09 さいしょからはじめる
【お前に勝てれば、それでいい】 ブラック
09 さいしょからはじめる クイヴァリング。クイヴァリング。
ロウリング。ロウリング。
果たしてそううまくいくのか。
― † ―
序幕が上がるよりも前の過去へ、一気に飛んでしまおう。三人ともアサギで魚を食って暮らしていた。
― † ―
飲んで呑まれて、スウィング、スウィング。
揺れて揺られて、ロウリング、ロウリング、ロウリング。
そうそう、アサギの海。
光は猛毒のようにまぶしい。
砂つぶのひとつひとつが太陽の力を受け止めてめいいっぱい輝く。むき出しの白い肌はあっという間に焦げる。
炭酸水のような泡立ち。ぶくぶくと現れては、すぐに弾けちゃう、命の
寿ぎ。
海になにかがいる。ぼくはそれを知っている。
それは、ぼくと、おなじ。
指にじゅっぽん、足よっつ。人間、人間、人間。
キレイな鏡を持ってきて。動物のつがいを持ってきて。
もっと増やして見せるから。
指でつままれるトランプのジャック。机と仲良しこよしのラック。氷をいじめるアイスピック。夜空に浮かぶゾディアック。
リズムを奏でるおんぼろ時計、チックタック。
明滅のろくぶんぎ座。セクスタンス。
もしもお日様お月様がひっくり返ったら?
そうなれば人間の都合に沿って、全ての建物が再構築される。
朝に寝て、夜出かける。夜明けが近づくと、缶蹴りの時間は終わり。
記憶回路と認識回路の関係性は、誰が最初に唱えたの?
ぼくはあれを知っている。きみは『何』?
矢継ぎ早。
永久に来ないQED。
― † ―
10年というパッケージで考えれば中身の濃いもののように感じられるし、反対に1日単位で思いつめれば非常にうららかなものだった。楽しいことがあった分、悲しいことだってあった。精神衛生の錠が錆びついていて、うまく映像を拾えない。ざるで記憶の砂をすくい上げていくような、中途半端な回想が差し込まれていく。
ゴールドが今よりもずっと活発だったころの物語だ。
レッパクたちと巡り会う前の、幼なじみとの物語だ。
ブラックは身寄りについてあまり語ろうとはしなかったが、ゴールドとミカンはそんなことは全然気にしない。本当の兄弟のように遊んでいて、町を我が庭のように走り回ってた。ポケモンを手にしたことのない時分は、なんにもないからなんでも楽しかった。やりたいことはひととおりやり尽くし、夏場はほぼ毎日砂浜へ駆け出した。
それらはもちろん、海よりも深く、空よりも澄んだ思い出の数々だ。
ゴールドが木を登ったら、ブラックも高い木を登った。
ゴールドが魚を釣ったら、ブラックは潜って漁をした。
ゴールドが大きな犬を落ち着かせたら――
ブラックは暴れていたポケモンを手懐けた。
まさか、「真似をするな」なんてことはゴールドは言わない。次男坊はがむしゃらに長男の後を追う。その実は、次男のほうが才能があってなんでもこなせたのだが、長男がやったことだけをひたすら後追いした。ミカンはただ、兄弟の行く末を微笑みつつ見守っている。その裏で、まっすぐだったその道がいつか二手に分かれるときが来るのかもしれない、とこころに黒い陰を落としていた。
その予感は10年目になって見事的中した。
― † ―
少しショートカットする。
次はワカバへ視点を移す。そこでゴールドは、ウツギ博士からレッパクが眠っているタマゴをもらった。
ポリゴン2からマサキ、マサキからポケモンじいさん、ポケモンじいさんからウツギ博士、ウツギ博士からゴールドへと、そのタマゴはまるで足でも生えたように渡り歩いた。ウツギ博士による「お近づきのしるし」というよりかはむしろ、タマゴがゴールドを選んだほうが正解に近い。ポリゴン2が発見したときも、マサキが手にした時も、ポケモンじいさんが受け取った時も、ウツギ博士があちこち観察した時も、まったくうんともすんとも言わなかったタマゴが、ゴールドの手に渡ったとき、初めて命の鼓動を見せたのだ。
