10 ダイヤモンドドロップ
【今にして思えば、ある意味では、自分と向き合える時間であったのかもしれません】 ドロップ
10 ダイヤモンドドロップ 30枚ほどある黒い山札を手慣れた速さで切っていく。この枚数だとあまりやりがいもないが、せがまれたのでリフルシャッフルもしてみせる。そこまでと宣言するのはいつもグレンゲの役目で、ゴールドはカードを足元へ無作為に広げた。
じゃんけんの時間である。
この時ばかりはゴールドも自分の手ではなく、この裏返った『ぐーちょきぱーカード』を使うルールだ。黒いカードの表にはその通り石と紙と鋏の絵柄がプリントされており、エスパータイプを除くポケモンでも公平に参加できるように作られた、一種のコミュニケーショングッズだった。子供の小遣いでも買えるので、お求めはフレンドリィショップにて。
――おれはちょき。
――げ、ぱーかよ。
「俺もぱーだ。やっぱりレッパク強いな」
そう言いつつ、ゴールドはキキョウシティの露店で買った蛍光ブレスレットの袋を開けた。意外と高価だった。お祭りの高揚感による財布のヒモのゆるさを狙った利欲丸出し商売だったが、致し方あるまい。
「赤、緑、青が2本ずつあるが」
――じゃあ青で。
――俺は赤だ!
「んじゃ緑」
まっすぐだった蛍光ブレスレットをペキペキと曲げ、輪にして右手首と右足首へ通した。太陽の光をかぶっているとよく分からないが、これから洞窟に入ればおのずと発光してくるだろう。青2本を連結したブレスレットをレッパクの首にかけ、足りないところは白のビニールテープでぞんざいにかせいだ。まことに貧乏くさい。マグマラシに進化して手足が伸びたグレンゲは、自分で首にかけた。王様にでもなった気分なのか、少し嬉しそう。まことに貧乏くさい。
ただいまより、薄暗いことで厄介な、つながりのどうくつに入る。
そのための準備だった。
あいや待たれい。ポケモンを愛する賢明な読者諸氏よ、言いたいことは分かる。ここで、「サンダースとマグマラシがやる気を出せば、暗い洞窟なんかへっちゃらなのでは」と感づくかもしれない。お説ごもっとも。しかしゴールドはれっきとした人間で、電気や火炎を生み出す芸当なんぞ持ち合わせてはいない。
不意に光が遮断される状況に陥る可能性は否定できない。なにかしらのハプニングではぐれることもありうる。何事にも用心は必要だというのがゴールドの考えで、しかしながら自分だけがこの光る玩具を身につけるのも悪い気がする、ということでわざわざ複数本が同梱されたものを買った。いわば一種のサインみたいなものだった。暗視ゴーグルやヘルメットなどの装備も喉から手も足も出るほど欲しかったが、今回は見送った。逆に探検家の中には、意図的にそうしない輩も少なからずいる。ポケモンを連れて旅をするトレーナーたるもの、ポケモンの力を借りて進むことに意義がある――そういうことを念頭に置くらしい。路銀の都合上、糊で口をするゴールドは単に無駄遣いしたくないだけだ。
ここまでの旅は、短いながらもとても充実していた。頭数こそ少ないものの、レッパクとグレンゲに秘められた実力は本物で、立ちはだかるトレーナーは次々と撃破され、山積みにされていった。口の端を歪めて苦笑を漏らすがゴールドとしても鼻が高く、特訓した甲斐があったというもの。ひたすら褒めることしかできない。自分以上に旅を楽しんでいる様子だったし、もっと前からこいつらのことを考えてあげるべきだったかと思う。ブラックは、自分以上に自分のことを見抜いているのかも知れない。
「入るか」
ゴールドが暗闇へと進んだ。
――いざ出陣!
グレンゲが叫んだ。
――足元すくわれるなよ。
レッパクが呟いた。
そののち、ゴールド一行は至極リアルに足元をすくわれた。
― † ―
――主、キリがないぞ。このままだとジリ貧だ。
「うーん、甘く見てた」
炎と電光に刺激されたズバット集団が襲いかかってきたのは、それから間もなくのことだった。最初は律儀に一匹一匹を撃墜していったレッパクとグレンゲだったが、いかんせん数が多すぎる。音にならない音波に焦燥をせきたてられ、まんまと術中にはまってしまった。みみっちい戦いの気配に誘われたイシツブテは相性が悪すぎると判断。ゴールドはやむなく撤退を選び、先人が残してくれていった夜光塗料の道しるべも見逃してしまい、本来のルートを大きくそれたところまで逃げてしまった。
どこの地方にも言えることだが、ひとつの法則をお教えしよう。
この手のダンジョンは、奥に行けば行くほど手ごわい奴らがうようよしているものだ。
「――ゴルバット、」
こうもりポケモンが一匹、暗闇にシルエットを溶けこませながら浮かび上がっている。羽音はズバットよりも数段激しい。魑魅魍魎を喰らい尽くしたような巨大な口から広がるちょうおんぱはもっと激しく、洞窟内へ深く響きわたり、何重にもなって返ってくる。頭蓋を割りそうなその悪辣な音波は、「うそ発見器ごっこ」と称して、金属製の熊手でブラックボードをひっかくような不快さにも近い。
身の危険をいち早く察知したのは、やはりレッパクだった。
――足元!
