08 霧と嵐と
【史上最凶のおつかいです】 ドロップ
08 霧と嵐と 同時刻。
――大将よお、まあったく聞いてないぜ俺ぁよ! こんなのってありか!?
「俺だって知らん! アサギの海がこんなに楽しいところだったとはな!」
――と、とにかく、離脱します! つかまっていてください!
よからぬ気配は、天候のせいではなかった。
おかしい。ありえない。
この海域に、なぜこいつらが出現するのか。
これほどまでに中途半端で悪辣な進化をたどったポケモンと出くわすのは、初めてだった。
ギャラドス。
ドククラゲ。
それぞれ4体と3体。
どう見ても青眼ですんなりと通してくれるような面構えではない。明らかに様子がおかしい。理性を失いかける一歩手前、と例えるのが一番近い。狂王ですらこんな生煮えの沙汰をお与えにならない。
種族が限定されているのは、荒れ狂う波風に耐えきれないからだろう。ギャラドスが現れると、必ずと言っていいほど海も機嫌を損ねる。それが4匹も揃えば、ラプラスのドロップでもこらえきれるか怪しいコンディションである。
ましてや人を乗せた状態で。
「コイキングもメノクラゲも確かにいるが、この海域で進化をとげるような習性はなかったはずだ!」
――なあ、どうすんだ!? やるのか!?
「無理だ、数が違いすぎる! 下手に刺激するなよ! ドロップ、構わず逃げろ!」
――はい!
雨が降っていないのは不幸中の幸いだが、直にバケツをひっくり返したようになるはずだ。ドロップは押し寄せる波に姿勢軸を揺さぶられつつも、海流を必死で感知しなおし、
絶望的な悲鳴をあげた。
ギャラドスが
顎を開き、ドロップの左後ろのヒレに噛み付いていた。
――んなろ!
グレンゲはたまらず炎を吹きつけた。熱にひるんだギャラドスは一旦退くが、これが戦いの火ぶたを切り、他のギャラドスやドククラゲどもも暴れ始めた。波がいよいよ本格的な隆起を始める。
ゴールドですら経験したことのない、目のくらむような前代未聞のフィールドコンバット。
「大丈夫か!」
――な……なんとか……。
苦痛をこらえながらそう返してくるが、後方の海面からはじんわりと血の色が滲み浮かんでいる。少しのよどみもなかったなみのりの軌道がふらついていた。リュックをおろし、即座にキズぐすりを出せるよう配置を変える。
――こいつら俺たちを足止めしたくて現れたんじゃねえ、追い立てて小突いて楽しんでやがるんだ!
「あと少しの辛抱だ! ここでやられたら海の藻屑だぞ!」
グレンゲは考えた末にえんまくを撒き散らしたが、これが失敗だった。この状況と陣形で黒い煙を出しても、視界を封じられるのは相手だけではなく自分たちもだ。
荒い波は、なおもドロップをいたぶる。
ひゅば、と空を切る音がどこからか聞こえた。
次なる襲撃は、触手だけだった。
二本を螺旋状に
縒って丈夫にさせたそれが、ドロップの横顔を乱暴にはたいた。今度こそ完全に体勢が崩れ、ゴールドは海面に片足を突っ込んでしまった。滑り落ちるグレンゲを慌ててキャッチする。
――前方からか! 回りこまれたかもしれねえ!
グレンゲが正面へ向かい、空気を胸に溜めた瞬間、今度は後方から触手が走った。一本の鞭はグレンゲの背を斜めへ鋭くなぎった。不意の衝撃にグレンゲの体は弓なりに反れ、視線を中空へ泳がせた。一度だけ水っぽく咳き込み、その場にうずくまる。背中がばっくりと割れたような痛みに、痙攣を止められずにいる。ゴールドはミミズ腫れが起こる前にすぐさまキズぐすりを吹きつけたが、焼け石に水であろう。一刻も早く海を渡りきらないと、グレンゲもドロップも力尽きてしまう。
――あっ、波の流れが……危ない!