とても熱く、生命力にみなぎっていた。その手触りを、ゴールドはいつまでも忘れていない。
孵化の時は近かった。
「あっ、やあ――」
イーブイの視線に気づいて、ゴールドは少し照れくさそうに笑った。
歳月は流れる。ゴールドとレッパクはいつも一緒にいた。
最初は意思伝達のやりとりにぎくしゃくしたが、2週間もすればレッパクの方が理解してきてくれた。ずっと前からの縁だったかのように、お互いは相手の事を汲み取ることができるほどまでになっていた。
うまれた当初からレッパクは妙な勘に冴えており、たまにその力を発揮していた。神経衰弱も結構なテンポで当てていくし、めざまし時計より5秒早く起きることもざらだったらしい。家の裏、ナックラーの集団の中からあの色違いを誰よりも早く見つけ出した。前を歩くゴールドの靴下を後ろからくわえて引っ張り、足止めした数秒後にものすごい勢いでトラックが交差点を横切って行ったのが一番やばかった。
それ以外のこともあった。
一緒に寝たし、ご飯も食べたし、テレビも見たし、本も読んだし、風呂にも入ったし、研究所にも行った。イーブイの特性について調べたいことは山ほどあったらしく、レッパクは嫌がることもなくそれに協力した。
レッパクはゴールドにとって、間違いなくワカバで最初の「友達」だった。
当時のゴールドは、少なくともそう思っていた。
レッパクもだろう。
― † ―
腕がふたつ、足ふたつ。頭がいっこ。やっぱり人間。ヒトヒト。
― † ―
思い出の速度を緩めよう。ゴールドが引っ越して3年目、すなわち13歳半ばの時だ。
レッパクが水嫌いになったきっかけ、ポケモンリーグを目指そうと旅立ちを決意したこと、熱血グレンゲとの出会い、当時はやんちゃだったらしいドロップとの出会い、そしてホウオウとの出会いの五点だけは、やはり特筆しておかねばなるまい。
全てが動き出す一日だった。
その日のウツギは、研究の際に必要となるらしい様々な進化の石を両腕で抱え込んでいた。
新たに発見された新種のポケモン3体が反応するかどうかを調べる実験として。
あくまで予定の話だ。
そんなもの奇をてらった神様が賽を投げれば一発で狂うに決まっていた。
「あ」
床には機密書類の絨毯。早く整理しておけと助手からそそのかされるも、忙しさのあまりついほったらかしにしていたもの。お約束のように滑ったウツギが気がついたときにはもう遅かった。ゴールドも、その瞬間を、スローモーションのように感じた。ウツギから放たれ、放物線を描き、1.0Gに支配されるがまま落下する石のひとつは、あわれレッパクのひたいをとらえていた。
逃げようともしなかった。
その時に限って。
どちらへ避けようかとっさに迷っただけなのかもしれない。
原因も発展も、今となっては後の祭りだが、ウツギに悪気がなかったことだけはどうか理解していただきたい。とにかく、「かみなりのいし」は、幸か不幸かレッパクをイーブイからサンダースに進化させた。しっぽがなくなり、柔らかい栗毛は水を弾くような黄色になった。体格はぐんとたくましく、あの小さなタマゴに入っていたのが嘘のようである。喉仏が大きくなり、声が低く落ちてしまったが、例のなきごえは甲高いままだった。
なにより、足が速くなった。
ゴールドとのかけっこでいつも負けていたちびでのろまなレッパクが、その日を境に全戦全勝の記録を更新し続けることとなる。
誰よりも驚いたのはやはりレッパク自身だろう。「三ヶ月でタイムを2秒縮めるトレーニング」などとはわけが違う。進化したその瞬間から、足にジェット規格の推進剤でもぶち込まれたかのような加速度を手に入れてしまった。体内に絶えず生まれてくる電気でうまく電磁補正し、力場をねじ曲げ、ブレーキをきかせるクセを身につけるまで、レッパクはとにかくあちこちにぶつかり、とにかくあちこちに生傷を作った。そうして手当てをされるたびに「ふへへ」と柔らかい笑みを浮かべていた。強くなった気になれるらしい。当時はまだまだレッパクもゴールドもガキんちょだった。
