16 Nothing can do it.
朝起きて、目覚める。
目と頬に、涙の跡が残っている。
隣にスピカの姿がないことに気づいて、どうしても起き上がる気力が湧かなくなる。
おれが、おれの負の感情が、スピカを……あの化け物に取り込んでしまったんだ……。
「モズク」
おれのすぐ横で、声がした。やっとの事で上半身だけ起き上がって、涙の跡をこすった。証拠隠滅だ。だが今更、目の前のポケモンにそんな証拠隠滅が通用するはずもない。
「……先生」
僕の横で、先生が座っていた。
「遅くなって、申し訳ありませんでしたねぇ」
「いえ、いいんです……」
先生のせいなんかじゃない。
おれの、この醜い感情が、全て悪いんだ。
*
スピカが化け物に取り込まれて、つまり化け物が完全に復活を遂げて、そらから一夜たった朝。僕らは全員でギルドの会議室に集まることとなった。
メンバーは、おれ、先生、シャナさん、スバルさん、戻ってきたビクティニのウィント親方、そして、ここではやっと初めて会うルカリオのカイ。
「いやぁ、カイの生命力には恐れ入ったよ」
会議室までカイに付き添っていたジェムが、この深刻な状況でもいつもの間延びした口調で言った。
「あんた、昨日までバンバン生気をバケモンに吸われてたってんのに、もう立ち上がって会議に参加できるくらいの力があるのかい?」
「ま、まぁ……あはは、鍛えているので」
そいういう問題かよ。
「ごほん」
議長のシャナさんが咳払いをした。ジェムはじゃあね、と会議室を後にする。
「モズクは確かカイとは初対面だったな」
「ああ、君がモズク君か。よろしくね」
「あ、はい……カイさん」
本当にこのヒト、昨日まで捕まってたのか……? 普通に元気だぞ……。
「早速だが、本題だ。俺たちには状況があまりにもわかっていない。カイ、病み上がりで悪いんだが“謎の秘境”の一連の出来事について仔細教えて欲しい」
「はい。まずは、そうですね……“謎の秘境”で僕が遭遇したことを話そうと思いますが、その前にまず、あのダンジョンにいた化け物が一体何だったのか、“謎の秘境”に眠っていたものは一体何だったのか……それをローゼさんから説明してもらった方が話が早そうです」
「これをご覧ください」
カイさんから引き継ぐ時間も惜しいとばかりに、先生は会議室に置かれた木製の掲示板に、直筆の絵を貼り付けた。描かれているのは紛れもなく、昨日対峙した化け物と、それを封印している壺の絵だ。
「調査の結果、わたくしたちが化け物と呼び続けていたものの正体は――魔神フーパと呼ばれるポケモンだと判明しました」
あれが、ポケモンとは恐れ入る。だが周りもおれと同じように思ったみたいで、場には重い空気とため息が広がった。
「文献によると魔神フーパは、わたくしたちをはるかに凌駕する体躯、六つの腕に六つの腕輪をかけ、その腕輪――つまりリングですね――で異なる空間をつなげられる強大な力の持ち主として書かれています。その力で時に他のポケモンたちを助け、時に厄災をもたらす存在だったとか」
フーパという名のポケモンの絵を指差していた先生は、次に壺を指差す。壺といえば本来なら細長い首の部分と球状の部分があるはずだが、その壺は球状の部分の真ん中がぽっかりと穴を開け、まるで輪っかのようになっている。
「そして、その力の強大さを恐れた古代のポケモンたちは、この壺を使いフーパを封印しました。そして、誰にも見つからぬ砂漠の底のダンジョンの奥地に台座を作り、そこに長い間封印され誰にも見つからず今に至ったというわけです」
「そこで、二ヶ月前の地殻変動か」
「ご名答」
シャナさんの指摘に、先生がぽんと手を打った。そして話の主導権をカイさんへ移す。
「皆さん知っての通り、地殻変動の影響で長年ポケモンの目につかなかった“謎の秘境”が現れました。僕は調査団“サンバーク”の依頼で“謎の秘境”探索に同行することになりました。ですが、僕たちは偶然、奥地で見つけたその魔神の壺の蓋に触れてしまい、封印を解くことになってしまう」
