Steal 16 警察本部にて
ガブリアス、マッハポケモン。かの種族は、音速で空を飛ぶことが出来るという。
「――きゃあああ!」
怪盗“風錐”が爆音と共に通り過ぎると、取材陣が用意していた仮設テントが紙のように吹き飛んだ。彼が通った先の、摩天楼のガラスにピシリとヒビを作り、その上をギラティナが泳いで行く。秒速で“ミラクルタワー”から遠ざかるかのように見えたとたん、彼は瞬時に方向転換をし、ガブリアス族の中でも類稀なる身体能力を持つ物しか出せないというベイパーコーンを発生させて、再びタワー周辺へ戻って来た。
歓声が上がる。
怪盗としての盗みの瞬間の他に、こんなに珍しいガブリアスの音速飛行を見られたとあって、歓声のボルテージはさらに上がった。飛行警官の誰も追いつけない。唯一、夜に反射するガラスの奥の世界にいるギラティナだけが彼を追いかけることが出来たが、現実世界へむけて技を放った瞬間には、もう“風錐”はマッハで避けているのである。
「くッ……!」
だが、それも長くは持ちそうになかった。普段から鍛え上げているとはいえ、彼は生身のポケモンだ。普通、音速で飛行していれば空中分解も免れない。
――俺もッ……、もう年だな!
『ぬう……ッ! ちょこまかと! ――“シャドーダイブ”!』
きぃん、という音と共に、ギラティナの姿が一瞬だけ掻き消えた。そして気づいたとき、奴は竜巻と共に再び現実世界へ飛び立っている! “シャドーダイブ”の力を纏った黒い竜!
「おおっと!」
追いかけて来るギラティナに、“風錐”はさらに速度を上げた。
ゴウッ!
吹き荒れる爆風、通った先に次々と割れていくガラス。“ミラクルタワー”の周辺をギザギザに進みながら、彼はその頂上へと逃げて行く!
“風錐”がタワーの頂上で止まった! ギラティナがその上空をとった。頂上付近はビルは隣接していない。“風錐”も逃げられないが、ギラティナも逃げられない。
群衆の全員がタワーを見上げていた。
『自ら歩を止めるとは、馬鹿な男よ! 逃げられぬぞ――“竜のいぶき”ッ!』
きたッ!
ギラティナの口から出たドラゴンを象る息吹は、なんと本人の数倍もの大きさとなって眼下の“風錐”、つまり真下の“ミラクルタワー”へと迫った!
怪鳥のごとき咆哮で、一直線に降下する黒き竜!
「このときを、待ってたぜッ!」
――ギラティナにしか出せない、強大すぎるエネルギー!
彼は身体をひねらせた。ドリルのごとく回り始める。龍の力を纏う。そして迫る息吹に穴をあけんと突進する!
「――“ドラゴンダイブ”ッ!!」
オーラを纏い、さらに旋回力を加えた“風錐”が空へと“ダイブ”した。黒竜とぶつかる。衝突した箇所から散って行く。ドリルの要領で“風錐”に跳ね返った“竜のいぶき”は、長く黒い尾を引きながら放射線状にタワーへと落ちて行った。
「これは……!」
観衆たちが息をのむ。場がどよりとうめく。
黒いオーラがタワーにかぶさるように落ちて行く。黄金の光を放つ“ミラクルタワー”が、“黒く染まって”いく。
全員が手に持っている携帯を向けた。シャッター音のシャワーだ。リポーターも、取材を忘れ呆然としていた。警察は“風錐”を追うことも頭からすっぽ抜けた。
遠くにいた者ほど、その様が良く見えていただろう。
その瞬間、確かに“ミラクルタワー”は、“光を奪われた”。
そしてその光景に、場にいる全員が心を奪われた。
「うわぁあああああ! “風錐”のおじちゃん、すごいっ!」
テレビに前足をぴたりと付けながら、中継に釘付けになっていたマルが大歓声を上げた。それを興味もなさそうにしていたエイミが横目で見ていると、マルの瞳はきらきらと輝いている。
『ご、ごらんになりましたでしょうか! い、一瞬ですが“風錐”は、本当に光を奪って行きました! そして、再び音速でこの場から去って行きます! ビルを自由に泳ぐあの正体不明の黒い翼を持った影も、彼の演出なのでしょうか! ありがとう、怪盗! ありがとう、“風錐”!』
「ありがとう、怪盗! ありがとう、“風錐”のおじちゃんっ!」
「ね、熱心ね……」
マルが、自分の尻尾でも追いかける勢いでぐるぐると回り始めた。職業柄、怪盗のファンである少年少女を見る機会の多いエイミだったが、彼の反応はそのなかでも随一だった。というか、エイミ自身がすこし引きかけている。
「……はっ!」
瞬間、エイミは鋭く突き刺すような殺気を感じて、バッと戦闘態勢に入った。それと同時に、バキィと木が崩れるような音が縁側から聞こえてくる。
「わっ!」
この音には、マルもびっくりとして走りをやめてすぐにエイミの背後に隠れた。ついこの間も正体不明の足音に恐怖したため、いつも以上に怖いものに対して敏感になっている。
縁側での音が止んだかと思うと、シンとした空間に、ひた、ひた、という足音が聞こえてくる。
――誰かが、この家に侵入して来ている!
