エピローグ
「仲介所のボス、ギラティナ様ですが」
昼下がりの公園だった。相変わらずこの時間だというのに遊んでいる子どもたちはおらず、鳥ポケモンの糞がこびりついた古いベンチで、いたくもない奴と二人きりだ。
「“風錐”様と散々いたちごっこをしたせいか、膨大なエネルギーを消費して摩天楼の一角でバテておられました。そこを捕らえられ、今は逃げられぬよう反射物のない刑務所の一室においでです」
丁寧な口調でオブラートに包んではいるが、要は警察にお縄ってことだろう。
「アマノ警視総監や、彼の息のかかった者もおおむね同じような処遇でございます。今、警察本部は頭がすげかわりてんてこ舞いのようです」
「だろうな」
でなければ、本来捕まらなくてはならない俺や仲介が、ここにいられる訳が無い。しかし、刑事たちが俺たちの元へ来るのは時間の問題だろうが。
「そういえば、“怪盗狩り”はどうした。お前が主なんだろう」
「あなた様と“風錐”様、親子二代の壮絶な嫌がらせのせいか、この街に近づこうともしていません」
俺は何もしていないぞ。やったのは“風錐”だ。
「どうやら街の外の数少ない怪盗を狩っているようでございますが、いちおう私から『今後は怪盗は殺さず刑務所に送るように』と付け加えておきました。すると、『あの二人だけは冥途行き』と息巻いておりましたよ。あなた様も、またいつかは怨念のこもった彼と出くわすかもしれませんね」
「ふん、くだらん」
その時は、また返り討ちにしてやるまでだ。
「それで? 仲介、貴様は今後どうする」
「私めの心配より、ご自身の心配をなさったらいかがです」
「なんだと?」
「私はこう見えても優秀なのですよ、引く手あまたでございます。……あなた様の眼では、この私めのささやかな優秀さを見抜けなかったのかもしれませんが」
「言わせておけば」
「――ま、それは仲介の言う通りだな」
俺と仲介との会話に、第三者の声が割って入る。俺はヨノワールの襟元をつかみあげようとしていた瞬間だったのだが、俺もヨノワールも声の方を向いた。
“風錐”がベンチの前に立っていた。ニヤニヤと笑いながら俺たちの会話を眺めていたようだ。盗み聞きか。なんと趣味の悪い。
「仲介が引く手数多ってことか?」
「そこじゃねぇし。もっと自分の心配をしろってところさ」
そしてなぜか、俺と仲介の間に空いているベンチの真ん中に、どかりと腰かけやがった。比喩無しに俺は仲介共々ベンチの外にはみ出ることとなる。
「……もう、怪我の方は大丈夫なのか?」
普段なら聞くことの無い、穏やかな声だった。……ふん。
「心配される筋合いは無い」
「なんだよー! もっとパパに優しくしてくれよ!」
「気持ち悪い! 寄るな!」
奴が俺の肩に腕を回して顔を近づけてくるものだから、反射的に飛び退いた。ベンチから立ち上がってガブリアスの手の届かぬ安全圏に避難する。本当にやめろ、鳥肌が立つ。
「なぁ、でもお前。本当にこれからどうするか決まってるのか?」
「……」
まだ、正直それはわからない。いや、多分。俺の心の奥底では、もう答えが決まっているんだ。だけど、一歩踏み出してしまっては今までとの生活が、きっとがらりと風景を変えてしまうだろう。
その一歩への、タイミングを決めかねている。
「……なぁ、俺と来ないか」
「……え?」
俺は、ベンチをどでんと陣取る“風錐”の顔を、まじまじと見た。奴は先ほどの冗談のような飄々とした表情をどこかに仕舞って、きりりと真剣な眼差しで俺を見ていた。
「ど、どういう……」
「そのまんまの意味さ。俺たちは離れていた時間が長過ぎた。本当なら長い時間をかけて作る幸せを、お前にかけてやれなかった。……だけど、いまからでも取り戻せるだろう」