カイさんは、真っ先に捕らえられてしまった“サンバーク”三人を助けようと奮闘したが、一人ではどうすることもできず、かろうじて食らわせた技に当たって弾かれたリングを手に取り、ダンジョンからの脱出を余儀なくされた。
「まるで“サンバーク”と言っていたことと真逆ね……彼らは、自分たちがカイを残して逃げてしまったと言っていたのに」
「彼らは、今どこに?」
カイさんが身を乗り出して尋ねる。その問いには先生が答えた。
「きつく拘束して弟子の部屋の一室においでですよ。今は、リィさんが監視の目を光らせています」
あの三人、絶対逃げられないだろうな。
「彼らは、操られていただけです。魔神が完全に復活して彼らの役割は終わりました。多分もう操られていません」
「それを確かめるのはこの会議が終わってからでも遅くはない」
シャナさんは、これ以上の“サンバーク”の話を打ち切った。そうだ、今は復活してしまった魔神のことが大事だ。
「僕は、リングの一つを持ってダンジョンから逃げました。そしたら……その、信じてもらえるかはわかりませんが、リングが、ヒトカゲになったんです」
全員、沈黙した。
これは、信じる、信じないの話じゃない。おれの身を持って、スピカがどいう存在だったのかを、おれ自身が目の当たりにしたのだから。
「スピカ、彼女はいったい、何者だったんだ?」
「わたくしとカイ君の意見だと、彼女は魔神フーパの中に残っていた“最後の理性”だったのでは、と」
「“最後の理性”?」
おれは思わず声が出ていた。スピカのことになると、どうしてか、後悔と、苦しさと、同時に熱くなる胸に、どうしても心がざわついてしまう。
「そう。魔神は、太古のポケモンに封印され長きにわたって壺に閉じ込められていたことに対し、憎しみと、怒りと、その他の負の感情を何百年と蓄積させていたのでしょうねぇ」
「ですが、魔神と言われていてもポケモンです。フーパの心には、どこかにまだ優しさや、慈悲や、楽しさといった感情のかけらを残していた」
それを、カイさんはとっさに攻撃して魔神の本体から引き剥がしたとでもいうのか。
「僕も曲がりなりに波導使いだからね。初撃でとっさに急所を当てていたのかな」
なんということだ、彼が英雄と呼ばれる所以はそこにあるのか? たしか、ルテアさんもカイさんのことを「シャナが育てたバケモン」とか言っていたし……。
「“最後の理性”であるスピカを、僕は守ろうと思いました。彼女が魔神に取り込まれない限りは、魔神をどうにか鎮める方法があるんじゃないかと思って、ローゼさんに協力してもらって手がかりをさがしてたんですけど……その前に操られた“サンバーク”に追いつかれてしまって、情けない話ですが、魔神に捕まって三人を操るエネルギーを吸われてしまっていました」
誰かの……特に一番近くにいたおれの負の感情に触れてしまうと、光り輝くスピカ。
そうか、スピカは魔神の優しい部分の塊だったのか。今にも魔神本体に押しつぶされてしまいそうな負の感情から逃げるのが彼女の存在意義だったのに、おれがそれを台無しにしてしまったんだ。
あんなに怖がって“謎の秘境”にいきたくないと懇願していたのに、おれが無理やりに引っ張ってしまった。
結果、“サンバーク”に捕まって、スピカは……。
そうだ、もうスピカは……いない。
魔神の、一部になってしまった。
「魔神は、どうにかならないのか?」
シャナさんが低くいう。そして横にいたウィント親方が、そのあどけない姿から想像もできないようなことを言う。
「他のギルドと協議をしているんだけど、魔神は討伐の方向にむかいつつあるよ」
「と、討伐!?」
スピカがいるってのに……一部でも、魔神のなかに確かにスピカがいたってのに、それを無視して倒すとでもいうのか!?