エイミとマルは、居間の端にゆっくりと後ずさった。そのあいだにも、足音は近づいてくる。足音、そして爪の音。
居間の入り口に、前足がかかる――。
「……あ、あなたは……」
エイミは、思わず目を見開いた。
漆黒の闇の色をした体躯、赤い鼻に、長く巻かれている角。彼女たちの前に現れたのは、まぎれも無く――。
「……フレア刑事?」
――Steal 16 警察本部にて――
予想外の足音の主に、エイミは混乱した。
「ふ、フレア刑事! なぜあなたがこんなところに!」
しかも、正義の使徒らしくもない、縁側の雨戸を壊しての登場だ。告発の場を整えると言い、自分を逃がした上官がすることとは思えなかった。部下である彼女は混乱するしか無い。
「……」
「け、刑事?」
彼は言葉を発しない。いつもなら目を合わせて語りかけてくれるのに、どういうわけか目の焦点が合わない。
ひたひたと彼は沈黙のままじりじりと詰め寄ってくる。
「フレア刑事! どうなされたのです!?」
「子供を……」
「え?」
「渡せ」
「ッ!」
迫る炎! エイミは咄嗟に飛び退いた。マルは自分の背中にしがみついている。フレアは、あろう事か一般ポケモン住む木造住宅の屋内で、炎技を放ったのだ!
「なにをなさるのですッ――きゃぁッ!」
着地したのもつかの間、エイミは頬にフレアの前足を食らった。“だましうち”だ。――しまった! 上官とはいえ不覚をとってしまったショックを受けたときには、すでにフレアがマルの首根っこを咥え上げていた。
「あッ!」
「お、おねぇちゃんっ!」
「マルくんっ!」
マルは涙と共にエイミへ叫んだ。だがフレアはサッとその場から逃走してしまう!
「まちなさいッ!」
明らかにおかしい。明らかに挙動がフレア刑事ではない。
彼は侵入して来た時と同じ経路で逃走を計っていた。縁側へ飛び出し、そのしなやかな筋肉をバネのように使って塀を飛び越えた。エイミもまったく同じようにして上官の後を追う!
「フレア刑事……ッ!」
――どうして、どうして!? どうしてあなたが、こんなことをするのですか!
*
ビル風が、俺の腕の葉をばたばたとなびかせていた。
警察本部、屋上。
直通エレベーターを使いそこまでやって来た俺の前には、柵のぎりぎりのところにカラマネロ、そしてその横には縛られたアフトとティオさんがいた。
おそらく、あのカラマネロがアマノとかいう野郎だろう。
「警察本部へようこそ! 怪盗“黒影”」
「……」
喋ることを封じられている二人が、うめき声で必死にこちらへ何かを訴えていた。縛り上げられているのだけでも堪え難いのに、二人になんてことしてくれやがったんだ。
だめだ。努めて冷静にしていないと、怒りに煮えたぎった熱のせいで我を忘れてしまいそうだ。
「人質に、危害を加えていないだろうな」
相手に聞こえるように俺がそう叫ぶと、アマノはあろうことか、二人を盾にしながら少しずつこちらへ近づいてくるではないか。
くそっ……これじゃ、隙を見て倒す事はできねぇ……!
