番外編 裂と華
15回目、らしい。
番外編 裂と華 全てを燃やし尽くすような紅い気焔。
ゆうかんな「彼」を表現するなら、そんな言葉が最も近しい。
初めて出会ったのは、考えうる限りこの世で一番たちの悪い夢にうなされ、情けなくも寝込んでいた日だった。
この日に限らず、どうやらぼくは溺れて酷い目に遭った時に誰かと縁をつなぐようだ。
― † ―
熱い。
粘り気の強い熱波によって臨戦心理が勝手に引き起こされ、体内電流が全身へと染みわたっていく。関節と筋肉が柔軟になり、骨密度が補強された。内圧が呼気のバランスを求め、アドレナリンが自動的に頭の中を満たし始める。寝ぼけたぼくの意識よりも数秒早く本能が危険を感知し、視力を断続的に回復。視界を開く。すぐそこにいる炎の正体を一旦無視し、更なる索敵を続行。体へ跳ね返ってきた電磁波の線量を考えるに、生命反応は自分以外には一体。応戦よりも逃避を選択。周囲の空間から立ち回りを把握、体力の消耗を最小限に回避できる逃走経路を確認。痛みが想定される箇所の神経にも通電、痛覚を瞬時に麻痺。覚醒まであと5秒。4、3、2、
「お、お目覚めなすったか」
まったくけしからんことに、そこの炎がしゃべった。
まだ眠気の残っている意識がゆっくりと焦点を結び直すと、炎は徐々にヒノアラシへと変わっていった。続けて、ここが電灯の消された主の部屋であり、状況的にこいつに敵対心のないことが認識された。最後、記憶へ急速に色が戻り、自分の身に何が起きたのかが思い出された。
恥ずかしかった。
「体、乾いたか?」
ずぶ濡れだったはずの体が乾ききっていることに気づいたのは、やっとのことだった。
彼はほんのりと首を左にかしげ、
「――誰だよお前、って顔してんな」
そりゃそうだ。誰だよお前。いつからそこにいたんだ。
彼の細い目が、笑った。
なんとなくそう見えた。
彼は一体何に満足したのか、ゆったりした動作で立ち上がった。4つの足で姿勢を丁寧に正し、背中の炎をふっと消す。ぼくの眼前まで近寄ってきた。叩頭。体を伏せたまま、そこから更に3歩だけすり足で後退した。
「格上に対するご無礼、どうかお許しください。改めまして、お初にお目にかかります。どうぞ控えてください」
いきなりのことでかなり面食らった。人間には人間の生きる世界があるように、ぼくたちにはぼくたちの生きる世界がある。これに返さないのは礼を失する。ついさっきまでくたばっていた体をぐずぐずと起き上がらせ、同じ動作をもって、対称的に伏せ返した。ぼくはまだ数えられる程度しかやったことがなかったが、相当野生に生きてきたらしい、彼の動作はなかなか熟達していた。
「――そちらからお控えなさってください」ぼくはそう返した。
「いえ、どうかそちらさんから」彼もそう返してきた。
「恐れ入ります。逆意とは存じますが、手前、これにて先に控えさせていただきます」
「恐悦に存じます。向かいましたるお
兄いさんには、初の御目見えとこころ得ます。手前、先だって無宿のしがない身分故、粗忽な物言い振る舞いなどございましたら真っ平御免に願います。
齢は弐、
生は
若葉、
護は
焔。若葉の森を流れ入りましたところ、ゴールド一組と縁もちまして、親分より授かりしました
字を
紅蓮華と申します。
繰り返しますが御高察のとおり、しがなき者にござんす。以後、万事万端、よろしくおたのん申します」
――うまい。
素直にそう思った。とても齢が弐とは思えない。前置き、齢と生と護の段取りを考えるに、流儀はやや古めのものだったが、固いところの一切が削ぎ落とされた滑らかな所作だった。人間のそばで甘やかされた生活をしてきたぼくとは生きる世界が違いすぎたようだ。
返した。
「ご丁寧なお言葉、ありがとうございます。己の至らなさで弁明する所存は毛頭ございません。醜態を晒し、申し後れましたことを御免こうむります。
手前、当家ゴールドに従います若い者。
齢は四、
生は
若葉、
護は
雷。頂戴した
字を
裂帛と発しまして、御賢察のとおり、稼業は昨今未熟の駆け出し者でございます。行末永く、ご別懇に願います」
― † ―