仲介は黙っている。“風錐”は、ベンチから立ち上がって、俺の正面に立った。
「――俺たち、家族一緒に暮らさないか」
少しだけ、また涙が出てきそうで俺は俯いた。
「どこでもいい。旅をしながらでもいい。色々、話すことが沢山ある。お前のこと、俺のこと。もちろん最初は戸惑うだろうが――」
「――それは、できない」
自然と口から言葉が漏れていた。自分でも驚きだったけど、それがきっと、俺の本心だろう。“風錐”の表情を見るのが怖かった。
「あんたの言う通りだ。俺たちは、離れていた時間が長過ぎたんだよ」
「……」
もちろん、申し出が嬉しくないはずがない。やっと手に入れた幸せだ。
だけどやっぱり、色々なことが初めてで。
初めて外から触れてくる新鮮なものたちに対して、俺の心は耐えられないほど脆い。
そして、相手を壊さずに触れ合うには、まだ心はとがりすぎている。
「やっと手に入れたものを、距離感が分からないせいで壊してしまいたくないんだ。だから――」
「――わかった」
“風錐”はみなまで言わせず、ぽん、と手を俺の頭に置いた。
「わかったよ、だからそんな顔すんな」
“風錐”は、俺が申し出を断ったのにも関わらず、穏やかに笑っていた。
「たまになら、会ってもいいか」
「いつもじゃなくてもいい」
「そういう家族の形もあるわな」
「ありがとう……父さん」
照れくさい。この感情も、新鮮でくすぐったい。
だけど、これがどうしてか、悪くない。
「……ナイルよ」
「なんだよ」
「……」
“風錐”が俺の頭から手をどける。
「……」
「……」
「……もう一度父さんと呼んでくれッ!」
「失せろッッ!」
いきなり“風錐”が俺を抱きしめんと突進して来たために、“リーフブレード”で斬り伏せた。その手には乗らんぞ!
「気持ち悪い! 二度と寄るんじゃねぇ! 帰る!」
「おおぃ! ナイルよぉおお!」
鳥肌級の猫なで声が俺の背中を叩いたが、無視して大股でその場を去った。
「手ひどくやられましたね」
遠ざかっていく“黒影”の姿を目を細めながら見ていたヨノワールは、ダメージの余波から回復しきれていない“風錐”にそう追い討ちをかけた。
「……」
「おや」
だが、かけた言葉の十倍や二十倍も手ひどい返答をするかと思われた“風錐”は、意外にも黙って、遠ざかる息子を視界から消えるまで目で追っていた。
「仲介よ」
「なんでしょう」
「あいつは、きっとこの街を出て行くんだろうな」
「“黒影”様の思考回路など私にはわかりかねます」
「……なんであいつは、俺が一度も見ぬ間に、あんなにもったいないくらいに育っちまったんだろうなぁ」
「おそらく、奥方様に似たのでしょう」
「ははっ! ちげぇねぇ」
「……あなた様は、どうされますか?」
仲介は、地面に臥したままの“風錐”に問うた。すると彼は、その時になって初めて身体を起こす。
「息子にもふられちまったし。復讐の相手も、貴様以外はムショん中だ」
もとより、もうそんな気持ち失せちまったがな、と彼は体に付いた土を落としながら言う。
「この街の治安は、意外にもあまり崩れなかった。警察と仲介が解体されても、新しい怪盗たちはポンポンと出てくる。そして、懲りずに怪盗を待ち望む奴らがいる」
――獲物にあこがれ、夜の街に踊り、そしてポケモンたちを楽しませんとする、本物の志を持った怪盗たちを。
「この俺が、“黒影”のいた場所を奪ってやるのも悪くはない。奇跡の街の怪盗たちの、頂点に俺が立つ。――この怪盗“風錐”が」
そしてまた、“風錐”はベンチにふんぞり返って、ニカリと仲介を見る。
「仲介、貴様も手伝え」
「……」
今度は、仲介所の犬としてではなく、本当の仲介として。