「そんなの、納得いきません!」
「落ち着け、モズク。スピカを救うために、討伐以外の道を探るためにこの会議があるんだ」
「うっ……」
「ローゼさん、何か策はあるか?」
水を向けられた先生は、腕を組んでしばらく考えていた。だが、おれは知っている。
先生がこんなに時間をかけても何も答えられないと言うことは……。
「正直、今の時点ではどうにもならないかと思います」
そういうことだった。
「もう一度封印するという手こそ無きにしも、だったのですが。わたくしたちの目の前で、魔神の壺は魔神自身の手によって壊されてしまいました。あ、いえ、足でしたね。失礼」
そこはどうでもいい! こういう時に本当にやめてくれ、先生! おれは叫び出しそうになるのを、強靭な精神力で堪えた。
「討伐ではなく封印にしても、身動きも取れず何もできないなど死と同義です。できればどちらにせよスピカさんのみを救い出したいところですが、魔神と完全に一体化してしまった今では、それも難しいでしょう。なにせ彼女の心ももう、負の感情に染まりきっている――“スピカ”という自我の境界線も水のように溶けて、分散され、消えたことでしょう」
「そ、そんな……」
スバルさんが、悲痛な声をあげた。
そう、おれじゃなく、スバルさんが。
おれは、声すらあげられなかった。
スピカの、自我すら、水のように溶けて、分散され、消えた。
先生の淡々とした言葉が、どこまでもおれの脳の真髄まで突き刺さった。
まさか、あの苦しんだ姿が。
苦しく叫びながら光って、そして魔神に取り込まれていったあの姿が、スピカとの最後の別れだとでも言うのか。
「くそ……結局、討伐するしか道はないのか……」
誰が発したかもわからないくらいに、おれは打ちひしがれていた。討伐という言葉だけが、まるで無機質な部屋に響くエコーのようにおれの耳に入ってきた。
そんなの……あまりにも、あまりにも、ひどい仕打ちじゃないか……。
*
結局、あの会議は全体の状況を知る以外に何の意味もなかった。スピカは救われない。おれはなにもできない。ただ、後日迅速に戦闘力のある探検家が各ギルドからあつまり、編成され、討伐に向かうだろう。それを思い知っただけだ。おれは、会議が終わった後散っていくメンバーの中で、毎日背中を追っていた先生の背中を、今日も同じように追うことしかできなかった。
「モズク、わたくしはまだやることがあるので、ついてこなくてもよろしいですよ」
振り向きもせずに先生は言う。
「いえ……そばに、いさせてください……」
いま、一人にだけはなりたくない。なにか、なにか……支えてくれるものがないとおれはポッキリと折れてしまいそうなんだ。
何もできない、生きている意味のない日々を過ごしていて、やっと、やっと……唯一おれを必要としてくれた、スピカに出会ったのに……。
スピカは、消えてしまった。
「モズク」
先生は、何を思ったのか盛大なため息と共におれへ振り返る。
「あなたがやるべきことは、本当にわたくしの背中にくっつく事ですか? 今までのように」
「……けて、ください」
「はい?」
「助けて、ください……先生……ッ!」
おれは、また思わず涙を流していた。先生に、助けを求めた。
あの時、おれが一人で、どこにいるかもわからない憎しみの権化を探し歩いていた時……苦しくて仕方がなかったおれを、救ってくれたように……。
また、助けて欲しいんだ。
「おれは、スピカがいなくなって、また一人になりました。先生が、いてくれないと……」
「……気まぐれに目の前のポケモンを助けるというのも、考えものですねぇ。助けた後の責任まで取らなければいけないのですから」
先生は、今まで聞いたことのない心から困ったような声をあげて眼鏡越しに眉間を摘んだ。だが、それも一瞬のことで、再びいつもの口調に戻る。
「あのですねぇ、モズク。執拗に、執拗に、それはもう執拗にわたくしから離れようとしないあなたを、わたくしがわざわざ気絶させてまで一人にして、トレジャータウンへ行かせたのには理由がありまして」
「え?」
「ここに来て、わたくし以外のポケモンたちに触れて……それこそ、スピカさんに触れたことで、どこにいるかもわからない親への復讐と、いつまでも続けるわけにはいかないわたくへの依存と、この世にいらないのではという自分への不信……それ以外の感情が芽生えてくれないものかと、期待していたのです」
おれが、先生といることが……依存……?
「ですが、それもわたくしの思い過ごしでしたね――会議が終わっても、わたくしを含め誰一人として諦めていないというのに」
先生はそれだけ淡々と告げて、そして再びおれに背を向ける。おれから遠ざかっていく。
「せ、先生……!」
「わたくしの思考の邪魔です。もう一度気絶させましょうか?」
その言葉に、おれは足が草結びにあったかのように、その場から動けなくなった……。
――Nothing can do it.――