「何やりゃいいか分かんなかったから、とりあえずずっと炎まぶしてたんだが、どうよ? 熱かったんなら謝る」
「悪い、迷惑かけたな。お陰で湿り気はほとんどなくなった。あとはおれの電圧でなんとかなるだろう」
「そいつは何よりなこって」
テンションどん詰まりだった。サンダースに進化したばかりのぼくは、嘆かわしくも自分自身の速さを制御しきれず、勢い余って池に落ちて死にかけた。あれから丸一日、溺れたショックで体調を崩して眠りこけていたらしい。主にも彼にも申し訳ないことこの上なかった。どうやってここまで運ばれたのか、うっすらとも憶えていない。彼がどういう経緯で主と出会ったのかも、あとで本人から訊き出したい。
「ああ、大将のことだけどよ、今ちょっと下で身支度してるんだわ」
「身支度?」
その先を彼が言い放つよりも先に、ぼくは無意識に先回りした。
「旅立ちのか」
そして即座に否定、
「いや、いきなり家を出るだなんて無謀なことは主はしない。まずはおれたちを鍛えるなりするはずだ」
同様の台詞を奪われたと思ったのか、彼は少し体をこわばらせた。
「――お前さん起きてたのか?」
「え? あ、ああ、いや。たまに、こういったことがあるんだ。主はいい勘しているって褒めてくれるが、正直、おれ自身気味悪いところもある」
生を授かってこの世にうまれた時から、ぼくは変な直感に
苛まれていた。当て推量がそうでなくなるこの不思議さは凄いを通り越してもはや不気味な存在へと変わりつつあった。頼れる才能であるならばともかく、
来るときと
来ないときの落差が著しく、邪魔な気がして鬱陶しくなることすらあった。思うがままの言動で正しい選択となるのか、思考を重ねた上での判断が最善なのか、迷ってしまうことがあるのだ。
「じゃあ、その旅の目的もなんなのか、もう言わなくてもいいってこったな」
「ああ。察しがつくよ」
「でも、旅立ちそのものには反対しないんだな」
当たり前だ、と思う。主がそれを望むのなら、ぼくはそれに従ってついていくだけだ。主がぼくの力に期待しているというのならば、それ以上の力で応えるまでだ。こんなに嬉しいことはない。
「それなら話は早い。こんなところで大将と仲良く老いさらばえるつもりなんざそもそもなかったんだろ? いい機会じゃねえか。俺が言うのもなんだけどよ、お前さん結構好戦的な面構えしてるぜ」
「ほっといてくれ。目つきが悪いのは自覚している」
にべもなく一蹴したぼくは天井を仰ぎ、1階から漏れてくる賑やかな気配を耳でたどった。
「そうか。いよいよ、ここを出発できるのか」
彼に視線を投げかける。
「お前こそ、それでいいのか?」
「あたぼうよ。成り行きとはいえ、大将とは縁ができちまったんだ。こうなればどこまでもとことん付き合ってやらあ。強くなってなりすぎるこたあねえ。鍛錬に磨きをかけ、色んな奴と戦い、勝利をおさめる。そうすりゃ大将が喜ぶ。なに、簡単な話だろ?」
「そうだな」
「お前さんもそういった世界をこころのどこかで望んでいたんじゃないのか?」
「そうかもな」
乾燥しきった体毛に、静かに静電気を溜めてみせる。
「お前の言うとおり、いつかはこういう日が来ると思ってたよ。というより、否定する材料が無かっただけ、と言ったほうが近い。前日に進化できたのも何かの運命かもしれない。主には何から何まで世話になっていた。感謝してもしきれない。この謝意をなんらかの形で恩返しをすべきだったんだ。その答えがやはりこれだった、ということだ」
主という人間がずっとそばにいてくれたとはいえ、ぼくは孤独だった。その感触を吹っ切りたいということも意識しなかった。だから同朋ができて嬉しかったのだろう。いつになく饒舌になっていた。そんなことを言い連ねていると、彼が表情を落としてこちらを見つめていることに気づいた。
その視線に、一言では言い表せぬ鬼気迫る何かを強く感じた。
不意打ちだった。
「お前さん、相手を殺したいほど憎んで戦ったことあるか?」
あるぞ、とうっかり口にしかけた自分にむしろ驚いた。
謎だった。