「大切な人質を無事に返してほしければ、妙な気は起こさないことですね。ああ、そう。私はエスパータイプ。攻撃しようという素振りを見せたら、すぐにサイコパワーでお二人をビルから真っ逆さまにしましょうかねぇ」
「……てめぇ」
「いやですね、私は平和主義ですよ。妙な気をおこさなければ、それでいいのです。はてさて……?」
アマノはねっとりとした口調で俺を指差す。
「書類は、見つかったのでしょうね?」
俺は、隠し持っていた本物の“プロジェクトF”を掲げて、アマノにも見えるようにした。実物を確認した奴は、いやらしく唸って満足そうにうなずいた。
「いいでしょう。流石はこの街を代表する怪盗。時間内に本物を持ってくるとは、実に鮮やかな手腕です」
「ごたくはいい。人質との交換という約束だ」
「書類を地面におきなさい」
俺は、視線を奴から外さずに、ゆっくりとしゃがんだ。そして、表紙を上にした書類を、地面に置く。風の吹く音が聞こえた。遠目に、カラーコーンのような形の雲が見える。
「……」
「両手を頭に付けてから後ろに下がりなさい」
俺は先ほど度同じ要領で立ち上がり、頭の後ろで両手を組んだ。一歩、後ずさる。
「もっと下がるのです!」
キィン。風にあおられて奴には聞こえまい。こちらへ近づいてくるマッハを象徴する音が。俺はさらに数歩下がる。
それを見てやっと安心したアマノは、アフトとティオさんと共に書類へ近づいた。
ゴゴゴゴゴ……。
アマノが“サイコキネシス”で書類を浮かせる。
ゴォッ!
――来たッ!
「ふせろォッ!」
叫んだ。二人は咄嗟に従った。そして俺も、伏せて地面にしがみついた。ビュオッ! ビル風とは比べ物にならないほどの突風が駆け抜けて行った。爆音! そして風圧に持って行かれそうになる身体!
“風錐”だ!
「ぎゃぁあああああああッ!」
音速の“風錐”が、猛スピードで追ってくるギラティナを従えて、俺たちのすぐ目の前を通り過ぎたのだ。アマノが突風をもろに食らって柵まであおられた。その拍子に“プロジェクトF”へのサイコパワーが切れる。そして、突風にもてあそばれる。
「あああッ! 書類がぁああッ」
「スカーァッ!」
「やっと出番かよォッ!」
俺は突風の中ロウの名を呼んだ! イリュージョンで姿を隠していたロウが、カテツとモズと共に走り出す! 目指すは地面に伏せているアフトとティオさんだ!
“プロジェクトF”はリングからページがちぎれて空を舞った。そして、すぐにビルの下へと散乱していく。アマノがサイコパワーでなんとか集めようと試みるが、一気に広い範囲を落下して行った書類を、ほとんど拾うことが出来なかった。
そして、ビルの周辺には、華麗な犯行をなしとげて去って行った“風錐”を一目見ようと、群衆が押し寄せて来ている。
「――ん? なんだあれ?」
「なんか上から空を舞ってくるぞ?」
「なんだあれ? 紙切れか?」
「もしかして、札か!?」
「おおおおッ! 拾え、拾うんだぁ―ッ!」
カテツとモズが、それぞれアフトとティオさんを助けにかかる! 彼らは忍の技で瞬時に縄をほどき、口を塞いでいた布切れを切断した。ロウは荒れ狂ったアマノへ走る。エスパータイプには悪タイプを。彼に念力の拘束は効かない。奴の相手はロウしかいない!
カテツたちはエレベーターへ走る。ロウはヒャッハァアアアと狂ったように叫んでアマノへ走る。俺も続けてそちらへ走る。
ロウが技を乗せた腕を振り上げた。これで、チェックメイト――。
「――おにぃちゃぁあん!」
「!」
どこからともなく聞こえて来た“この場では聞こえてはならない”声に、俺は硬直した。
「いぃいいい!?」
ロウは、アマノを昏倒させるまで後数ミリというところで慌てて叫んで腕を止めた。カテツたち四人は、エレベーターに乗る直前で声のした方を振り返った。
なぜ、だ!? なぜ……!