ぶつかる壁があるだけまだいい。
問題は、「走ったその先に何もなかった」時だ。
進化した日、その実はいきなり、近所の池に落ちた。
うまれて初めての絶望的な体験だった、もうあんな思いはしたくない、とレッパクはのちに何度も語っている。イーブイに連なる系列は色んな環境に敏感に反応して変化する、極めて不安定な遺伝子を持つポケモンだが、それをさておいて「個のトラウマ」として溺れることの怖さを、レッパクはその身で思い知った。
もちろん、事件はそれだけではなかった。
― † ―
「博士、大変だ! レッパクが、」
「ゴ、ゴールドくん! 大変なんだ! あのポケモンたちが、」
水浸しになったゴールドとレッパクを見ることと、ついさっきまであった3つのモンスターボールが無くなっていることに、お互いが気づくのは、ほぼ同じタイミングだった。質問は質問で返され、混乱は更なる混乱を呼び、自分の説明と相手の説明がモンジャラのように絡みあう凄惨さは、察して余りある。
「で、そのポケモンを盗んだ犯人の顔は見たのか!?」
「い、いや、突然のことだったからあまり――赤い髪をした少年、くらいしか」
みなまで言わせず、ゴールドは溺れてぐったりしているレッパクをウツギに押しつけた。
「レッパクのこと頼む! 俺が追いかける!」
髪の色を聞いて何かを感じたゴールドは、有無を言わせず研究所を飛び出した。
― † ―
たびたび訪れる来訪者をおもんばかってか、研究所と29ばんどうろ入り口は近い。
かっぱらいをキメた者がワカバへUターンするか外へトンズラするか。
ゴールドなら迷わず後者を選ぶ。
ヨシノシティの警察へ呼びかけ、包囲網を作られればそれまでだが、ワカバにいても結果は同じである。燃え盛る橋が崩れ落ちる前に逃げきってしまえば、ひとまずは犯人の勝ちとなる。
「――よお、何やってんだよ、こんなところまで来てよ。送迎会にしちゃ遅すぎだろ」
短い距離を中途半端なペースで走ったものだから、本当は息も絶え絶えだが、表情は保てていると思う。これまでは、イーブイのレッパク相手にいい気になっていたが、ゴールドは走るのが少し苦手だ。運動が嫌いというわけではなく、単に走り回ることには価値を見いだせずにいるだけだ。その上、さっきまで必死で潜ってレッパクを助けていたものだから、体はくたくたのずぶぬれだった。足を出すたびに靴がぐじゅぐじゅとして鬱陶しかった。
犯人は意外と近いところにいた。予想通り、29ばんどうろに逃げこみ、こちらに背を向けて立ち尽くしている。夕日を睨んでいるようにも見える。薄く伸びた影が、ゴールドの足元にまで伸びかかっていた。
なんとなく予感していた。以前よりも髪も背も伸びたが、ゴールドはその後ろ姿を忘れるはずもなかった。
刹那、眼光を水平に走らせてブラックが振り向く、持っていたカバンを思いきり上へぶん投げる、中から紅白のボールがいくつも溢れ出る、ゴールドは予想に反したその数に一瞬戸惑う、ボールが上昇をやめて落下してくる、ブラックがためらうことなくひとつを宙でキャッチする、
全てを悟ったゴールドも、落下中のボールのひとつを逆手の右払いでつかむ。
残りのボールが次々と着地する。
ブラックはチコリータを繰り出した。
ゴールドはヒノアラシを繰り出した。
「――3つ以外は空っぽのダミーだ」
3年前よりもずっと低い声でブラックが言った。
「お前なら中身のあるやつを引き当てると思っていた」
意味が分からなかった。なんのことかと訊ねるよりも早く、
――かあーっ! ガタガタ揺れたあとはゴムマリみてえに飛んだり跳ねたりよお、ったくひっでえ扱いだぜ。……おう、大将!
た、
「大将って俺のことかよ」
――他にだーれがいるってんだよこぉのすっとこどっこい! あのあんちゃんと話する時間が欲しいんだろ。俺がなんとかすっから、早く命令してくんな!
