに、晴天。
「ご主人、アサギってどんなところですか?」
――そういえばみんなを連れてアサギまで行ったことはなかったっけ。あのときあと少しでたどりつけたというのに、そこはちょっと申し訳ないことをした。
ゴールドは懐かしみを帯びた口調で、
――潮の甘い匂いが効いていて、
鼻腔の奥をくすぐるんだ。
ひざしも砂浜もあっついけど、多分すぐに慣れる。海も空も黒いくらいの青色に染まってて、地平線が霞んで見えなくなる。大丈夫だろうとたかをくくって海を渡ろうとしたらそれがびっくり、奥へ進むほどに霧が立ち込めて、行く手を阻むんだ。よほどの堅牢な設備じゃないと、電子回路を根元から食いつぶされ、無線も断ち切られ、まあ、平たく言えば大抵の機械が一時的にガラクタ同然になる。
広大な
滄瀛。大地のゆりかごを覆う水の衣。人が生活を営み始める遥か昔から、脈々と刻まれ続けてきた息の緒。その青い水たまりの中には一体どれほどの生命を詰め込んでいるのだろうか。さざ波はシーソーのように、しきりに行ったり来たり。砂やカニ、貝やヒトデを呑み込んではまた遠のく。さざ波の音。汽笛の音。灯台の鐘の音。いろんな生きた音が聞こえる町。
そんなアサギが自分の故郷だと思っている気持ちを、ゴールドは今も大切にしている。
そのことが、3匹は深く理解できた。
――レッパクも気にいると思うぞ。
途端にレッパクは露骨に嫌そうな顔を作る。
「おれは多分だめだ。町の雰囲気とかはともかく」
「だらしねえな、せっかくだから『練習』くれえしてみろよ?」
「それは無理な相談だ。いいんだよ、おれは一生、かな」
理屈要らずの『何か』が急に来た。のどかだった思考に血がほとばしった。
「主、伏せろ!!」
体が勝手に動いた。
言うが早いか、気がつけばレッパクは一歩先回りしてゴールドと正対し、あるまじき力でたいあたりをぶちかましていた。ゴールドの足が宙に浮いたその数瞬後、全員の輪郭が白く塗りつぶされるほどのまばゆい光が走り、数十歩先の地点にレッパクですら見たことないほどの巨大な雷がえぐりこみ、空気が唸って大音響を轟かせた。距離と落雷のタイミングを考えれば直撃することはありえなかったが、遠ざかるに越したことはない。
しかし、信じがたいことに、晴天。
――な、んだ!?
鼓膜と腹の痛みで目を回しているゴールドが、すぐさま両ひじを立てて上体を起こす。異常事態だということくらい、レッパクの一撃と閃光と爆音で十分だったろう。グレンゲもすでに戦闘体勢をとっており、ドロップはわけが分からないままあたりをきょろきょろしていた。地面が黒く焦げて、嫌な臭いがあたりを漂っている。
裂かれた空気や角度をうかがい、レッパクはすぐさま雷の残滓をたどった。今まで何も察知できなかった己が不明をとことん恨むが、自分たち複数に拾われることすら許さない、完璧に近いこの潜伏。本能がやかましいほどの警笛を鳴らしている。例の直感であの初撃を予測できたのは、もはや奇跡に近い。
右前方。
ゲートを抜けてからずっとだったが、右のそこら一帯にはゆるやかに切り立っていく段差がある。高さはせいぜい5、6メートルほどだが、自分でもグレンゲでもよじ登ることが困難である。目で判断するに、奇襲をかけてくるのにはうってつけかもしれない。
転落防止のための柵を踏みつぶし、なおもヤツ≠ヘ、そこにいた。
相手を屈服させるのには十分すぎる威圧感だった。
後頭部から背中へ流れるは、
一叢の雲。滑らかに湾曲し、油のしたたりそうな照りを見せる白い牙。全身は黄色い体毛で覆われ、ところどころに黒い刺青のようなものが鋭く走っている。
「よお、待ちかねたぜえ、小僧」
そして、粘着質のある、低い声。
一回の跳躍だけで段差を飛び降り、レッパクと距離をとって立ちはだかる。
「しっかしよお、『器』を探してるって言うから、どんな奴なんだかちょっとからかってやろうと来てみたが――こいつは何の冗談だあ!?」
そいつは天に向かって吠え猛った。
「とんっっっだガキんちょじゃねえかよっ!!」
大地を根こそぎにしそうな咆哮とともに、球形プラズマが止めどなく発生する。
とてつもない迫力に、レッパクは全身を吹き飛ばされるかと思った。
歯を食いしばってこれをこらえ、恐る恐る腰を低くして構え直す。
「お、お前、は――」
「オレ様か?」
そいつが口元をにたりと開き、獰猛な笑みを浮かべた。牙はぎらりと輝き、ぬるい空気が宙を泳いだ。
「――『紫電』。紫電のライコウだ」
ヤツが、その名を唱えた。