「マルッ……!」
なぜ今ここに、マルがいる!?
*
「ま、マル……ッ!」
「マルッ!」
「ティ、ティオママ! だめだッ!」
俺は、思わず叫んでしまっていた。そして、俺の背後にいるティオさんが悲痛な叫びを上げたてマルに走り寄ろうとした。アフトがそれをなんとかとどめる。
マルを、掴んでいたのは。マルの首根っこを掴んで彼を柵の外へぶら下げいるのは――。
「フレア刑事ッ!」
バァン! ビルの非常ドアを蹴破って、名前を叫んだと共にエイミ刑事が飛び出して来た。
そうか、“煉獄”のフレアかッ……!! エイミ刑事のやつ、だから油断しやがったんだなッ!
「――そこまでです」
甲高い声に、全員が固まった。声の主は振り向かなくても分かる。アマノだ。奴が、勝ち誇ったように声を上げたのだ。
「悪いのですが、その薄汚い攻撃の手を下げてはくれませんか」
「……チッ」
確実にアマノの首筋を狙っていたロウの腕を、奴は触手ではねのけた。いったい、何がどうなっている? アマノは悠々とした足取りでマルをぶら下げるフレア刑事の方へ歩いて行く。
「ごくろうさまですね、フレア刑事。さすがは今までで一番強情だった私の傀儡」
「あなたッ……! フレア刑事に、一体何をしたというのッ!?」
エイミ刑事が声をひっくり返らせて叫んだ。ここまで怒った彼女の叫び声を、聞いたことが無い。
くそぉッ、マルがいるから手が出せねぇッ……。
「まったく、やってくれますね、怪盗“黒影”。あの書類はもう、群衆の手の中。我々警察上層部と仲介所との癒着が明るみに出るのは、もはや時間の問題でしょう」
「ちくっしょう!」
あと一歩……! 後一歩のところだったのに!
「マルを離せッ! マルは関係ないだろッ!」
「そうはいきません。私は準備があるものでね……そこのゾロアークさん」
「……んだよ」
「足を用意しなさい。高飛びできる、長距離のものです」
「……」
「私をこれ以上怒らせるなッッ!!」
「わかった、わかったよォ! クールに立ち回ろうぜェ、警視総監殿」
ロウは諸手を上げて抵抗なしのポーズをとった。そして、奴の伸びる髪の毛の中から何かの通信機を取り出し、今すぐに足を用意できるであろうポケモンに連絡を取り出した。
全員が、彼が連絡を取っている短くも永遠に感じられる時間を、歯ぎしりと共に過ぎるのを待った。その時間を、マルはぽろぽろと泣きながら耐えている。
そして、ついにその時がやって来た。
ヘリポートでもあるこの屋上に、黒光りするジェット機が着陸したのだ。運転手が誰もいないところを見ると、ある程度オート操縦もできる物らしい。
「ほらよ。これで満足か? “風錐”が出していた音速を、数時間は維持できる代物だぜェ」
「上出来です」
アマノの野郎は触手を腰の後ろで組んで、悠々とジェット機へと歩いて行った。そして、皆が奴を睨みつける中、奴が操縦席の前に立ったとき。
「……怪盗“黒影”、あなたの機転には驚かされました」
「……」
「その褒美と言ってはなんですが――」
ゾクリ。
悪寒がした。本能だ。本能が俺に警告していた。
奴の悪意が伝わって来た。何を、しようとしているのか。
ダッ!
その答えを聞く前に、俺は走り出した!
「――かわいいお仲間は地獄へ送りましょう」
「やめてぇッ!」
全てがスローになった。
ティオさんが叫んだ。
フレア刑事が、口を離した。
彼にくわえられていた、マルは。
「わぁああああああああッ!」
――落下した!
「おおおおおおおおッ!」
「待てェッ! ナイルーーーッ!」
躊躇など微塵も無かった。ロウが鬼の形相で俺の本名を呼んだが、その時にはもう。
落下したマルを追って、俺もビルから身を投げた。