ドロップがいっぱいに面舵をとった。直後、ドロップ目がけて真正面にギャラドスが激突してきた。とんでもない角度までドロップの全体がのけぞる。二度目の打撃に悲痛な声が漏れる。扇子のように広がったしぶきがゴールドの体を洗った。我を失ったように、ギャラドスはドロップへ牙を仕向ける。それよりも数秒早く激痛をこらえて立ち上がったグレンゲが、瞬時に火炎を身にまとってその鼻っ面に飛び込む。鈍い音を立ててぐらついたギャラドスは海に沈み、共に着水しかけるグレンゲをドロップがかろうじてくわえる。
間もなく、更なる一本の触手がゴールドの右手へと巻きついた。
「しまっ」
ドロップが右から左へとワープした。とうとう甲羅から引き剥がされ、ゴールドは一度海面へと叩きつけられた。目の前が真っ暗になり、呼吸ができない、と思ったら今度は上げられ、宙に浮くことを余儀なくされた。海水を吐き出すことも許されず、蛇が這うように、首や右手へとドククラゲの触手が絡みついてくる。息が絞られる。酸欠で視界が変な色に染まっていく。嫌な汗が出てくると感じたがそれはほおを伝う海水だった。
グレンゲとドロップが、自分を呼んでいる気がする。
その幻覚が、ゴールドに一回分のわるあがきの力を与えた。残り少ない意識をかき集め、空いている左手を服の中へ突っ込み、十徳ナイフを取り出す。何段目に何があるのかを指で器用に吟味し、爪を入れ、浮かせ、残りは歯を使って一気に立ち上がらせる。出てきたのはペーパーナイフ。逆手で握り直す。こんななまくらのヤッパで何ができるのかは分からない。しかし何も抵抗しないままやられるのは、それこそ死んでもごめんだった。せめて奴の触手どれか一本に、自分の痕跡を刻んでやらねば気が済まない。
しめ縄のように太くて丈夫なその触手に、
膂力の限りで突き立てた。
胸のすくようないい音はしなかったし、刃は最後まで入らなかった。
しかし締め付けは緩んだ。
ナイフをぶっ刺したままにしておいて、ゴールドは自分の首と触手の間に指を食い込ませた。一気にふりほどくと、右手以外の全身が垂直にぶらさがる。右腕と右肩がひねられ、捻挫のような痛みが浮かび上がる。残り、この右手首の触手さえなんとかすれば――
為す術を考えるよりも先に、突然の疾風がゴールドの真上を走った。どこかで何かを斬り裁く、一瞬だけの鈍い音。右手首に巻き付いているはずの触手の一部とともに、いきなり体重が真下へ向かった。腕のねじれによる痛みが関節の奥へ遠のく。体を支えるものの一切がなくなるのは腰に麻酔を投与されるのにも近い感覚で、ほぼ無意識に息を止めた。
自分の身に何があったのかもわからないまま、ゴールドは落ちる。落下と同じ速度をもって、真っ黒い海が立ち上ってくる。想定しうるあらゆる事態を覚悟し、目をつむった。
1秒たっても、3秒たっても、5秒たっても、いつまでたっても、着水しなかった。
――?
浮力の優しさを感じた。何かに柔らかく抱きしめられているここち良さ。
目を開けようとするよりも早く、次が起こった。思いがけないほどの間をおいて、やはりゴールドは重力の働くほうへと放り捨てられた。
一回分の声をあげるよりも前に、あの突起が背中へと当たった。
――た、大将!?
――え、あれ? ご主人!?
「!!」
ついに目を開いた。海面だと思ったそこはドロップの甲羅で、もとあった位置にゴールドは戻ってきていた。
「俺、ドククラゲに――」
えんまくを撒かれていたとはいえ、落とされる自分の下に何が待ち受けているかくらいは分かる。ドククラゲの触手の位置を考えるに、ドロップのところまでは帰って来ないはずだ。
戦いの音。
ギャラドスやドククラゲが怒りの叫びを放っている。
えんまくの向こうに、何者かがいる。
ゴールドも、グレンゲも、ドロップも、それを察した。
えんまくが、やがてゆっくりと晴れていく。
その場にいる全員の目線が、フライゴンに強く注がれる。
そんじょそこらのフライゴンではない。
オレンジ色の翼が、この霧の中でも少しもきらびやかさを損なわず、美しく光っていた。
その色合いが示す答えはひとつしかない。
「お前、あのビブラーバか!?」
フライゴンは答えない。ギャラドスのたいあたりを難なくかわし、かわす勢いで太いしっぽを胴体に見舞った。ドククラゲの触手よりもはるかに重い打撃力に、3体目のギャラドスが落ちた。
――早く行きなよ。
――わ、私たちも戦います!
