怪盗という仕事
Steal 7 窃盗試合
 泥の色をした空。よどんだ空気。ベトベターやヤブクロンが徘徊するゴミの市。そして、盗っ人である俺の背中への罵声……。
 この空の色が、この空気が、この臭いが、この罵声が、俺にとっての日常だった。俺の全てだった。
 だが、そんな日常からいとも簡単に救い出される日というものは、あまりにもあっけなく、そして、唐突に訪れた。
「……君。ほかの金目のものはどれだけ盗んでもかまわない。私の懐からいくらでももっていきなさい。しかし、それだけはだめだ。……返しなさい」
 今でもその姿は覚えている。すぐにでもくたばっちまいそうなほど朦朧とした意識で、俺は壁にもたれ掛かっていた。逆光で顔のよく見えないそいつは、先ほど俺が懐中時計を奪ってやった小綺麗な紳士だった。幾度とない窃盗経験の中で、執拗に俺を追ってきた被害者は、そいつが初めてだった。
 そいつは、俺の手から懐中時計を引き抜いた。時計を持つ俺の手はまるで死後硬直したように、堅く力がこもっていた。いったいどこにそんな力が残っているのか自分でもわからなかった。だが、本能でこれは死守せねばと思った。当時、俺はこれがどんなものかもわからなかった。時間という概念も、それを刻む時計というものも……ましてや懐中時計などと言うしゃれた代物を、俺が知っているはずもなかった。
 だが、そんなものでも取り上げられたくなかった。これがないと、俺は生きていけなかった。
 だが紳士は、そんな俺の手を指一本一本から丁寧に、だが強い力で確実に引きはがし、懐中時計を取り戻した。このときの絶望感は、今後起こる様々な出来事の中での絶望感と比ではなかった。もう、俺の命はここで尽きるのかもしれないと思ったら、今までひた隠してきた心の弱さが堰を切ったようにあふれ出てきた。
「か……えし……っ」
 自分が物を盗んだ相手に、慈悲を請うほどに。
「……悪いが、これは妻からもらった旅のお供でね」
「かえし……くださ……おねが……しまッ……」
 あの瞬間、もしかしたら俺は泣いていたのかもしれない。だから、あのときそいつはそのまま立ち去りもせず、ましてや警察に通報もせず、あんな仏のようなことを言ったのかもしれない。

「君、私と一緒に来なさい。我が家は暖かいぞ、不思議荘と言うんだ――」




 まだ辺りは白んでもいない真夜中だった。俺は、しばらく目を開けていた状態でも、ここがどこで、自分が誰か、よくわからないでいた。
「……夢、か」





――Steal 7 窃盗試合(スティールマッチ)――





『予告状

 このたび私、怪盗“黒影”は、怪盗“スナッチ”にアメジストを賭けて窃盗試合(スティールマッチ)を申し込む。場所は△△タワーホテル、獲物はそのビルの最上階ロビーにあるマナフィのオブジェだ。十二時の鐘の音を試合開始の合図とする。もしこのマッチを拒めば、自称“怪盗の怪盗”としてのプライドを放棄し、敵前逃亡したとして末代まで笑いぐさにされるであろう。必ず参加されたし。なお、マッチを行うに当たって警察、マスコミ各位には多大なる苦労をかけることになるが、そこは職務ということで諦めていただきたい。
 では諸君、お勤めご苦労。

 怪盗“黒影”』



窃盗試合(スティールマッチ)ですって……!?」
 怪盗“黒影”は、いったいどれぐらい警察――もとい私を苦労させれば気が済むのだろうか。一週間も満たないうちに二回も怪盗行為をしたかと思えば、間をおかずに窃盗試合(スティールマッチ)の申し込みときた。
 しかも。しかも、だ。今まで警察が秘密にしてきた怪盗“スナッチ”の存在を、当たり前のように予告状へ書き込んでマスコミへ明かしてしまうとは! いったい“黒影”がどこで“スナッチ”の情報を仕入れてきたかは知らないが、今までさんざん苦労して敷いてきた報道規制と箝口令が……。
「ぜーんぶパァーよ! パァーッ!」
 私が内心で考えていたことと、マリア先輩の叫びが完全にシンクロした。
「見てご覧なさいよ! 警察署の前にマスコミがうじゃうじゃ! 怪盗“黒影”……! ただじゃ置かないわ……!」
 ロズレイドであるマリア刑事は、草タイプにそぐわず全身を見えない炎で包み込んでいた。もしかしたらこの瞬間、“黒影”は回してはいけないポケモンを敵に回したのかもしれない……。
「エイミ刑事! さっさと怪盗ととっつかまえに現場へ行くわよ!」
「は、はい!」
 私にそう叫ぶやいなや、マリア刑事はきびきびとした歩調で一足先に出て行ってしまった。早くしないと姿を見失ってしまうかもしれない。私はペンとメモ帳を取るために急いでデスクの引き出しを開けた。
「……ん?」