そんなことあるわけないのに。そもそもこんな平和ボケしきった環境だ。死力を尽くすほどの戦いに身を投じる機会そのものがなかった。
せめて口先でもとっさに見栄を張りたくなるくらい、身もこころも弱っていたのかもしれない。
答えあぐねたぼくは、質問の意図を探った。
「――どうしたいきなり」
むう、と複雑そうにうなりながら彼は腰を床に落とし、
「悪いな変なこと訊いて。これから先よ、視野を広げなきゃならねえ。お遊戯とは話が違えんだ。何せ世界が相手だ。十人十色、極端な話、中には大将みたいな世間知らずも、私利私欲に溺れた下賎なもんだっているだろうよ。それら一同を相手に、お前さんはそのれいせいさを保って正々堂々と戦えるか?」
難しい問いかけだった。
あまりこころに弾力性がないためか、良くも悪くも、ぼくは感情的になったことがそれほどない。いつも仏頂面をしているとは自分でも思うし、だいたいは無愛想ととらえられても仕方がなかった。ぼくのことを自分のことのように嬉しがる、主の感受性の豊かさが羨ましかったのは確かだ。せめて表情だけでも柔らかくならないものか、と不器用ながらも常々悩んでいる。
「――いずれにせよ」
「おう」
「いずれにせよおれは、主が進みたいと、そう決めたのなら、その道を開くために戦いたい」
今までの主は、何をすべきかを決めかねたまま、ずっと立ち止まっていた。何がきっかけだったのかは分からないが、とにかく方向性は定まった。主にひとつの目標ができたのならば、ぼくはそれを尊重したい。一本の槍を掲げて貫いていこうと決意するのは今からでも遅くないし、障害を乗り越える覚悟くらいはとっくの昔からあっただろう。主のプライドを命を懸けてでも守り抜いて生きる自分を、どこの誰かよりはずっと上等だと考えている。
ふと思う。
これは壮大な勘違いではないだろうか。
思いあがりだけで突き進むのと盲になって立ち往生するのでは果たしてどちらが醜いのか。自分のあずかり知らぬ背景で躍らされていることも知らずに一喜一憂し、信念を餌のように与えられ、無意識のうちに勝手にすりかえられるのではないだろうか。これから起きる出来事の一切が怖くないと言えば虚勢もいいところだ。
戦いの日々に意欲を示すそのこころの内にはもうひとつ、どうしても背けられない寂しげな本音があった。
ぼくは、死ぬのが怖い。
進んで、戦って、勝ち抜いて、途中で負けて、そこで全てあだとなってしまうことが恐ろしい。
命をすり減らしてでも手に入れたいものに対して、ぼくは本質以上の価値を見抜けるだろうか。
「違うな」
彼が唐突に口を挟んできた。
「何がだ」
「お前さんはこの先、大将に認められなくなるかもしれないことが怖いんだ」
何を分かりきったことを、と言い返したいところだったが、彼の言葉は案外核心を突いていた。続きを察するに、主の期待に添えられなかったことで、主に失望させてしまう。その一点が自分の矜持の毀損につながり、結果として自分自身を蔑み追い詰めてしまう。その恐怖から逃れたいだけだ。
そう言っているのだ。
畢竟、ぼくは主よりもぼくの立場が大切にしたかったのだろう。
鋭いことを言われた気がした。
「当たり前さね。自分のことを大切にできねえやつが、大将を大切にできるかっての。俺だって命が惜しい」
彼はごろんと横になり、
「だからよ、これから強くなりゃいいじゃねえか。誰も寄せ付けないほどに、大将の度肝を抜くほどに、な」
「――ああ」
「そもそもよ、大将がお前さんを認めないなんてことあるかっての。そこんとこ分かってんだろ? 心配しすぎだ。いざとなりゃ、大将もお前さんも、俺が守ってやるからよ」
「ゆうかんだな」
「大将にも言われたぜ」
「羨ましいよ」
「ま、これからもよろしく頼むぜ、相棒」
「ああ。こちらこそ、よろしく頼む」
― † ―
性格も護もまるで違う彼だったが、こうしてぼくには初めての仲間ができた。見にまとう火勢に嘘偽りはなく、彼のこころの強さは本物だった。
彼が羨ましかった。
ぼくにないものを多く持っている彼は、確かに色々な意味で強いと、今でも断言できる。
彼もまた、自分にないものを探し求めて、ぼくや主を見ているのだろうか。