――ばか。ケガしてる奴なんか足手まといにしかならないよ。ぼくだけでいい。
――お前だけでなんとかなるわけねえだろ! 一緒にズラかるぞ!
――ばか。こいつらも来るに決まってる。町がパニックになる。いいから行って。
嵐が起こった。ギャラドスが吠える。惨劇のウォークライ。雨雲はそれに応えた。視界は閉ざされ、風は今まで以上に激しくなる。ドロップですらまともに目を開けていられないほどの、滝と言い換えてもおかしくないほどの鋭い雫が、あちこちを撃ち抜いてくる。
定石、『
一本橋』。
オレンジの疾駆が、薄暗い雨の世界に残像を染み込ませる。それにやや遅れて引かれる長いしっぽ。屈折したこころの持ち主だが動線に無駄はなく、フライゴンは両腕を構えて起式を展開。ドラゴンクローによる剣舞が広がった。次々と襲いかかる触手の隙間を舞い、細い腕からはおよそ信じられないほどの斬撃が、触手全てを両断していく。
ゴールドは土壇場で迷う。頭の天秤がシーソーのように遊んでいる。フライゴンに対し、残るはギャラドス1体とドククラゲ2体。やられたふりをして、まだ海に潜んでいる可能性も否定できない。それを察知できるのはこの中でドロップしかいない。ドロップの血の匂いで新手が呼び寄せられる事態もありうる。頭痛をこらえるように奥歯を噛み、まだまだ迷い、
ドロップが背を向けた。あわせてゴールドの視界も180度変わる。
――タンバへ行きます。ここはまかせました。
「お、おいドロップ、」
――ご主人。私たちの目的を忘れたのですか。ここでご主人がやられたら、誰がアカリちゃんを助けるのですか。
静かで、力強い言葉だった。
この場においての決断力はドロップのほうが一枚上手だった。どうしようもないくらいの正論に、何も返せなかった。間もなくドロップは
這々の
体でその場を退避。「生きること」を最優先に臨戦心理を上書きし、タンバまでの最短ルートを選択。ゴールドは激しすぎる雨から避難させるべくグレンゲを引っ込めようとしたが、頑として譲らずドロップの後方を守ることに専念した。
どれだけ進もうとも、霧を脱出しようとも、嵐だけはゴールドたちを逃がそうとはしなかった。透明のハンマーのような空気の塊が振り回され、頭の中がめちゃくちゃになる。ゴールドもグレンゲも豪雨を浴びまくり、傷口が絶えずうずく。言葉はかき消されるだろうし、口を挟めば舌を噛みそうになる。だのに轟音の中、何かがカチカチと耳の骨に響いてくる。それは自分の歯が鳴らす音だとはすぐには気づかなかった。ドロップはどれだけ水の斜面に持ち上げられようと、鼻先で懸命に姿勢を保ち、ゴールドたちを揺らすまいと努めている。ヒレの痛みなどもうとっくの昔に忘れているようだ。
タンバの町並みが水平線の奥から顔をのぞかせ、やがては視界に収まりきらなくなる。
歯だけでなく、右の頬もひきつりはじめる。体の芯まで凍えつかせた恐怖が、表現の接続をずさんに狂わせ、ゴールドは笑いさえし始める。
今のゴールドを支配しているのは、フライゴンを身代わりにしたことへの負い目ではなく、生き残れたことへの喜びだ。
― † ―
体が硬いと頭も固い。
逆境はむしろ身とこころを鍛えあげる絶好の機会である。
台風が近づくとなぜかわくわくし始める子供の気持ちに近いものがある。
雲が今にも落ちてきそうなほど鈍い色をしているが、知ったこっちゃない。嵐が猛ろうが波が激しかろうが大歓迎だ。鍛錬こそわが生涯と言わんばかりの体格をしているおっさんは相棒のナゲキ、ダゲキとともに波打ち際をひた走る。一回の波打ちではさらえきれないほどのばかみてーにでかい足あとをがんがん作り、とにかく走る。
半裸で。
カミさんは呆れてものも言えない。
走りこみを終えると、今度はナゲキとともに乱取りまで始めた。見事な払い腰。鮮やかな膝車。ダゲキは単独で空手の稽古をしている。見ていて気持ちいいほどの正拳突き。一、二、三、