「うそだろ!?」
地鳴りは一度だけ起きた。まず左足からとられた。ちょっとの間だけ体が宙に浮いた感覚がして、腹の底あたりがきゅっとなった。青と赤の閃光が夜光虫のようにふらついたのを覚えている。亀裂が地面のあちこちに走り、地盤があっけなく崩れ落ちた。洞窟に地下が存在していたことをこの瀬戸際で思い出す。混沌を飲み込む闇の空間へ必死に手を伸ばしたが、レッパクもグレンゲもとらえることができず、大量の岩石とともにゴールドは地下水脈へと背中から落下した。
途中、レッパクとグレンゲ以外の何者かの悲鳴を聞いた。そんな気がする。
― † ―
「た、たいしょ、レッパ、」
天地を埋め尽くす暗い冷たさが骨身に染み込む。もはやどちらが上でどちらが下なのかも分からない。足が底につかないことに、たとえようのない恐怖を感じる。水が喉の奥へと流れこんできて、グレンゲはもがく。死力を尽くして後ろ足をばたつかせ、水面から顔を出し、
眼に垂れる雫をこらえ、なんとか陸をつかみ、上半身を水たまりから這いずりだした。背を丸めて数回むせる。生きてる証拠だと実感する。
水でにじんだ視界。すぐそばに、同じく岸から這いでてくる『緑』が見えた。
だが、『青』が見えない。
「大将、レッパクがいねえ!」
――炎を出せ! 照らすんだ!
「合点!」
湿り気なんてとばかりにグレンゲが頭と腰に火を灯した瞬間、あたりの闇が遠くへ追いやられた。夜目に慣れていたゴールドが顔をしかめた。
「まぶしい……! やめてえ……!」
今後こそ、グレンゲとゴールドはその声を聞いた。
先ほど自分たちが潜っていた方角へ上半身だけで振り向くと、ラプラスの子供がいた。体つきは小さく、あと少しでも闇を取り戻せばそのまますっぽりと包み隠されそうなほどだった。つらそうに目を薄め、身をよじらせている。青くてつややかな肌は、グレンゲの赤い炎によって白い光を煌々とたたえていた。
おびえていることは自明だった。
ふと、気泡の音が耳に届いた。みなが視線を降ろして水面に注目すると、岩石が作ったものとは明らかに違う空気の泡が、奥から浮かび上がってくる。
レッパクが、水の中にいる。
――くそっ、ボールじゃあ捕捉できないか! グレンゲ、ここは頼む! ラプラスをなだめておいてくれ!
「お、おい、大将はどうすんでえ!」
――潜って助ける!