 マリア先輩がいるとはいえ、“黒影”専属の刑事は私だ。今回の警備の主任も一応私が任されている。
「では、今回の警備の配置を言い渡します」
 時刻は午後五時。私たちは今、“黒影”が指定をしたタワーホテルのエントランスにいた。彼が再びビルの最上階の獲物をねらっているということは、おそらくまた凧をつかって上空から現れるのかもしれない。あるいは、その予想を逆手にとって前回とは違う侵入方法を使うかもしれない。“黒影”は相当に頭の切れる怪盗……ならば私は、奴がどんな方法で現れても対処できるように知恵を絞るしかない。
 彼との戦いはいつだって心理戦、頭脳戦だ。
 私は部下たちにそれぞれの配置を言い渡す。部下と言っても、なかには私より一回り上のベテラン刑事もちらほらいる。
「今回は、“黒影”に加えて怪盗“スナッチ”を相手にしなくてはなりません」
 窃盗試合(スティールマッチ)では先に獲物を盗んだ怪盗の方に軍配が上がる。だが、警察はどちらにも獲物を盗ませるわけには行かない。先に現れたどちらかの怪盗に全警官を追わせていてはは、もう一方の怪盗に獲物を盗みやすくさせてしまう。
「どちらかの怪盗が先に現れた場合、私が怪盗を追います。なので、マリア刑事はその場に残ってもらっても大丈夫ですか?」
「残りの怪盗を見張るためね。わかったわ」
 こうすればどちらの怪盗が先に現れても、最上階ががら空きになることは避けられる。
 最上階の警備は赤外線センサーがつとめている。そう多くの警備の数は必要ないだろう。前回と同じように、私とマリア刑事の二本柱で警備することにする。
 とりあえずは、これでいいんでしょ?





 よし。仕込みは上出来だ……。全てに置いて布石は完璧にして置いた。ひとまず盗聴用のイヤホンをはずして深呼吸をする。
「さて、どうするか……」
 前回の犯行でビルの侵入を最上階から行ったように、相手の裏をかくのが俺の常套手段だ。だがたまには、堂々と正面突破するのもまた一興ではないか? 嫌々ながら怪盗家業をする身だが、一度盗むと決めた以上こちらも楽しまなければやってられない。
 怪盗は、盗みでポケモンたちに幻想を抱かせるのが仕事だ。ならば。時に意表を突き、しかし時には堂々と。いつでも多くを楽しませるように振る舞わなければ。そしてそうするためには、まず自分が楽しむことが不可欠だ。
 それに、兜組のことで力みすぎては盗める物も盗めなくなるしな。楽しむぐらいの意気込みがちょうどいいに決まっている。
 俺は覚悟を決めて、黒いマスクをつける。

 ――どうして君は、一人で解決しようとするんだ――。

 ふと、アフトの声が脳裏に響いた。
「……悪いな、あんさん」
 俺は、こんなことでしか“家族”を助けることができないんだ。





 時計の長針と短針が真上で重なりあった。窃盗試合(スティールマッチ)開始時間である十二時の合図だった。いまから、このホテルの最上階に怪盗が現れる。“黒影”が先か“スナッチ”が先か。だが、どちらが現れるにしても、すべからくその行き先は牢獄と決まっている。今日の決意はいつも以上に堅い。時間をおかずに三回もの怪盗行為。調子に乗ってきた“黒影”に今日こそ灸をすえる時がきたのよ。
 と、そのとき。私の耳に付けた無線のイヤホンが、雑音をたてた。
『――あ、現れました! 怪盗ですッ!』
「どっち!?」
『“黒影”でありますッ』
「! どこ!? 上空!?」
 まさか下の階から堂々と現れるなんて高リスクなことはしないはず。ならば前回と同じ方法で上空から現れる可能性も高いはずよ!
『い、いえ……!』
 しかし、無線の向こうの警官は私の質問を、あわてた口調ながらも実にあっさりと否定した。
『しょ、正面玄関からですッ!』
「なんですって……!?」
 しょ、正面玄関!? まさか、このホテルの一般利用者が玄関から入るかのごとく、自分も堂々と正面から盗んでやろうという魂胆なの!? 警察を完全になめているわ。正面玄関とエントランスには完全な警備をしいているはずなのに。
『あー、あー……この無線はあの刑事もきいているのか?』
「!」
 この声……まさか!
「“黒影”!?」
『レパルダスの刑事さんか。お勤めご苦労』
 この無線を“黒影”が使っているということは、さっきの警官も奴にやられてしまったということ? で、でもあそこは警官をまんべんなく配置したはずなのに。
『いい加減学習するんだな刑事さん。ただの人海戦術では俺を止められないと言うことだ』
 このっ……私に説教でもしようってわけ? 怪盗の分際で!
「……いつまでその余裕が持つかしら。あなたには色々聞きたいことがあります。今から捕まえに行くので、覚悟しなさい!」
 私はそう言い捨てて強制的に無線を切った。そしてオブジェのある最上階から階段の方へかけだした。途中、すれ違いざまにロズレイドのマリア刑事の姿を確認する。
「無線、聞いてました!?」
「ええ! “黒影”を捕まえに行くのね! ここは私に任せなさい!」
「了解です!」
 私は四肢の筋肉を全力で使い、階段を十段とばしでかけ降りた。エレベーターを停止させている今、一つしかないこの階段を下りていけば、必ず“黒影”と鉢合わせするはず。
 ……私の配置が、“ただの人海戦術”ですって!? なめられたものね! ならば直接、腕っ節であなたを捕まえに行くわよ!


ものかき ( 2013/08/01(木) 21:01 )