繰り返すが、波打ち際の砂浜である。
「やめ!!」
砂まみれのおっさんが言った。
鉛色の海を訝しげに眺める。
「その場で腕立て!」
そう残し、すぐに海へ飛び込んだ。体を覆いそうなほどの水のツッパリをこらえ、その場で腕を組んで仁王立ちする。
そして、『それ』を目で確信した。
それは、嵐の申し子に見えた。
遥か遠く、その少年はラプラスに乗って、分厚いカーテンのような雨を潜りぬけてきた。「何言ってんだお前らをポケモンセンターにつれていくのが先だ!」という怒鳴り声がここまで聞こえた。キャタピーの糸で綱渡りするほうがまだ易しいと言えるようななみのりを終え、こちらまで近づいてくる。くるぶしくらいの水位まで這い上がると、ラプラスとマグマラシをボールに収め、少年は砂浜を歩こうとし、
薄い布が落ちるような動作で、がくんと両ひざを折った。次いで、前のめりになって両の掌を砂にめりこませた。
おっさんは慌てた。とんでもねえガキだ、とすら思った。波頭にもみくちゃにされたせいで平衡感覚がボケたのだろう。この荒れた海をラプラスとマグマラシだけで切り抜けるだなんて無謀にもほどがある。アサギとタンバを隔てるこの海は最近荒れやすいとされているから、たとえ晴れた状態から出発してもよほど大威張りできる戦力を持っていない限り、なみのり一本で渡るのはどだい不可能だ。それに、大時化の沖が実際に安全なのか、陸から判断するのは玄人でも難しい。おっさんも一度、アサギまで自力で泳ぎ切ってみようかを考えたことがある。まだ実行していないうちからカミさんに頭をカチ割れそうなほど怒られた。
「立てるか?」
その言葉に少年はびくりと反応した。
頭をめぐらし、こちらへ顔をよこした。生まれて初めて自分以外の人間を見た、といった表情だった。今まで意識していなかったらしい。年は14、15くらい。言っちゃあ当然だが顔色が悪い。息遣いも自分とは違う意味で荒い。
「す、すいません、ポケモン、センターは、」
言い切られる前に、おっさんは肩を貸した。水を含んでなおも軽いその体を持ち上げ、波から引き上げた。しおれてぺっとりと張り付いた長袖に浮かび上がる腕のラインは、おっさんの丸太のようにでかい腕と比べると、鉛筆みたいに細かった。身長差があるため、少年の靴のつま先が砂浜を浅くなぞっていった。
「あ、あの、」
「何も言わんでいい。連れてってやる」
「………」
「………」
「ありがとうございます」
「小僧、名前は?」
「――ゴールド」
「ゴールドか。わしはシジマだ」
ナゲキとダゲキは、いつまでたっても腕立て伏せを続けている。
― † ―
道中、それ以上の言葉は交わさなかった。
シジマは何も言わず、ただ笑いのシワを顔に刻み、ポケモンセンターを出て行った。
今すぐ治療に取り掛からなければ喉元に喰らいつくぞと言わんばかりの目でゴールドはグレンゲとドロップのボールを預け、ひったくるような勢いでタオルを頂戴し、トイレに向かった。
3枚も消費して、なんとか滴る海水をぬぐいきった。ことにリュックの中の被害は甚大で、その無残さといったら言語に尽くしがたい。ドロップの上で食べるはずだったおにぎりたちは溶けきってひとつのおかゆになっている。もったいないことをしたと反省しつつ、その他の不要物を片っぱしからゴミ箱に捨てると、今までの重さがアホらしいほど軽くなった。ぐずぐずに濡れた靴下はもう履く気にはなれなかった。
ポケギアは防水仕様だからへっちゃらな様子だったし、金はあらかじめ全て小銭に替えておいたからなんら問題なかった。ファスナー付きビニールにいれておいたポケモンレポートと筆記用具も、この嵐の生還者だった。
荷物の整理とともに気持ちの整理もつき、幾分かは落ち着きを取り戻せた。人目につかないよう、こそこそとポケモンセンターを後にするが、無駄な努力である。全身ずぶ濡れの磯くさい少年が床にぽたぽた水滴を落としながらポケモンセンターにやってきて、ポケモンを預けて、トイレにこもり、先程より小さくなったリュックをもって出て行く。しかと全部、周囲のトレーナーに見られていた。