口の悪いヤツ、と思った。
「いいのか? あのチコリータも、」
――手に渡っちまったもんは仕方ねえ。せまっ苦しいところでヤニ食って余生を楽しむよかマシだろうぜ。なあに、俺とあいつも昔からの喧嘩仲間だったんだ。ついでにここでケリをつけられれば御の字さ。
そう言ってヒノアラシは背中から閃光を発し、やる気を象徴したような炎を背負った。
「――分かった」
たいあたり合戦が始まった。
「何しにここへ来た」
「お前を引きずり出しにだ」
おらもう一丁くらえー! 俺必殺のたいあたりー!
ばか正直に突っ込んでくるばかがどこにいるのさこのばか! そういうばかなところ治してから出直すんだね!
「お前チャイムってもん知ってるのか? 表札も読めるよな? あそこは俺の家じゃない。趣味じゃないわあの形は」
「見くびるな。だから考えた。あらゆる手段を」
てやんでえいい度胸じゃねえかこのボンボンが! 76戦29勝29敗18分の決着をつけるぞこらー! 今日膝を汚すのはてめえのほうだあ!
ああいいともさ! どうせここでお別れになるかもしれないんだ、おいらもきみもこのままじゃあ納得いかないだろうしね!
「それが、これだというのか」
「オレは――お前に勝ちたい」
くあー! てめえのはっぱカッターは相変わらずいてえな! こんにゃろお返しだ!
ばーか! いくらきみだろうと切れ味の鋭い攻撃をくらえばひとたまりもないだろうさ! ってうわあひのこ出すなばかあっ! おいらの自慢の葉っぱが焦げたらどうするのさ!
「――そうか」
「だからオレにはこの方法しかなかった。お前の力を見抜くには、な」
今まで使わなかっただけでもありがたいと思いやがれー! その気になりゃてめえなんか一発で丸焦げの黒焦げだ! 露店で吊り下げられる悲しい結末が見えてらあ!
あーもー! おいら真剣に怒ったぞ! はっぱカッターだけがとりえと思うなよばか! どくのこな! と見せかけてもう一回はっぱカッター!
「何が言いたい」
「こんなところで腐ることはオレが許さない。前へ進め」
なめんじゃねえ、てめえのやり口なんざ校長先生はとっくに見透かしてらあ! 全部かわせば隙丸出しってな! 南無三!
へ、へーんだ! きみのばか力たいあたりをただくらうだけのおいらだと思うなよ! これまで何度も受け止めてきたんだ、そう簡単には倒れないさ!
「わざわざご苦労さんだな。盗みまで働いて、俺を突き動かしたいのか。俺が女だったらきっと泣いて惚れてるだろうよ。ほんっと、昔からお前は不器用なやつだったよな」
「オレは前へ進む。上へ立つ。リーグの頂点に」
おうおうさすがじゃねえか! そうこなくっちゃなあ! タフになりやがってこの!
きみがおいらをどう思おうと勝手だけどねー! おいらは単細胞なきみのことなんか、きみのことなんか、だいだい、だーいっきらいだったよ、この――ばかー!
「好きにしろよ。俺たち三人の中で、最初にポケモンを手にしたのはお前だ。お前が先に進んでも、俺は文句言わないさ」
「だめだ」
ブラックがチコリータを引っ込めた。
ゴールドはヒノアラシを引っ込めなかった。
おもむろにブラックは右手でまっすぐとゴールドを指差した。
正眼につきつけられたその指先を、じっと睨み返す。
「オレは、そんなお前を越えるために生きているんだ。お前を越えなければ、意味がない」
ゴールドは手も上げずに肩をすくめた。
「俺にも頂点を目指せと」
返事はなかった。
その認識をさせれば十分だったのか、ブラックはまたも振り向き、夕日を目指し、ヨシノシティへと通ずる道を歩いて行った。
――上等じゃないか。
今までこころのどこかでは考えていたかもしれない。しかし大それてとても成し遂げられることじゃないと押さえ込んで、ほこりをかぶらせていた『憧れ』に、電流が走った瞬間だった。
そして、ヒノアラシ――グレンゲをウツギから正式に譲り受け、血の滲むような修業をし、定石を頭に叩き込み、知識を習得し、ワカバを旅立つこととなったのは、それから半年経った14歳のことである。