レッパクはこれからずっと、決して忘れない。何年たった後でも、このときの出来事を、光景を、音を、温度を、感触を、そして機微を、つい昨日のことのように思い出すことができる。
それは、5年間主と共に生き続けてきたレッパクの、
それは、宿命の名だった。
「オレ様はよお、『赤熱』や『青嵐』ほどアマちゃんじゃあねえぜえ――」
冷ややかな目線がゆっくりと横に走る。
――まずい、こいつ、今までの野生のポケモンとは格が違いすぎる。みんな、退却したほうがいい。ドロップを今傷つけるわけには、
ゴールドがひとまず全員をしりぞかせようとしたが、レッパクの目にはライコウしか入っていなかった。
――こいつは、
レッパクは、思う。
――こいつは、ここで絶対に倒すべきだ。
理由はいくらでも思いついた。しかし思考は勢いよく逆巻き、きちんとした理論を通すことができない。とにかく、全ての信号を赤に塗り潰された恐怖から一刻も早く逃れたい。その判断は誰よりも先にあいつを敵とみなし、逆説的に今すぐ戦うことを決めたのだった。
愚かしくも。
「う……ああああっ!!」
目に敵意をたぎらせて叫んだ。レッパクを中心とした、爆竹を思わせる静電気。弾みがついた体はもう止まらない。最後の希望だった理性にもクローズをかけ、慣性の法則で置き去りにする。臨戦心理はたちまち火をつけられ、頭の中で展開される戦略に全身の制御を奪われた。
――何やってるレッパク! お前でも敵う相手じゃない、引くんだ!
その命令が、どうしても聞けなかった。
反撃をくらえばお陀仏なのはさっきの挨拶でたっぷり判断できた。質、圧、熱、破壊力、発生速度、何もかもが違いすぎる。相手の攻撃射程内にいる時間を限界まで削って、即座に離脱することを優先。射程内では絶対にかわせないマイナスの確信がある。距離で稼ぎ、気配で避けるしかなかった。
定石、『
時計返』。自分から見て右側へ、相手から見て左側へ回りこむスピード勝負。狭い道で背後が取りにくい以上、これしかあるまい。ライコウと段差の壁の間へと、一気に滑りこんでいく。
「はん、ずいぶんとやる気じゃあねえか。ま、そうこなくっちゃ、なあ? かかって来いよ、本気でな」
普段は気にもとめないはずのその幼稚な煽りにあっさり乗ってしまった。今の気性を象徴しているかのように毛が逆立つ。
レッパクは気持ち次第でミサイルばりを調整することができる。特訓した甲斐があって、局地的な集中砲火も可能だし、辺り構わず拡散することもお手の物。本当に地毛を相手に向けて放っているわけではない。一本一本の隙間に生じる静電気に各々の強力な運動性を付加させ、リニア射撃しているだけだ。毛一本の形に生まれたまま発射されるために、そう見えてしまう。
つまり、ミサイルばりは、術者によって性質がまったく異なる攻撃技になる。
重要なのは、これを放つ者の問題ではない。
このはったりまみれの攻撃を、相手がどんな気持ちでくらっているか、である。
当然のように無傷だった。
避けようともしなかった。
ヤツは一切その場を動いていない。サイドに回りきった今になっても、こちらを見ようともしない。悠々なその態度に何かがキレた。とうとう懐に飛び込むことを決断。もはや電圧勝負しか手は残されていない。勝てる戦いではなく、負けない戦いをしたかった。地を蹴ってバック、正面へ戻る、足をうまくさばいてステップをとる。
決意の矢頃を計らい、再度右を選択。
死角が存在するとはいえ、極端な殺気をくるんでいる自分がそこを突いてどうにかなるなど到底思えない。思えないが、別の一手を考える一瞬一瞬が死ぬほど惜しい。再びライコウの左側面を狙おうとしたとき、ヤツが初めて左前足を動かし、こちらを振り向いた。まずい。何かくる。相手の顔を見るな。最高出力の電圧を浴びせられる間隔のあとちょっとまで詰め寄ったが、どうしても最後の一歩が踏み出せない。
――いや、段差の壁を足場にして三角跳びをすればタイミングをずらせるし、上からでも攻められなくはないが、
そのもくろみの隙を突かれた。ライコウのしっぽが蛇のようにしなり、レッパクはそのでたらめななぎはらいでおもちゃのごとく一撃され、段差の壁にぶち当てられた。追撃が来ることを想定した思考が、3秒とその場にいることを許さなかったが、激痛と脳しんとうに行動を束縛されている。
全身に薄い影が縫いつけられた。ヤツがすぐそこに立ちはだかっている。
目が合ってしまった。
右前足をあらぬ方向へと振りあげている。
爪が
初歩的な恐怖が、痛点を殺すよりもまず視界を遮断することを選んだ。
ライコウの横っ面と右前足に、炎と氷の二柱が命中した。体が