「ほうか、そら深刻な事態や。最近船こーへんなーと思ってたんや。その病気なら――このくすりもっていったらええ。強烈やから他のポケモンにつこうたらあかんで。――ん? ああ領収書ね」
タンバシティはどこもかしこも砂地だらけなので、ひどく足をとられた。濡れた靴に砂がこびりつく。なぜどの家もまっすぐ建てられているのか不思議で仕方ない。あの家は傾いてそうだと思いきや自分の姿勢が傾いているだけだった。ただでさえくたくたのゴールドは途方もなく
鬱積し、本来の2倍以上の時間をかけてようやっと薬屋にたどり着き、事情を大雑把に話した。
「それと、お前さんもなんや風邪の気があるで。うちはポケモン専門の薬屋やからなんも渡せんけど、とにかくすぐに体あっためて寝とき」
ぜひそうしたい。礼を言って薬屋を出ると、ポケモンセンターに戻って、グレンゲとドロップの怪我の具合を訊ねた。ポケモンよりも今は自分の心配をしろ、といったような聞くに耐えない内容をこんこんと諭された。ひと通り右の耳から左の耳へ流し、タオルを更に2枚借り、自販機に小銭を突っ込み、あったかいやつならなんでもいいと思い、右親指でコーンポタージュのボタン、左親指でブラックコーヒーのボタンを同時に叩き、がこりと落ちてきたコーンポタージュをつかみ、やっと気づいた。
自分の手が、あまりにも冷たかった。
廊下の奥へと進む。目にとまった青ランプの空室へ入り、ゴールドはそこで初めて腰をおろせた。
やけどお構いなしに、缶の中を一気に空にした。
腹の中で海水と混ざり、胃袋が不機嫌そうに震えた。
空き缶を一発で投げ捨てることに成功すると、尻が根を張る前にもう一度腰をあげる。身につけているもの全部を脱ぎ捨て、お世辞にも広いとは言えないシャワールームで、ぬるめのお湯をぼんやりと5分浴び続けた。べとつく海水と共に、冷気が頭から足へと流れてゆく。体もとろけて排水口へ吸い込まれそうな気分。
体を拭き、ドライヤーで乾かした下着を身につけ、部屋の隅に設置されたデスクトップパソコンを立ち上げた。ボールを預けた際に渡された整理カードを、パソコンのそばにあるデコーダーに食わせる。認証プロセスが動き始め、指定のコードが次々とモニターに表示されてゆく。ろくに読みもせず、OKボタンを3回押した。これでグレンゲとドロップの治療が済み次第、ここへ自動的に送られてくるはずだ。
色々ありすぎた。
本音を言うと、まだ一部始終をうまく把握しきれていない。
ミカンとレッパクに、しばらく会ってない気さえした。
海を渡り、霧に囲まれ、大笑いし、襲われ、溺れかけ、助けられ、嵐を乗り越え、肩を借り、くすりを調達し、今ここに来た。
本当に、本当に色々あった。
一日が終わっていないことが恐ろしい。
赤の他人のアルバム整理に延々とつきあわされたような徒労感。
底なし沼に首まで浸かっているくらい疲れているはずなのに、目だけが異常に冴えていた。
なんでこんな目に、という気持ちは、ちっとも湧いてこなかった。
当然だよな、とすら思った。
何が当然なのか、自分でも分からなかった。
――あのフライゴン、無事かな。
アサギでグレンゲが感じていた視線の主も、あいつだったのかもしれない。
助けてもらわなければ、今頃どうなっていたかも分からない。
パソコンをスリープモードへシフト。
上下の服とリュックを一緒に吊るし、空調機の電源を入れる。暖房をオン。電灯をオフ。簡素な造りの丸い窓に暗幕を垂らし、ドアをロック。
最後に、鼻をかんだ。
――レッパクほどじゃないけど、あいつとも長い付き合いなんだっけ。
そんなことを再認識しつつ、悪霊に取り憑かれるよりも重い動きでベッドに潜り込んだ。
時刻はまだ午後2時を過ぎたところだった。