本当に、叶ったのだ。
親子共々で怪盗界を隆盛させる、そのさまを見守ることも。
そして、本当に“風錐”を必要としている者と、彼の間を繋ぐことも。
「もったいなきお言葉です。……謹んでお受けしましょう――“風錐”様」
*
不思議荘へと向かうついでに、ロウのバーに訪ねてみた。だが、そこはすでにもぬけの殻となっていた。
やはりイレギュラーとはいえエイミ刑事を一度引き入れてしまったせいだろう。警察のガサ入れが来る前に全てを引き払ったに違いない。奴ばかりかバーテンのローブシンもおらず、そして地下の闘技場は跡形も無くなってただの地下倉庫に戻っていた。
だが、意外に焦りも寂しさも無かった。俺の心のアニキと言ってくれたロウのことだ。おそらく暇になれば向こうから俺を訪ねてくれるだろう。
実のところ、警察本部のことがあってから不思議荘へはまだ一度も戻っていない。行くことが出来なかったからだ。物理的にも、精神的にも。
ギラティナの殺気を感じ、“風錐”を押しのけてからの記憶が全くない。気づいたときにはもう病院のベッドの上だった。
かわりばんこにやって来た仲間たちが言うに、どうやら俺はギラティナから致命傷を負わされたらしい……のだが実感が全く湧かない。だが、傷の痛みと、喋れぬほど衰弱した体がその言葉を裏付けている。
俺は、あの時死んでいてもおかしくはなかった。だが、俺は生きていた。誰かに生かされたのでは、とすら思っている。
「“生まれて来てくれて、ありがとう”、か」
俺がずっと思い出せなかった母の死に際の言葉は、なぜだろうか、意識が戻ったときには確かに思い出せるようになっていた――。
そして今、俺は不思議荘の前にいる。
「戻って、来たんだな」
俺があのとき倒れたことで、その場にいたティオさん、アフトのあんさん、マルに俺が怪盗“黒影”であることが知られてしまった。いや、もう二人が人質に取られてしまった時点で、もう正体を隠しようがなかったのだ。
だから、俺はこの家の中に入ることをためらってしまう。
仲介所に脅されていたということで、情状酌量の余地はあるだろう。エイミ刑事か、それともフレア刑事の計らいなのか、実際俺が目覚めた病院も警察病院ではなかった。
だとしても、正体がばれてしまったことでみんなは“怪盗の家族”になってしまったのだ。
今更どの面を下げて、不思議荘の敷居をまたぐことが出来るだろうか。
そうだ。俺は、怪盗なんだ。
たとえ仲介所が無くなったとしても。俺が怪盗であることは消えないんだ。
そして、俺が生きる術として、体に染み込ませてきた全てから――“黒影”という存在から、いまさら離れることなんて出来やしないんだ。
不思議荘には、もういられない。
今日の夜、静かにここを発とう。
*
摩天楼でも最大高度を誇る警察本部のビルは、今日も忙しくポケモンたちが循環し続けていた。かく言う私も分署の刑事なのに、一連の事件の後処理のための人手が足りないとかで本部に駆り出されている。そんな中、私の正面から歩いてくるフレア刑事のみ、歩調がゆったりと重く、まるでその場だけ時間が遅く過ぎていくような様子だった。
「……刑事?」
「よう、嬢ちゃんか」
フレア刑事は私の姿を確認すると、力なく笑った。
「こっちにきてたのか」
「はい。刑事も大変でしょう。本部の刑事だと、色々と指示を出すのも」
「俺は……」
なんだか、今日は刑事の言葉に歯切れが無い。いつも無駄無くテキパキと指示出しをしていた時が嘘のようだった。そして、その時になって初めて気づいた。いつもなら手ぶらなフレア刑事が、荷物を肩から提げている。そして鞄の端に少しだけ見える、白い紙に書かれてた「退」の文字――。
――ま、まさか! 退職届!?