そう言い残すと、大将は身につけているものあらかたを脱ぎ捨て、盛大な水しぶきをあげ、無我夢中で再度水の奥へ飛び込んだ。
いくら蛍光ブレスレットがあるとはいえ、こんな暗い水の中からそれを見つけるのは無理に決まっている。すぐそこにはラプラスがいる。子供だろうが、水中で無防備な大将とレッパクに食いかかるくらい造作もないことだろう。恐慌をきたした手前、下手にでると何をしでかすか――。
言われた通りに、やるしかなかった。
「聞いてくれ、俺たちは」
話しかけるや否や、ラプラスが言葉にならない悲鳴を上げた。水上に跳び上がりそうになるくらい驚き、更に奥へと後ずさる。背後が壁だと認識したラプラスは、いよいよ酷い目に遭わされるといった表情で何かを訴えてくる。グレンゲが背負う炎の揺らめきにあわせて、壁に映える影が左右に震えていた。
炎がいけないのか、光がいけないのか。
光を消し、元あった暗闇に戻せば、いくらかは落ち着きを取り戻してくれるかもしれない。
苦渋の決断に、グレンゲはかつてないほど強烈に
懊悩した。薪を割るようにいつでも豪快に決めてきたが、今は重みが違いすぎる。今のラプラスにとって炎は
護もへったくれもなく、威嚇も同然の行為とみなされるのは重々承知だった。しかしこの明かりを消せば、今度こそ大将はレッパクを見つけ出す手立てを失う。
稲妻のような閃き。
はやるこころをおさえ、おもむろに赤の蛍光ブレスレットを外した。若干に、ごく若干に炎を弱らせ、四肢の力を抜く。
――落ち着け。ひとつでも手順が狂ったら全てがおしまいだ。
臨戦心理を静かに起こす。
感情を奥歯で噛み潰した。
臨戦心理をそっと閉じる。
すっ、と微笑んで見せる。
ラプラスのこわごわとした表情が、ほんの少しだけ緩んだ。
グレンゲはその警戒心の隙を狙い、緩やかな動作で
挙措を正す。両前足を綺麗に揃えてそっと地につけ、鼻先が地面にこすれそうなほど頭を下げた。足を揃えたのは、跳びかかりにくい状態にして、敵意がないことを示すため。頭を伏せたのは、視覚を断つことで相手の攻撃を一身に受け止める態度を表すため。グレンゲなりの誠意を意識した、しなやかな曲線美だった。
覚悟を、決めた。
「改めて――」
声が震えているのは、水をかぶって体が冷えているせいだと自分に信じこませた。
「お初にお目にかかる。ご挨拶が遅れたこと、並びに数々のご無礼を重ね重ねお許し願いたい。
わけありて、などの言い逃れで流すことは、互いの顔に泥を塗るほどの無様なものと痛く存ずる。当世の流儀をこころえぬ不調法ゆえに、旧来の略式に則らざるを得ない己が不明さ、不届きさをどうか御免被る。すなわち、
齢と
生と
護を伏せて先に名乗らんことを、幾千数多の日を駆けるお天道様の名誉に免じ、度々ご了承願い給う。
手前、一口では尽くせぬ複雑怪奇な私情ありて、先刻そこへ沈みし人間と深き縁を持つ者。主従の契りの盃を交わし、その暁に授かりし
字を
紅蓮華と発す。家業とするは流れの旅。この度の道中、彷徨いしは」
そこから先の言葉を、グレンゲ自身がねじ切って捨てた。
「――いや、よしちまおう、こんなこと。なあ、後生だ、聞いてくれよ。俺の大切な仲間が溺れている。大将がそいつを助けに潜ったのはご覧の通りだ。だけどこのままだと、大将も二の舞だ。助けられるのはお前さんだけ。誓う。俺は、お前に、危害を加えない。信じねえってんなら、後で俺を水につけて食うなりなんなりとして落とし前つけりゃいい。だから、だから大将と仲間だけはどうか助けてやって欲しい。この通りだ、頼む!!」
それ以外のあらゆる拒絶を受け止める気迫で、グレンゲはずっと頭を下げていた。炎が揺らめいている後頭部に、弱々しい視線を感じていた。
永遠とも思える10秒があり、やがて水音がした。
グレンゲが顔を上げると、ラプラスはその場にいなかった。
頭を下げていた時間よりもずっと早く、ラプラスは大将とレッパクを引き上げてきた。
― † ―
ラプラスの甲羅の上。
――大将、無事か! 大将!