傾いだために軌道がかろうじてそれ、爪はすぐそばの段差の壁を積み木のように切り崩した。
二撃目は、降りてこなかった。
「けっ、運が良かったな。ダチに助けてもらわなかったら、てめえさっき死んでたぜ」
すでにさっき死んだつもりだった。
レッパクは、空っぽの闘志でライコウを睨み返すことしかできない。
「冗談だよ。わざとはずしてちびらせるつもりだった。そうあっさりやられても困るからよ。――おい、もうへばっちまったのか? だらしねえなあ。それで本当にあのガキんちょのナイトが務まんのか?」
そう吐き捨てるとライコウは体を低く沈め、再び崖の上へと跳び上がった。
虫けらでも見ているかのような視線を落とし、笑う。
「ま、いいさな。来たるべき日までおちょくってやるまでだ。じゃあ、また≠ネ、小僧。次に会うときは、もっと強くなっておけよ? お楽しみはこれからなんだからよ」
レッパクは、空っぽの闘志でライコウを見上げることしかできない。
ヤツが姿を消すと、極度に緊張していた空気が、するするとほどけてゆく。
― † ―
息が、つらい。
脈がまったく整わない。地上で溺れているような胸苦しさ。
暴走しかけた臨戦心理の回路をサスペンドし直すのに、異常なほどの時間を費やしている。戦意を全てあいつにむしりとられると、戦闘開始とともに除却されていた負の感情がじわじわとぶり返していた。それらを含めた、こころの中に瞬間的に生まれ始めた戦略意識に、片っ端から焼却処理を施していく。しかれどもなかなか落ち着かない心臓に、どうしようもないくらい苛立つ。それほど走ってはいないはずだが、肺腑はただれそうなくらい熱く、全身は恐ろしいくらい冷たかった。身震いが止まらない。
息が、つらい。
ライコウがいなくなってからもずっと、レッパクはその場にへたり込んだまま、荒い息継ぎを続けている。頭蓋は内側からじんじんと圧力がかかっており、鼻の奥が水っぽく、今にも鼻血が垂れてきそうな感覚。
今までにない、ホウオウと対峙したときですら感じたことのない、本物の不安だった。
――ったく、らしくなかったぞ、お前。できることとできないことを見誤るな。
ゴールドも胸を高鳴らせていることは、レッパクもよく分かっている。あんな奴と鉢合わせになったら誰だって怖いに決まっていた。
主も、ホウオウと対峙したとき、こんな気持ちだったのだろうか。
怖いのを持ちこたえて諭す主が、とても強い存在に見える。
ポケモンが素早いとまた、トレーナーのとっさの判断も素早くなる。
レッパクが思っているよりもずっと早く、ゴールドはグレンゲとドロップに助太刀を指示していた。
だから、グレンゲもドロップも、レッパクがピンチになる直前まで、ぼんやりと事の顛末を見守っていたわけではない。レッパクが感覚を加速させすぎたあまり、周りの状況を遅く感じただけだ。グレンゲとドロップがすぐさまその「ひとつの行動」をとる間、レッパクが「複数の行動」をとっただけに過ぎなかった。
そして、その圧縮した連撃を、ヤツは全て見切っていたはずだ。
息が、つらい。
「堅物のお前さんがあんなに熱くなるなんて珍しいんじゃねえの? そんなにあいつと戦いたかったのか? まあ、見た感じすっげえ強そうだったけどよ、いくらなんでも無謀すぎだぜ。無茶はしねえこった」
グレンゲが顔色をうかがってくるが、当のレッパクにはグレンゲの姿など見えちゃいない。三日三晩は絶対に忘れられないであろう、自分よりも一回りも二回りも大きい出で立ち。あの牙で噛み殺される夢をこれから何回見るのだろう。ヤツはああは言ったが、あの時、本当に殺すつもりで爪を振り下ろしていたらどうなっていたのか。いとも簡単に斬り裂いていたに違いない。勝手に想像しては、胃に冷たいものを落とした。
息が、
「レッパク、落ち着いて。過呼吸になっています。ご主人、背中をさすってあげてください」
――あ、ああ。
背中をなでられるたび、毛並みをなぞられるたび、喉から変な空気が漏れた。ドロップに言われるがまま、ただただゆっくりと酸素を取り込み直していくと、ようやっと胸が苦しみから解放されてゆく。
「ごめん、みんな……。も、もう大丈夫、大丈夫……だ……」
そう言って笑いを作るのが精一杯だった。
人間がうらやましい。自分で自分を殴ることができるのだから。
なおも起き上がれない自分が、壁に頭をぶつけてやりたいくらいみじめすぎて、レッパクは泣きそうになった。
何かが、自分たちの背後に潜む巨大な何かが、動き始めている。
そんな気がした。