「け、刑事! まさか辞められるのですか!?」
私は、その場にポケモンたちも沢山いるというのに、思わず叫び声を上げてしまった。全員が全員、一瞬時が止まったかのように手元が止まり……そして皆、何事も無かったかのように作業が再開される。
フレア刑事はほんの少し上目遣いになって、提げている鞄の中の白い紙を前足でねじ込んだ。
「だから嬢ちゃんとは鉢合わせたくなかったんだよ」
「フレア刑事! 考え直してください! あなたは警察上層部の不正を告発しようとした発起人なのですよ! 讃えられこそすれ、辞めさせられるなんて、そんな……」
「勘違いするな。懲戒免職じゃない、依願退職だ。……これは、俺の意思で決めたことなんだ」
てっきり、警察の不正を告発したとして厄介払いされてしまっているとばかり思ってしまっていた。で、でも。それでだとしてもフレア刑事が辞める理由なんて何一つ無いじゃない!
「まだ、“怪盗狩り”も捕まってはいません!」
「奴の動向を知っている、という奴からのタレコミだ。“怪盗狩り”はもう、この街には来ないらしい。世界のどこかに行ってしまったのなら、そのたびに追い続けることは不可能だ」
まさか、そんな弱気な発言……! “煉獄”と恐れられたフレア刑事の発言とは思えない!
「刑事! 本官は刑事にまだまだ教えてもらいたいことがたくさんあるのです! 本官は、本官は……!」
仲介所という組織と癒着していた。怪盗を捕まえてもらっては困る状況だった。そう、私は警察に無能だと判断されてしまったから“黒影”専属刑事にされた。本当なら、もっと能力のあるポケモンが“黒影”を追うべきだったというのに。
でもフレア刑事と出会ったことで、共に犯人を追って行くことで、今まで自分の中に無かった知識がどんどん吸収されていくのを実感したのよ!
そんなあなたが辞めてしまったら、私はこれから、どうすれば?
「俺は、取り返しのつかないことをした。そうだろう? 嬢ちゃん、あんたがその証人だ」
「それは……」
フレア刑事の言いたいことは伝わった。彼は、“黒影”の家族であるマル君を誘拐した。そして、アマノの意思に従い、マル君をビルから落とした。その瞬間を、私を含めその場にいた全員が見ていた。
「でも、あれはアマノがあなたを操っていたから……! あなたが責任を感じる必要は」
「だが、殺そうとしたのは事実だ」
フレア刑事は淡々と言った。私にこれ以上言わせまいとした。きっと、心に決めたことを揺らがせないために。
「俺たち二人で、ご家族に謝りに行っただろ。みんな、あれはしょうがないと快く謝罪を受け止めてくれた。だが、どうだろう。あのイーブイの坊主は最後まで俺に近づこうとしなかっただろ。俺がやったことはそういうことだ」
操られていたとか、いなかったとか、そいういうことは重要じゃないんだよ、とフレア刑事は厳かに言った。
「大事なのは、俺の行動が小さな子に心の傷を残したことだ。警察官として、それは許されざることだ」
そう、か……。フレア刑事だから、辞める決意をしたのね。見て見ぬ振りで来たはずの警察の不正を公表しようとしたフレア刑事だからこそ、警察官として自分がやってしまったことに責任を感じているのね。
「しかし、刑事。だとしたら同じことが起きないように、部下にあなたの正義を教えるべきではないでしょうか?」
そう。フレア刑事は、素晴らしい警察官よ。それは周囲の誰もが認めているし、なにより私がそうだと思っているもの。
それに今回のことが起きてしまったのは、警察が上層部によって骨抜きにされてしまったからよ。私もその一人。だけど刑事はそんな警察内でも、能力の高く、部下の教育も出来る素晴らしい人財なのよ。そんな刑事が辞めてしまうなんて、それこそ取り返しがつかないわ。
「本官には、あなたが必要なのです!」
「それは、どうだろうな」
「え?」
予想外の方向から切り返されて、私はとっさに反論を出来なかった。どいういうこと? 私には、自分の教えなど必要も無いと言うの?