「しぶとく生きてるよ。――レッパク、」
――もう……溺れるのはこりごりだ……。
相当飲んだのか、ぐってりと横たわっている。自己主張の激しいツンツンしたいつもの毛並みは、水を含んで弱気になり、体にひっついている。聞いているこちらが
咳嗽したくなるような、ぐずぐずした声。
ゴールドは力なく笑い、ラプラスに改めて礼を言った。
「助けてくれてありがとう。驚かせてすまなかった」
――いえ、こちらこそごめんなさい。突然上から落ちてきたので、びっくりしたんです。無事でよかった。
こうして背中に乗ってみると、本当に小さい。起立したゴールドといい勝負くらいの丈。成長すればもっと大きくなれるだろうが、まだまだ経験値が足りないもようである。
色々な話を聞いた。習性として、一週間に一度はこのつながりのどうくつの地下に集団でやってくるそうだ。地下水脈は水底で外の水路と繋がっており、そこを経由しているらしい。かつて、金曜日だけ洞窟の奥から綺麗な歌声が流れていた、という噂はゴールドも仄聞していた。
その話を耳にした人間たちは大勢で押しかけ、中をうろつきまわるようになる。あちこちで目と目がぶつかった途端にバトルを始めたら、誰にともなく洞窟に悪い。緩いところだと、ゴルバットのちょうおんぱだけで損傷をきたすようなところである。重ねられるダメージに、とうとうラプラスたちの入り込める道が塞がってしまったらしい。別の曜日に遊びに来ていた自分だけをここに閉じ込めて。
「それはつらいなあ。こんな真っ暗なところに自分だけ残されたら、俺なら半日で発狂する」
――最初は本当にそんな具合でした。目が慣れていないので、あちこちに体をぶつけてしまったり。
――進化したときのおれみたいなものか。
長時間の暗闇と孤独は判断を狂わせる。ゴールドたちが落ちてきたときは、こころの底では嬉しくもあり、怖くもあったそうだ。喜ばしいはずなのに、久々に出会えた自分以外の存在に頭はたちまち当惑し、正常な認識を裏返しにしてしまった。冷たい方程式が虚を結び、本能が身の安全を先に選んだ。光を浴びた際にその混乱はますます加速され、グレンゲの説得でようやっと、凍りついていた思考に血が通った。
「いつからここにいたんだ?」
――覚えて、いません。おそらく今日で、四日、五日です。
――うげえ。五日間も太陽拝めないのかよ。ブタ箱だって窓のひとつやふたつはついてるだろうよ。
全てから取り残される恐怖が、こころを闇色に塗りつぶしていった。
それから逃げるため、ひたすら自省の時間が連鎖されていった。勝手に入っちゃいけませんと言われていたのに、きつく、それはそれはきつく言いつけられていたのに。守らない自分だったから、悪い子だったから、きっとばちが当たったのだ。いい気になってこんな奥まで侵入していた自分は、あろうことか水路が崩れ落ちるその音すら聞いていなかった。光を与えてくれる隙間も崩れてからようやっと、事の深刻さに気づいてしまった。
体感的な二日目にて、すでに冷静さはあらかた失われてしまったらしく、とにかく楽しくなることだけを考えていた。しかし思い出されるのはいつも一緒にいてくれた家族や友達のことばかりで、更に孤独感はそそられ、泣け叫びたくなる衝動に何度も駆られた。
それからまもなくすると自分が自分とも考えられなくなり、妄想に思考を支配され始める。己を含む全てを夢と帰結させたくなる。自分はここで生まれた。家族や友達なんて最初からいなかった。そのようにじわじわと自分の精神が異常をきたし始めたことだけは、残酷にも理解できた。
自分が自分として認知されない、一切の感覚を遮断された真の闇。時間さえも判断がつかず、ただの濃密な暗闇を漂い続ける。命を授かり、知覚を持った以上は、自分が生きる世界をどのように捉えるべきなのか。逆にどのようにしか捉えることのできないほどか弱い存在なのか。この世の情勢を見る目、生物的本能を培ってきたはずだが、もし自分が初めから生きる者という現実でなければ、この世界そのものも別の存在である可能性があり、全てが幻もしくはただの比喩だったという結論も――。
頭の中で暴れる癇癪の虫を押し殺すには、ただ眠るしかなかった。
ゆっくりと眠ることすら、神様はお許しにならなかった。
――数えきれないほどの夢を、何重にも、見ました。ちぎれちぎれっ、にっ、なった記憶をっ、つぎっ、つぎはぎにしたようなっ、そんなっ、
我慢の限界だった。
ゴールドはここで、斟酌の至らぬ自分の愚かさを呪った。
孤独の限界に負けたラプラスが泣いていた。
ラプラスは泣き声すらも美しく出せるらしい。素直にそう思った。己の血が、醜く泣くことなど許さなかったようだ。我慢の糸がふっつりと切れ、堰を切ったように涙はとめどなく溢れ、押し殺されていた生の感情が逆戻りされる。煮えて反吐のようにめちゃくちゃとなった思考をひたすら泣き声へと変え、口から吐き出させるしかなかった。身を振り絞ったような切ない慟哭が、立体的な洞窟へ吸い込まれてゆく。地盤の穴から上層へもその旋律は溢れ出し、戦意を高揚させていた野生のポケモンたちは穏やかな感情を通り越して、消沈していく。
今まで泣けなかったのは、泣きたい自分を知らしめることができなかったからだろう。
帰りたいのに、どこへ帰ればいいのかも分からない。
つらかったのに、何を恨めばいいのかも分からない。
分からないから、泣き続けるしかなかった。
レッパクもグレンゲも、黙ったままだった。
せめて、涙をふいてやろう――ポケットの中を探り、もう一度ゴールドは落ち込んだ。
こんな湿ったハンカチでは、涙なんて拭えやしなかった。