「嬢ちゃんも、病院での“黒影”を見ただろう。家族と顔を合わせるとき、ものすごく申し訳のなさそうな顔をしていたぜ。とてもじゃないが彼が怪盗を続けるようには見えなかったがな」
確かに、その瞬間は私も見た。二人で病院にいったから、フレア刑事の言葉も意味も痛いほど分かる。“黒影”は仲介所に家族を人質にされ、脅されて犯行を繰り返していたと言う。それこそ十数年も。
だから、仲介所から解放されて家族を、そして“黒影”を縛るものが無くなった今。あんなに申し訳なさそうにしていた彼に、犯行など続ける気力は無い。“黒影”がおとなしく罪を償うなら、“黒影”専属刑事もいらない。私が近々任を解かれるのなら、自分の教えなど必要ないと、フレア刑事は言いたいんでしょうけど。
私の意見は、違う。
「いいえ、刑事」
「ん?」
「……“黒影”は、やめません」
「なんだって?」
私はきっぱりと言った。自信を持って言えた。
「ど、どういうことだ?」
「私は、誰よりも側で“黒影”を追って来たのです」
いつも、いつも、いつも。私は彼に出し抜かれて来た。強固なセキュリティを。私が引いた警備を。守ろうとしていた獲物を。
彼が、夜の中に現れたとき。獲物を盗み去って行くとき。幾度となく私と対峙した時。“では、お務めご苦労”と叫んだとき。
いつも彼は、不敵に笑っていた。
心の底から、快感に浸っていた。
あの表情が嘘だとは、とてもじゃないが私は思えない。
断言する――誰よりも、家族たちよりも、彼の“黒影”という一面を見て来た私なら、断言できる。
彼は、獲物を盗む瞬間の、あの快感から決して逃げられない。
逃げれられやしない。
「――“黒影”が怪盗を辞めることは、ありえません」
フレア刑事は、心底驚いた表情で私を見ていた。そんな彼に、私は頭を下げた。
「本官は、“黒影”を捕まえなければいけません。だから、フレア刑事。本官にもっと色々なことを教えてください! お願いします!」
「嬢ちゃん……」
フレア刑事の顔は見えなかったけど、しばらく彼が唸っていたのが聞こえた。
「……俺はもう、自分が潮時かと思っている」
「はい」
「だが、あんたは俺を引き止めようとする」
「はい」
「だったら、俺の教えを全て吸収してもらわねば、困るんだぞ」
「……ということは」
思わず顔を上げた。フレア刑事を見た。彼は、退職届を持っていた。
そして彼は、それに向かってフッと火を吹きかけた。
ぼっ。
火は退職届に燃え移り、灰となってパラパラと床に落ちる。思わず頬が緩む。
「刑事……!」
「これからも厳しくいくぞ」
「――はい!」
フレア刑事は歩き出した。そして、私はその背中を追い続けることに決めた――。
*
ホーホーも寝静まったように、夜に沈黙が降りていた。
俺は不思議荘の、自分の部屋のある二階の窓から進入して、身支度を整えた。いらないものは全て処分した。痕跡を隠滅した。万が一のとき、迷惑がかからないように。
そして、空っぽになってしまった自室を出て、不思議荘を外から改めて眺める。
「……お世話に、なりました」
こわれかけの、古い家屋だったが……結局最後まで俺を見守っていてくれたから、この家は不思議だ。
さぁ、もう未練は無い。
行こう――。
「――ナイルおにいちゃんッッ!!」
振り返って、不思議荘から背を向けた俺に向かって、声が響いた。
「……ッ!」
まさかこの期に及んで、その声に何かこみ上げてくるものがあるなんて、どういうことだ。
未練は無いんじゃなかったのか。
俺は、声のした方をゆっくりと振り返る。
不思議荘の玄関の前に、マルと、アフトと、ティオさんと……三人が立っていた。
「……みんな……ッ!」
「水臭いな、ナイル君。出かけて行くなら声をかけてくれないと」
「恋しくなったら、いつでも戻って来ていいのよ」
「お、お兄ちゃん……! 戻って来てね! 絶対だよ!」
ど、どうして……。
「俺は、怪盗だったんだぞッ……! 犯罪者だってことを、ずっと隠して来たんだぞ!」
なんでそんなに、優しい言葉を……!
「知ってた」
あんさんが、照れくさそうに言った。
「えっ……?」
「知ってたんだよ、僕たち」
「私たちだって、馬鹿じゃないわ。薄々そうなんじゃないかって、思ってたの」
「だ、だったらなおさらだろ! どうして、誰も俺のことを責めないんだよ!」
俺はみんなを、騙していたんだぞ! 十数年間もだ!
「責められる訳、ないじゃない!」
ティオさんが、優しい声で俺にも届くように叫んだ。母親の側にいて、必死に涙をこぼさないように歯を食いしばるマルが、一歩を踏み出す。
「おにいちゃん……ッ!」
マル……。
「おにいちゃん! うわぁあああああん!」
マルが、俺の胸の中へ飛び込んで来た。俺はしゃがんで、両手を広げてマルを迎えて、そして強く抱きしめた。
「おにいちゃんが、“黒影”だったんだね! やっぱり、そうだったんだよね! 僕たちを、ずっと、ずっと! 守ってくれてたんだよね!」
「マル……ッ! ありがとな……!」
マルが泣きじゃくった。俺は、涙が出て来た。
ティオさんとあんさんが、そんな俺たち二人を包み込むように抱きしめてくれた。
四人で抱き合った。
そうだ、ずっと。俺はずっと、家族を守るために戦って来た。怪盗として、そして不思議荘の家族の一員として。
それをみんなは、気づいててくれたんだな。
俺の気持ちは、伝わっていたんだ。
「おにいちゃんっ! 離れたくないよぉう!」
「……大丈夫だ」
俺は、なきじゃくってくるマルと目を合わせる。
「マルは、“黒影”が怪盗で一番好きなんだよな」
「ぐすっ……うん」
ロウが言った通りだ。
俺は、あの快感から逃れられないんだ。
盗みを成功させた瞬間を。
価値のある獲物を手に入れた瞬間を。
強固なセキュリティを破った瞬間を。
そして、観衆の声援を。
仲介所にいた頃は、失敗した時のリスクが大きすぎて、辛い思いばかりが勝っていたけど。
こうして解放されてみると、夜を駆け回っていたあの毎日が、恋しくて仕方が無くなっていた。
「じゃあ、応援よろしく頼むな」
マルのように、俺を応援してくれる誰かが一人でもいる限り。
俺はどこかで走り続ける。
「今はまだ、俺が失っていた日々を取り戻すための時間を過ごすけど……。もし遠くない未来、どこかで“黒影”の名前を聞いたら――それはきっと俺だ」
離れるわけじゃない。
俺は、側にいる。
もし、その名を世界に轟かせることが出来たなら――。
「――その時は、思い出してくれ」
俺と過ごした時間を。俺とここで暮らした思い出たちを。
そして、俺がどこかで生きているということを――。
――エピローグ 怪盗“黒影”――
サーチライトが忙しく照らされる眼下の様子を、俺は見下ろしていた。
舞台となるビルの周辺には取材陣が集まり、物々しい警備体制のもと警察たちが目を光らせ、野次馬でごった返す。
ボルテージが上がって行く。
さて――。
俺は両手首と足首に、銀色に輝く腕輪を取り付けた。そして、顔の上半分を隠す漆黒の仮面を付ける。
これが俺のもう一つの顔、もう一つの姿だ。
この仮面と腕輪は、俺の気を嫌でも引き締め、そして高揚させる。
ビル風が吹いている。追い風だ。今日の作戦を決行するには絶好の風向きと言える。
さあ、始めようか。
覚悟は決まった。俺は、一歩足を踏み出して、三十階はゆうに超えるビルから、今まさに飛び立とうとする。
「俺は、誰だ?」
そう、俺は――怪盗“黒影”だ。